2014.10.03

演じることにはすでに批評行為が含まれている

舞台芸術家・鈴木忠志氏インタビュー

社会 #SYNODOS演劇事始#早稲田小劇場

1960年代、「早稲田小劇場」で日本の演劇の潮流を変え、1976年に富山県利賀村に移ってからは、世界とダイレクトに結び合いながら活動してきた鈴木忠志氏。今夏に開催された第1回利賀アジア芸術祭には、国内のみならず世界各国から観客が訪れた。『シラノ・ド・ベルジュラック』のクライマックスで、夜の野外劇場を花火が彩る。『からたち日記由来』では、語りの力が、合掌造りの劇場につめかけた観客を異世界へと連れていく。はじめて訪れる者にとっては、こんな山深い村にこんな空間が?!と驚くような体験だ。幻想的な夜が明け、静けさを取り戻した利賀村で、「演劇と力」をめぐって話を聞いた。(聞き手・構成/島﨑今日子)

雪深い山奥の村に世界から人が集まる理由

―― 利賀村に来たのははじめてです。合掌造りの劇場も見られたし、来てよかったです。

今年の利賀アジア芸術祭には、18カ国から150人が参加したんです。俺の訓練(スズキ・トレーニング・メソッド、独自の俳優訓練法)を習うために、アルゼンチンやブラジル、スペインから来てる人もいて、外人だらけ。政治家や文化人も来て語りあっているが、その現場に若い連中が参加している。こんなとこ他にないんだよ、日本に。

―― 早稲田小劇場旗揚げ10年目の1976年に、稽古場の契約が切れたのを機にここ利賀村へ。世界から喝采を浴びたあとに、あえて東京から離れたこの土地に劇団の拠点を移されたのはなぜだったのでしょう?

俺の演劇を見てくれているのは外国の人のほうが多い。世界へ出たときに、この人たちに対抗するためには、ある演劇の質、水準を維持しないといけないと考えたんだ。スポーツ選手だって、強化合宿して質を高めるでしょ。東京にずっといたいという演劇人はダメだよ。

俺が芝居をやったのは、日本を変えたい、この現状を変えたい、自分が変わりたいと思ったからやってるわけだ。演劇をやってるつもりはなく、社会事業をやってるつもりなんだ。ここだって、今(演劇祭期間中)はにぎやかだけど、劇団員は稽古がなきゃ家族のいる東京とかに戻るし、実際ここに住んでる人はもう500人。しかも65歳以上が多数だから、何年後かに滅んでしまう。日本人が捨てちゃっているから、なんとかしなきゃいけない。今はそういう使命でやっている。

―― ブログには、何度も逃げ出しそうになったと書いてありますが。

気持ちはそうだよ。つらいんだよ。このへん、民家ないし、冬には雪が3メートル積もるから、毎朝、除雪しなきゃいけない。水道が凍ると、お湯を沸かして水道管にかけたり。身体の調子が悪いときなんかは耐えられないよ。女房と二人でしょ。こないだ、韓国で公演してたら、女房から「台風がきて、怖いよ」って電話がかかってきた(笑)。誰もいないし、熊が出るんだよ。

―― 立て看板ありました、熊に注意って。鈴木さんは、1970年代からスズキ・トレーニング・メソッドを創作し、世界中の大学で演技指導するなど、常々、「自分は日本の演劇界を向いてやってない」とおっしゃってます。

そうだよ。ここでは、優秀な演出家や劇団が作品を作ったり、世界と仲良くすることを、日本人がマネージしているんだよ。東大だって留学生を誘致するのに苦労する時代に、文化・芸術の領域でこんなことが起こってるのは奇跡的なことだ。SCOTの舞台では、アメリカ人でもドイツ人でも、母国語で主役を演じることができるんだ。今、イタリア人とアメリカ人の演出家が、30人の外国人にスズキ・トレーニング・メソッドを教えてるよ。

―― なぜスズキ・トレーニング・メソッドを作られたのか、世界の演劇人が共有できる共通言語が必要だったと理解しました。ただ舞台を見ると、緊張度の高いスズキ・トレーニング・メソッドに、役者が奉仕してるように見えてしまう。

当たり前だよ。スズキ・トレーニング・メソッドは世界的なインパクトを持っていて、みんな、鈴木忠志の理念や理想に共鳴するからここに来てるんだよ。「演技が似てる」と批判する批評家がいるが、違う演技をされたら困る。好き嫌いはあっていいよ。でも、能を見て「役者たちに個性がない」なんて言わないでしょ。「なんで宝塚はみな同じなのか」なんて言わないでしょ。

―― 鈴木さんが舞台芸術家と名乗っておられるわけは、そこにある?

