2011.03.27

私たちはポピュリズムの時代に生きている

吉田徹 ヨーロッパ比較政治

政治 #ポピュリズム#ポピュリズムを考える

先進デモクラシーの国々の多くは、ポピュリズムの時代を迎えている。イタリアのベルルスコーニ首相、フランスのサルコジ大統領だけではない。アメリカでは先の中間選挙で草の根保守としての「ティー・パーティ」が台風の目となり、安定した政治を経験しているかにみえる北欧諸国でも極右ポピュリズム(「ナショナル・ポピュリズム」)政党の躍進が止まらない。日本でも統一地方選挙を迎えて、ポピュリスト的な政策を打ち出す「首長新党」「地域政党」が既存政党の一角に食い込み勢いをみせている。こうしたトレンドは、偶然の一致では決してない。

『ポピュリズムを考える―民主主義への再入門)』(NHKブックス)で目的としたのは、このポピュリズムのメカニズムを理解すること、つぎにそれがなぜ生じるのかのダイナミズムを抽出すること、そして何よりも、ポピュリズムを通じて現在の民主政治が抱えている困難を明らかにすることである。

「ポピュリズム」という言葉は頻繁に使われる日常用語であり、普通蔑称で用いられることが多い。しかし、その具体的な意味内容は必ずしも明確ではないところに特徴がある。はたして、ポピュリズムとはいったい何であろうか。

ポピュリズム=大衆迎合なのか?

よくいわれるのは、ポピュリズムが「大衆迎合主義」にすぎないというものだ。だが、そもそも「人民の、人民による、人民のための統治」という、かの有名なリンカーン大統領による民主政治の定義を受け入れるならば、この「人民=人々(ピープル)」を価値体系の最上位におく「ポピュリスト政治」に論駁するのは難しい。

ポピュリズムは「大衆迎合主義」にすぎないと仮に打ち捨てたところで、現代の民主政治ではエリートや専門家による支配は到底受け入れられるものではない。つまり、「人々」に主権があるという「人民主権」の原則が徹底し、議会の門が「財産も教養もない」大衆に開かれるようになれば、「人々」が求めることを、この「人々」の「代表」たる政治家が充足するのはむしろ義務ですらあるのだ。この原理原則を弁えていないポピュリズム批判は、天に唾するのに等しいのである。

もっとも、こうした原理原則論を脇においても、そもそも現代の民主政治はポピュリズムを生起させるような構造になってきているところに難問がある。

変わってしまった「政治のモード」

まず、戦後政治社会を支えてきた様々な制度や機関(政治エリート、政党、議会、労働組合、社会勢力など)は、低成長時代と社会保障の切り下げによって、これまで「人々」からえていた信任を失うようになった。

日本を含め、多くの先進国では、「自分たちの子どもは自分たちほどの生活水準を期待できない」と考える国民が多数にのぼっている。これは、戦後はじめて直面する状況であり、「国民を喰わせる」ことを目的にしているはずの政治家への不信を生じさせる。

こうして、民主政治を囲っていた防波堤は瓦解し、政治リーダーは人々との直接の結びつきを強めようとする。「大統領型」の政治を可能にする日本の知事が、地方議会をむしろ排除することによって「人々」を動員しようとするのは、まさにこうした構図に当てはまるからに他ならない。そしてここでは、もはや「利益の分配」よりも、「物語」や「価値」をめぐる政治が主たる対立軸になっていくことになる。

しかも、政治家は当選しなければならないから、有権者を安心させるための様々な約束をする。ただし、グローバル化と社会の複雑化を前に、彼らは無力である。したがって、いわば「空手形」が乱発されることで、政治家への不信はますます募っていく。

もうひとつの理由は、現代政治においては様々な専門家や独立専門機関の介在による「ガバナンス」が不可欠になっていることがある。先進デモクラシーにおいては少なくとも、政治体制(イデオロギー)をめぐる対立が遠のき、多様なアクター間の利害の調整を目的とする水平的な統治が前提となっている。

こうした政治モードが支配的になるなかで、意思決定はむしろ不透明なかたちで一部のプロフェッショナルの手によって下されるようになり、最近の日本の金融政策論争で確認されたように、共同体構成員の厚生を損なう結果をもたらしかねない。このような「ガバナンス」に対する反発としても、ポピュリズムは生起することになる。

