2014.07.18
対話と当事者性の罠――ネットワーク型サイエンスコミュニケーションへ
われわれ、SYNAPSE Lab.へのインタビューをきっかけに、しばらく不定期の連載をさせていただくことになりました。
僕たちの活動は、いわゆるサイエンスコミュニケーションという枠組みの中で始まり、科学を伝えるための活動をしています。インタビューを読んでいただいた方には僕たちがどんなことをしたいのか、だいたい伝わったのではないかなぁと思います。
しかし、記事の中ではあまりサイエンスコミュニケーションの説明を深くはしませんでした。そこで今回は、多少、サイエンスコミュニケーションの歴史的な経緯にも触れながら、なぜこういう活動が必要なのか、今後どうしていくべきなのかについて、初心に立ち返る気持ちで考えてみたいと思います。文章の内容としては、以下のような流れです。
サイエンスコミュニケーションとはどのようなものか
1. 対話の場としてのサイエンスカフェ- 子育て研究を例に
2. 受け取ることのモデル: 理解するとはどういうことか
3. 歴史的背景から生まれた伝えるためのカタチ・サイエンスカフェ
現状の課題:他の分野との比較
4. 伝えるためのカタチは、もっと多様であるべきではないのか?
5. 枠を越えられない問題 –科学コミュニケーションだけではない問題
6. 二項対立型の対話からネットワーク型コミュニケーションへ
僕たちメンバーが出会う以前は、それぞれ別々の活動や仕事をしていました。結成前には、サイエンスコミュニケーションのイベントでもっともポピュラーな形式であるサイエンスカフェなどを、僕ら一部のメンバーも運営したり、そういった場所で話題提供者として喋ったりしていました。
最近では、サイエンスカフェに関わることがめっきりなくなっていたのですが、昨年末、久しぶりにサイエンスカフェに参加しました。まずは、サイエンスカフェがどういうものかを紹介して、そのことを通してサイエンスコミュニケーションという活動について知っていただければと思います。まずは参加したそのサイエンスカフェについてお話させて下さい。
1. 対話の場としてのサイエンスカフェ- 子育て研究を例に
2013年12月20日、小雨がぱらつく午後、「プレ子育ての科学」というイベントが慶應義塾大学三田キャンパス内のカフェにて開催されました。マウスを用いた母仔関係の神経メカニズムや人とロボットを対象に愛着形成メカニズムの研究に取り組むSYNAPSEメンバーのおかべしょうたが講師として招かれ、僕(菅野)も参加者の1人としてイベントに参加させていただきました。
このイベントは、サイエンスカフェ形式で行われています。サイエンスカフェはサイエンスコミュニケーション・イベントのもっとも典型的なスタイルとして全国的に開催されていて、主催団体もさまざま。研究機関が主催することもあるし、サイエンスカフェを主たる活動とする任意団体も多く存在します。独立行政法人 科学技術振興機構(JST)が運営するサイエンスポータルにも沢山告知されています。
今回参加した「プレ子育ての科学」の主催はpeek projectさんです。peek projectは一般社団法人 学術コミュニケーション支援機構の活動の一つ。根拠が不確かで<神話的>な子育ての言説に不安を感じる子育て世代を主な対象として、子育て研究に関わる研究者を囲んで参加者が語り合う場を作っています。目的の一つは、既存の子育て観とは異なる<考え方>を学び合うこと。また、科学の先端分野には未だはっきりとは解明されていない多くのグレーゾーンがあるということを共有し、そのような事柄にどのような姿勢で対応するべきかを語り合うための場でもあります。
さらに、このプロジェクトにはもう一つの意図があります。未婚者や子育てをまだしたことがない学生などの若者世代を参加者として迎えることで、子供を持つ前から子育てについて考える機会に出会うきっかけを広めていこうというものです。その理念に非常に共感しました。
実際にこれまで、peek project主催の高梨和紗さんは高校で子育てに関する授業なども企画していて、精力的に活動をしておられます。このような場を、子育て中、もしくは、子育て前に共有し、子育てに関する価値観・考え方との出会いを創出することは「女性にとって、将来のさまざまな可能性を探ることにも繋がる」と、peek projectの岡島礼奈さんは仰っていました(いみじくも、今回の講師であるおかべと筆者(菅野)も「前子育て世代」になります)。