そう、だからSUZUKI STYLEなんだよ。SUZUKI STYLEに興味がなきゃやらなきゃいい、見なきゃいいだけの話です。世界的には、一つのスタイルをきちっと持たない演劇は、説得力もないんだよ。

鈴木忠志氏
鈴木忠志氏

芸術家になりたかったし、それが健全な生き方だと思ってた

―― そういうスタイルがどう築かれていったかをお聞きしたいと思うのですが、ご実家は静岡県清水市の材木問屋ですね。四人きょうだいの次男坊で、家には西洋と東洋、戦前と戦後が混在していたとか。

神棚と仏壇がある変な家だった。父方のおじいさんは義太夫の師匠。姉貴は雑誌「世界」をとったりして岩波文化に憧れてた。戦後のあのころはみんな、ヨーロッパの進歩的なものに憧れていた。仏教や神道は封建時代の文化だっていってね。俺も小学生のときに正座させられてじいさんの義太夫を聞かされるんだけど、足をくずすと煙管でポカンと頭を叩かれた。ニッポンは嫌だと思ったよ。

―― そこが、鈴木さんの原点ですよね。

そう、分裂している。はははは、ま、単純化すればの話です。

―― 早くから演劇少年だったんですか。

芸術家に憧れていた。小学校、中学校のころは詩ばかり読んでいた。島崎藤村に萩原朔太郎。一方で、学校には行かず、みんなを集めては山に行って、木を切ってうちを作ったり。うん、そのころから親分をやっていた。

―― 中3のとき、単身東京へ。地方の素封家の子息として将来を期待されたから?

親とケンカばかりしていたから、先生たちがこの子は早くどこかへやったほうがいいという意見だったんだ。清水駅を汽車で出るときに、先生とクラスの生徒全員が駅で見送ってくれた。ちょっと珍しいことではあったのかな。まあ、俺がヘンな風に優秀だったってことはあるんじゃない(笑)。

―― その優秀な鈴木少年は東京で勉学に励まれたのでしょうか。

そんなわけないじゃないか(笑)。学校は嫌いなんだから。王子の飛鳥中学に入って、近くに下宿したんだけれど、まわりは東大や早稲田や慶應の大学生ばかり。「お前も一緒にこい」と、下北沢の飲み屋とかいろんなところへ連れていかれた。

高校は都立北園高校に行ったけど、同級生はみんな東京都民だから、孤独なもんなんだよ。授業にも出ないでずっと図書館で片っ端から本を読んでいた。フロベール、モーパッサン、ボードレール、ランボー。今だってそのときの知識で生きてるようなもの。代返がバレて、退学処分になりそうになったこともある。チェーホフの小説を読んだらおもしろくて、次に戯曲を読んだんだけど、そうしたら、わかんないんだよ。はっきりしたストーリーがないから。この難解な戯曲をどういうふうに演(や)るんだろうと興味を持ち、演劇博物館があって、演劇が盛んだという早稲田へ入ったんだ。

―― 東大を目指してたんじゃないんですか。

遊んでいたいんだから、大学なんか行きたくはないんだよ。芸術家になりたかったし、それが健全な生き方だって俺は思ってた。早稲田を落ちれば遊んでればいいと思ったよ。みんな、二股三股かけて受験するけど、浪人してまで大学に入る、そういうふうに、何かの準備のために人生を使うのはダメだと思っていたよね。

―― 名言です。では、なぜ政治経済学部へ。

文学部に入ると親が心配するから、しょうがなかった。義太夫のおじいさんが芸者狂いするのを見てるから、息子が文学や芝居やるなんてもうとんでもない、ふつうに一流企業に入ってほしいわけ。親を安心させるための方便というか、親孝行。そこは、俺は偉いんだよ。でも政治経済の授業には出ないで、卒業までの6年間、芝居ばかりやっていた。

合掌造りの劇場、「新利賀山房」
合掌造りの劇場、「新利賀山房」

 

内部は、三方から囲み見ることのできる、能舞台に近いつくりになっている。『リア王』の一場面
内部は、三方から囲み見ることのできる、能舞台に近いつくりになっている。『リア王』の一場面

