「空虚な幻想」から目を覚ますために――オウム真理教事件の根底にあるもの

思想というのは本来的に、一般の人が理解しているよりも、はるかに危険なものです。――思想はどのように裁けるだろうか。オウム真理教の根底にあるものを探る。(聞き手・構成/山本菜々子)

※本記事は「αシノドス」2014年5月号からの転載となります。

 

 

危険思想と弾圧

 

――今回は、ご寄稿いただいた『オウム真理教事件の真の犯人は「思想」だった』をもとに、お話を伺いたいと思います。拝読すると、思想の罪を問うことのむずかしさを感じてしまいました。

 

記事のなかでも触れたように、日本の現在の司法制度では、思想に対する罪を問うことができません。しかし歴史を振り返ってみると、「危険思想」と見なされたものには、制裁や弾圧を加えられるのが、むしろ常態でした。

 

私はもともと、「グノーシス主義」という初期キリスト教の異端思想を研究していました。またその過程で、キリスト教の歴史における正統と異端の関係全般についても学んでいきました。私は当初、どちらかと言えば、批判や弾圧を受けていた異端の側に共感を抱いていたのですが、勉強を進めるにつれ、問題はそれほど単純ではないと感じるようになった。異端の思想は、一見したところでは理に適っていたり魅力的であったりするのですが、長い目で見ると、社会を安定的に統治するための要素が欠如していることが多いのです。アウグスティヌスが著した異端論駁書などには、深く納得させられるところがあり、頭の固い「正統派」が、リベラルでラディカルな「異端派」を攻撃しているというような簡単な話ではないのだな、と思わせられました。

 

また、戦前の日本でも、国家権力による新興宗教への弾圧が行われていました。「大本」という宗教への弾圧は特に激しく、教団の施設をダイナマイトで爆破することまで行われた。その経緯については、早瀬圭一『大本襲撃』(毎日新聞社)や、村上重良他『宗教弾圧を語る』(岩波新書)という本が参考になると思います。大本事件をモデルとして中国文学者の高橋和巳氏が書いた小説『邪宗門』も、一時期は良く読まれていましたね。

 

思想というのは本来的に、一般の人が理解しているよりも、はるかに危険なものです。人類の歴史において生じた大きな悲劇的事件の背景には、大抵の場合、思想の違いや対立があります。人間の生死を根本的に規定する力、「この理念のために命を捧げなければならない」と人を駆り立てる力が、思想には備わっているのです。

 

繰り返しになりますが、どんな思想を社会に流布させても、それだけで罪に問われることがないというのは、歴史的に見てかなり例外的な状況です。しかし、こうした特異な状況に対して、社会の側では、それに対処するための知見や自覚がまだまだ十分整っていないのではないか、と私は思います。

 

 

――思想の罪を問わないのは当然のことで、むしろ今までは、「治安維持法」や「異端審問」などは、かなり前時代的で野蛮なもののようにさえ感じていたので、ご指摘の点は興味深く思いました。

 

中国や北朝鮮のような共産主義国、あるいはイランのようなイスラム教国は別として、現在の多くの国家では、「信教の自由」や「思想・表現の自由」が基本的に容認されています。しかし、「セクト」や「カルト」と呼ばれるような団体に対して、公権力がどのように対峙していくのかということについては、国によって態度がバラバラな状態です。

 

先進国のなかで、この問題にもっとも踏み込んだ姿勢を示しているのは、やはりフランスでしょうか。2001年には、いわゆる「反セクト法」(正式名称:「人権及び基本的自由の侵害をもたらすセクト的運動の防止及び取締りを強化するための2001年6月12日法律2001-504号」)が制定されました。セクト的団体やその指導者が、精神的自由の侵害や虚偽広告などで繰り返し違法行為を犯した場合、国家がその団体の解散を宣告できる、という内容です。しかし、この法律が制定される際にも、果たして「信教の自由」の原則に反することにならないのかと、大きな議論が巻き起こりました。

 

私は時折、一般向けのセミナーや講演で話をさせていただく機会があるのですが、そこに出席された方から、「おっしゃるような難しい話は私には分からないので、あなた方専門家がどの宗教が危ないのかを判断して、国と話し合い、われわれ一般市民に害が及ばないように対処してほしい」と言われることがあります。そのような意見が出てくる気持ちはとても良く分かるのですが、そうなると、宗教学者がかつての「異端審問官」の役割を代行するということにもなりかねませんよね。宗教団体が違法行為を犯していた場合に、国家権力が介入するのは当然として、宗教学者に許されるのは、各宗教がどのような来歴と性質を備えているのか、可能な限り客観的に説明することだけです。後は、個々人の良識と判断に委ねるより他にない。

