『政治の理論』――近代において共和主義を再考する

全体主義は否定すべき悪であるのか?

 

本書『政治の理論』に至るまでの私の仕事を振り返ってみるならば、まず1999年の『リベラリズムの存在証明』という本があった。あの本のライトモチーフはひとつには”Taking Libertarianism seriously”であり、直観的には荒唐無稽だが、すっきりと明快であるがゆえになかなか決定的な論駁が難しく、思考実験としては大いに魅力的であるリバタリアニズム、最小国家論に対して普通のリベラリズムをどこまで防御できるか、という問題意識がそこにはあった。

 

今一つのモチーフとしては、経済学における「ケインズ経済学のミクロ的基礎付け」とのアナロジーで言えば「全体主義のミクロ的基礎付け」とでもいうべきものであり、合理的選択理論を根底に置いた考え方で、どこまでいわゆる全体主義というものを理解できるか、またそれに抵抗する方途としてはどのようなものが考えられるのか、という問題意識であった。そこでは「理論的に完璧な全体主義というものがあったとして、そこから脱出することは可能か?」という問いが立てられたが、とりあえずの回答は否定的なものであった。

 

 

もしも「忘却の穴」が「原理的に不可能なものではない」のだとしたら、それを完全に防ぐことは「原理的に不可能」である。我々になしうることは、「忘却の穴」が「原理的に不可能ではなく」とも「現実的には」失敗する可能性もあるということに賭けて、「必ず誰か一人が生き残って見て来たことを語るだろう」ことに期待すること、ないしその「生き残り」になるべく努力することしかありえない。(『リベラリズムの存在証明』406頁)

 

 

リベラリズムの存在証明

 

 

2008年の『「公共性」論』ではリバタリアニズムへの関心は後退し、かわってリベラリズム対コミュニタリアニズム、さらにコミュニタリアニズムの基盤としての徳倫理学への関心が前面に出てきている。ポイントの一つは「価値の多元性」へのコミットメントの問題である。

 

 

「リベラル-コミュニタリアン論争」と一口に言っても、そこで主役となっているのは、リベラル陣営の中ではロールズ、ロナルド・ドゥウォーキン、あるいはロバート・ノージックら、権利論的なタイプの論者であり、コミュニタリアン陣営においてはテイラーなどの多文化主義者でしょう。つまり、現代社会において社会的な価値の多元性、不可共約性が支配していること=「比較不能な価値の迷路」は事実として認め、かつそれを克服・変革できる/すべき対象とは見なさず、受け入れ是認する、つまりこの価値の多様性それ自体は望ましいことだ、と肯定的に評価する、という点において既に同意してしまっている者たちの間での「論争」が、舞台の中心を占めている。そこまでは既に見たとおりです。

 

では多文化主義的なコミュニタリアンがリベラルな多元論者をどのように批判するのか、を考えてみましょう。多文化主義の文脈から見た場合、批判の最大のポイントは「単に開かれた機会、機会の平等が与えられただけの世界においては、実際には価値の多様性は実現しないだろう」という危惧でしょう。(中略)

 

これはつまり言い換えれば、個人の自由な選択に任せた場合、じつは社会の中での価値の多様性は縮小し、衰退するだろう、という予想であるわけです。だから実際にはリベラルな多元主義者と多文化主義コミュニタリアンの間では「事実」認識が微妙に食い違っている、と言わなければならない。そしてこのずれは「評価」のレベルにおけるずれよりもおそらくは大きい。共約不能な諸価値の並立、という現状に対する「評価」は、リベラル、コミュニタリアン共に一応肯定的であるわけです。しかしこの現状が将来どのようになっていくか、という(希望的な期待ではなく)「事実」的、客観的な予想のレベルでは、リベラルの方はおそらくこの並立が続くだろうと予想しているのに対し、コミュニタリアンは、もし適切な手を打たなければ、とりわけ積極的な政治的アクションを起こさなければ、この諸価値の並立状況は崩れていくだろう、と考えているわけです。(『「公共性」論』150-151頁)

 

 

すなわち、そこでは「リベラルな寛容だけでは社会は存立できず、誰かが政治を引き受けなければならず、政治を引き受ける主体は一定の能力や資質=徳を備えねばならない。しかし人にそのような徳の涵養を強制するとリベラリズムは死ぬ。さてどうする?」との問いが立てられた。ではその問いにはどのような回答が与えられたか? 

