2016.07.11
現代「保守」言説における救済の物語
2016年の「保守」運動への注目
2016年に入り、「保守」にこれまでにない注目が集まっている。中心となっているのは、現政権に近く「最大の保守団体」とされる日本会議。火付け役となったのは、菅野完氏のウェブ連載「草の根保守の蠢動」(HARBOR BUSSINESS ONLINE)だ。この連載は現在、新書化(『日本会議の研究』扶桑社新書、2016)され、品切れが相次ぐ話題作となっている。
菅野氏の連載によって、運動体としての日本会議の特徴や、宗教界との関係、その来歴――特に、「生長の家」創設者・谷口雅春の国家観を受け継ぐ一派によって主導されていることなど――が広く知られるところとなった。3月には朝日新聞が、日本会議のこのような背景について3回にわたって特集を組む(「日本会議研究 憲法編 上・中・下」2016年3月23日-25日付)など、政権をとりまく「保守」団体への注目が、日増しに高まっている。
日本会議への注目のほかにも、ここ数年「保守」をかかげる団体や運動についての研究書が何点か刊行されている。地方自治体レベルで活動する「保守」運動の担い手たちを描いた山口智美・斉藤正美・荻上チキ『社会運動のとまどい:フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動』(勁草書房、2012)、塚田穂高『宗教と社会の転轍点 保守合同と政教一致の宗教社会学』(花伝社、2015)などだ。いずれも豊富な取材やデータに基づいており、21世紀に「保守」を掲げる団体の実情について多くのことを教えてくれる。
現代「保守」言論を論じることの難しさ
しかし、これらの著作が教えてくれることをもとに、読者らがいざ現代「保守」運動について考えてみよう、論じてみようと思っても、特有のやりにくさを感じるのではないだろうか。その原因として、現代「保守」言論が主張する内容が「改憲」「安全保障」「学校教育」「家族観」など多領域にわたる上、主張それぞれがどうつながっているのか、どこを目指して論じられているのか、なじみのない者にはわかりづらいということがある。
例として、2014年2月26日に行われた参議院憲法審査会において、赤池誠章自民党副幹事長(当時)が行った、以下の発言をみてみよう。
BLOGOS編集部「「憲法自体が“憲法違反の存在”」自民党副幹事長・赤池誠章議員による憲法審査会冒頭発言書き起こし」
上の記事で赤池議員は、「自主憲法」を今こそ実現する意義と理由を3点あげている。1点目はいわゆる「押し付け憲法論」である。現行憲法は戦後に連合国総司令部(GHQ)から押し付けられたものであるため、日本国民の自由意思に基づく新しい憲法が必要だとする。2点目は現行憲法の内容に関するもので、まず9条の「戦争放棄」は「アメリカが日本人の無力化を狙って定めたもの」とみなされる。また、伝統ある日本国家は「人工国家」アメリカと違い、「社会契約説」という「フィクション」に基づく憲法はなじまないと、社会科学のスタンダードが根本から拒否される。
さらに唐突(と少なくとも筆者には感じられる)に、「第24条の家族生活における個人の尊重や、両性の平等、27条の勤労の権利及び義務」は「旧ソ連の1936年スターリン憲法に影響」されていると主張され、これが「社会主義者や共産主義者が護憲になる理由」だとされる。3点目として、東アジア近隣諸国とのあいだの緊張関係が強調され、国民が現行憲法下では「自分の家族、地域や国家を守ることができないのではないか」と懸念しているとする。
同記事のコメント欄に表れているように、この種の言説に初めて触れた人は、まずうろたえる。特殊な戦後史認識のもとでの「現行憲法」の見方、「社会契約説」と「伝統」を二者択一にする思考法、現行憲法と「共産主義」を結びつける考え方などは、通常の社会科学教育を受け入れてきた人間であれば、どこをどうして、何を根拠にするとそんな発想にいたるのか、筋道がみえないのだ。そこで発言者の「無知」「不勉強」を嘆き、ともすれば見下したりしがちになる。
しかし上の発言で注目すべきは、議員個人の無知や不勉強ではない。これは現代「保守」言論の、特殊な語りの枠組から生み出されたものである。議員はこの枠組にしたがって「現実」を学び、解釈し、(おそらく)真摯に現実にはたらきかけようとしているのだ。