どのような内容をおかべが話したのか、それはそれで重要なのですが、長くなるので、その内容はイベントレポートとして、SYNAPSEのサイトに掲載させて頂こうと思います[*1]。
今回のサイエンスカフェは運営者2人、われわれSYNAPSEメンバー2人、参加者のお母さんが3人で、計7名。イベントとしては小規模ですが、直接対話が出来るところがいい点です。
テーブル2つを囲むように座り、それぞれお子さんを抱きながら、和やかにお話をしました。ときおり、私達も抱かせてもらったりして、久しぶりに赤ちゃんと接することができました。おかべが話題提供をしている間にも、哺乳瓶のミルクを一気に飲み干したり、泣いたり、笑ったりする赤ちゃんを眺めながら会話をする、非常にリラックスしたお茶会のようなひとときです。
おかべから2枚ほど、図などが入ったレジュメを配り、お互い自己紹介をしてから、そのまま、子育て研究の話題へと自然に移ります。まずは子育て研究の歴史、動物の研究やホルモンの知見の紹介。最後に、母性というものが子との触れ合いの中で発達し、親と子が相互に影響し合うことで愛着が形成されていくと、話をいったん締めくくりました。
会場のカフェは、一見非常に高級感が漂う空間ではあるものの、とても落ち着いた雰囲気で子供連れにも優しく、店員さんの対応も親切で、写真を撮ってもらったりもしました。まわりのお客さんも、学問の話をしたりビジネスの話をしたり、サロンのような空間の中に、ゆったりとした時間が流れているように感じます。お母さん達のバックグラウンドは金融やコンサル、元大学院生など。お仕事の話や、旦那さんの話、子育て生活についてなど、いつのまにか科学の話題を離れて世間話をしていました。こちらが話に行ったはずなのですが、未婚の私たちにとっては興味深い話ばかりで、ついついいろいろ聞いてしまいました。
最近では、さまざまなところで子育てに関するセミナーも開かれているそうで、そういったところでいろいろな知識を得たり、いろいろな人と知り合ったりするそうです。反面、そういうところに行き過ぎると、家事やプライベートワークをする時間がなくなったりするのが悩みとのこと。また、セミナーによっては、参加者を「無知なもの」として扱っているような印象を受けるものもあり、ときおり違和感を感じることもあるとのことでした。
日中、お母さんどうしで子育てを分担することで、プライベートワークや家事をする時間をつくり、情報交換や勉強会もするようなシェアスペースなどの必要性も話題に上がりました。漠然とお母さんと一緒くたに表現してしまいますが、職能やバックグラウンドはさまざまなので、お母さんという共通点を介して集まった人々は、多様性に富んだ非常に新しいチームになる可能性もあるのではないか、などと思いながら話を聞いていました。
さて、このような雰囲気で行われたサイエンスカフェですが、本題である科学の内容を伝える際に恐いのは、その解釈が受け手の側に多分に依存し、誤解を与える点です。しかも、科学とはある種の権威性を帯びているが故に、その誤解はやっかいなものになります。例えば、かつて「ある発達障害の原因は親が冷徹なことである」という学説が提唱されたため、障害を持つ子供の親にとっては非常につらいものがあったといいます(現在ではこの学説は否定されています)。
親との関係性が子の行動傾向に影響するという知見が動物とヒトを対象とした研究で存在し、それは確かかもしれませんが、子を持つ親にとっては、自分の子育てが「正しい」のかどうか、不安を与えかねないという側面もあります。実際、サイエンスカフェ当日もこの内容の話を聞いて「ちょっと不安」とおっしゃる方もいました。
哺乳類では約90パーセントの雄が子育てに関与しません。そのため、このような、ある種の事実を根拠に、女性に社会的役割として子育てを「強要」するような思想を持つ人もいるかもしれません。しかし、「AはBである」という科学的な観察結果は、「AはBであるべきだ」という価値判断を含んだ結論には直結しません。科学的事実をふまえることは重要な判断材料ではありますが、そもそも、科学では価値を付与することはできず、「べき」論は科学の範疇ではないのです。これは、社会や個人の意思・決断でしかなされません。