 

 

公共性論

 

 

『「公共性」論』でも全体主義論の問題系は引き継がれているが、やや転形を経ている。すなわち『リベラリズムの存在証明』での「全体主義への抵抗は可能か?」という問題設定から「なぜ全体主義ではいけないのか?」という問題設定に移行している。すなわち「完璧な全体主義からは脱出不能である」として『リベラリズムの存在証明』での否定的な回答を受容したうえで、問いの立て方を変える。外側からやってくる災厄としての全体主義について考えるのではなく、我々自身が政治的に選択し実現してしまいかねないものとしての全体主義について考える、という方向に問いを転換するのである。

 

『「公共性」論』では藤田省三の「安楽への全体主義」などを参照しつつ「よき全体主義」が理論的には可能であることを強調した。実際ある種の功利主義の政策構想は、人々の自由意志を無視し、欺瞞を用いてまでその幸福を最大化することを容認するため、この「よき全体主義」の要件を満たしている。そこまでいかなくとも我々は公共政策やマーケティングにおいて、コミュニカティヴなやり取りを迂回して、人々を一方的に操作することを日常的になしている。全体主義とはそうした、『政治の理論』の用語法を用いるならばいわば「政治なしの統治・行政」の極限型に他ならない。

 

極限的に完璧な全体主義からは脱出不能である。しかしながら全体主義の可能性のスコープの中には、人々の幸福に奉仕する、少なくとも功利主義・厚生主義の観点からは必ずしも不正とは決めつけられない「よき全体主義」までもが含まれている。そのような全体主義までをも、全面否定する必要があるのだろうか? 

 

すなわち『「公共性」論』では、『リベラリズムの存在証明』ではほぼ自明視されていた「全体主義は否定すべき悪である」という前提を疑問に付す。「よき全体主義」が可能でありその実現に意義があるのなら、『リベラリズムの存在証明』で論証された全体主義の脱出不能性も、必ずしも悪い報せであるとは限らないことになる。はたしてそれでも「全体主義は否定すべき悪である」と言えるのかどうか、我々にとって取りうる選択肢の中にそれがあるとして、それをあえて選ぶべきではない理由はあるのか? 

 

『「公共性」論』では結局、「それでも全体主義を選ぶべきではない理由」としてまさに、その脱出不能性があげられる。いったん成立してしまえばそこから脱出できないのみならず、完璧な全体主義においては、とくに「よき全体主義」であればなおのこと、その下に生きる人々は、その体制自体に対して懐疑を抱くことさえもできなくなる。このように、人々を欺瞞の小世界に閉じ込めることになるがゆえに、たとえ完璧な「よき全体主義」であっても、我々はそれを目指すべきではない、とそこでは結論された。

 

そのような狭い世界の中に封じ込められた人々の不自由さを嘆くという立場は、あくまでも外在的なものかもしれない。しかしながら、そのような体制を意図的に構築し、管理する立場に立つ人々のことを考えてみよう。完璧な全体主義に対しては、その設計者・管理者は、徹頭徹尾超越的な立場から、一方的に振る舞うしかない。管理の対象たる体制下の人々に、その意図や存在を気取られようものなら、完璧な管理には隙ができてしまう。しかしそのような「政治なしの統治・行政」に徹するという生き方は、生きるに値する生であろうか? 

