2017.03.03

「比較しろ」って簡単に言いますけどね――質的調査VS量的調査

岸政彦×筒井淳也

社会 #質的調査#量的調査

社会学の中でも質的調査と量的調査の間には壁がある!? 生活史を中心とした質的調査を行っている岸政彦氏と、計量を使った量的調査が専門の筒井淳也氏が「ずっと前から内心思っていたこと」をぶつけ合う。遠慮なしのクロスオーバートーク。(構成/山本菜々子)

「ウェーバーやってます」

筒井 ぼくと岸さんはなかなか、普段は会う機会が少なくて、こうして二人で話をするのははじめてですね。たぶんパーソナリティも違うし。

 同じ社会学の中でも、ぼくは生活史を中心とした質的調査、筒井さんは計量を使った量的調査をしています。

普段はあまり交流のない二つの分野ですが、今日は、お互いに思っていることを遠慮なく話し合ってみたいと思います。社会調査は質的調査と量的調査に分かれていると、筒井さんは感じていますか。

筒井 分かれているんじゃないでしょうか。「あなたは質的の人? 量的の人?」という聞き方をしますよね。もちろん、共通点はありますが、質的と量的を両方やる人は多くないですし。

 今は学説をやる人ってかなり減ってて、質的調査が多いですよね。日本社会学会の発表のプログラムを見ても明らかです。

筒井 そうですね。昔は相手の研究関心を尋ねる時、「あなた誰やってるの?」と聞いてました。今は変わっていますね。

 「ウェーバーやってます」って答えたりしてましたね。よく考えたら、「ウェーバーをやる」って謎の言い方ですよね。

ぼくの勝手なイメージなんですけど、質的調査と量的調査で二分されている、という簡単な話ではないと思っています。

社会調査というのがガバッとあって、その中に参与観察があって、歴史的なテクスト分析があって、総合的なエスノグラフィがあって、生活史があって、そして計量があるんじゃないかなと。質と量で半分に分かれるというよりも、いろんな調査法があって、そのうちの一つに量的研究がある。

筒井 そうですね。質的調査が増えているイメージはあります。

 そこには、色んな要因があって、質的調査の方が数式を使わずにとっつきやすい。たぶん、社会学に入ってくる人って、「なんでも好きなことができる」ってイメージがあると思うんですよ。地道に計量を勉強するのが苦手なタイプの学生が多いんじゃないか。

そして、前にシノドスでも書いたのですが、大学院重点化の影響が大きくて、30代前半で博士号を取る人が多くなって、しかも博論をそのまま出版することが多くなってきました。

30歳くらいでまとまったことを書こうとすると、研究費もそんなにないだろうし、現実的にはフィールドワークが多くなるんですね。だから、社会学は今、質的調査が優勢だと思うんです。

岸政彦氏
岸政彦氏

質的調査って、後ろ向きじゃない!?

 筒井さんや、筒井さんが指導している生徒さんは、質的調査についてどういうイメージを持っていますか。

筒井 いまの社会学者はよく言いうじゃないですか。「あなた、どこのフィールド?」って。

 ああ、言いますね。

筒井 「フィールド」というのは「専門分野」という意味ではなく、ここでは「どこの地域に調査で入っているか」という意味。むりやり僕自身に置き換えてみたら、「カナダと、スウェーデンと、日本と……」みたいな答えになっていますね。まぁ、岸さんなら「沖縄」って答えるかもしれませんが。ぼくらのような量的調査・研究をする人には、特定の「フィールド」がない。

つまり、そういう問いかけが成り立つ程度には、「フィールドに入る」ことが質的調査、ということになっていると思います。質的調査をしている大学院生たちをみていると、やはり「フィールドに入る」ことが大前提、そのフィールドの人たちから話を聞いて、そこが抱えている問題を拾い出すのが質的調査だと。

