「比較しろ」って簡単に言いますけどね――質的調査VS量的調査

量的調査と人間の判断

 

 量的調査の教科書でもっと取り上げて欲しいことがあるんです。アンケートを取って、生の声から数値に変えていく際に、調査者の判断が入ってくるじゃないですか。よく、質的調査は、インタビューで相手から話を聞き出して名人芸ですね、みたいに言われるんですが、量的調査にもそういった調査票をどう判断するのか、という名人芸なところがあると思うんです。

 

筒井 その部分は教科書に書きにくいんですよ。言葉にできない微妙な作業が無数にあるので。

 

 ぼくが以前アンケートを取った時に、こんなことがありました。屋台のたこやき屋さんなんですが、雇用状態を訪ねる質問で、「正社員」のところに○をしていたんです。たぶん、「一人前の社会人」のような意味で、正社員と答えたんじゃないかと思います。でも、どう考えても「自営業」なので、それを書き換えました。

 

質的調査は主観的で、量的調査は客観的と言われますが、量的調査にも人の判断が入ります。学生が、最初に量的調査をやるときに、そういうのってまったく分からないんですよ。処理の方法は書いていても、その前の話がどこにも書いていません。(この話は後に「量的調査のブラックボックス」という論文になり、『社会と調査』2015年第15号に掲載された)

 

筒井 そういう微妙な作業はいつもやっているんだけど、教える立場からすれば、ついつい「体で覚えてください」と言ってしまうところです。確かにその微妙な作業の内容を教科書に書いたら面白いのかもしれんけど、なんだかんだで実際に何回か調査をやったら出来るようになる作業なんですよ。

 

「たこやき屋」のおじさんの職業を「正社員」から「自営業」に書き換えると。多変量解析と違って、そういうのは日常的な常識の範囲内で作業できるやろう、と思ってしまうんです。

 

 それを、どうやって判断しているかって、すごく面白いじゃないですか。

 

筒井 うーん、そうかなぁ。

 

 

問いの立て方

 

 やっぱりアレですね、私たちは、問いの立て方が違うと思うんですよね。量的な問いの立て方って「○○な人ほど、××だ」ってことですよね。

 

筒井 そうそう。それと、昔と比べてどうなっているのか、変化も研究します。

 

一方で、経済学者って性別や学歴、年齢にあまり興味がないんですよね。たとえば、子ども手当をつくったらどうなったかなど、政策で介入して結果どうなったかに興味がある。集団としての異質性・多様性にはさほど興味がない。社会学者はむしろ、集団ごとの人々の傾向の違いに関心を持つことが多いです。

 

 人がそれぞれのグループに分かれているというイメージなんですね。例えば、学生の卒論を指導するときに、アンケート調査なのに「居場所とはなにか」みたいな問いを立ててくる子がいるんですよ。

 

筒井 ああ、それは量的には決着がつかない問いの形式ですね。

 

 アンケートをとっても無理だから、「○○な人ほど××だ」という疑問に変更しろ、と指導しています。たとえば、「友達の多い人ほど居場所感がある」。それだったら、友達が多いのか少ないのかをどうやって数字にするのか、携帯のメモリが何件入っているのか、とかいろんな方法がありますよね。

 

筒井 研究自体は量的な研究ですよね。でも、量的な調査を行う前提作業として、質的な作業が必要になる。たとえば「居場所を求めるのはどういう集団か」であれば量的に決着がつく問いです。

 

しかし「居場所とは」「友達とは」といったことについての理解は違う。なので、調査者が勝手に「居場所」の内容を想定してしまうと、実際に人々が思い描いている「居場所」とはずれてきてしまって、そうなるといくら厳密に量的調査をやっても的はずれな、妥当性のないデータしか得られなくなる。なので、概念をきちんと理解して質問文や選択肢を作りこむために、質的なインタビューデータを活用するという手順はよくあります。

 

ただ、それは「量的研究に組み込まれた質的研究」ですよね。さっきから言ってる「質と量のよくある関係」。そうではなくて、これはかねてから関心があったんですが、「量的研究で決着つかない問いの立て方」が質的研究にあるとしたら、それは何なんでしょうか。量的研究の準備やその結果の解釈としての質的研究ではなくて、量的研究ではそもそも答えが得られないような質的研究の問い、ということです。

 

 中範囲の社会問題に(非政治的な意味で)「コミット」することですよ。

 

筒井 うーん。それだけ聞いちゃうと、それは量的でもできるように聞こえちゃいます。もう一声お願いします。

 