 

そして今回の『政治の理論』は、「政治なしの統治・行政」とは何か、をもう少し厳密に論じたうえで、真正な意味での「政治」とは何かを論じようとしたものである。

 

 

市民社会を支えるインフラストラクチャー

 

本書で『政治の理論』想定されている古典的な共和主義のモデルは、ジョン・ロック『統治二論』やアリストテレス『政治学』のそれから大きく逸脱するものではない。市民社会の一人前の構成員=市民は財産と教養のある大人であり、それ以外の人々――女子供、無産者――は通常は家長たる大人の支配と保護を受ける。財産と教養ゆえに市民は他人に騙されず、強制からも自由に行動できる。そうした市民たちの自由な行動の場が市民社会である。そして、市民たちがその自由をあくまで保持したままで、共通の利益のために、共通の意志(合意)に基づいて作り上げるのが統治権力=政府である、というモデルである。

 

しかしこれだけでは足りない。アリストテレスの場合は当然視されてか、またロックの場合にはその歴史的条件故にか、市民社会を支えるインフラストラクチャーの話がそれほど立体的になされていない。ことにロック――そしてトマス・ホッブズ――的な、近代的なイメージでは統治権力は「法人」であり、それ自体は物理的実体を持たない抽象的存在であり、その抽象的存在が具体的に何事かをなすためにはその執行機関としての君主なり政務官なりといった身分の生身の人間が登場する、という感じであるが、物的インフラストラクチャーもまたじつは無視できない。具体的には都市の物理的構造――公道、公共広場、集会場、水道、水路――がそれにあたる。ことにアリストテレスにあっては「法人」の概念はないのだから、そこでイメージされるポリスは抽象的存在ではなく、生身の人々と都市構造物からなるもっと具体的な何かである。

 

もう少し踏み込むならば、ここでイメージされている共和主義の市民社会は、人間たちからのみなるわけではない。市民社会の正規のメンバーとしての市民は家長のみであるが、それを上回る数の従属民がいる。しかし重要なことは、それに加えて、市民たちの家は市民とその家人たちからのみなるのではなく、その保有する財産、家産もまたその構成要素だ、ということである。家人の一部もまた財産(奴隷)でありうるが、重要なのは土地建物であり、家畜であり、食糧などの貯えである。社会を構成しているのは人だけではなく、人とかかわりあう「物」たちもまたその構成要素である。そして同様のことが都市の物理的インフラ、公共財産についても言える。

 

もうひとつ、物の話をすると、物には少なくとも二種類ある。動産と不動産、ではない。同じく法学風の言い回しをするなら元物と果実、である。元物とは消費されてなくなってしまうものではない、耐久性がある物で、それを用いて果実を生み出せるものである。典型的にはまさに土地がそうだし、建物や固定資本設備として用いられる機械などもそうだ。それに対して果実とは、元物を用いて生産され、それ自体は消費される――用いられると消耗しなくなってしまうもの、だ。食糧など農作物の類、あるいは鉱物等がこれにあたる。

 

ついでに言うならば、果実はほとんどの場合個性を持たない「種類物」である。たとえば隣近所とお味噌やお醤油を貸し借りしたとして、同じものを返すだろうか? 何しろ消費してなくなってしまうのだから、本やCDや、あるいは車や農機具の貸し借りとは違って、具体的に同じ個体を返すということはなく、同じ種類の別のものを返すはずである。(金銭の貸借もそうだ。このような取引を消費貸借と言い、借りた当のものを返す賃貸借などとは区別する。)これに対して元物の場合には、しばしば個性が帰せられる。経済学風に言えばストックとフローの違い、と言ってもよい。

 

もちろん両者の区別は流動的で、たとえば倉庫に貯蔵された大量の農作物や鉱物などはフローを集積したまさしく「ストック」としての性質も持つ。あるいは建物や大型の固定資本設備なども大量のフローを投じてできたストックとしても解しうる。

 