 だいたい、そんな感じでしょうね。

筒井 それはそれで、面白いと思うんですが……。学会とかにいくと、フィールドワークのデータを使った研究のなかにはレベルが低いかな、と感じる研究もあると思っています。

 ありますね……。

筒井 たとえば、これは研究者だけではなく学部生の卒論などでほんとによくあるのですが、特定の傾向の人、たとえば男性や学歴の高い人、の方がこういう考えを持ちやすい、というのを知りたいという研究テーマを持ってくるんですね。でも、量的調査だとたいてい学生からしかアンケートは取れないわけです。仕方ないからインタビュー調査をします、というのはありますよね。

 あるある(笑)。それはものすごくわかりますね。

筒井 量的な方法で決着をつけた方がいい問いに対して、コストがかかってしまうからと、インタビューをする。後ろ向きな動機のように感じます。しかも、論文のおわりに「得られた結果は今後量的に検証する必要がある」みたいなことを書かないで、あたかも少数への聞き取りから「男性の方が◯◯と考えている人は多い」みたいな、量的な問いに決着をつけようとするものが溢れていますよね。

 まぁ、ただ、行って見てきただけ、みたいな研究も中にはありますからね。質的研究にレベルの低いものが混ざっていることには同意できるのですが、量的研究にはないんでしょうか。

筒井 もちろん量的研究で酷いものをやる人もいますよ。でも、すぐに叱られるんです。

 誰が叱るんですか。

筒井 指導教官や、学会発表で厳しくツッコまれます。量的研究はレベルの差が分かりやすい分野です。だから、ある程度の水準を満たさないとすぐ叱られますね。他方で、質的研究だと止める人があまりいないのかって思ってしまうんですが、どうなんでしょう。

 若手の社会学者が個人で入ると、マイノリティとか人権の問題や差別の問題が多くて、「そこに入っている」というだけで、発言できるところがありますね。研究としては置いといて、このコミュニティに入れたんだ、すごいなぁとなっている。

もちろん、一定の成果はありますよ。でも、コミュニケーションがすごく上手で、「この人たちに話を聞けて偉いな」で終わってしまうことの懸念はありますよね。

誠実な人ほど、そういうしょうもない研究でも、「行間」を読んでくれるんですよ。問いの立て方や仮説はダメだけど、ここに書いている記述から色んなことが読み取れる、という評の仕方ってよくありますよね。

筒井 質的調査では、よく見ますね。

 質的調査って、けなされ方とほめられ方が一緒なんですよ。「こんなの科学じゃない、文学だ」とけなされた同じ論文が、「人と理解しあって素晴らしい」とほめられる。なんだか、名人芸みたいなところがあって。でも、名人芸じゃだめだと思うんです。記述から勝手に読み取ってくれるんだけど、それはむずがゆいというか。

筒井 「記述しているだけだ」とけなすこともあるし、「その記述は面白い、よくその集団に入り込んだね」とほめられるということですね。

 入り込むことで、ほめられることもあれば、入り込み過ぎだとけなされることもある。それと、質的調査だと、自分の師匠と違うフィールドに入ることも多いので、相談なんかしないし、「放し飼い」でやっているのが多いんです。だから、ひどいのが出てきてしまうんでしょうね。

正しさって、結局なんだろう

筒井 弟子が変な学会報告をして、指導教官が恥をかくこととかないんでしょうか。

 よくありますよ(笑)。でも、質的調査は、一つのことを間違えて、そのことがその場で間違われて軌道修正していくというよりも、もっと広くて長いスパンなんです。

量的調査では、数字が出てきて、この処理はまずいと分かって、そうやって科学になって行くんですよね。質的調査にはそういうプロセスはない。では、質的調査が科学ではないかというと、そうではありません。

量的調査の場合、(マートンの言い方でいえば)「科学者共同体」が科学的な思想を共有していて、そのなかで揉まれる。そうするとどんどん科学的なものになっていくだろうと。