科学的事実を、そのまま「そうあるべき」と直結させてしまうことを自然主義の誤謬と言います。また、科学が深く関わるが、科学や科学者だけでは決断出来ない社会的な問題をトランスサイエンスの問題といい、そのようなことに対処するために必要な「科学と社会の対話」を円滑にすることが、サイエンスコミュニケーションの使命の一つでもあります。
サイエンスカフェの良いところは、直接対話であるが故に、プレスリリースやメディア報道と違って、その場で思ったことを語り合い、疑問や誤解に答え、非研究者である参加者からフィードバックをもらえることです。実際、このサイエンスカフェでも参加者のお母さんからは「子育て研究に男性(父親)を被験者とした研究が少ないのではないか?」と質問されました。そして、そういう研究が少ないことが、子育てにおける父親の役割が社会に浸透しない間接的な原因にもなるのではないか、と。
この指摘は鋭いところを突いています。養育研究における雄と雌の研究どちらが多いか、その統計を僕は持ち合わせていないのですが、確かに、動物も含めた養育研究では、雄のデータは少ないように感じます。また、一般的な生物医学研究ではかなりの部分が雄や男性を対象として行われており[*2]、このバイアスは是正しなければいけない問題です。ですが、そういう要望がフィードバックされる体験は初めてだったので、日頃から雄と雌の両方の研究をしている僕ら(菅野とおかべ)にとっては、その姿勢に「一般市民」が共感してくれることに、ちょっと喜びを感じたりもしました。
このように、サイエンスカフェ、もしくは、直接的な対話は、非研究者が研究者に要望を伝える機会でもあり、科学に関する市民の社会参加のあり方として、重用視されています。また、科学を伝える際には、伝える側も社会の文脈をしらなければならないと指摘されています。つまり、サイエンスコミュニケーションでは、科学者と一般市民の間での双方向性が重視されているのです(故に啓蒙ではなくコミュニケーションという言葉が使われています)。そして、そのような双方向的な対話を可能にする一つのカタチとして、サイエンスカフェが提案されたという、ある種歴史的な経緯があります。今回のサイエンスカフェは、双方向性という点において、理想的なものが実現されていたと感じています。
では、なぜこの様な双方向性を重視したサイエンスコミュニケーションが生まれたのか、次はその歴史的経緯を少しお話させて下さい。
2. 受け取ることのモデル: 理解するとはどういうことか
このセクションではサイエンスコミュニケーションの学術的・理論的背景についてお話をします。サイエンスコミュニケーションの中心的な理論の一つに「受け取ることのモデル」というものがあります。ここでは、その理論を中心に話しを進めます。
僕も所属していた大学院の副専攻の教科書『科学コミュニケーション論』[*3]の著者のお一人である藤垣裕子先生の本文中の表現をおかりして、まずは理解をするとはどういうことかを考えてみます。
理解をすることの特徴の一つに、「個人が保有する情報量が増える」ことが挙げられます。これは、情報科学的には本質的変化の一つでしょう。しかし、人が何かを本当に理解するということは、単純に情報量が増えることではなく、「血肉化する」「腑に落ちる」と表現されるようなことだと思います。つまり個人が保有する知識・情報のネットワークの中に、あらたな情報を位置づけてネットワークを再構築するということです。ネットワークというのは、個々人の出自とか、趣味、職業、地域性などを含んだ「文脈」です。現代のサイエンスコミュニケーションは、この文脈を見落とした、権威から市民に一方的に与えられるカタチで行われたコミュニケーションへの反省からはじまります。
そのような一方向の情報の伝搬、もしくは行政の姿勢の実例は沢山ありますが、例えば、イギリスにおける狂牛病(BSE)問題などが教科書ではよく取り上げられます。他にも、さまざまな科学技術政策(例えば原発など)に対し、市民から反発があった際に、それを鎮めるための措置として、市民に科学を理解してもらう必要性があり、さまざまな対策が講じられました。そのとき、市民は科学的知識が欠如しているだけで、「容器」の中に科学知識を沢山注ぎ込めば、科学を理解し、好意的になるだろうという、非常に希望的観測のもとでのコミュニケーションが試みられました。これを「欠如モデル」といいます。しかし、それは失敗に終ります。