60年安保の時代の学生演劇

―― 数ある早稲田の学生劇団の中から、チェーホフをやっていた「自由舞台」へ。そこには150人以上のもの団員がいて、盟友となる劇作家の別役実さんらと出会われるのですが、最初は役者さんだったんですね。

そう、役者になりたかった。最初、何も知らずチェーホフの『記念祭』という戯曲をやるグループに入って、チェーホフってこんなふうにやるのかなと思ったら、演劇に夢中になった。早くに親元から離れて、やっぱり淋しかったんだよ。劇団にはいろんなやつがいて、人間っておもしろいなと思ったんだ。幹部に「演劇やるにはお金がいる、授業料を出せ」と言われて授業料をみんな劇団に出していたら、学費滞納の通知が家に行った。親から「もうお金は送らない」と勘当されたのは22歳だった。

―― 当時、演劇は思想と結びついていて、自由舞台は早稲田における共産党の拠点でした。共産党系の劇団が鈴木さんの体質に合うとも思えません。

当時、新劇の有名女優たちは共産党や社会党系の選挙カーの上に立って演説していた。それぐらいに政治と接触していた。それは悪いことじゃないけれどね。俺はメーデーに行かなかったから右翼と思われてた。だってネクタイしていくんだよ、メーデーに。赤い旗を立て、インターナショナルかなんか歌って、恥ずかしくてしょうがないから、「行かない」と言ったら、総会で「売国奴」とか「非国民」って言われた。俺がまた、小林秀雄とか福田恆存とかが好きだから。でも、ケンカするのはおもしろかった。マルクスも読んだ。議論が好きだった。今だって、ケンカを売られたら買うんだよ。

―― 60年安保の時代です。右翼と目されていた鈴木さんが、自由舞台の委員長になるんですよね。それ以降、劇団は代々木(共産党)系から反代々木系になったそうですが。

共産党の幹部と議論すると、「何のために恋愛するんだ、労働者のため、革命のためだ」なんて言う。人間ってものをわかってんのかな、こいつら凝り固まってるなと思うじゃない? そのころ、反共産党系の新左翼が出てきた。俺たちはそっちなわけ。代々木系のデモは静かだったけど、新左翼の全学連は安保に反対して国会へ突入した。樺美智子が死んだその日、60年6月15日に俺も国会に入ってた。

―― 鈴木さん、国会に突入したんですか。

吉本隆明が壇上に立って演説していたら、機動隊が押し返してきて、催涙弾が打たれ、みんな、逃げた。俺は「お前ら、親を心配させないほうがいいから早く逃げろ」とか言う体質で、そのときだって冷めていた。国会に行ったのもおもしろいからであって、ほんとに革命が起きるなんて思っていなかった。何事も人生経験だと思ってるだけなんだよ。これが正しいなんて思ったことは一度もないからね。

―― 鈴木さんらしいです。安保闘争敗北のあとに、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』を演出されました。自由舞台がやってきた社会主義リアリズムの芝居とは、明らかに違います。

あれは、一種、アメリカの高度成長社会、消費社会の悲劇だよね。直感だけれど、これは何年後かの日本だと思った。組織的には大きな決断だったけど、俺にとっては大学での大きな公演の初演出になった。

―― スタニスラフスキー・システムには疑問がおありだったとか。

あれは人間のための演技術だからね。人間の心理とか感情を表現する、人間関係をどう見るかという演技術なんです。チェーホフやイプセンなど、近代市民社会が成立してきたときに必要とされた戯曲のためのもの。だから歌舞伎にも通用しないし、ギリシャ悲劇にも通用しない。神様や幽霊が出てくるから。演劇は、実在しないイメージをどう具体化するかということもある。チェーホフには興味はあったが、それだけをやりたかったわけじゃないから。

―― 早稲田小劇場の前身である新劇団自由舞台の旗揚げが61年。上演されたのは、別役さんの初期の代表作となる不条理劇『象』でした。

別役の戯曲を読んで、彼の作品を形にしたいと思った。学生運動をやっていれば、俺と同じように就職したくないっていうやつもいっぱいいたんだよ。資本主義を、大企業を、労働者から金を搾取していると批判してたんだから、演劇やってるやつには、武士は食わねど高楊枝みたいなプライドがあったよ。「忠さん、劇団作るなら一緒にやりましょう」ということで、やりはじめたんです。

