2017.02.13

感情の理屈を言語化する――漫画の何が私たちを泣かせたり笑わせたりするのか

漫画史・表象文化論、宮本大人氏インタビュー

情報 #教養入門#表象文化論#手塚治虫

漫画評論というジャンルがあることをご存知ですか? 世のなかには、私たちが普段「面白い」で済ませているところを「面白い」で済ませず、学問の力を使って解明する人たちがいるのです。

明治大学4年生の私、白石がいままでずっと気になっていた先生方にお話を聞きに行く、短期集中連載『高校生のための教養入門特別編』の第4弾。『火の鳥』から、『バキ』『カイジ』『ちはやふる』まで、すべてをつなぐのは「表象」というキーワードでした。(聞き手・構成/白石圭)

モナリザと漫画を同じレベルで分析してみる

 

――先生のご専門である漫画史と表象文化論について教えてください。

漫画史はいままでどのような漫画が出てきて、それぞれのジャンルのなかで漫画家たちがどのような技法を生み出してきたのかなどを調べます。ただ、学問というのは扱う対象の違いだけでなく、方法論でもわかれています。社会学や経済学って、扱っている対象はどちらも人間の社会的な活動ですよね。つまりどこに注目してどのようにアプローチするかという違いがあるわけです。そのひとつとして、僕は漫画の表象に注目しています。

表象というのは、何かの代わりに何かを表すということです。記号や言語、イラストなどですね。いま僕の目の前には木でできた長方形の物体がありますが、これを僕たちは「机」という言葉で表象しているわけですね。

このように僕たちはあらゆるものを記号や言語を使って表象することでコミュニケーションをとっている。これは人間以外には真似できない、かなり高度な知的能力です。だからこそ、何をどのように表象するかというところに、人間の思考の本質が現れてくるんです。

たとえばツンドラ地帯に暮らすエスキモーは、雪のことを、その状態によってべつの言葉で言い表します。日本語ではひとくくりに「雪」とされるわけですが。その表象の違いが人間の文化を形作るわけですね。したがって、あらゆる表象には、その表象を用いる人の文化的背景が読み取れるというわけです。

 

――漫画と表象文化論はどう関わってくるんですか?

表象文化論は人間の文化的営みのすべてが研究対象になります。モナリザも手塚治虫の漫画も、絵を使った表象という意味で同じレベルの問題にすることができるんですよ。伝統的な芸術学などの固定観念にとらわれず、いろんな見方をしようというわけです。

ながらく大学では芸術として認められたハイカルチャーしか、まともに研究されていませんでした。それ以外のカルチャーは「大衆文化論」という枠組みの中で扱われていました。「芸術的価値はないけれども、大衆のことを理解するためにあえて勉強しておきましょうね」という響きがあったわけです。

けれども表象文化論は、そうした歴史による芸術的価値をいったん棚上げにし、表象活動全般に注目して研究しようということから始まったんです。

――たとえば先生の授業で扱われていた手塚治虫の『火の鳥 復活編』では、女性型ロボットが主人公の男性の姿を頭のなかで想像するシーンがあります。その主人公の絵は、普通の線ではなく、じつはとても小さなアルファベットの「A」の集合によって点描のように描かれています。これも表象として読み解けるんでしょうか?

 

はい。ふたつのことを読み取ることができます。ひとつは、女性型ロボットのスペックを表しているということです。アルファベットの「A」の集合による点描といってくれましたが、要するにあれはアルファベットの「A」だけでつくったアスキーアートなんですよね。そう考えると、とても原始的で素朴なイラストの出力の仕方であると読める。だからこの女性型ロボットは、もともとは人工知能的な感情などもインストールされていない、古いモデルなのだということを示しているんですね。

もうひとつは、「A」というアルファベットの最初の文字を使うことによって、「始まり」を暗示しているということです。女性型ロボットは、主人公に恋心を抱いたので、姿を思い描いたわけですよね。それは、本来ロボットには存在しない、人間的な感情の発生なわけです。つまり初めて湧き上がってきた感情であるということを、アルファベットの「A」を使って示しているのかもしれないということなんですね。

――ほかにそのような表象の例は、最近の漫画にもありますか?