その後、市民はそれぞれ固有の文脈を持っており、その文脈を伝え手側が知った上で、双方向のコミュニケーションを取らなければ、科学の理解増進は難しいとして、次に「文脈モデル」というモデルが提唱されます。
ここでは、あたかも伝え手は科学の側で受け手は市民であるかのように書いていますが、これら双方向的モデルでは、情報の受け手が常に入れ替わる可能性も内包します。込み入った議論は省きますが、この2つの双方向的なモデルは、文化人類学でいうところの「ローカル・ナレッジ」とか「土着の知」の重要性を前提にしていると思ってもらって問題ないと思います。
いわゆるポストモダンの時代に唱えられた文化相対主義では、例えば先進国や近代化・工業化されたものだけが「優れている」という画一的な価値基準ではなく、地域特有の文化や知にはそれぞれ固有の価値があるとされています。それと同じように、科学が関係し社会的判断が必要な場面においても、科学の専門家の意見だけが正しいのではなく、一般市民が持つさまざまな価値基準や経験則も有用であり重要である、というものです。
3. 歴史的背景から生まれた伝えるためのカタチ・サイエンスカフェ
このような背景から、文脈モデル的な双方向コミュニケーションが重視され、それを体現するフォーマットとして、サイエンスカフェが広く採用されている、というのが、今日までのおおまかなサイエンスコミュニケーション、もしくはその理論的背景を成す科学技術社会論(STS)の流れであると、僕は理解しています。
話を子育ての科学のサイエンスカフェに戻してみます。この、双方向性や文脈理解の観点から考えると、今回のサイエンスカフェは、非常に上手く目的を達成しており「理想的なサイエンスカフェ」と言われるものになっているように思います。子育てという明確な文脈を、参加者と主催者、もしくはゲストスピーカーが共有していることによって、その子育てという共通点を介して、ふだんあまり科学者と出会わないような参加者が科学者と出会うという「新たな出会い」、そしてお互いが持つ知識体系・文脈を「伝え合う」・「広め合う」ということが可能になっています。
つまり、科学者だけが知識を伝え広めるのではなく、科学者の側であるわれわれもお母さん方の文脈を受け取ることが出来た、ということです。この「共通点がある」ということは、「当事者性をシェアできている」こと、と言い換えることが出来ると思います。実際、僕自身、今回のサイエンスカフェを楽しめたのは、年齢的に結婚や出産・子育て問題について「当事者性」を持って、深い関心があり、参加者のお母さん方と対話をしてみたいという欲求があったからです。そのシェアが出来ていれば、サイエンスカフェは「サロン」として、情報交換や相互理解、共通の意識を持った仲間の形成にとても効果的なのです。
また、形式的な面でもその理想と言われるものを満たしています。サイエンスカフェでは、話題提供者である科学者だけでなく、参加者どうしが意見を交換し、話題提供者もフラットな関係で議論に参加することが好ましいとされますので(さらに、熟議が好ましいとされる雰囲気も感じています)、そのフラットさを保つため、ときに、PowerPointなどのプレゼンツールやプロジェクターを使うことを良しとしない風潮さえもあります。なぜならプレゼンテーションとは一方向に情報が流れるもの、欠如モデル的なものと捉えられるからです[*4]。また、この状態を実現するためには少人数が好ましいとされています。実際には、100名を越えるイベントでもサイエンスカフェと言われるものがあり、私の経験でも30-50人規模のものも多いと思います。
今回は、プロジェクターを用いず、少人数で行われ、会話の方向も双方向でした。きっと他にもpeek projectさんのような明確なニーズに応える活動は増えていると思いますので、こういった活動をもっと多くの人々知って欲しいしと思いますし、足を運んで頂ければと思います。
ところで、先ほどから、「きっと」「思います」と、多少自信なさげに言っているのは、冒頭に申し上げた通り、僕は今回が久々のサイエンスカフェへの参加で、すっかり最近の動向に疎くなってしまったからです。というのも、実は、ある頃からサイエンスカフェに対して苦手意識を持つようになっていたのです。それは、伝えるという行為の現場において、ここで「重要である」言った「当事者性」が持つポジティブな面とネガティブな面、その二面性に起因します。
4. 伝えるためのカタチは、もっと多様であるべきではないのか?
