2016.05.13

グローバル人材とは誰か?――若者の海外経験の意味を問う

加藤恵津子 / 文化人類学 久木元真吾 / 比較社会学

社会 #グローバル人材#若者の海外経験

日本の若者は内向き?

「日本にはグローバル人材の育成が必要だ」と言われること、あるいは「日本の若者は内向き志向だから、グローバル人材の育成が必要だ」と言われることは、決して珍しいことではない。特に企業や経営者がそうした主張をし、それを受けて官庁がその育成を進めようとする動向は、しばしば報道されている。

しかし、そうした主張は本当に的を射たものなのだろうか。あるいは、そこで想定されている「内向き」や「グローバル人材」なる言葉の内容は、十分に検討されたものといえるのだろうか。

「内向き志向」と言われるとき、それは近年の若者の本質的な特徴であるかのように語られるが、実際にメディアの報道をみると、「内向き」と言われた後、それとは反対の動きもあるとする例も多々ある。例えば、「朝日新聞」は2012年1月29日付朝刊で「内向き、留学下降線」という記事を掲載しているが、同じ年の9月28日付朝刊では「脱・内向き? 留学増加の兆し」という記事を掲載していて、これだけをみると、本質的な特徴であるかのように語られた「内向き志向」が、1年もたたないうちに変わり始めたかのようであり、そもそも本当に本質的なことだったのか疑問を抱かせる。

また、1981年に始まったワーキング・ホリデー制度は、2008年までに30万人以上の若者を海外に送り出しているというが、例えばこの30万人以上の人たちの少なくない部分が日本に帰国しているのならば、日本には既に多くの「グローバル人材」がいるとはいえないのだろうか。その人たちを除いているのだとすれば、「グローバル人材」とは一体誰のことを指しているのか。

こう考えると、「内向き/外向き」論や「グローバル人材」論が、実はさまざまな暗黙の前提のうえにはじめて成り立っていることは明らかだろう。「グローバル人材が必要だ」という議論は、改めて検討することが必要なものなのである。

以上のような問題意識に基づいて、私たちは若者の海外経験についての共同研究をおこなった。まず、若者の海外経験をめぐるデータを集めるために、私たちは2つの調査を実施した。1つは、海外滞在経験が豊富な若者たちと、海外滞在経験がほとんどない若者たちのそれぞれに対して、海外経験の内容、仕事や人生に関する意識などをたずねるインターネット調査である。もう1つは、シドニー(オーストラリア)とバンクーバー(カナダ)にワーキング・ホリデー(以下、ワーホリと略記)や語学学習のために訪れた若者たちへのインタビュー調査である。

これらの調査結果の分析と、さらにメディアでの言説の分析なども加えながら、いまの日本社会で語られる「グローバル人材」の必要性や「海外経験」の重要性について再検討を加えた。以下、順に敷衍することにしよう。

日本での状況に規定される若者の海外経験――インターネット調査から

まず、久木元が担当した、海外滞在経験が豊富な若者たちと、海外滞在経験がほとんどない若者たちに対するインターネット調査とその分析である。具体的な調査の対象は、全国の25歳から39歳の未婚男女で、(1)「18歳以降に連続して1カ月以上の海外勤務経験(ワーホリやボランティアも含む)または留学経験がある人」1,236人と、(2)「18歳以降の通算の海外滞在日数が0日から5日の人」824人である。

18歳以降の海外滞在にしぼったのは、本人の意思で海外に滞在したかどうかに限定するためである。また(1)で「連続して1カ月以上」としたのは、短期間の旅行に複数回行ったというケースを除き、ある程度長期の滞在を経験した人にしぼるためである。

(1)への調査については、海外経験が豊富な若者たちが、その海外経験を通じて「主観的な成長実感」を得たのか、「仕事に関する前進実感」を得たのかに注目して分析した。海外経験を通じて「主観的な成長実感」を平均以上に得たが「仕事に関わる前進実感」は平均以下である人のあいだでは、「留学」は語学学校で、「仕事」はワーホリで、という人の割合が高い。