まあ、そこにはいろんな議論があると思いますが、一般論としては、科学者共同体の中で叩かれていくうちに、最適解に近いものに、全体としてはなっていくだろうと。

質的調査にも、いわば「社会問題の共同体」みたいなものがあると思うんです。そこには、研究者だけではなく、当事者、活動家、行政、メディアだったり、いろんな人が緩やかにつながっている。もちろん共同体といってもみんな仲良しという意味ではぜんぜんないですよ。その内部には葛藤や亀裂もあります。ただ、いずれにせよ、そういった人たちが論文を読むことはまれですから、たくさんくだらない論文や報告が出てくるんですが、そのままそんなことを続けていると、後から別のところで叩かれたり、調査が出来なくなっていくんじゃないか。ひとりの質的調査者の研究が、当事者や関係者たちとの関係性のなかで批判されて、広い範囲で、長いスパンでフィルターが効いているんじゃないかとは思っていますね。

ぼくもずっと質的調査を見てきて、ものすごくくだらない人は、やっぱりいずれは消えていきます。なんのフィルターもかかっていないように見えて、かかっているんじゃないかと思います。

よく、教科書などでは、「質的はおもしろいけどあやふや」「量的は面白くないけど確かだ」と対比されます。でも、まったくあやふやで自由ではなく、その場で言われないだけで、意外と規制がかかっていると思うんです。

筒井 じゃあ、質的調査の一団は、自然と流れに任せて進んでいくと、良くなっていくと。

 うーん。そう言われてしまうとちょっと自信がなくなりますが……(笑)。良くなればいいなとは思います。

ぼくは、量的と質的では、「正しさ」の定義が違う気がするんです。量的な手法では、競合する仮説が複数あるときに、仮説を「減らす」ことをしますよね。ダメなものは棄却していく。たくさんある仮説を減らしていく、一番正しいのが一つだというのが科学的手法としてあると。

筒井 いや、必ずしもそういうイメージではないですね。10個あって一つ正しいものを選ぶなんてことはしません。仮説検定の設計上、二つあってどちらかを選ぶことは多いです。仮説検定というのはデータで「白黒をつける」ことなんですね。データがこうだったら白(仮説支持)で、そうじゃなかったらデータがこうだったら黒(仮説棄却)だと。本当は研究の流れでは白が良かったんだけど、黒だったらいさぎよく諦める。

このいさぎよさが我々が自らに課している制約なんです。そこを無理やり白にすることは、まぁ、不可能ではないですが、それはやっぱりいかんですね。

 基本的には、検証された仮説を残す、ということをしていますよね。でも、ぼくらは、仮説を減らすのではなく、増やしている気がしているんです。

たとえば、ハマータウンで労働者階級の子どもたちの研究をすると(ポール・ウィリスは『ハマータウンの野郎ども』のなかで、学校文化を通じた階級格差の再生産を分析した)。たとえばこれをアメリカでやると、地域によって階級よりも人種の方が要因として強い、という結果が出てくる。じゃあ結局、何らかの不平等の再生産において重要なのは階層なのか人種なのかというふうにどっちかをえらぶんじゃなくて、このケースにはこんな解釈があるけど、このケースにおいては、全然違う解釈をするのが好ましい、そうすることで「現実」に近づいていく、という感じです。

なんだか、やっていると、限りなく地図をでっかくしていっている感じです。限りなく、実物大で、解像度の高い地図を書こうとしている。地図としては役に立たないかもしれないんですが。

筒井 質的と量的のつなぎ方に、質的研究から仮説を引き出してきて、量的なデータで検証するという連携の仕方がありますよね。質的研究の成果、岸さんの言い方だと「解像度の高い地図」の中から、検証するに値するような仮説を抜き出して検証するんです。

そういう意味では、量的研究というのは「地図を縮約して世界を記述する」というよりも、世の中で生じている現象の一部を取り出してきて検証する、ということです。この考え方だと、質的研究も量的研究もやっている作業は一緒で、段階が違うという認識も可能です。

