私たちはポピュリズムの時代に生きている

先進デモクラシーの国々の多くは、ポピュリズムの時代を迎えている。イタリアのベルルスコーニ首相、フランスのサルコジ大統領だけではない。アメリカでは先の中間選挙で草の根保守としての「ティー・パーティ」が台風の目となり、安定した政治を経験しているかにみえる北欧諸国でも極右ポピュリズム(「ナショナル・ポピュリズム」)政党の躍進が止まらない。日本でも統一地方選挙を迎えて、ポピュリスト的な政策を打ち出す「首長新党」「地域政党」が既存政党の一角に食い込み勢いをみせている。こうしたトレンドは、偶然の一致では決してない。

 

『ポピュリズムを考える―民主主義への再入門)』(NHKブックス)で目的としたのは、このポピュリズムのメカニズムを理解すること、つぎにそれがなぜ生じるのかのダイナミズムを抽出すること、そして何よりも、ポピュリズムを通じて現在の民主政治が抱えている困難を明らかにすることである。

 

「ポピュリズム」という言葉は頻繁に使われる日常用語であり、普通蔑称で用いられることが多い。しかし、その具体的な意味内容は必ずしも明確ではないところに特徴がある。はたして、ポピュリズムとはいったい何であろうか。

 

 

ポピュリズム=大衆迎合なのか?

 

よくいわれるのは、ポピュリズムが「大衆迎合主義」にすぎないというものだ。だが、そもそも「人民の、人民による、人民のための統治」という、かの有名なリンカーン大統領による民主政治の定義を受け入れるならば、この「人民=人々(ピープル)」を価値体系の最上位におく「ポピュリスト政治」に論駁するのは難しい。

 

ポピュリズムは「大衆迎合主義」にすぎないと仮に打ち捨てたところで、現代の民主政治ではエリートや専門家による支配は到底受け入れられるものではない。つまり、「人々」に主権があるという「人民主権」の原則が徹底し、議会の門が「財産も教養もない」大衆に開かれるようになれば、「人々」が求めることを、この「人々」の「代表」たる政治家が充足するのはむしろ義務ですらあるのだ。この原理原則を弁えていないポピュリズム批判は、天に唾するのに等しいのである。

 

もっとも、こうした原理原則論を脇においても、そもそも現代の民主政治はポピュリズムを生起させるような構造になってきているところに難問がある。

 

 

変わってしまった「政治のモード」

 

まず、戦後政治社会を支えてきた様々な制度や機関(政治エリート、政党、議会、労働組合、社会勢力など)は、低成長時代と社会保障の切り下げによって、これまで「人々」からえていた信任を失うようになった。

 

日本を含め、多くの先進国では、「自分たちの子どもは自分たちほどの生活水準を期待できない」と考える国民が多数にのぼっている。これは、戦後はじめて直面する状況であり、「国民を喰わせる」ことを目的にしているはずの政治家への不信を生じさせる。

 

こうして、民主政治を囲っていた防波堤は瓦解し、政治リーダーは人々との直接の結びつきを強めようとする。「大統領型」の政治を可能にする日本の知事が、地方議会をむしろ排除することによって「人々」を動員しようとするのは、まさにこうした構図に当てはまるからに他ならない。そしてここでは、もはや「利益の分配」よりも、「物語」や「価値」をめぐる政治が主たる対立軸になっていくことになる。

 

しかも、政治家は当選しなければならないから、有権者を安心させるための様々な約束をする。ただし、グローバル化と社会の複雑化を前に、彼らは無力である。したがって、いわば「空手形」が乱発されることで、政治家への不信はますます募っていく。

 

もうひとつの理由は、現代政治においては様々な専門家や独立専門機関の介在による「ガバナンス」が不可欠になっていることがある。先進デモクラシーにおいては少なくとも、政治体制(イデオロギー)をめぐる対立が遠のき、多様なアクター間の利害の調整を目的とする水平的な統治が前提となっている。

 

こうした政治モードが支配的になるなかで、意思決定はむしろ不透明なかたちで一部のプロフェッショナルの手によって下されるようになり、最近の日本の金融政策論争で確認されたように、共同体構成員の厚生を損なう結果をもたらしかねない。このような「ガバナンス」に対する反発としても、ポピュリズムは生起することになる。

 

その不信感を払拭して、いま一度政治の実行力を誇示するために、政治や行政の「改革」といった比較的結果が目にみえやすい政策がつぎつぎと打ち出されていく。これがネオ・リベラル的なポピュリズムの本質である。

 

他方で、そうした状況下では、政治の無力さを告発することが、有権者の歓心を誘うことにもなる。内閣や官僚の無能さをあげつらい、彼らは国民のことを考えていないとするのである。これが、現下でみられる「ポピュリズム」ということになるだろう。

 

もちろん、あらゆる政治現象がそうであるように、ポピュリズムもまた単一の原因でもって生じるわけではない。そのため、本書では先にあげたベルルスコーニやサルコジ、日本の小泉政治を分析するとともに、これら現代ポピュリズムの先駆けとなった中曽根やサッチャーによるポピュリズム、さらには19世紀末のアメリカ人民党や戦後アルゼンチンのペロニズムといった歴史的なポピュリズムをも比較検討している。

 

 

 

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vol.218+219 特集:表現の自由とポリティカル・コレクトネス

<ポリコレのジレンマ―政治・芸術・憲法から見た政治的正しさと葛藤>

・第一部 テラケイ×荻野稔(大田区議会議員)

・第二部 テラケイ×柴田英里(アーティスト/フェミニスト)

・第三部 テラケイ×志田陽子(憲法学者)

<『裸足で逃げる』刊行記念トーク>

上間陽子×岸政彦「裸足で、いっしょに逃げる」

<連載エッセイ>

齋藤直子×岸政彦「Yeah! めっちゃ平日」

○シン・編集後記(山本ぽてと)