逆に、「主観的な成長実感」が平均以下で「仕事に関する前進実感」が平均以上という人のあいだでは、海外の大学で学んだ人や駐在員として滞在した人の割合が高い。両方が平均以上の人は、18歳以前も以降も海外滞在年数が長い傾向があり、いわゆる「グローバル人材」のイメージに近いかもしれないが、こうした人たちは長期の海外滞在経験者のなかでも限られた存在であることには留意すべきである。

大きくみて、駐在員や現地採用社員として働くことは「仕事に関する前進実感」につながりやすいが、ワーホリでは「主観的な成長実感」との関連がみられた。たとえ成長や前進の実感が何らかの形で強く得られているのだとしても、その実感はどのような形での海外滞在だったかによって規定されていて、それは結局、若者の海外経験も、もともとの日本社会の仕事やジェンダーをめぐる力学から自由ではないということを示している。

次に(2)への調査から、18歳以降の海外滞在経験がまったくない人たちについて分析してみると、海外に対する関心が全般的に希薄であることがわかった。ただ調査結果をみると、海外滞在経験がゼロの若者たちは、身近な知り合いに、海外経験が豊富な人(例えば、海外旅行に年1回以上行く人、海外に1年以上留学した経験がある人、海外で1年以上働いた経験がある人など)がいない傾向がみられた。

そもそも周囲にモデルたりうるような海外経験の持ち主がなく、そのため海外に関心をもつ機会自体に恵まれていない立場にあることがうかがえる。本質的に海外に無関心というよりも、海外への関心が展開するきっかけをもちにくい状況という環境的な背景があるなかで、結果的に(全員ではないにせよ)若者たちが「内向き」にみえる事態が生じている、というのが実情だと考えられる。

若者と海外経験の関係は、若者の意識だけで完結するものとみるべきではない。海外経験が豊富な若者たちも、海外経験が少ない若者たちも、ともに社会的な影響のなかにいるのであり、そのことを考慮したうえで、若者と海外経験の関わりを考えることが求められているといえるだろう。

「自分探し」と「グローバル人材」の〈格差〉――インタビュー調査から

もう1つの、加藤が担当したシドニーとバンクーバーでのインタビュー調査は、海外に出てくる日本の若者たちの人生で海外経験がどのような意味をもつのかを、フィールドワークに基づき考察するために実施された。調査地のシドニーとバンクーバーは、日本の若者たちにとって海外渡航形態であるワーホリと語学学習の行き先としてもっとも身近な都市である。インタビュイー数はシドニー50人(2011―14年)、バンクーバー127人(2001―14年)だが、後者のデータは、シドニーでの調査とほぼ重なる期間に聴取した30人のものになるべく絞っている。

シドニー、ハイドパーク(2014年2月22日)
シドニー、ハイドパーク(2014年2月22日)

インタビューを通じて探ったのは、30歳前後で人生に行き詰まりを感じ、「本当にやりたいこと」を自省した結果、「海外に住む・働く」「英語」に行き当たった若者たちにとって、渡航先の国々がどのような場なのかということである。観察されたのは、余暇と労働、若者と大人、一時滞在と永住という、一見対立的な概念の境界線が、若者たちのあいだで次第にあいまいになっていくこと、また海外滞在が長引くにつれて、「やりたいこと」「仕事」「自分」が三位一体化していくことである。

では、近年すっかり日常語となった「自分探し」と「グローバル人材」は、それぞれどのような歴史的・社会的背景から生まれた言い回し・概念なのだろうか。

主にメディアでの言説の分析を通して考察すると、「自分探し」は、バブル景気崩壊後の20年間にわたる不景気(若者にとっては「就職氷河期」)に浸透していった言い回しであり、今日も「~な自分になる」といった変型を通して広く流通している。そのかたわら、「グローバル人材」は、もともと一企業の人事制度を指す語だったところ、「若者の内向き志向」を主張する一調査をきっかけに、若者全般への批判・叱咤に使われるようになったことが指摘できる。

注目すべきは、一見すると若者全般に向けられている「自分探し」「グローバル人材」という語が、実際にはきわめて階層化・ジェンダー化した広まり方をしていることである。「自分探し」は、日本国内の労働市場で周辺化されやすい非特権層(と)女性たちに向けて呼びかけられやすく、彼(女)たちもそれを求めやすい。1980年代以来の「語学やワーホリといえば女性」という現象、および留学産業の女性化は、彼女たちが「自分探し」の場を海外に広げた結果といえる。