この語りの枠組は物語のかたちをしており、国防や歴史認識から、教育、宗教、人間関係のあり方にいたるまで、多様な領域の出来事をつなげ、秩序立てて理解しやすくしてくれる。物語の断片は、たとえば日本会議の機関誌『日本の息吹』などをはじめ、「保守」言論人が登場するメディアをひもとけば、どこにでも見られる。これを仲間うちで共有し、おたがいの語りのなかで繰り返し、確認し合ううちに、物語の「現実」理解の枠組としての強度は増していく。一方で彼らにとっての「現実」が確かなものになればなるほど、それを共有しない者は、議論しあうことが難しくなる。
現代「保守」言論における救済の物語
現代「保守」言論において「現実」理解の枠組となっている物語とはどのようなものか。これについて筆者は、2013年4月から2015年3月までの『日本の息吹』の記事をデータベース化し、各所にみられる物語の断片を拾い集め、再構成するという作業を試みた(詳細は、岡本智周・丹治恭子編『共生の社会学』太郎次郎社エディタス、2016の第一章「保守言論における「日本」と「危機」――カテゴリの更新を拒む言説とその限界」を参照されたい)。その結果表れたのは、現在をユートピアの喪失による危機とみなし、その解決(救済)の道を示唆するストーリーである。以下、4つの要素にわけて書き出してみよう。
【要素1】時間・空間的に一貫した国家「日本」とその伝統
大前提として、第二次世界大戦前の「日本」は、時間的にも空間的にも、一貫した伝統と枠組を持つものであったとされる。その固有の伝統の基盤となっているのは神道であり、それは宗教というより共有されたメンタリティや哲学である。また、日本の伝統の中にある日本人は、「勤勉」「謙譲」「和を尊ぶ(=個よりも集団を優先する)」といった固有の性質を持っており、それはとても美しいものである。
また、伝統的日本は家族の絆をとても重視しており、家族の和合は成員がそれぞれの役割を果たすことによってなされる。家族の調和は、集団のなかでの役割を果たすことを尊ぶ円満な人格をつくることにもなる。それが社会秩序の土台となり、美しい「国柄」の基となる。
【要素2】戦後の占領による「ユートピア・伝統日本」の喪失
しかしそのような調和の世界は、第二次世界大戦後の占領政策によって失われた。特に、冷戦後の世界情勢のなかでGHQは日本を弱体化させる必要があり、戦前・戦中の日本を悪しきものと決めつけ、日本の強みであった伝統的心性を否定するような政策を行った。さらに、集団の和を尊ぶ日本人の美徳を否定し、個人の権利だけを重視するような(これは「近代合理主義的」とも「共産主義的」とも形容される)価値観に基づく憲法=現行憲法を押しつけたとする。
この新憲法的な価値観は、「民主化」の名のもとに、戦後の日本人の精神に強く植えつけられている。現在、マスメディアやそこに登場する「知識人」の多くは、この価値観に「洗脳」されているため、または日本を破壊する悪しき目的のために、この「戦後民主主義」「戦後レジーム」を礼賛する傾向がある。そのことに気付いているのは、「健全な常識」を維持する少数の人間だけである。
【要素3】現在の危機
新憲法に体現された戦後民主主義の精神と、戦前・戦中の日本を悪しきものと決めつける「自虐史観」は、学校教育(共産主義に影響された日教組が大きな影響力を持つ、としばしば言われる)を通じて、現代日本人の精神に浸透している。その結果、現代の日本人は個々人の権利を主張するばかりで、日本の伝統の中にあった、集団内での役割や義務を勤勉に果たすという美徳を失ってしまった。
国を愛する心に裏づけられた誇りやアイデンティティを失い、行動基準や「公」への動機づけがなくなったことで、社会秩序も崩壊しつつある。これが、近年の日本の経済的な地位の凋落や家族の崩壊を招いている。家族や国家より個人を優先し、国を守る気概を失った若者ばかりでは、少子化や東アジア近隣諸国との領土問題などにも対応できない。
【要素4】問題解決(救済)へのプログラム
このため、喫緊の課題は現行憲法を「伝統」「日本の国柄」にあったものに戻すことと、「本来」の(彼らの考える)よき日本の「伝統」を、学校教育によって普及させることである。しかし「正常」「健全」な感覚を持つ人びとは少数派で、多くの人びとはまだ戦後レジームの価値観の中にいるので、主要マスメディアに対する断固たる働きかけや宣伝によって、世論を変えるべく努力していくことが重要である。
解釈の枠組としての救済の物語