 「○○な人ほど××かどうか」ではないですね。「Xとは何か」あるいは、「Xであるのはなぜか」という、対象そのものについての問いが多いです。

 

たとえば、量的調査だと、1000人くらいAV女優を集めて、アンケートを取るとする。「どうして仕事を続けているんですか」という問いにたして、答えが「お金の為に」「やりがいがあるから」みたいなカテゴリーでしか聞けないわけです。

 

『AV女優の社会学』(青土社)という質的調査の本がありますよね。そこでは、AV女優に参与観察をしていて、彼女たちが仕事を続けていく理由が細かに書かれています。

 

年齢が行ったAV女優が、人気がなくなってもらえるお金も減っているのに続けている。何が楽しくてやっているのか。いろいろあるけど、例えば、仕事に慣れてスタッフと仲良くなって、仕事に居場所ができてきてやっている面があるんだよ、と、そういう理解の仕方をするんですね。それは、量的ではたぶん無理ですよね。

 

筒井 無理というよりは、熟練した量的研究者だったら、自分たちでそれを知ろうと思わないんです。それは、質的の方に任せる。量的研究者ならば、たぶん次のように問いを立てる。「今までは特定の職業は学歴の低い人がやっていると思われがちだったが、量的なデータを取ってみると、そんなことないのではないか」とか、「実は今と昔で違うのではないか」みたいな問いです。それは、量的調査じゃないと絶対把握できないですよね。

 

ついでにいえば、世間の思い込みと事実が異なると分かった時には、なぜそういった傾向が現れるのかを「解釈」します。そして解釈自体は検証されていないので、あらたな仮説になります。

 

話を戻すと、たとえば仮に自殺した人に質問できたとして、自殺の理由について「経済的な理由だった」とか「さびしくて」とか返ってくるかもしれない。でも、そういった「聞かれたら自分でそう答える」ような主観的な理由とは離れて、性別、年齢、世代、学歴、そして職業が自殺行動に影響していることがあると思います。それはアンケート調査じゃないと分からないですよね。自殺率はたいていの国で男性の方が高いですが、かといって自殺の理由を個々の人間から聞き取っても「男だから」とは答えないでしょうから。

 

 問いを限定しているんですね。

 

筒井 限定……というよりは、我々はそっちの方が大事だと思っているんで。それこそ、客観主義と主観主義の話だと思うんですよ。

 

いくら人に深く聞いても分からないことってあると思うんです。人間は自分が思っているより、その考え方や行動が、性別、年齢、職業といった要因、量的調査だと基本属性っていいますが、そういった社会的要因に影響されているかもしれない。そんな傾向が実際にあるのかどうかは、量的調査でないとわかりません。

 

 なるほど、「解釈」の意味が違うのかもしれませんね。(私たちは)特定のことを深く理解することが解釈だという認識でしょうね。

 

 

「比較しろ」というけれど

 

 あと、量的の人って、やたらと「比較しろ」って言いますよね。ぼくの連れ合いの齋藤直子は被差別部落の研究をしているんですが、学会で発表した時に「在日と比較しろ」といわれたそうなんです。

 

筒井 ああ、確かに「比較しろ」と言いたい気持ちは分かりますね。

 

 そんな、部落と在日とを比較しろなんて、それ自体が「マイノリティといえば」っていう安易なステレオタイプですし、簡単に比較できるわけがない。全然違うものを恣意的に並べているだけになっているんです。

 

筒井 その問いには意味がないということですね。ですが、不自然な問いではないと思いますよ。ものすごく簡単な理屈なんですが、Aとはそもそも何か、という時に、Bと比較することで、Aと違っていることが分かるのは、日常的な感覚だと思うんです。

 

 全然そんなことないですよ。たとえば、焼き肉が食べたいときに、バナナと比較しませんよね。

 

筒井 そんなことぼくもしませんよ(笑)。

 

 それぐらい、違うものを比較しているような気がするんですよ。

 

筒井 たとえば、差別A、差別Bがあった時に、なぜそれが焼肉とバナナくらい違うのか、ということについては、その説明責任はそちらにあると思いますよ。

 

 安易すぎるという感覚があるんです。部落の話題を出しているのに、在日を比較しろっていうなんて、それ自体が暴力とすらいえる。そんなことも分からないなんて、説明するのも徒労に思えてしまいます。

 