それでも市民社会を大きな構造のレベルで見ていくならば、その構造を支える要となるのは、まずは市民権を有した人であり、そしてそのストックとしての財産、資産である。耐久性を帯びた固定的な資産に対して、フローとしての材料、水、燃料、種苗、肥料、そして労働を投入して、フローとしての果実を収穫する。果実の一部は貯蓄=投資されてストックに一体化するし、一部は消費される。この循環は基本的にそれぞれの市民の財産領域内で完結するが、フローは他の市民との間で取引される。

 

市民の自立は、この生産―消費の循環が大体において自己完結可能であること、やろうと思えばある程度までは自給自足できるということ、それゆえに、他者の干渉をはねつけることができるということによっている。もちろん市民社会においては、物をめぐっての市民同士の交流がないわけではない。しかしそれが他者への依存とはならず、自由を害さないために、市民社会では一定の条件が成り立っている。それはフローの流通がすべての市民に開かれた公共圏で行われているということ、潜在的な取引相手はたくさんいて、特定の相手に拘束されることがないということ、である。公道を通り、公共の広場に出かけて、好きな取引相手を探せるということ、取引する商品を好きに運搬できること、が重要である。川や海などへのアクセスもまた重要だ。この公共圏のインフラストラクチャーも当然ながら耐久性のあるストックたることを求められている。

 

現代の経済学ではストックをたかだかフローの集積としか見ず(つまり前者を後者に還元可能なものと見がち)、公共財と私的財との区別においてストック―フローの次元を無視しがちである。だが、私的財においては元物も果実もともに重要であるのに対して、公共財の本体は通常はストックである。学校での教育や病院でのケアはサービスというフローかもしれないが、それを行う施設は固定設備であり、ストックだ。それは事実として耐久性を備えているし、そのようなものとして維持されねばならないのが普通だ。

 

ここからさらに一歩踏み込むならば、私的に保有されている、私有財産であるような土地建物、固定設備についてはどうか? という問いが浮かび上がる。今日われわれが私有財産権の中心、その典型とみなしているものは所有権であるが、所有権には普通、「その所有の対象を意のままに処分してもよい権利」が含まれている。フロー、果実、種類物であれば、それを利用することは直ちにそれを消費し、消滅させてしまうこと、になるので、それらについて「自由な処分」が許されなければ誰でも困ってしまうだろうが、ストック性の高いものについてはどうだろうか? たとえば人は土地を消費してしまえるものだろうか? また仮にそれができたとして、それは許容されることだろうか? 

 

むしろわかりやすいのは、広く価値を認められた芸術作品の場合であろう。我々は通常芸術作品の私有を認める。しかしながらそれが所有者による作品の自由な処分権までを含意するか、と言われれば悩むところだろう。

 

理念どおりの純粋な所有権、あるものを自由に使えて自由に処分できる権利、というのは案外と少なく、とくに耐久性のある物の所有権には、土地建物、不動産がわかりやすい例だが厳しい規制があるのが普通である。それでも我々が所有権の理念型、標準を「自由な使用権、自由な処分権、残余請求権」のセットに求めがちだ。「実態においては自由な使用も処分もできないが、それでも所有の本来型はそれであるし、ほとんどの場合残余請求権(*)は残る。」と。しかし、物を持つということの基本型、基準型が処分権を含む所有権ではないとしたら? 土地に対してはそもそも「処分」が考えづらいし、所有権思想が覇権を握った近代においても土地公有化論はデイヴィッド・リカードウのそれなど非社会主義的な立場からも出されている。

 

*「残余請求権」について簡単には以下のようにイメージしてほしい。たとえば会社の所有権たる株主の得る利益は、会社があげた収益の中から、原材料費や人件費などの費用を引き去り、さらに債権者に債務を支払った後で、それでもまだ手元に残る利益である。会社があげた収益に対しては、従業員や債権者も貢献しているわけだが、彼ら彼女らの取り分はあらかじめ決められた賃金や利息に限定されている。従業員や債権者は、そうやってリスクから保護されている反面、予想外の利益にあずかることはできない。それはもっぱら所有者たる株主の取り分である。