このような物語は、「保守」言説を生み出す人々に明確なかたちで認識されている――たとえば宗教団体の「教義」のように、言語化されたり公式化されたり――わけではないだろう。また、「保守」を掲げる人々が、このすべての要素をあまさず共有しているというわけでもない。これは物語のかたちをしてはいるが、それ自体が読まれたり書かれたりするものというより、さまざまな出来事を意味づけ、秩序立てて理解させてくれる、「解釈のための枠組」として機能するものなのである。
たとえば近年クローズアップされる未婚化・少子化は、上の物語の枠組にしたがって、「行き過ぎた個人化(ここでは、家族役割より個人の願望を優先する傾向)」の帰結と意味づけられる。さらにそれは「戦後教育」、とくに家庭科教育が影響を与えた結果であり、問題の根源は憲法24条なので、やはり改憲が必要だ、と結論づけられる。あるいは、今年2月に話題になった「保育園落ちた日本死ね!!!」の匿名ブログについて、一部の「保守」論者がとっさに「わがまま」「左翼のやらせでは」と発想したのも、上の枠組のなかでそれを読み、位置づけた結果だろう。
上の物語は、2つの独特な人間観・社会観によって特徴づけられる。1つは、小さな単位が大きな単位に対して義務や役割を果たすことが美徳とされ、重視されることだ。個人は家族や地域、国家に対して、地域は国家に対して、「エゴ」を持ち出さずに奉仕することが重んじられる。それに対し、大きい単位は小さい単位に恩顧を与えて応える。人間関係や社会関係は一般に、こうした垂直的なものと想定されている。
たとえば沖縄の基地問題では、国の安全保障のために沖縄(小さな単位)は、必要な役割を果たしたうえで国(大きな単位)から恩顧(経済的な)を受け取るのが筋とされる。反対運動は悪しき地域エゴの表れか、「まっとうな日本人」ではない左翼の策動であるとみなされる。
この考え方を逆にすると、「上位の単位は、恩顧を与えなければ下位の単位をつなぎとめることができない」という切迫感にもなる。たとえば非嫡出子の相続差別が最高裁で違憲とされた際(2013年9月)には、「国が嫡出子に家産の相続という恩顧を保証しなければ、嫡出子は親の介護などの役割を果たさなくなるのではないか」と懸念が示された。
また、靖国神社の位置づけに「保守」言論人が強くこだわることも、(歴史的経緯を踏まえることは当然として)上の物語のなかから見ると理解しやすくなる。かけがえのない自分の命を国にささげた個人に対して、国を挙げて敬意を表すという最上級の恩顧を与えなければ、私心を捨てた国への奉仕などだれもしなくなってしまうではないか、ということだ(そしてもちろん、「欧米流の政教分離や信教の自由の規定」でそれを阻む現行憲法を改正しなくては――ということになる)。
現代「保守」の救済の物語における、もう1つの特徴は、「不信感」に貫かれた社会観・人間観である。同意する者を「目覚めている少数派」とする一方で、異なる意見・立場の人々と討議して、よりよい「現実」認識や結論の出し方を探していくという考え方はほとんど見られない。意見の異なる他者とのやり取りは、「攻撃」と「守り」、「洗脳」と「対抗宣伝」というかたちでとらえられる。
上の【要素2】にあるように、社会科学者への不信感はとくに根強い。それらは欧米から持ち込まれたもので、しばしば「リベラル」に過ぎて日本の「国柄」にあわないばかりか、悪くすると「共産主義」のプロパガンダを意図的に垂れ流し、日本のよき「伝統」を打ち壊すものとされる。この点は2015年の安保関連法案に関する議論の際、憲法学者への不信というかたちで表れた。
ただし興味深いのは、彼ら「保守」言論人自身が、「何が現実かは政治的な諸力により決定するものだ」という、社会科学における比較的新しい見方(それこそマルクス理論に深く影響を受けた見方であるが)を取り込んでいることだ。そのため「保守」言説内では、リベラルに「洗脳」され「偏向」したメディアを「正常」に戻すため、さまざまな方向から圧力をかけていこうという呼びかけが、非常に無邪気になされる。この「攻撃」と「対抗宣伝」の発想は、近年話題となっている政治家のメディアへの「圧力」発言や、歴史認識をめぐる国外知識人などへの宣伝活動、学校教育への強いコミットメントへとつながっているとみることができよう。
救済へのプログラム