―― 演出は、鈴木さんの親分気質に合ったんですね、きっと。

今でも柄谷行人に、「鈴木さん、まだ親分やってるの」と言われてさ。ははは。みんな就職しないから、いろんなとこから金を集めて配らないといけない。派閥の親分と同じだね。

古代ギリシアに原型を求めた本格的な野外劇場
古代ギリシアに原型を求めた本格的な野外劇場
『シラノ・ド・ベルジュラック』の一場面
『シラノ・ド・ベルジュラック』の一場面
終演後の鏡割は恒例。来場者に酒が振る舞われ、歓談が始まる
終演後の鏡割は恒例。来場者に酒が振る舞われ、歓談が始まる

演劇には批評行為が含まれている

―― ますます演劇に魅了されていかれた?

それだけでなく、ヨーロッパでは演劇人は社会的に地位が高い。シェイクスピアやチェーホフを知らないで、政治家や外交官になれない。俺は、左翼の文学者が『四谷怪談』も見たことがないと言うのを聞いて、驚いたことがある。戯曲は国の財産なのに。欧州の演劇人には政治家よりも我々のほうが偉いんだという気概もあるし、実際、それだけの影響力がある。フランスで文化大臣だったジャック・ラング、ロシアの(ミハイル・)シュヴィトコイも、演劇界出身だよ。

ギリシャ悲劇の作家も軍人や政治家で、国家のリーダーです。国を憂えたり、この社会をどうしたらいいかって考える人が演劇人なんだ。だからブレヒトは追放されたし、メイエルホリドだって銃殺された。新劇も、木下順二とか安部公房、日本の封建的な体制を変えたいという人が集まってたんだ。左翼系じゃないが三島由紀夫や谷崎潤一郎も、日本のことを考えるから戯曲を書いてるんだ。趣味で書いてるわけじゃないんだよ。今は、何の足しになるんだというような戯曲ばっかりじゃないかい?

―― 今の若い演劇人は芸術家じゃない、と。芸術と芸能の違いを定義してください。

一つの共同体で、同質の人々の中で行われるのは芸能。芸術は同質の人間とは限らない。異質の人間とどういう対話をするか、対立する価値観にどう橋を架けるかということ。チェーホフはロシア人のためだけに書いたんじゃなくて、我々のためにも書いてくれてるんだなと思える。すぐれた芸術は、まったく違う生活をしている人にも説得力がある。柳田國男流に言えば、信仰を等しくしていない人も魅惑するというか、説得できる。この力が芸術の力だよ。

―― 劇作家のつかこうへいさんが亡くなったあと、彼を評して、この世界に対する違和感を持つ人、孤独の魂を持つ人間しか芸術家たり得ないと言われています。

つかこうへいっていうのは、そういう人だから俺は好きだったんだ。好きだった。

―― つかさんの孤独は在日であった故ですが、鈴木さんの孤独は何に起因するものなんですか。

どうも俺は誰にも似てないってところだよ。なかなか理解されない、変なやつなんだ。小さなころからずっと孤独だよね。誰かわかってくれる人がいないかなと思うよね。

―― 1966年に大学近くの喫茶店の上に稽古場兼劇場を持ち、早稲田小劇場を創立。当時、鈴木さんのカリスマ性にみんな“落ちて”ましたよね。どんな演出をされていたのか。つかさんの『熱海殺人事件』の木村伝兵衛部長刑事に、その姿が重なります。

つかは1年半以上稽古場に通って、稽古を全部、録音して持って帰るんだ。それで、あの戯曲を持って、「やってくれ」と言って来た。『熱海殺人事件』というのは演技論仕立てになっている。あいつは芝居なんか知りゃしないのに、俺が稽古場で役者に言った演技論を全部伝兵衛とかにしゃべらせていたんだ。「菊五郎がこう言った」とか。で、「こんなものやれるか」って。そしたら文学座へ持ってっちゃったんだよ。

―― ははは。木村伝兵衛は部下の刑事に「座ることにおいて批評行為が入っていない」とか無茶苦茶言う、自己批判しろってことですね。

そうそう、それは俺が役者に言った言葉だよ。役者に「存在そのものを否定される」ってよく言われたよ。でも、幽霊になったり神様になるんだから、「心臓も止めろ」と言うわけだよ、一応。言うは言うさ。