 

非常に極端な立場として、耐久性を備えた物については所有権が成り立たず、それを処分する――とりわけ毀損し破壊する権利は誰にもないのが基本で、例外的にのみ処分権が認められる、という体制について想像してみよう(ひょっとして現在のわれわれもここから思ったほどは遠くないのかもしれないが)。物に対する権利の基本型は所有ではなく占有ということになるのだろうか。この場合、人は通常、ある物を独占的に利用しそこからの利益を引き出せる権利はあっても、処分する、とりわけ破壊する権利はない。逆に言えばそれを維持する義務さえもそこに読み込める、ということにさえなりかねない。

 

我々の常識の中では公共財も普通は国なりその他の公共団体という法人の財産であり、その所有権者に処分権があることが多い。ある場合には行政の自由裁量により、また別の場合には議会の立法、決議によってそれが売り払われたり、破棄、破壊されたり、ということは普通にある。しかしながら公共財、公共の財産の基本型、理念型はどちらだろうか? 

 

重要なことは、古代の都市国家においても、近代的な国家や会社などの法人においても、公共の財産は政治共同体みんなのものではあるが、その「みんな」とは現に生きていて等の国家なり共同体なりを今現実に構成するメンバーだけではなく、可能的なメンバーまでをも含んでしまう、ということだ。つまりはやがて生まれてくるかもしれない将来世代とか、他国から訪れて帰化して市民となる外国人とかまでをも。つまりそれは「みんな」のものだがみんなの恣意によって処分はできない、ということになる。

 

市民を含めて生身の人間は生まれてきては死んでいく、有限な存在である。永続的な構造として都市、市民社会、国家を支えるのは、短命な個人以上に家であり、その家が継承する財産であり、公共圏を支える都市インフラである。

 

ハンナ・アレントやカール・シュミットがやや大げさに言ったのは、ギリシアにおける法nomosとはまずはこうした構造、土地を中心とする私有財産が、公道や広場によって互いに隔てられつつも結び付けられる、という構造のことである、ということだ。境界とは、ひとつのものを二つ以上に分かち、分かたれたものたちを互いに隔てる構造である反面、分かたれたものたちを無関係なものとして切り離すのではなく、互いに結び付ける構造でもある。言葉による法はその上に、それを明確化し、それでは足りないものを補うというかたちで出来上がった、と。都市国家ではなくより広大な領域国家に生きる近代人ロックの場合には、都市インフラへの視点は欠けており、その分法は抽象的となり、政府・国家も観念的構築物としての法人として捉えられているが、財産の基本型が土地であることは明確に押さえられている。

 

 

政治の理論

 

 

近代において共和主義を再考する

 

さて、ここから近代に移り、近代的な共和主義というものを構想してみたときに、何が問題となるのか? 

 

重要な問題は、市場経済が大規模となり、経済学風に言えば「競争的」となって、取引相手の具体的なアイデンティティが失われ、各市民はただ相場に受動的に適応するのが普通、という風になってしまう、ということだ。平の市民同士の交流、取引は「政治」とはみなされなくなり、明示的に共同的な意思決定である国家レベルの管理ばかりが「政治」とみなされるようになる。しかし実際には国家より下位レベルの地方自治体はもちろん、市民同士の組合や法人も、相対的に少人数で顔の見える関係の中、双方向的なコミュニケーションを通じて意思決定、運営がなされる限り、本当はそこもまた「政治」の場なのではあるが。だがいずれにせよ、大規模化に伴い、市民社会が脱政治化されていく傾向がある。

 

