「ボキャブラリー」の変化が、人間の思考を変化させている――思想を歴史的に研究する意味とは

人文系の学問は、とにかく本を読むのが仕事というイメージがあります。しかし実際には、本を読んで、それから何を考えているのでしょうか? 特に抽象的な思想や哲学の本は、いったい何の意味があるのでしょうか? 今回お話を聞く重田先生は、「意味はあるかって、そんなのあるに決まってる」と喝破します。

 

明治大学4年生の私、白石が今までずっと気になっていた先生方にお話を聞きに行く、短期集中連載『高校生のための教養入門特別編』の第7弾。現代思想・政治思想史が専門の重田園江先生に、高齢者問題からトランプ現象の特異性まで、思想家のミシェル・フーコーを経由して熱く語っていただきました。(聞き手・構成/白石圭)

 

 

ある本が50年経っても読まれている理由について、私たちはもっと深く考えるべき

 

――先生のご専門である現代思想と政治思想史について教えていただけますか。

 

まず現代思想ですが、これは定義がしっかりと決まっていないんです。「ポストモダン」というのを現代思想だという人もいて、その場合は1960年代以降の、近代を批判するかなり最近の思想を指します。

 

その一方で、近代思想の次に出た現代思想という考え方もあって、その場合は近代がどこで終わるかというのが問題になります。人によって考え方は違いますが、私は1880年代あたりが近代の終わりで現代の始まりだと思っています。近代と現代の区分がなぜ難しいかというと、そもそもヨーロッパには「現代」に相当する言葉がないからです。近代も現代もすべて「モダン」と呼ばれていますからね。

 

近代と現代を区別するのは、実は中国語、漢字文化から来ています。じゃあ中国における近代と現代の境目はどこにあるのかということが問題になるのですが、今の日本ではあまり中国の概念は意識されていない。「現代」は言ってみれば英語の「コンテンポラリー」に近いのですが、コンテンポラリーよりはスパンが長い。だから日本における「現代」は日本語独特の概念なんですよね。

 

政治思想史についてもなかなか難しいです。政治思想というのは、もともと政治学そのものだったんです。政治学の源流は中国やエジプトなど「文明」と呼ばれるたくさんの地域にあったはずですが、ヨーロッパ政治思想の始まりといわれているのが古代ギリシャです。古代ギリシャの政治思想は現在まで継承され続けています。ですので政治思想とは何かといえば、それはかつては政治学そのもので、言い換えれば政治学のなかには政治思想以外の分野がなかったということになるんですね。

 

では、政治思想が政治学の一分野になっていくのはいつからかというと、かなり最近のことです。人によって考え方は違うと思いますが、戦後のアメリカで「ポリティカル・サイエンス」とよばれる分野が誕生したことが大きな変化になりました。

 

これはたとえば投票行動分析など、政治をデータなどを用いて実証的に捉え、それによって科学としての客観性を保証しようとするような研究のことですね。そこではじめて政治思想以外の政治学の分野が登場したともいえます。もちろん、行政学、財政学といった分野は存在していました。しかし、ポリティカル・サイエンスの登場によって政治学に新しい分野が次々と生まれたのも事実なんです。

 

 

――となると、先生が研究されているのは、いわゆる「政治学」とは違うということですね。

 

政治思想研究者のなかには、「ポリティカル・セオリー」という英米発の理論的な研究をする人も多いです。思想というより理論として捉えるのがアメリカ流なんですよね。たとえば正義とは何か、平等とは何か、民主主義とは何か。ある思想家の考えをトータルに捉える、あるいはある言葉が歴史的にどのように使われてきたかをたどるより、正義についての一般的な理論を作ろうとする。

 

このような考えは、先ほどのポリティカル・サイエンスとある面では対立するのですが、歴史や思想の来歴をたどること自体を学問の核とするという発想がない点はどこか似ています。これに対して、私の手法はヨーロッパ発の思想史研究なので、非常にクラシカルです。一見すると昔のことばかり話しているように見えるはずです。

 

 

――お話を聞いていると、英米流のポリティカル・サイエンスは時代の要請によって始まった学問なのかな、と思いました。つまり「今の時代にはこれが必要だ」ということで誕生した学問なのだと思うんですね。その一方で、クラシカルなヨーロッパ流の政治思想史を今研究する意義はどこにあると思いますか?