―― 白石(加代子)さんなど、「区役所に帰れ」と罵詈雑言を浴びせられ、椅子をなげられたりしたとか。

だって芝居をやるなんて人間は、今ある現状に不満を持ってるわけだろう? だったら自分の存在に対してもっと疑問を持て!というんだ。日本人はそこがボケてきたから政治もこんな結果になったし、政治家にだまされるんだ。今ある現状、現実に絶えず疑いを持って、志を持ってやらないといけないんだよ。

―― 70年、ベケットと鶴屋南北、泉鏡花の戯曲をコラージュした白石加代子主演の『劇的なるものをめぐってII』が上演され、早稲田小劇場は、賛否両論渦巻く中で、世界前衛劇の最前線に躍り出ます。別役さんと袂を分かって作られた作品ですが。

役者にはいろんな人間がいる。戯曲は大事だけれど、その戯曲をきっかけにして俳優の人間的魅力が出てこなきゃいけない。つまり、戯曲のために俳優が死んでいいわけはないんだ。白石なんかがそうだよね。

一人の作家が集団を組んでやってると、似たような人間ばっかり集まってきてしまう。しかし、演劇は戯曲のためにあるわけじゃないし、演出家のためにあるわけじゃない。個人芸術じゃなく、集団芸術。演劇っていうのは興奮するんだよ。舞台へ出てきて観客にまみえるその人間自体に魅力があるから、すばらしいんだ。俳優に魅力がなかったら絶対ダメ。潜在的な、人間的なエネルギーが出てきて、人間っていいなあって感動させるところが演劇だよ。

―― はい、あの時代のアングラの役者さんって、沸き立つような魅力がありました。

あったよ。白石加代子だって、李麗仙だって、吉田日出子だってね。唐(十郎)なんてふだん会うとなんでもないんだけどね、舞台へ出てくると、ぶわーっと違って見える。それが演劇の、フィクションってものの力だ。演劇じゃないが、美空ひばりなんか、「私は大衆のために生きています」と言った。それは妄想かもしれないけど、その気概がないで、なんでお前は人前に出てくるんだという話です。

2008年に韓国の俳優を演出した舞台『エレクトラ』より。打楽器奏者の高田みどり氏が参加している。

客入れの様子
客入れの様子

芸術家としての生き方を貫く

―― 利賀の他にも、水戸や静岡など自治体と組んで劇場を作ってこられました。静岡県舞台芸術センターは、鈴木さんの後を引き継いで、芸術総監督に宮城聰さんが就任しました。次世代にバトンを渡すことは意識されていますか。

自分のためにやったわけじゃなくて、演劇界のためにもやってるんだし、優秀な若いやつがどんどんやったほうがいいんだよ。だから舞台芸術財団演劇人会議(演劇人の全国組織)も、平田オリザに理事長を引き継いでもらった。SCOTについては、後継者は外国人になるかもしれない。集団指導体制でやればいい。世界中の有名な演出家、文化関係のリーダーが、自分の息子をここへ預けて精神修養させたいって言ってるんだよ。もう日本の演劇業界がどうのこうのなんて話じゃないんだよ。

―― 地方を活動拠点にする演劇人も増えてます。

どのレベルの水準を考えてるんだということはある。世界的に評価され、尊敬され、影響を与えるようなものを作っているか。そのためには、どれほどの犠牲を払わなければいけないか、だよ。

―― 鈴木さんが払った一番大きな犠牲って?

それは、東京を捨てたということです。金と虚名を捨てたってことだよ。俺は賞はもらわない。「年金がつきますよ」と言われたこともあるけど、冗談じゃない。そんなものもらってこんなところにいたら、心が弱くなる。そういうことは全部やめました、俺はここでがんばります、ここで死にますよ、ということ。

演劇人は公のことをやってるんだというプライドを持たないとダメだ。演劇をやっていると金に負けてしまう、マスコミに負けてしまうということが多い。そうじゃなくて、我々の仕事は社会で必要とされる役に立つもの、つまり人を励ますことができるんだということを見せなきゃいけない。そのためには、官僚や政治家を批判したり、説得できる力が必要なんだ。