たとえば『カイジ』で、登場人物が絶望的な状況に追い込まれると、顔が「ぐにゃあ……」という擬音つきで歪みますよね。それも同じです。一番わかりやすいのは「鉄骨渡り編」のときの、彼らの足元の描写ですね。彼らが鉄骨を渡るときに足元がふらつくのですが、それを、足元をぐにゃぐにゃに描くことで表現するんですよね。

当然、あの漫画のなかの世界では、足はぐにゃぐにゃになっていないはずです。けれどもカイジ本人の目には、そう見えている。それを引いた構図で描くことで表現しているんですね。つまり一見客観的なカメラ位置からキャラクターの主観的な世界の様子を描くことで、読者を没入させようという技法なんです。この技法は最近ではいろんな漫画に見られますね。探してみると面白いですよ。

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『君の名は。』が流行ったのは本当に社会の変化が原因?

 

――先生は以前、少女漫画において、陸奥A子作品の主人公の部屋に可愛らしい雑貨が置かれていることについて分析していましたね。そうした背景描写の繊細化は70年代の少女漫画から特徴的に見出されたわけですが、これもいまおっしゃった、ある世代の文化的価値観の分析につながりますね。

はい。その授業では、『歌い忘れた1小節』という漫画を取り上げたんですよね。陸奥A子のほか、太刀掛秀子、田渕由美子ら「乙女ちっく」派と呼ばれた作家たちが、70年代末に『りぼん』誌上で似た傾向の作品を手掛け、女子中高生の心を掴みました。

「乙女ちっく」の世界は、部屋の内装や小物やファッション、そして街並みの描写に至るまで、日本を舞台にしながらも、微妙に当時の現実の日本よりおしゃれにかわいく描かれているんです。ほとんどの住宅の子供部屋が畳敷きだった時代に、主人公たちの部屋はみんなフローリングにラグを敷いていたり。

サンリオのハローキティなどを中心とするファンシーグッズが流行し始め、都会にはいまにつながる雑貨屋さんが現れ始めたころ、かわいい私のかわいい生活のモデルを提供するような役割を果たしたのが乙女ちっく派の作品群だったと考えられます。

――漫画を表象文化論的に読み取る時は、時代背景との関係を見るということなんでしょうか?

時代背景を読み取るのはかなり難しいので、迂闊にやってはいけないことです。なぜなら、どうとでもいえる話になりがちだからです。なぜ「おとめちっく」と時代背景を結びつけて考えられるかというと、漫画のなかで描かれていた小物やファッションが実際に世の中で普及していたのかどうかを裏取りできるからですね。そうした場合、時代と漫画のつながりを見ることができる。

でもたとえば、「内気で自分のことをうまく表現できない子が主人公の漫画が人気になったのは、時代が不景気で女の子が自己表現をしづらくなったのが背景にある」などというと、途端に信憑性に欠けるわけです。

そのような分析や批評をしがちな人は多いです。不景気だったからこういう漫画が流行ったとか、バブルだからこういう漫画が流行ったとか。でもそれは、その人が説得材料として都合のいい漫画をもってきているだけですよね。

それに、社会と作品のつながり方は、なにも社会から作品への一方通行ではないはずです。逆に、漫画の側から社会に影響を与えることも考えられるわけです。

――社会の変化に対応しているような作品が存在していたからといって、その社会と作品のあいだにただちに因果関係を見出すのは、いささか軽率であるということですね。

そうです。それに、社会の時代性とはまたべつに、ある文化ジャンルのなかでの時代性というのもあるわけです。たとえば映画であれば、それが誕生した当初は素朴な表現であるわけですよね。そういうジャンルの存在自体が脚光を浴びる段階があるわけです。

それが徐々に市場規模を拡大していき、ある段階から高度な読みに耐えるような複雑な表現を獲得し、多様化していくわけですね。それはどの時代に生まれたどのジャンルでも、たいてい同じような発展の仕方をするわけです。ですから、この時代の漫画が大人的な表現を多用していたのはこういう時代だからです、という解釈は誤っていて、単に漫画自体がちょうどそういう発展段階に来ていたと捉えた方がいい可能性があります。