では、なぜ僕がサイエンスカフェを好きでなくなったのか、その理由を思い出してみようと思います。
第一に、これは性格の問題とも言えますが、自分が一参加者になったときに、いきなり知らない人と語り合うことが前提のイベントというものは、どうも居心地が悪くてたまらなかったんです。今回は、再三申し上げているように、僕に結婚や子育て問題、女性の社会進出や職場復帰などの問題に当事者性や関心がありました。例えば、それは、そういう年齢であるというプライベートな理由、雌雄間コミュニケーションや仔育ての研究に携わっているという理由によります。もし、それがなかったら、このイベントは僕にとって参加のハードルが非常に高いもの、もしくは関心がないものになります。ですが、このプロジェクトに関して言えば、それでいいのです。なぜなら、目的からして伝えるべき対象が明確で、実際に子育て世代にリーチしている(ターゲットを集客出来ている)からです。そして、語り合う環境というニーズ・需要が確実にあるからです。
僕が当時(2007-2010年くらい)、サイエンスカフェやサイエンスコミュニケーションの「空気感」に対して抱いていた疑問は、「科学と社会」「科学者と市民」といった二項対立的な考え方で、漠然と「一般市民」というターゲットを想定していた点です。これは、先に挙げた「文脈モデル」の出自、つまり科学者や行政と「一般市民」の間の対立や齟齬を解消しようとする過程で生まれたという経緯からしても、ある程度は仕方のないことです。
このような対立は歴史的にしばしば見られ、ローカル・ナレッジが文化人類学で取り上げられた背景にも、「土着の知vsテクノロジー」・「発展途上国vs先進国」といった二項対立があります。そしてその対立するどちらか一方が、権威的立場にあるという非対称性が存在します。さらに、このような対立は政治的・思想的姿勢ともあいまって、純粋な科学技術の問題ではなくなっていきます。なんらかの科学技術政策の意思決定場面では、単純に技術的課題解決の話だけではなく、思想信条の問題として複雑化していきます。そのため、対立を解消するための民主的過程として、熟議が必要になりますが、そのような熟議に参加したいと思う人々は、問題となる課題を推進することに、賛成にせよ反対にせよ、当事者性や高い関心を前提として持ち合わせていることになります。
熟議型のワークショップやサイエンスカフェは、こういった前提・問題意識を共有しているが、しかし、話し合いや和解が必要な人々には、向いているように思います。問題意識を明確に持っている人たちがいるということは、その人たちにとって、すでに何らかの問題が顕在化しているが故に当事者となっており、一刻も早い話し合いが必要となるからです。この枠組みを更に広い「一般市民」の層にも広げ、双方向コミュニケーションを実現していくことが、現代における平時のサイエンスコミュニケーションと言うことができると思います。
これは、歴史的事実としてしょうがないところではあるものの、このような構図を保持したまま、現代のサイエンスコミュニケーションは、一般市民との対話を重視したコミュニケーションを図るようになったと言えます。しかし、僕には、コミュニケーションをするべき対象を「一般市民」という名前でしか捉えられていないように思える状況が、文脈を読むことの重要性を説くサイエンスコミュニケーションとしては、説得力の無い姿勢に思えてしょうがないのでした。なんだか顔の見えない、没個性化した存在として、一般市民を捉えているように思えました。
市民とはさまざまな背景を持つ不均一な集団です。だとすれば、何か新商品を開発する際に、マーケティングをして、ターゲットを搾り、それに適した広告戦略を練り、販路を切り開くといったような、一般社会や市場でなされているような分析がなければ、情報は届かないはずなのです。さらに、サイエンスカフェは文脈モデルの名の下に双方向な熟議を前提としています。それは、僕でなくともイベントとしてハードルが高いのです。
自分が休日に何をしているかを考えてみて欲しいのですが、たとえ科学以外の分野だとしても、好んで熟議型のイベント参加をするでしょうか。トークショーや講演会を聴きに行くことはあると思いますが、基本的には、主役であるゲストの話を聴きに行くのであって、お客さんと話したくていくのではありません。休日にゆっくり話すなど、通常、友人としかしません。
どうも、サイエンスコミュニケーションのイベントというのは、お客さんに対して「そうあるべき」という想いが主催者の側に強くあり過ぎる。自分がスキルを磨きたい分野であれば、セミナー講師や参加者含め、沢山話をして名刺を配り、人脈を作りたいと思う人もいるでしょう。しかし、そのような行為の背景には、強い当事者性があるはずです。その段階に至るには、いくつもの過程があるはずなのです。本を読むように1人で向き合うようなことや、講演会をただ聴きにいって勉強する。美術館や博物館、映画館に1人で、もしくは友人や恋人と赴き、作品を眺める。お料理教室やヨガに通う。われわれの日常の趣味、鑑賞、思索というものはさまざまな密度やレイヤーで構成され、人々は、自分に合ったものを自然と選び取っているはずです。