 

それはあるに決まっています。今の人が考えていることなんて浅はかなんですから(笑)。昔の人はすごいですよ。だって50年、いや数百年経っても読まれている本を残しているわけですから。

 

今は毎月たくさんの本が書店に出ていますが、1年と経たずに消えていくものばかりじゃないですか。そうすると、50年経ってもまだ読まれている本には、何か重要ことが書いてあるという考え方もできますよね。実際、アリストテレスの本にもなると千年単位で残っているじゃないですか。そういう本は、やっぱり内容もすごいんですよ。

 

 

――人文系の学問全体に言えることかもしれませんが、いろんな著作を残した昔の人について研究するって、どういうことなんでしょうか。つまり、読んで、それでどうするんでしょう。

 

すでに多くの人によって解読され読み尽くされてきた本を改めて読んで、何か新しいものが出てくるのだろうかと思うかもしれませんが、あるんですよね。それはなぜかというと、時代が変わるからです。

 

時代によって著作へのスポットの当て方も変わってくるし、読む側の関心が変わるとまったく違って読めるんです。つねに新しい読みをするなんて無理だと思うかもしれませんが、時代ごとに自然とその時代にふさわしい読みが出てくるんですよね。だからこそ偉大な本というのは数百年経っても読まれ続けるわけです。

 

普通の人の考えというのは、時代に寄り添っているものです。だから時代が終わるとともに消えていく。でも偉大な思想家は、時代が変わることによって新たな側面を見出すことができるんです。

 

たとえばジャン・ジャック・ルソーなど、比較的古い人物の研究をやっている人ほどその喜びは分かると思います。「これだけ読まれてきたものに自分が新たな読み方で接近しているんだ」という感じを持つことができますから。それが、ある時代に生きつつ、思想家を読むということなんでしょう。

 

 

――ルソーは「『社会契約論』がフランス革命のきっかけになった」と教科書では理解しているんですが、それとは別のルソーの捉え方があったりするのでしょうか?

 

たとえば戦後の日本においてルソーは、人民主権の思想家として読まれていました。戦前の軍国主義の反省として民主主義を大事にしようという空気のなかでルソーが読まれた結果、そのような解釈がされたんですね。

 

でも、今の読まれ方は全然違います。『社会契約論』のなかには、人権とは関係ないけれども国民や国家についての重要な話がたくさん書かれています。だから今は、今まで注目されてこなかったそこの部分を読み直そうという研究者もいます。

 

他にもルソーには『政治経済論』という本があるのですが、それが非常に根本的な近代批判になっています。そもそも生活必需品でもないものを皆が欲しがって、それを人に見せびらかしたりする社会を全部くだらない、というんです。

 

いらないものを持って喜んでいる人々は倒錯していると言うことで、文明批判をしているんですね。これをどう解釈するか。「時代遅れの批判だ」と退けるか、それとも「いったいルソーは本当は何を言いたかったのだろう」と考えるかが、読み手の力量の試されるところです。

 

思想家の話というのは、もちろんその人が生きていた時代について語られているんですが、批判が根源的であればあるほど時代が変わっても生き延びる。だから「もしかして今の時代に当てはめるとこういう話になるんじゃないの?」と考えることが重要なんです。

 

思想家の全体を捉えるということも大事ですが、思想家というのはたくさんの仕事を残しているので、全体を完璧に捉えるのは到底できません。そこで、ある角度から思想家を読んで新しい側面を取り出そうとするのが、思想史という学問の面白いところです。

 

 

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そもそもどうして犯罪者は監獄に入れられるのか。その必然性は、ない。

 

――そのなかで、先生はミシェル・フーコーという思想家について研究されているんですよね。フーコーはどういうところが面白いのでしょうか?