今一つの重要な問題は、産業革命以降の技術革新の常態化である。新しい技術が次々に生まれ、古い技術が陳腐化していく中で、フローとストック、単なる商品と資産、本来的な意味での財産との差異はどんどん見失われていく。ここで逆説的にも土地は強さを発揮するが、それでも昔日の農地としての存在感は薄れるばかりである。まして、直接に市場の取引から保護されるものであったはずの財産が、どんどん市場に引きずり出されていく。土地の生産物だけではなく、土地そのものが賃貸借の対象となり、時には丸ごと売り買いされる商品にさえなっていく。同様のことは資本についても言える。

 

このようなありよう、つまりは資本主義化は、悪いことばかりではない。商品化、市場化の波はほかならぬ労働にもどんどん及んでくる。これはどういうことかと言えば、雇用や小作というかたちで無産者も経済的自立をはかることが容易になる、ということだ。無産者も市民の家に丸抱えになることなく、市場を介して仕事をすれば、独立性を保つことができる。ただ問題は有産者の場合に比べて、やはりどうしても市場における交渉力が弱くなることだ。

 

有産者の場合、財産の蓄えがあるので、自給自足とはいかないまでも、短期的には市場から撤退して持ちこたえることもできるが、無産者の場合はそれが極めて困難となる。また無産者の場合、自己の能力を高める人的投資にせよ、あるいは資本財や土地を購入する物的投資にせよ、資本信用=長期借り入れに依存する度合が高くなる。長期的な取引は競争的市場を介した短期的なそれと比べて属人的となり、特定の取引相手への依存度がどうしても高くなってしまう。同様のことは小作や雇用関係の場合にもしばしば当てはまる。

 

身一つの雇用労働において、特定の雇い主に従属することなく、競争的市場の恩恵を存分に受けられるケースは、実質的に有産者と言える高度な――技術革新の先端と同レベルで付き合える――専門職(典型的には医師)か、あるいは単純労働の日雇い、パートタイムかの両極のケースであり、中間においては人的投資のために特定の職場、特定の雇い主へのコミットメントが避けがたくなる場合が多いのである。中途半端な専門職は技術革新によって技能が陳腐化する恐れが高い。

 

近代的な共和主義は、以上のような状況を踏まえて、自立した有産者の市民社会を目指すことになる。ここで我々が「リベラルな共和主義」と呼ぶのはその一バージョンである。

 

近代において共和主義を再考するとしたら、大まかに言って二通りの戦略が考えられる。第一は、古典的共和主義と同様に、有産者の寡頭的な合議政治の樹立を考えるエリート主義的構想。第二は、市場経済が社会全体を覆い、無産者までをも巻き込んだ現状を踏まえて、無産者の実質的(擬制的なそれも含む)有産者化を目指す構想であり、こちらが「リベラルな共和主義」である。

 

リベラルな共和主義は当然ながらリベラル・デモクラシーの一バージョンだが、リベラル・デモクラシー一般に比べて福祉国家的再分配を、単なるフローとしての所得保障ではなく、擬制的なストックとして機能するような支援を無産者に付与するようなかたちで行い、かつ能動的政治参加を促進するという点において異なる。またリベラルな共和主義は主権国家のみをターゲットとするのではなく、営利企業を含めたあらゆる法人における、自由な討議に基づくガバナンスを求める。コーポレートガバナンスと労使関係はとりわけ重要な意味を持つ。【次ページにつづく】

α-synodos03-2

1 2
シノドス国際社会動向研究所

vol.222 特集:沖縄

・仲村清司氏インタビュー「変わる沖縄——失われる心と『沖縄問題』」

・宮城大蔵「静かに深まる危機——沖縄基地問題の二〇年」

・北村毅「戦争の『犠牲』のリアリティー:当事者不在の政治の行く末にあるもの」

・神戸和佳子「『わからなさ』の中でいかに語り考えるのか——沖縄をめぐる哲学対話の実践から」

・山本ぽてと「沖縄トイレットペーパー産業史」
・齋藤直子(絵)×岸政彦(文)「Yeah! めっちゃ平日」