筒井 でも、そういった問いが実際に多いんだとしたら、ぜひこっちにも分かるように説明して欲しいわけです。レベルの高い質的研究に対して安易に「比較したらどうか」といった質問をぶつけるのはムダであるというのはわかるとしても、もしかしたら質的研究をはじめたばかりの人にとってみたら、比較したらどうなるのか、というのは意味のある質問かもしれませんよね。

 

ぼくの指導している院生が、中国からの結婚移民の研究をしているんです。まずは、歴史記述からやると、ある程度量がたまってきたら、中国からの結婚移民がどういう理由で移民してくるのかインタビューをしていく。昔は金銭的な問題だったけど、今は日本人の文化的なものに惹かれているんじゃないか、というふうに持っていきたいようです。

 

そこで、ぼくは、「中国からの結婚移民を調べたら、東南アジアからの結婚移民を調べて、比べたらどうか」というアドバイスをします。これって、よくあることだと思うのですが。

 

 いやぁ、どうでしょう。中国からの花嫁と、東南アジアの花嫁を比べる準拠点がないじゃないですか。

 

筒井 海外からの花嫁というのを根拠にしています。

 

 うーん、なんでわからないんやろ。

 

筒井 そこが、「壁」なんでしょうね。たぶん、ぼくたち量的調査の人は単純に物事を考えているのかもしれませんが。

 

 比較しろって言うけれど、それは、ベッドのシーツの片方がずれることに似ていると思うんです。三つの隅っこを合わせてみても、残りのひとつは絶対ずれてしまうようなかんじでしょうか。

 

筒井 うーん。あんまり良い例えじゃないような(笑)。

 

 ライフヒストリーをやっていると、比較することの重要性をあまり感じないんですよ。人生って生きなおせないでしょう。

 

筒井 そりゃそうやね。

 

 ライフヒストリーじゃなくても、沖縄の本土就職について、違う要因を抜いてもう一度やり直してください、なんてできないですよね。

 

筒井 でも、やり直せないから比較するのでは。

 

 特に質的調査をはじめたばかりの人は、比較しない方がいいとぼくは思います。まずは、フィールドに入り込んで、その問題を徹底的に調査した方がいいです。2か所同時にフィールドワークするなんて簡単にできないですよ。一箇所入るのに何十年かかります。ちょっと、人間の能力を超えている。

 

ぼくは、沖縄の集団就職について調査をして、それだけで10年かかりました。でも、その発表をすると、「集団就職は沖縄だけの話じゃないから東北も調べてみたら」というアドバイスが来ます。

 

筒井 怒られるかもしれませんが、そう聞きたくなってしまいます(笑)。

 

 質的調査をやろうとすると、どうしても数に限界があります。そこから解釈していかないといけませんから、いろいろ総動員するんです。沖縄の本(『同化と他者化──戦後沖縄の本土就職者たち』ナカニシヤ出版、2013年)では、生活史が中心ではあるんですが、その他にありとあらゆる沖縄の本土就職のデータを載せて、間接的な証拠を集めることをやったんですよ。そこからなんか絞り出していくんですね。乱暴な言い方をすれば、ちょっとあやふやなところから手探りでやっていっている。

 

そこから、比較するために違う領域まで手を出そうとすると、どうなるか。そもそも、比べるものを何にするのかも難しい。ものすごくあやふやなものに、さらにあやふやな比較対象をかけ合わせて、あやふやが二乗されているような感覚があるんです。

 

ぼくたちは現場でいつも、「お前には何がわかるねん」と言われ続けているんです。10年、20年かけて、やっと歴史的背景も知れて、関係性もできてきて、話をしてくれるようになった。それなのに、急に「他と比較したら」って言われると、それは違うだろうと、なりますよね。

 

筒井 なるほど、仰りたいことがわかってきました。だんだん納得してきました。

 

 あと、中国人の結婚移民を知るために、東南アジアの移民を使う、っていう発想そのものが失礼な感じしますしね。

 

筒井 じゃあたとえば、うちの院生がこれから長く研究を続けていくとして、安易に比較する方法を取っていたら、もしかしたら、どちらも分からない、となってしまう可能性があるということなんですね。

 

 一つのことを極めた方がいいですね。

 

筒井 そう言われると、我々は「ざっくりでいいじゃん」って思っちゃうんですよね。

 