漫画であれば、作家はその漫画のジャンルの歴史を踏まえたうえで、セオリーから少し外れた表現を狙って差別化を図ったりするわけです。作家としては、いま社会がこうだからこういう漫画を描きたいという理屈よりも、単にこれまでそのジャンルになかったような漫画が描きたいという理屈の方が優越するのは珍しいことではありません。社会の時代性と特定のジャンルのなかの時代性は、さしあたり切り離して考えるべきですね。

――そう考えてみると、テレビなどの大きなメディアでは、流行っているコンテンツと社会状況を短絡するようなざっくりした解説が多いかもしれません。

たとえば『君の名は。』についてNHKなどであれこれ分析されているようですが、まずは監督の新海誠さんがこれまでつくってきた作品群と合わせて考えるべきだと思いますね。これまで彼がつくってきた作品の歴史を踏まえたうえで、どこが共通していてどこが違うのか、なぜそうなのか、と。

そのように表現に即して考えるとき、表象文化論系の人たちは、あの綺麗な背景美術の意味について考えることが多いですね。背景の描写は新海誠作品において最初から特徴的だった要素で、時代性と関わる部分と時代に左右されない作家性の部分があると考えられるわけです。それを丁寧に読み解いていくのが重要ですよね。

また物語のレベルでいえば、基本的には面白い物語のパターンというのは歴史上そんなにバリエーションがありません。男女がすれ違う作品は時代関係なく人々の心を掴みますよね(笑)。だから『君の名は。』が流行っているからといって、最近の若い男女はよくすれ違っているんじゃないかとかいう読みなどは、無理があるわけです。

――そういった表現ひとつからそこに人が込めた意図を読み取ることができると、世界の解像度が変わりますね。

表象文化論の読み解き方は、メディアリテラシー的でもあります。企業が広告を打つとき、どのような意図があるのか。テレビがドキュメンタリーをつくるとき、映像編集にはどのような意図があるのか。政治家の演説でも、そこにどのようなイメージ戦略があるのか、分析することができる。

僕は漫画表現以外にアニメーション表現についての授業もしていますが、そこでも表象を読み解くことには意味がありますよね。ただ「面白かった」で済ますのではなく、なぜこの表現で自分は面白いと感じたのか、あるいはなぜここで泣いてしまったのかを表象から考えてみる。

それは感情の理屈を言語化するという点でも意味があるのですが、もっと露骨にいえば、どうすれば自分はメディアによって感情を操られるのかを知るということでもあり、メディアリテラシーを鍛えるということでもあるわけです。

『のらくろ』は手塚治虫よりも文学的?

 

――先生が主に研究しているのは戦前・戦中の漫画ということですが、なぜ昔の漫画について注目しているのでしょうか?

手塚治虫以前の漫画について語っている人がほとんどいなかったからですね。一般的には漫画は手塚治虫から始まったという感覚がありますが、戦前にも『のらくろ』や『冒険ダン吉』など、人気を博した漫画はありましたから。

問題は、戦前の漫画と戦後の漫画を具体的に比較した研究がほとんどなかったことですね。なぜなかったのかというと、手塚先生自身がさまざまな媒体で、「自分の以前にはこんな漫画はなかった」といっていたからなんです。それを多くの人が鵜呑みにしていたんですね。「ああ、手塚先生がそういうのならきっとそうなんだろう」と(笑)。

実際に研究してみると、『のらくろ』は手塚先生がいっているよりもずっと深い表現をしているわけです。たとえば手塚先生は、漫画で悲劇を描いたのは自分が最初だといっているわけですが、戦前の漫画にも悲しい別れを描いた作品など、そこに段階的につながってくる様子があって、手塚先生が突然一人で始めたとは言えない。繊細な心理描写も戦前から描かれている。スピード感の表現とかもかなり蓄積があった。べつにすべてにおいて手塚先生が発明したというわけではないんですよね。

――なぜそこまで手塚治虫は過剰評価されているのでしょうか?