その不信感を払拭して、いま一度政治の実行力を誇示するために、政治や行政の「改革」といった比較的結果が目にみえやすい政策がつぎつぎと打ち出されていく。これがネオ・リベラル的なポピュリズムの本質である。

他方で、そうした状況下では、政治の無力さを告発することが、有権者の歓心を誘うことにもなる。内閣や官僚の無能さをあげつらい、彼らは国民のことを考えていないとするのである。これが、現下でみられる「ポピュリズム」ということになるだろう。

もちろん、あらゆる政治現象がそうであるように、ポピュリズムもまた単一の原因でもって生じるわけではない。そのため、本書では先にあげたベルルスコーニやサルコジ、日本の小泉政治を分析するとともに、これら現代ポピュリズムの先駆けとなった中曽根やサッチャーによるポピュリズム、さらには19世紀末のアメリカ人民党や戦後アルゼンチンのペロニズムといった歴史的なポピュリズムをも比較検討している。

ポピュリズムが民主主義を危機に晒すのではない、民主主義が危機だからこそポピュリズムが起こるのだ

既存の民主主義のあり方や制度によって「人々」が不利益を被っていると感じるとき、「人々」は原初的な民主政治における社会契約を更新しようとする。そうした意味において、ポピュリズムは現代の民主政治のリトマス試験紙のようなものだ。

つまり、ポピュリズムによって必ずしも民主政治が危機に陥るわけではない。「民主主義という約束」(ノルベルト・ボッビオ)が果たされなかったときに、ポピュリズムが頭をもたげるのだ。ポピュリズムとは民主主義の「内破」なのである。それゆえに、この本は「民主主義への再入門」を副題としている。

政治理論家エルネスト・ラクラウは、ポピュリズムが政治エリートのヘゲモニーが揺らぐときに発生すると指摘している。そして、相互に関連をもたないがゆえに平等な地位にある社会のなかの様々な要求が、新たな政治モードによって結束させられるとき、ポピュリズムが生起するのだという。彼の言葉を借りれば、既存の政治の枠組みが揺らぎ、ラディカルな民主主義が現われるとき、それはいつの時代もポピュリスト的たらざるをえないのである。

このことは、ポピュリズムは必然的に特定の政治リーダーを頂く政治現象であることを意味している。そのため、この本では、政治的リーダーシップ論や近年先進デモクラシーに共通してみられる「大統領制化」の現象についても言及し、ポピュリズムにおける「政治的カリスマ」がはたす役割にも注目している。

そもそもポピュリズムは「右=保守」のものでも「左=革新」のものでもない。むしろ、エリート同士による保守と革新の政治対立が「みせかけ」にすぎず、「真」の解決策を提供しないことを告発するような「否定の政治」を核心にしている。それゆえ、多くの極右政党は政治の主流から疎外されるようになった労働者層の支持をとりつけ、また極左も反グローバル化や貧困問題を梃子に「サイレント・マジョリティ」を動員しうる。ポピュリズムは、硬直しきった政治を揺り動かす民主主義の起爆剤として作用する。

もちろん、ポピュリズムにも負の側面がないわけではない。とりわけ、不可逆的な社会的紐帯の欠落を、政治リーダー=ポピュリストとフォロワー=サイレント・マジョリティとの情念による結びつきによって回復しようとし、様々なシンボルや記号でもって「敵」を作り上げることで政治的動員を図ろうとすることは、場合によっては危険な方向へ共同体を向かわせる。

しかし、本来的なポピュリズムは、共同体の内部の異質性を包摂しつつ、これに新たな集団的なアイデンティティを付与することで、民主主義をいま一度活性化する作用をもつ。そのために必要な条件は、まず「リベラリズム(自由主義)」という、現在の政治経済のモードの土台となっている理念を今一度精査し、その上で、どのような「参加の論理」を紡ぎだすかにある。

ポピュリズムは、ポピュリズムを唾棄することでもって胡散霧消などはしない。そうではなく、なぜポピュリズムが生じるのかについての冷静な現状判断を、民主政治を通じて考察し、その上でそのポテンシャルに思いをめぐらせてみること――もはや不可避となったポピュリズムの時代において必要なのは、そのような政治的意思なのである。

プロフィール

吉田徹ヨーロッパ比較政治

東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学博士課程修了、博士(学術)。現在、同志社大学政策学部教授。主著として、『居場所なき革命』(みすず書房・2022年)、『くじ引き民主主義』(光文社新書・2021年)、『アフター・リベラル』(講談社現代新書・2020)など。

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