しかし、サイエンスコミュニケーションのあり方は、そのような日常と比べると、非日常的と言わざるを得ないほどに、コミットメントを求めている。そのハードルの高さで、ターゲットを明確に絞ることも、広報戦略を練ることもなく、「サイエンス」と名の付いたイベントをするとどうなるか。僕には、それが、もともと科学好きの人が集まっているコミュニティにしか見えなくなってしまったのです。
科学と一般市民の間の非対称性を解消するべく生まれたサイエンスコミュニケーションは、しかし、伝え手となるコミュニティを形成した一方で、「一般市民」の中に潜在的に存在するニーズの掘り起こしが出来ていない。そのため、需給の非対称性が生じていると僕は思いました。現代のサイエンスコミュニケーションにおいて、双方向性を重視することが、手法面でドグマ化し、むしろ、科学と市民の間の双方向的なコミュニケーションが実現されていないようにしか思えないのです。
そもそも、欠如モデル批判というものも、一方向の情報伝達が人々の科学知識を上昇させること自体を否定するものではないのです[*5]。どのレベルでのコミュニケーションを成立させたいか、それによって「方法論を選択すべきである」という(だけの)話だと思うのですが、それが双方向性至上主義を生んでしまった節があるのではないかと。
僕の感じていることを簡単に表すと、次のような感じです
・科学にまつわるなんらかのイベントをしようとする
→広報戦略をしていないのでそもそも意識が高い層にしか届かない
→意識の高い集団内での双方向コミュニケーションが高まる
→外からはレベルが高くて入り込めない or そもそも存在に気付かない
→特定の集団の中で独自の進化を遂げる(他の集団とは違う言語を持つようになる)。
もっと、内容にしても、やり方にしても、媒体の使い方にしても、さまざまなカタチが存在するべきなのではないか。でなければ、人々が「ふと手に取りたくなる」ようなモノと認識されない、気付かれないのではないか、と。共感を得るためには当事者性のシェアは重要になりますが、一方で、強すぎる当事者性は、近付き難さや排他性すら帯びることがある。情報へのアクセシビリティとアーカイブ、つまり、見せ方(魅せ方)への配慮が、サイエンスコミュニケーションには無さ過ぎるのではないか。
そう直感した僕は、先のインタビューでも紹介させてもらったイベントを開催し、参加者にアンケートを行いました。僕のこの調査は極めて小規模なものですが、他の調査でも類似した考察がなされていますので、そちらを紹介させてもらいたいと思います。西條ら[*6]による2009年の調査報告では、人々の関心度を4つのクラスターに分類した上で、科学イベントによく参加する層の特徴について考察しています。
この調査ではアンケートの回答の結果から回答者を4つの層(クラスター)に分類しました。結論だけを簡単にまとめると、科学イベントに訪れる多くの層は、「ものごと全般に興味がある層(クラスター1)」と「科学好きな層(クラスター2)でした。前者は、社会参加意識は高く、後者は低い。また、どちらの層も知識量が多い、というような結果です。ちなみに、クラスター2の7割は男性でした。注目すべきは、クラスター3で、この層はもっとも人数の多い層でした。科学は苦手とするが社会に対する意識は高く、知識量は中程度。7割が女性です。科学に苦手意識はあるものの「もっと知りたい」と答える人も多いという結果でした。クラスター4は、今回の調査では関心のある領域が特定されなかった層です。
このことからも、現状では科学イベントに参加している層はそもそも高関心層であり、裾野を広げるためには低関心層で、かつ、全体の中でも母数の多い3番目のクラスターを取り込むストラテジーが当面は重要なのではないかと思います。われわれは、さまざまなエンターテイメントがあふれる日常で、このような層の目に留まりさまざまな情報から選び取ってもらうようなアプローチをしなければいけないはずなのです。
5. 枠を越えられない問題 –科学コミュニケーションだけではない問題
3月末、僕は訳あって、京都にいました。目的の一つは、SYNAPSEの良き理解者で私と同い年の気鋭のクリエイティブディレクター/プランナーの松倉早星さん(Ovaqe http://ovq.jp/ – top)とお会いすることです。その日、松倉さんから電通のクリエイティブディレクターでコピーライターの並河進さんを紹介して頂き、並河さんが行っていた対談を書籍にまとめた『Communication Shift』[*7]を頂きました。松倉さんも対談相手の1人です。並河さんは、資本主義の論理以外で、広告というものが社会のために新たに出来るコミュニケーションのカタチを目指して、さまざまな社会活動や事業を社会に広める取り組みをされているソーシャル・プロジェクトの専門家・実践家です。その本の ”広告のスキルで「通訳」する” という章で、あるNPOの取り組みを支援した際の感想としてこのように記してあります。
「なにせ想いが強過ぎて、最初から最後まで、児童労働の話ししかしない。でも、それでは児童労働に関心がない人は振り向いてくれない。」