手塚治虫の神格化の典型例の一つが藤子不二雄Aの自伝漫画『まんが道』です。手塚治虫の『新宝島』を読んで感動した時の有名な場面があって、いろんなところで引用されています。

しかし、そもそも藤子不二雄世代の子供時代は、ちょうど戦時中で、子供漫画に対する統制も行われていたころで、あまり多くの漫画に触れられていないんじゃないかと考えられるんですよ。だから手塚漫画の印象が、過度に持ち上げられている可能性があるんです。

手塚治虫の直撃世代が「手塚先生すごい」といっているのを鵜呑みにしているだけでは正確な評価はできないはずです。手塚治虫もとっくに亡くなっているし、学問的に漫画史のなかでの彼の位置づけを探ることが、彼にとってもいいはずです。

――手塚治虫を正当に評価するためには、もっと昔にさかのぼって考える必要もあるということですね。戦前・戦中の漫画はどういったところがすごいんですか?

主人公が精神的に成長する漫画って、手塚治虫から始まったように思われていました。でもたとえば『のらくろ』の主人公は軍隊のなかで徐々に出世しているわけですよ。最初はいろいろ失敗もするんですけど、成長していく。そして地位が上がっていくたびに失敗することも減っていき、落ち着いたキャラクターになっていくんです。

心理描写に関してはあまり深くないのですが、心理を表象するシーンはあります。のらくろはみなし子なので帰る家がないんですね。だから正月には、まわりのみんなが帰郷していくなか、自分ひとりだけ軍隊でしょんぼりと人知れず涙を流すんです。

普段はユーモラスなキャラクターなんですが、その内側では家族がいないことを寂しく思っている。人間らしい二面性をもっているということが、簡単ではありますが描かれているんですね。

『のらくろ』は終盤になると、軍隊が資源確保のために大陸に進出するという地味な展開になっていくんですが、そのころにはのらくろも、地味なおじさんに成熟しているんです(笑)。じつにゆるやかで地味な成長の描き方なんですが、それは見方によっては、手塚治虫のような何かの大きなイベントによって主人公の価値観が変化するといった思春期的な成長の描き方よりも、リアルで文学的といえるかもしれません。

――それは面白いですね。では逆に、戦後の漫画が戦前の漫画より優れているところは何ですか?

単純に絵の描き方が向上したり、物語が複雑化したりしています。戦前の漫画は、基本的には主人公はひとりで、主人公の動きを描き続けていたわけです。しかし戦後から、主人公級のキャラクターが複数現れ、それぞれの思惑で行動し、群像劇的に交錯するといった物語が増えてきました。手塚の初期作品では『来るべき世界』(1951年)が典型的な群像劇で、『機動戦士ガンダム』の富野由悠季監督も影響を受けたと言っています。

心理描写に関しては、手塚治虫がやはり頭一つ飛び抜けています。それは人間のトラウマを描いたという点においてです。『来るべき世界』では、人の精神が壊されていく過程を描いています。主人公級のキャラクターの一人が働かされていた工場から脱走しようとして捕らえられて、「かごの鳥の刑」という罰を受けます。檻の中でひたすら放置されるんです。時計もなく、看守も喋ってくれない。何日経ったかもわからなくなっていく中、ただひたすらご飯だけを与えられて放置される。そうして次第に狂っていく様子を4ページぐらいに渡って描いたんです。このような描写は戦前にはなかったと思います。

戦前の漫画は大人向けと子供向けでジャンルがはっきりとわかれていました。でも戦後、手塚治虫がこうした人間のトラウマを扱う漫画を描いてから、大人向けと子供向けの境界があいまいになっていきました。もともと『来るべき世界』も子供向けだったんですけれどね。それから青年層、中高生や中卒労働者などをターゲットとした劇画やスポーツ漫画が新たな市場を拡大していったんです。

――漫画はわりと誰でも読むと思うのですが、先生のように大学で学問として研究対象にするというのはかなり特殊ですよね。どのようなきっかけがあったのでしょうか?