 

思想的・宗教的問題についてどのように対処するか、社会の共通理解が確立されていないために、それへの対応が度を超えて過激になってしまうこともあります。カルト問題に関しては一時期、「洗脳」や「マインドコントロール」といった考え方が不用意に濫用され、精神的呪縛を解くためには、「脱洗脳」や「ディプログラミング」といった手続きが不可欠だと言われていたことがありました。そしてそのために、「カルト」に入ってしまった信者を拉致し、マンションの一室に長期間監禁するという事件が頻発していたのです。

 

 

――とても暴力的な方法ですね。

 

そうなると、中世の異端審問どころか、リンチ(私的制裁)と変わらなくなってしまいます。日本におけるこの種の事件については、米本和広『我らの不快な隣人──統一教会から「救出」されたある女性信者の悲劇』(情報センター出版局)や、室生忠『大学の宗教迫害』(日新報道)といった著作に詳しく論じられています。「カルト」対「反カルト」という狭隘な構図に組み込まれてしまう前に、宗教や思想に関してわれわれがどのような状況に置かれているのかについてもっと視野を広げ、全体を俯瞰しておく必要があると思うのですが・・・。現状を変えてゆくのは、なかなか難しいでしょうね。

 

 

グルイズムとは

 

――「麻原の意思に背けば殺される」という感覚が共有されていたというのは、恐ろしい話ですね。ご著書の『オウム真理教の精神史』を読むと、グルイズムについて考えさせられます。師弟関係など、日本にはグルイズム的なものがたくさんありますよね。

 

人生における大切なことを知ったり、人間として大きく成長したりするためには、心から尊敬できる「師」に出会い、直伝のような形で教えを受ける必要があるという考えは、よく聞かれますよね。今の日本社会では、そのような機会が失われていることが問題だ、と嘆く人もいます。しかし、安易にそう思い込むと、オウム事件も含め、「グルイズム」に潜む数々の落とし穴が見過ごされることになってしまう。

 

私は自分のことを、とても平凡な人間だと思っているのですが、幼少時に父を亡くして母子家庭で育ったせいか、「グルイズム」的な感覚に対して、人一倍鈍いところがあるようです。「師」に対する畏敬の感覚というのは、父親との関係がベースとなっているところがありますから。どんなに頑張ってもかなわない強くて大きい人間として父親がいて、その人に頼ることによって自分も成長できる、という感覚ですね。私には、そういう人間関係を学ばずにスキップしてしまったところがあるのかもしれません。

 

しかしそもそも、自分自身も含め、一人の人間が知っていることや経験していることなどわずかなものですし、その日の気分や体調次第で、明らかに間違ったことを発言してしまうこともあります。だから、たとえ相手が尊敬する先生であろうと、おかしいことにはおかしいと言うのが本当だろうと思います。学問や思想の世界では、特にそうあるべきではないでしょうか。

 

 

――宗教というのは「畏れ」の表れであるように思います。グルイズムも一種の「畏れ」の抱き方だとしたら、グルイズムは宗教の中で自然なものだと思うのですが。

 

グルイズム的な「師への敬意」の感覚は、私にはあまりピンと来ませんが、何らかのものに対する「畏敬」や「畏れ」の気持ちは、私の中にも存在しています。しかしそれは、何らかの種類の「学」や「理念」や「伝統」に対する畏れであり、一時的にそれを担っているにすぎない、生身の人間に対する畏れではありません。

 

宗教の歴史について考えてみると、古代の原始的な宗教では、部族の長や民族の王など、特定の生身の人間に対する崇拝が行われていました。彼らの存在そのものが神聖と見なされ、他の成員たちはみな、その意志や発言に服従しなければならない、という観念が強固に存在したわけです。

 

しかし、社会の仕組みが進展するにつれ、特定の個人に対する崇拝や従属は、徐々に影を潜めるようになっていきました。その理由は、身分差別に対する異議申し立てが行われた他、個人の判断には誤りや偏りが多いという弊害があったからでしょう。それに代えて、個々人を超越した人格や原理が重んじられるようになっていった。一神教的な超越神や、法治の原理などですね。

 

神聖性のオーラを帯びた特別な人間に身を委ねたい、生の指針を示してほしい、というのは、とてもプリミティブな感覚で、だからこそ根強く、なかなか消えないものなのでしょう。しかし、徐々にそこから脱却していったというのが、これまでの人類の歴史における進展のプロセスであり、いつまでもその感覚に拘泥し続けるというのは、文化的・精神的後退と見なさざるを得ないのではないかと思います。【次ページにつづく】

 

 

 

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