これはまさに、上述の文脈モデルやサイエンスコミュニケーションコミュニティ内で起きている問題と同じことが、他の分野でも起きていると考えられます。
実は、サイエンスコミュニケーションと似たような構造は他の分野にも山のようにあるのです。NPOのミッションは、政府のセーフティネットや政策から漏れてしまっている解決すべき社会的な課題を民間の人的資源で解決していくことだと思います。そこには「社会に知られていない重要な課題を、人々に伝えて解決していく」という、サイエンスコミュニケーションとパラレルな構造・ミッションがあります。
さらに、同じように、その活動自体を知ってもらえていないという現状があるように思えます。並河さんはその問題を”広告のスキルで「通訳」する”ことで解決しようとなさっています。科学を社会に伝えるための人材、もしくは職能を「サイエンスコミュニケーター」とか「科学技術インタープリター」などと呼びますが、サイエンスコミュニケーションに必要な機能も、この「通訳」にあります。もしくは訳しただけでは意味が伝わらないため、背景文化も含めた解説もセットにする編集的手法も求められるはずです。
何かを伝える際には、なんらかの媒体が必要になります。アカデミアの中ではそれが論文です。しかし、社会に伝える際には、書籍、テレビ、web、広告といった媒体に合わせた形でコミュニケーションをしないといけません。そもそも「言葉」自体すら、媒体と考えることもできます。われわれは、目的やターゲットに合わせ、媒体・フォーマットを選んでコミュニケーションをデザインしなければなりません。しかし、その術を知らない、もしくは必要性を理解出来ていないコミュニティが非常に多いように思います。SYNAPSEが発足の当初から編集者やデザイナーと一緒に活動を始めたのは、アカデミアの人間が持ち合わせていない、コミュニケーションのデザインをするスキルが必要だったからです。
6. 二項対立型の対話からネットワーク型コミュニケーションへ
このように、サイエンスコミュニケーションが抱える問題やミッションというものは、科学特有のものではないはずなのです。確かに、科学にはさまざまな特殊性があります。しかし、特殊性を抱えた分野、もしくは、課題を抱えている分野というのは、科学だけではないはずです。コミュニケーションの必要性や伝えたい「欲求」を持っている人たち、もしくは、既存の分野の閉塞感を打破したいと思っている人たちが、科学やサイエンスコミュニケーションの分野以外にもいるはずです。
ここ数年の社会活動やソーシャル・ベンチャーが隆盛を極めているのには、そうした理由があるのではないかと、僕は感じています。そしてそれらが成功するには、我田引水的なものではいけないと思うのです。つまり、科学がある種の説明責任としてしか「市民一般」と対話が出来ないのであれば、さまざまなパイ(例えば予算)が限られる中で、自分たちだけが生き残ろうとする様にしか映らず、そのような気持ちが決してなかったとしても、自分の領土を守るために、他の牙城(予算)を崩す行為に、結果としてはなりかねません。
先ほど、理解するということは、個々人の情報ネットワークの中に新たな情報を位置づけ、ネットワークを再構築することだと述べました。これを、社会における科学の受容として考えてみると、科学が社会に理解されるということは、科学者や科学コミュニティが、他の分野の人やコミュニティの人的ネットワークに位置づけられ、関係性が構築されるということになるのではないでしょうか。
僕は、その過程で、かならず、異分野と協力することでお互いのパイをシェアするということが必要なのではないかと考えています。奪い合わなくても、お互いのシェアが広がるということ。それが、コミュニケーション、もしくは分かり合えたということの、一つのカタチなのではないかと。そうすることで、例えば、われわれ科学の中にいる人間でなくとも、別の分野の人が自分たちの周りで、さらには隣接するまた違う分野へと科学を伝えてくれる。ネットワークとして、拡散していくのではないかと思うのです。
これは、メディア論でいう「したたり理論」や「二段階理論」とも呼ばれる考え方です。例えば、並河さんがさまざまな分野をお手伝いしているように、サイエンスのコミュニケーターやインタープリターが元々科学とは違う出自の人達から出てきてくれるのではないかと。うれしいことに、われわれのイベントに出演して下さった異分野の方々が、その後、そのとき共演した科学者と独自の企画を立ち上げて下さるなど、少しずつ、そのネットワークは広がっているようにも感じます(次回は、それらイベントの中から、最近開催したものの文字起こしをイベントレポートとしてお届けしたいと思います)。
この様な活動の広がり方を、社会活動やソーシャル・ベンチャーの世界では「共感型ビジネス」と言うのだと思いますが、それに関して、われわれのイベントにもゲストで出演して下さった小倉ヒラクさんが面白いことを書かれています。
サイエンスコミュニケーションに”課された”使命の或る側面については上述しました。説明責任や、トランスサイエンスに関する熟議など、重い問題はたくさんあります。しかし、SYNAPSEでは、大学や学問を一つのコンテンツとして捉え、それを編集することで、広めていこうとしています。強い当事者性を必ずしも前提とせず、純粋に科学の楽しさや魅力を「感じる」過程で、そもそも「科学とは何か」ということも、自ずと知ってもらえる、知りたいと思ってもらえるのではないかと。