手塚治虫全集の『ジャングル大帝』がきっかけです。全集版の『ジャングル大帝』全3巻なんですが、じつは1巻と2巻は発表当時の原稿が紛失していて、後年に手塚治虫がもう一度描いた……という話があとがきに書かれていたんです。当時の原稿が使われている3巻では、このページのこのコマは若き日の藤子不二雄に手伝いで書いてもらった、とか。こういうところから、漫画が描かれた経緯を知るのは面白いなと思ったんです。

でも本格的に批評に興味をもったのは、ラジオの音楽番組でした。音楽雑誌の『ロッキング・オン』初代編集長の渋谷陽一がラジオをやっていたんですね。中高生の時それが好きで、まず音楽の批評に興味を持つようになりました。

そうしたら、ある日、渋谷陽一が他の番組で手塚治虫をゲストに迎えてインタビューしていたんです。その話が、本で読む手塚治虫のどの話よりも格段に面白かったんです。つまり、聞き手や解釈する側の人間が違うだけで、こんなにもべつのおもしろさを引き出すことができるんだ、と思ったわけです。

そうして大学の卒論では手塚治虫論を書きました。当時はまだ漫画評論があまり充実していなかったんです。評論雑誌は存在していたんですが、自分から見て深い議論はあまりされていなかった。たとえば当時の漫画史研究は、手塚治虫から始まるとする見方と、鳥獣戯画から始まるとする見方にわかれていたんです。

――鳥獣戯画って平安時代ですよね!?

そうです。おかしいですよね(笑)。あれが元祖日本の漫画だという歴史観もあるんです。冷静に考えて、鳥獣戯画からいまの漫画にはつながらないだろうと。師匠から弟子への技術の継承関係もなかったし、そもそも当時は漫画という概念が存在していなかった。

じゃあいまのようにコマと台詞と絵の三要素が構成する漫画が成立したのはいつかというと、明治時代の半ばなんですね。西洋の風刺漫画という文化が輸入されたんです。じゃあそこからの歴史を研究するべきじゃないかと思って修士課程から研究を始めました。

――最後に高校生へのメッセージをお願いします。

何かひとつ時間を忘れて没頭できることを見つけられるといいですね。高校生はもちろん、大学生もほとんどの人はまだ自分が何に没頭できるのか、自分は何が好きなのか、わかっていません。ですが就職活動するとき、あるいは大学院で研究するときに、自分が熱中できるものがないときついですよね。

たとえば少女漫画の『ちはやふる』が面白いのは、男女問わずかるたという競技に熱中しているからです。男性キャラクターも主人公級の活躍をしていますよね。描写に関しても、スポーツ漫画と同じようなスピード感のある描き方がされている。

そこから考えると、主人公とは何かということを考えさせられます。主人公は千早ですが、それ以外のキャラクターの出番も千早と同じぐらい多いですよね。それはコミックスを並べて表紙を見ればよくわかります。『ちはやふる』の表紙は毎巻表紙のキャラクターが変わるので、千早が表紙に出ないことも多い。そのぐらい他のキャラクターが重視されている。

神話などを研究する物語論では、主人公というのは世界から旅に出て、成長し、帰還する存在であると定義されています。つまり世界を越境する存在ですよね。では『ちはやふる』で世界を越境する存在とは何かと考えると、それは夢だった全国大会に出られるようになるとかが、それに当てはまるかなと。

でもそうすると、それができているのは千早だけじゃないわけで、太一や新、その他のキャラクターたちも主人公の資格があることになる。少なくとも『ちはやふる』においてはこういう観点からも主人公が一人じゃないってことが見えてくる。

このように自分が少しでも興味のあるものから考え始めると、意外と熱中するかもしれませんね。僕のように漫画を好きで読んでいたらそれが仕事になるというような、ありえないようなことも世の中にはありますから、好きなことを突き詰めていってほしいです。

高校生におすすめの3冊

手塚以前に関しては修正が必要なんですが、手塚以後の漫画史を勉強するのにいいですね。まずはここから始めてみましょう。

大塚英志さんとササキバラ・ゴウさんの共著です。大塚さんは漫画史、ササキバラさんはアニメ史を、それぞれ代表的な作家を挙げて論じていて読みやすいです。

僕を含めた5人の評論家が毎日新聞に交代で連載していたコラム集です。新刊レビューもあれば、そのときその人が論じたい話題を取り上げた回もあります。ひとつひとつはとても短い文章なので、適当に開いたページを読むのでも面白いと思います。

プロフィール

宮本大人漫画史・表象文化論

1970年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程単位取得退学。明治大学国際日本学部准教授。専門は漫画史・表象文化論。共著に『マンガの居場所』(NTT出版、2003年)、編著に『江口寿史 KING OF POP side B』(青土社、2016年)などがある。

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