一方、2010年以来、産官学が唱える「グローバル人材」育成は、国家・男性・大企業中心主義的な、いわば特権層向けの言説であり呼びかけなのだが、これに応えられる人口は少ない。「自分探し」を目的として海外渡航する人々(「自分探し移民」)と、企業・政府が求める「グローバル人材」は、ジェンダー(と)階層によって分離されているのである。

ここまでの議論を踏まえ、はたして日本がグローバル化に向かっているのかを吟味しながら、若者と日本社会(特に企業文化)、教育は、それぞれどのように変わるべきかを考えてみたい。

ここで「自分探し移民」や「グローバル人材」に代わってキーワードとなるのが、「グローバル市民」である。過去30年来、日本社会は海外経験がある若者たちを十分に活用してこなかったが、彼/彼女らの多くは高い自己肯定感や自己推進力をもっている。そうであれば、(大)企業に雇われるか否かを問わず、またそもそも日本に戻ってくるか否かを問わず、彼/彼女らはいまいる場所で、そこをよりよい場所にするよう努める「市民」であればいい。それが結果として、日本とその外をつなぎ、日本社会にも益することになる。

ただし「市民」であるためには、日本語や日本文化が自明視する「我を張らない」態度ではなく、西欧言語的な、常に「われ」を主語とする態度が必要である。また日本社会も、多様なライフコース、キャリアの不連続を認め、若者が一生をかけて自己を育てられる土壌となるべきである。

「内向き」な「グローバル人材」というねじれ

以上の分析から浮かび上がるのは、「グローバル人材」という概念がきわめて「国内性」(国際性ではなく)をもつということである。どの若者にも「グローバル人材」になることが求められているかというと、必ずしもそうではない。高学歴層であったり大企業勤務であったりというような(しばしば男性である)若者たちが「グローバル人材」になることを期待される一方、特に高学歴ではない女性たちや男性たちが、人生の活路を求めてワーホリなどで海外に出て、その後帰国したとしても、それは典型的な「グローバル人材」とはみなされない。

結局、大学を卒業してすぐ企業に入社し、そのまま長期間にわたって勤務し続けるというキャリアのあり方が、日本社会でいまなお規範的なモデルとみなされていることが、若者の海外滞在への評価にも大きく影響している。実際に若者に課されているのは、「規範的なキャリアモデルに従いながら、それから逸脱しない程度に「外向き」であること」という、複雑な要求なのである。

若者の海外経験をめぐる議論は、結局のところ、従来の規範的なキャリアモデルが根強いために、多様な経験を積んで多様なキャリアを歩む若者たちの増加に対し、日本社会のさまざまな側面で対応が追いついていないことに由来している。シンプルに言うならば、問題は若者の側にあるのでもなければ、海外云々にあるのでもなく、日本社会の側にあるのである。

一人ひとりの海外経験の有無や程度は「外向き」や「内向き」といった志向に還元しきれるものではなく、それぞれが置かれた社会的な状況の帰結として成立している。だからこそ、長期の海外滞在経験など、規範的なモデルにとどまらない多様なキャリアのあり方を、否定的にとらえずにフェアに位置づけていくことが、日本社会に求められているのではないだろうか。それは同時に、日本社会が、若者を「グローバル人材」ではなく「グローバル市民」として育む場になっていくことにもつながるだろう。

プロフィール

加藤恵津子文化人類学

1965年、埼玉県生まれ。国際基督教大学教授。専攻は文化人類学。著書に『「自分探し」の移民たち』(彩流社)、『〈お茶〉はなぜ女のものになったか』(紀伊國屋書店)、The Tea Ceremony and Women’s Empowerment in Modern Japan(RoutledgeCurzon)など。

この執筆者の記事

久木元真吾比較社会学

1970年、神奈川県生まれ。公益財団法人家計経済研究所次席研究員。専攻は比較社会学。共著に『大学生のためのキャリアデザイン入門』(有斐閣)、『いのちとライフコースの社会学』(弘文堂)、論文に「不安の中の若者と仕事」(「日本労働研究雑誌」第53巻第7号)など。

この執筆者の記事