次のステップとしては、さらに多くの人がその情報にアクセスし、もしくは利用・使用可能に出来るかどうか、そこが鍵ではないかなと思っています。つまり、伝えるための原理としては、ネットワーク型のコミュニケーションなのですが、更にそれを進めるために必要なのは、さまざまなことが繋がっていることを可視化でき、可視化されたものから欲しいものを探し出せるアーキテクチャなのではなないかと思うのです。さまざまなコミュニティで、同じように伝える活動が行われている現代にも関わらず、それらの文脈が交差することは、未だ少ないのです。この点に関しては、次の課題としていったん筆を置きたいと思います。
・SYNPASE LAB. http://synapse-academicgroove.com/
※ 筆者は、科学技術社会論やサイエンスコミュニケーションの専門家・研究者ではないため、本稿の学術的背景については総合研究大学院大学助教の標葉隆馬さんにご意見を頂きました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。
編集:福島淳(Synapse Lab.)、金子昂(synodos)
[*1]養育研究における学術和文としては、おかべの総説などをご参照ください。
岡部祥太、菊水健史「母仔間コミュニケーションによる生物学的絆形成」ベビーサイエンス 2012. Vol. 12 http://www.crn.or.jp/LABO/BABY/LEARNED/12.HTM
SYNAPSE Lab. http://synapse-academicgroove.com/2014/07/18/pre_kosodate/
[*2] Charney, P., & Morgan, C. (1996).「Do treatment recommendations reported in the research literature consider differences between women and men?. Journal of Women’s Health, 5(6), 579-584.」
Vidaver, R. M., Lafleur, B., Tong, C., Bradshaw, R., & Marts, S. A. (2000).「Women subjects in NIH-funded clinical research literature: lack of progress in both representation and analysis by sex. Journal of Women’s Health, 9(5), 495-504.」
もしくはnatureでの以下の特集など http://www.nature.com/nature/journal/v465/n7299/standfirst/465665a_ja.html?lang=ja
[*3] 藤垣裕子、廣野喜幸 編『科学コミュニケーション論』東京大学出版会(2008)
[*4] 日本におけるサイエンスカフェの状況については以下2件などを参照していただければと思います。
中村征樹「サイエンスカフェ 現状と課題」 科学技術社会論研究 第五号(2008)
標葉隆馬、川上雅弘、加藤和人、日比野愛子「生命科学分野研究者の科学技術コミュニケーションに対する意識 : 動機,障壁,参加促進のための方策について」科学技術コミュニケーション(2009)
[*5]この点に関しては、標葉隆馬さんがブログで解説をなさっています。「欠如モデル」と「欠如モデル批判」についての覚え書き http://d.hatena.ne.jp/r_shineha/20111121/1321856897
[*6]西條美紀「科学技術リテラシーの実態調査と社会的活動傾向別教育プログラムの開発 報告書(2009)」
https://www.ristex.jp/result/science/literacy/
http://www.jst.go.jp/csc/investigation/study/16jul13.html
[*7]並河進「広告は、社会のために何ができるか 『Communication Shift―「モノを売る」から「社会をよくする」コミュニケーションへ』羽鳥書店(2014)」http://dentsu-ho.com/articles/933
プロフィール
菅野康太
博士(理学)。日本学術振興会特別研究員PD(麻布大学)。1983年、宮城県仙台市生まれ。早稲田大学人間科学部卒業。東京大学大学院理学系研究科生物科学専攻博士課程修了。専門は脳と行動、ホルモンや遺伝子を扱う生物学。現在の研究テーマは超音波によるマウスの雌雄間コミュニケーション。フリーペーパーやweb、イベントを通して科学を伝える活動・SYNAPSE projectを運営。http://can-no.com http://synapse-academicgroove.com