 ぼくらは、量的な人に答えを出してほしいんです。そのためには、比較しないといけないのもよく分かります。それは、やってほしい。でも、比較するのはぼくたちの仕事ではないと思います。むしろ、いつも思うのですが、よい質的調査は、ある対象の「内部の多様性」を描いていますね。恣意的に集団Aと集団Bを比較するのではなくて、集団Aに徹底的に入り込んで、その中での様々な多様性や流動性、亀裂や葛藤を描きます。そのほうが生産的だと思います。

 

 

やっぱり、教科書をだそう

 

 しかしいずれにせよ、質的調査と量的調査は分断されてますね……。もっと量的の人にも材料として使って欲しい、素晴らしい質的調査っていっぱいあるんですよ。

 

筒井 それは、不幸な分断ですよね。良い研究があってもどれが良い研究か分からない。一方で、ぼくたちにも、沢山の蓄積があるんです。それは、質的の人にどんどん使ってもらいたいと思います。でも、なかなか伝わらない。もったいないと思いますね。

 

まぁ、ある程度は仕方ないのかもしれませんね。質的調査の人が複数のフィールドに同時に入りにくいとすれば、たくさんの量的手法を習得しつつ、質的にも立派な調査をするってのはなかなかできません。人間には限界がありますから。

 

 だから、ぜひ量的の人にはどんどん教科書を出してほしいと思うんです。

 

筒井 そうですね。必要ですね。

 

 あと、やっぱり、質的調査って、何の役に立つのかって問われていると思うんですよ。ぼくは昔、「黒木のなんでも掲示板」(東北大学の黒木玄氏が90年代〜00年代に運営していた、多方面の研究者や知識人が集まって議論をしていた伝説的な掲示板)で活動していた時期があったんですが、そこで経済学や理系の人たちから「社会学って何してるの?」ってよく言われたんです。

 

筒井 ああ、それ見てました。ぼくは書き込みませんでしたが。

 

 そこで、他のディシプリンのひとからみて、社会学は何の役に立つのか、すごく考えるようになりました。ですから、フィールドワークをちゃんととまっとうな実証的な科学として、社会問題を蓄積していく学問にしていきたいんですね。

 

ちょうどぼくもいま教科書を書いているのですが、ちゃんと素人でも実行可能で、なおかつ他の分野のひとにも理解してもらえるような教科書を描きたいと思ってます。質的調査って魔法使いのようなイメージがあると思うんですよ。フィールドに入り込んで、インタビューではまるで手品のように相手の話を聞き出してくる。でもそれじゃもうやっていけない。

 

筒井 そのイメージは変わっていないですよ。10年つづけてフィールドに入ってやっと心を開いてくれる、とさっきおっしゃっていて。やっぱりそういう世界なんや、って。

 

 統計だって訓練を積むでしょう。

 

筒井 まぁ、5年はやんなきゃ外に出しちゃダメ、と言われることもありあますが。

 

 一緒なんですよ。当事者に寄り添ってとか、主観に入り込んでみたいな話ではないんですよね。

 

だから、教科書を書いて、質的調査を世俗化して使いやすくしたい。いい調査は結論もしっかりしていますから。難しい話ではないと思います。(この教科書は岸政彦・石岡丈昇・丸山里美『質的社会調査の方法──他者の合理性の理解社会学』として、有斐閣から2016年に出版された)

 

 

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宇宙人との対話

 

筒井 思いのほか質的と量的の分断を強調してしまいましたが、ぼくは質的調査で中に入り込んでやることの価値は分かっているつもりですし、そこからしか得られないものもあると思っています。これは、言っておかないと。

 

 ぼくも、量的調査によって、思い込みがバーンとひっくり返されるのは快感です。

 

筒井 やっぱり、質的調査をやっている人と、量的調査をやっている人は日頃話しませんからね。別の世界でやっている感じします。お互いそれが標準だと思っていますからね。お互いが宇宙人なんですよね。

 

 (手のひらで喉を小刻みにチョップしながら)「我々ハ、宇宙人ダ」ってことですね。筒井さんもぼくもこれから教科書を書きますが、その分断を少しでも埋めるのに役立てばいいですね。我々の次回作に期待、ということで今日はありがとうございました。

 

(2014年10月17日、大阪・中崎町「ラテンバー・ソンリサ」にて)

 

 

質的社会調査の方法 -- 他者の合理性の理解社会学 (有斐閣ストゥディア)

著者/訳者:岸 政彦 石岡 丈昇 丸山 里美

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ISBN-10 : 4641150370

ISBN-13 : 9784641150379


 

計量社会学入門―社会をデータでよむ

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ISBN-10 : 4790716716

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