 

その前に聞きたいんですが、今、皆の間で流行っている思想ってありますか?

 

 

――……ないと思います。

 

ないですよね。つまり今私たちは、新しい流行の思想というものを持たない時代に生きている。しかし、私が学生の頃は、状況が違っていました。最初に言ったポストモダンの思想が流行っていたんです。逆に今流行りの思想がないというのは、それはそれで不思議な現象だとも言えます。

 

私は当時流行していたポストモダンの思想に触れたのですが、そのなかでもフーコーは、これから先のことを予言しているように思えました。フーコー自身は16世紀から18世紀の、かなり昔のことを書いているんです。にもかかわらず、現在のことについて書かれているように読めてしまう。そこに魅力を感じました。

 

ほかには、彼の思想が領域を横断しているのも理由のひとつですね。政治思想という学問領域の限界を考えるのにちょうどいい。社会科学系の思想は政治と社会と経済の3つがあるのですが、それぞれの役割分担が決まっているような感じで、互いの領域を侵さないという約束事があったんです。私はそれが変だと思っていました。

 

現在の政治を捉えるには、これまでのように政治思想の内側だけでは無理なのではないかという感じをもっていました。そこで、領域を横断するフーコーが考えるヒントをくれると思ったんです。

 

領域と境界の話は重要です。たとえば政治思想をやっていたら、政治思想ってなんだろう、と問うわけです。自分が研究している学問分野の成立の基盤・根拠を問うということです。そして、自明に見えている根拠を揺るがすということをしたいわけです。

 

それが思想とか哲学の営みです。だから政治思想をやるからには、政治思想批判をやらなければいけないと思いました。フーコーは哲学者であって政治思想の人ではないのですが、だからこそ政治思想の根拠を揺るがすための手がかりが多いと思ったんです。

 

 

――先生は今、フーコーについてどのような研究をされているのでしょうか?

 

研究をはじめてからずっと、フーコーの統治性について研究しています。英語だとガバメンタリティですね。その前に少し方法の話をすると、人間の思考は言葉でできていますよね。そのため、言葉遣いが変わると思考も変わるわけです。その言葉使いがどう変化したのかを調べることで、人間の思考の変化を分析するというのが、今の思想史の研究です。要するに、ボキャブラリーの話を通じて思想史に接近するということです。

 

たとえば日本において戦後の民主主義、つまり個人や人権の問題は、どれくらい法が人権を擁護してきたか、行政がどの程度法に則って機能しているかという枠組みで研究されてきました。しかし実際の政治は法とは異なる原理と仕組みで機能しているのではないか、というのがフーコーの問題提起です。ではどんな仕組みなのかというと、それは「統治」であるというんですね。

 

 

――統治というのは、具体的にはどういうことを指すのでしょうか。

 

たとえば、悪いことをすると裁判にかけられて、「有罪です」と言われる。これは法による裁きですよね。でも判決が下りた後にどうなるか。痛めつけられるのか、罰金を払わされるのか。それは統治の問題なんですよ。

 

刑務所はその統治機構のひとつですが、刑務所の運営には、法は直接関わっていません。判決を出したところで統治の領域に手渡される。だから人の生活の中に政治が入り込む時のことを考えるには、法だけに着目していたのではあまり役に立たないんです。つまり人を管理したり、たくさんの人を平和に治めたりするのは法だけではできないということです。

 

統治について言うなら、そもそもどうして監獄に犯罪者を入れることが普通だと考えられているのか、本当は分からないのです。なぜそれが許されているのか。その根拠は何か。もちろんムチ打ちやギロチンはひどいのでやめよう、という声もあるかもしれませんが、その代わりになる刑罰はいろいろあるはずじゃないですか。

 

そこでなぜ閉じ込める方向に行ったのかというと、その必然性はないんですよね。少なくとも法的な理由はありません。そこで法ではなく統治という観点から、どうして監獄が誕生したのかということを考える必要がある。これがフーコーの統治性の話です。【次ページにつづく】

 

 

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