「圧力」へのこうした無邪気な態度は、上の物語が単に「何を現実とするか」を指定するだけではなく、救済へのプログラムを含んでいることと関係しているだろう。要するに上の物語のもっとも重要な点は、それが「現在は何かが失われた、危機的な社会である」という人々の生活実感にわかりやすい説明を与えるばかりでなく、それを打開するための善き行動についての指針さえも示してくれていることだ。
理想的に描かれた「失われた伝統的日本」は、このプログラムの最初の前提でもあり、向かうべき最終目標でもある。物語が示す「現実」が、より事実を反映しているかどうか、提示された道筋はそれで正しいのかということは、物語のなかではすでに決着がついていることで、検討の対象にはならない。
『日本会議の研究』の菅野完氏は以下のサイトで、日本会議を構成するさまざまな団体をつなぐ横糸を「「左翼が嫌い」というメンタリティ」だとしている。
DIAMOND online「安倍政権を支える右翼組織「日本会議」の行動原理 「日本会議の研究」著者・菅野完氏インタビュー(上) 2頁」
個々の主張を並べてみると、たしかにその共通点は「反左翼」ということでまとめられる。しかし運動として多数の人を動かすには、それが正しいものであり、やる価値があることを、説得力を持って示す必要があるだろう。さまざまな主張が救済へつながる物語のなかで有機的につながり、理解されていることは、日本会議周辺が長い時間をかけて、着実な動員をすることができた理由の一つに数えられないだろうか。
ただしこの物語は、なされるべきことをあらかじめ決定しており、それに同調しない者に対しては排他的な性質を持っている。この物語が力を増すほど、強固であればあるほど、それを共有できないものとの溝は深く、議論は難しくなるということは言うまでもない。
宗教との関係は?
最後に、近年「保守」言説や団体を論じる上でよく話題になる点、宗教との関係について触れておこう。
ここまで読んでお気づきの方も多いかと思うが、実は本稿は、「保守」言論を読むための手がかり――あるコミュニティに共有される「意味解釈の枠組」というアイデア、救済へのプログラムと具体的な行動指針への着目など――を、社会学や人類学における宗教研究から借りてきている。たしかに現代「保守」言説の特徴を考えるときに、これら宗教に関する一般的な記述は参考になる。そして実際、現代の「保守」言説の発信元には、日本会議の加盟諸団体を始め、少なからぬ宗教団体が関係している。
だからといって、多くの論者が注意を促しているように、たとえば日本会議を「宗教だ」と名指しする必要はないし、「保守」団体がすべからく特定の宗教の教義を反映していると考える必要もまったくない。出来事を意味づけ解釈する枠組は、だれしもが持っているものだし、そうした枠組をもとに社会を語ったり、善き行動へと動機づけられたりするのは、だれでも日々普通にやっていることだ。現に、上にあげた救済の物語は、(菅野氏の言葉でいえば)宗教とは関係ない「地方にいる愛国おじさん・おばさん」に、強調点の違いや濃淡はあれ、広く受け入れられている。ただ日本会議については、この共有された物語を政治運動に戦略的に落としこみ、幅広い層を巻き込んでいく能力が、とくに優れていると指摘されるのである。
他方で、宗教団体と現代「保守」言説の関係について、指摘しておきたいこともある。それは、現代日本社会でもっとも「喪失」や「危機」の感覚を持ち、上の物語に大きな説得力を感じるのはだれか、という問いと関連する。
現在、「喪失」や「危機」の感覚を肌身で実感し、もっとも上の「物語」を実感をもって受け止めるのは、前期近代日本の社会で生活の基盤をかたちづくってきた人々――高度経済成長下での働き方や報酬の取り方、性別役割分業による家族のあり方などを当たり前のものとしてきた人々――ではないだろうか。そして「保守」活動をする宗教団体の多くは、前期近代の社会のなかで自らを有り様を作り上げてきたものである。このことと、「保守」言論に宗教団体の存在感の大きいこと、あるいは活動の仕方や主張の特徴との関連を考えてみるのは、うがちすぎだろうか。
プロフィール
平野直子
早稲田大学非常勤講師。専門は宗教社会学。主な著作に、「拡散・遍在化する宗教――大衆文化のなかのスピリチュアル――」高橋典史ほか編『宗教と社会のフロンティア』勁草書房、2012年、91-108など。現代「保守」言説について、「保守言論における「日本」と「危機」――カテゴリの更新を拒む言説とその限界」、岡本智周・丹治恭子編『共生の社会学』太郎次郎社エディタス、2016年、16-39。