―― 日本では、政治と接触すると権力志向と言われます。鈴木さんも、政治家になったと批判されました。政治家、なりたいですか。

なりたいわけないじゃないか。政治家みたいなことやってるなと言われるし、民主党の幹事長や自民党の総理大臣経験者だってここに来たけど、私は非権力。反権力ではなく非権力。どこの国に行っても、権力者と仲良くはするけれど、権力になりたいとは思わない。芸術家は「あなたたち、ここが間違ってますよ」と言う役割なんだ。自分が権力になるためにやってるわけじゃない。

―― しかし、四分五裂を繰り返すのは集団の宿命とはいえ、仲間が去っていくことは堪えたと思います。

もちろんそうだよ。だけど、誰かが去っていくと、若いやつが出てくる。世界からも同志が出てくるんだよ。だいたい芝居をやめる理由なんて、自分の限界を感じたか、男ができたり女ができたりという事情に負けたかなんだよ。俺は、女房が「離婚する」って言っても、子どもが「こんなとこもうやだ」と言っても、それでやめちゃ、世間に申し訳ないと思うね。

うちの劇団員も立派なんだ。女房や子どもを置いて、何カ月もここにいる。それは目的があり、志があり、多くの人に助けられて、多くの人が喜んでくれてるから。去年から演劇祭の入場料を設定しないようにしたら、むしろ、寄付による応援をしてくれる人も収入も増えたんだ。

―― 多くの人が高い交通費を使って遠くから演劇祭に来るんだからと、入場料は「それぞれご随意に」ということにされたんですね。

アメリカから50万円を振り込んできた人もいるし、見るたびに1万円ずつ入れてくれる中国人もいる。1000円で全部見てる人もいるよ。それはそれでいいんだ。俺は興行をやってるつもりはないし、演劇だけを見せようと思ってるわけじゃない。日本にはこんないいところがあるということを知らせたいんだよ。

―― 驚いたのは、鈴木さんご自身が劇場に立って、客入れをなさっていたこと。いいな、と思います。

大変だよ、毎日毎日。それと、これは本心からだけど、客を見たいんだよね。どういう人がいるか。「どこから来た?」って会話もできる。俺は病気のとき以外、自分の舞台を見なかったことは一回もないよ。もうひとつ、劇団員が客に「そこもうちょっと詰めてください」と言っても聞かないけど、鈴木忠志が言うと聞いてもらえるということもある。

―― はははは、親分も使いようですね。

そうそう。だけど、誰も演出、頼んでこないんだよ。海外からは頼まれるけど、日本では頼まれたことないよ、ここ十年。いやほんとに。

―― そりゃ、頼めないでしょう。ご自分では、それはどうしてだと思われます?

あなたに聞きたいよ(笑)。照明家の吉井澄雄が俺の照明に感心してくれたから、「じゃあ仕事とってきてよ」って言ったら、「鈴木さんに照明を頼む演出家はいない」って(笑)。「俺は好きな女優がいりゃあ、ケーキぐらいは持ってってさ、照明器具もいっぱいあるから持ってくから、俺を使え。金いらないから」って言うんだけど、ダメなんだよね、全然。ははははは。

(2014年9月、富山県・利賀村にて収録)

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プロフィール

島﨑今日子ノンフィクションライター

ノンフィクションライター。京都府出身。新聞・雑誌等に数多く執筆。著書に『安井かずみがいた時代』(2013年、集英社)など。

この執筆者の記事

鈴木忠志舞台芸術家

1939年静岡県清水市生まれ。1966年、別役実、斉藤郁子、蔦森皓祐らとともに劇団SCOT(Suzuki Company of Toga-旧名 早稲田小劇場)を創立。新宿区戸塚町の早稲田大学のそばに同名の小劇場を建設し、10年間活動する。1976年富山県利賀村に本拠地を移し、合掌造りの民家を劇場に改造して活動。1982年より、世界演劇祭「利賀フェスティバル」を毎年開催。1974年、岩波ホール芸術監督、1988年、水戸芸術館芸術総監督を経て、1995年に静岡県舞台芸術センター芸術総監督に就任(2007年、退任)。日中韓三カ国共同の演劇祭であるBeSeTo演劇祭の創設者であり、また、演劇人の国際組織シアター・オリンピックスの委員の一人でもある。著書に、『内角の和』『内角の和Ⅱ』(ともに而立書房)、『演劇とは何か』(岩波書店)、『Culture is the Body 文化は身体にある』、対談集『〈私たち〉は必要とされるのか?!』(ともにSCOT)ほか多数。http://www.scot-suzukicompany.com/

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