Head of Stateの存在理由  

天皇皇后両陛下が5月6日、被災した岩手県を訪問された。その前には東京や埼玉の避難所、そして千葉県や茨城県、東北では宮城県の被災地を訪問され、また震災後には異例のビデオメッセージを発せられている。これらを報じる一連の報道を読みながら、Head of Stateというものについて改めて考えていた。

 

 

元首とはいったい何か?

 

Head of Stateは日本語では国家元首と訳される。別にこれで間違いではないのだが、国家元首という言葉はどうも国内的に主権者や統治者に近いニュアンスをもってしまう。しかし、少なくとも現代においては、国内的にどのような権限をもつかに関わりなく、対外的に国家を代表する個人(まれに団体)がHead of Stateと呼ばれる。以下、元首という言葉はこのような意味でのHead of Stateを(とりあえず)意味するものとして使用する。

 

上で述べたことから分かるとおり、現代においても元首の存在は外交的な意義をもつ。たとえば、外国に派遣される大使は政府の代理人というよりも元首の代理人とみなされ、その任命は派遣国の元首から受入国の元首に当てられた文書(信任状)により通告される。

 

しかし、国内的にはその権限はさまざまであり、儀礼的な権限以上のものはもたないことも多い。大統領制の国家であれば通常大統領、立憲君主制の国家であれば君主(国王など)、社会主義国であれば国家主席などが元首とされるが、たとえば米国の大統領やサウジアラビアの国王が強い権限をもつのに対し、ドイツの連邦大統領やスウェーデンの国王は比較的弱い権限しかもたない。

 

日本は、憲法上元首に関する規定を有さないが、天皇陛下が対外的に日本を代表する権限の一部をもっており、上記のような意味での元首とみなすことができる。ただし、よく知られているようにその権限は国事行為にかぎられており、国政に関する権限をもたない。

 

そうであるならば、元首というのはそもそもなぜ、いまに至るまで存在しているのだろうか? 現代でも通常、国家は何らかのかたちでの元首をもっているが、文字通りの君主制国家がまだ相当多かった19世紀ならいざ知らず、現代においては多くの元首が儀礼的な役割しか果たさないというのであれば、なぜ多くの国がそのような存在を維持しているのか分からなくなる。そもそも、元首とはいったい何なのだろうか?

 

 

王の二つの身体

 

歴史的にみると、Head of Stateという概念は中世ヨーロッパにおける国家の捉え方の発展とともに形成されてきた。つまり、中世においてヨーロッパに存在した王国の行政機構が整備されるにともない、王国というものをひとつの団体あるいは法人として捉えるような見方が形成されてくる。

 

そして、そのような見方は、生身の人間(自然人)である国王の身体と、「もうひとつの身体」として国家=王国を、二重写しにするようなかたちで発展していく(このような考え方は「王の二つの身体」という言葉で表現される)。つまり、国家とはそれ自体がひとつの身体であり、国王はそのような国家という身体の文字通り「頭(head)」として、国家そのものを人格的に(あるいは身体的に)体現する存在として考えられていたのである。

 

面白いことに、このような考え方は法人としての国家だけでなく、他の法人―地方自治体から大学、さらには企業まで―においてもみられるものであった。つまり、すべての法人には「頭」が必要である、と考えられていたのである。

 

この影響は現在まで残っており、たとえばアメリカの古い大学の(法人としての)正式名称をみると、ハーヴァード大学がPresident and Fellows of Harvard College、ウィリアム・アンド・メアリー大学がPresident and Masters (あるいはProfessors) of the College of William and Mary in Virginia, イェール大学がPresident and Fellows of Yale Collegeとなっており、必ず法人のHeadとしてのPresidentの存在を明示している。

 

しかし、現在ではこのような意味での、法人のHeadであるような特定の個人は必要ないものとされている。もちろん、事業法人には意思決定を行う機関としての取締役会はあり、さらに日本であれば法人を対外的に代表するものとして代表取締役が存在する。しかし、上のような見方からすれば、Headとは文字通り「頭」として法人を人格的に体現する存在であり、この意味で代表取締役は法人を人格的に体現するとはいいがたい。

 

一方で国家についてみると、Head of Stateに関する儀礼や慣習は、Head of Stateとは儀礼的なものではあれ、国家を人格的に(あるいは身体的に)体現する存在だと考えると理解しやすいものとなる。つまり、国家は上のような意味でのHead of Stateを現在もなお残しているのである。

 

それでは、なぜ国家は、国家そのものを人格的に体現するような個人を必要とするのだろうか?

 

 

 

 

バナーPC

α-synodos03-2

1 2

vol.218+219 特集:表現の自由とポリティカル・コレクトネス

<ポリコレのジレンマ―政治・芸術・憲法から見た政治的正しさと葛藤>

・第一部 テラケイ×荻野稔(大田区議会議員)

・第二部 テラケイ×柴田英里(アーティスト/フェミニスト)

・第三部 テラケイ×志田陽子(憲法学者)

<『裸足で逃げる』刊行記念トーク>

上間陽子×岸政彦「裸足で、いっしょに逃げる」

<連載エッセイ>

齋藤直子×岸政彦「Yeah! めっちゃ平日」

○シン・編集後記(山本ぽてと)