ついでに、こういう作業をしていると、質的の人の立てた仮説を量的で研究しようとしたら、その仮説が上手く支持されないってことがよくあります。

 そうですね。

筒井 でも、それは質的研究から引き出された仮説が「間違っていること」を意味しません。われわれは「仮説を棄却する」と言いますが、今回のデータからはその傾向がうまく見つかりませんでしたと言っているだけです。別の事態や、別の地域や、別の要因を組み込むとたぶん出てくる。おそらく一部の集団だけ取り出してみると、仮説は支持される。しかし、ならしてみるとたぶん統計的に強い効果はない、ということです。

筒井淳也氏
筒井淳也氏

教科書をつくろう

 経済学には「金利を上げたらどうなるか」「金融緩和をしたらどうなるか」といったことが教科書に書かれていて、学部の一年生でみんな基礎的知識を身に付けます。

ですが、社会学って、定説や基礎的な公理を学ばない。一年生の必修の授業では、だいたい「社会学とはなんなのか分からない」という問いかけからはじまっていくと思うんです(笑)。ぼくは量的の人に、そういった教科書を積極的に書いて欲しいと思うんです。

ものすごく範囲を限定して、ある特定の時期などでもいいんですが、少子化の原因はこれだったとか、そういった蓄積はあると思うんです。

筒井 蓄積はありますし、ある程度整理されて絞られていますね。

 でも、それは、教科書になってないですよね。質的の教科書って何? って言われた時に、けっこうあるんですよ。でも、量的の教科書って、分析のやり方ばっかり書いているんですよ。多変量解析法はこうだとか。

筒井 そりゃそうやろう(笑)。教科書なんだから。

 でも、日本で量的調査でこんなことが分かりましたっていう教科書はないですよね。

筒井 ああ、それはあまりないですね。今までそれが作られなかった理由は、「(研究の新しい成果を知りたいなら)論文読めばいいじゃん」って思っているからなんですよね。

 怠惰な! なんて怠惰な人たちなんだ(笑)

筒井 でも、学部生が論文を読むことは少ないので、計量社会学の主要分野の到達点はこうなんだという教科書として出そうとしています。(注:筒井他編『計量社会学入門』として世界思想社から2016年に出版。)

 おお、そうなんですか! それは楽しみにしています。

筒井 ええ、書こうと思えばかけるんですが……すぐ古くなるのがいやなんですよね。

 古くなるのは、あたりまえじゃないですか。

筒井 10年経過するとすぐに要因は変わっていきます。だから、教科書を書くモチベーションが湧かないんですよね。

 経済学も、理論をアップデートしながら作っているので頑張ってくださいよ。ぼくたちが量的に期待しているのはそこなんですよ。答えを持っているはずですよね。

筒井 持っていますよ。

 一回でええからそんなこと言ってみたいわ(笑)。いま、筒井先生の研究で持っている答えってなんですか。

筒井 女性の労働と少子化についてですね。今まで、女性が労働することは少子化につながるとか、つながらないとか、様々な議論があったと思います。以前は女性が雇用されると子どもをあまりつくらなくなるというマイナスの関係、最近は逆にプラスの関係があるのでは、と考えられています。これには一応、決着がついています。

つまり、女性が外で働くと子どもは減ります。しかしシカゴ大学の山口一男先生などの研究をみると、育休などの制度を充実させると、このマイナスの効果が緩和されるという結果がでています。

さらに、ここからはぼくの見方なんですが、先進国で少子化を克服した国というのは、若い人の失業率が高くて苦労している国なんです。

 よく聞く話と逆ですね。少子化を止めるためには、若年者の雇用を支援して結婚させると言われますし。

筒井 ヨーロッパの国をみると、若者が苦労しているときにも出生率が回復しているんです。むしろ生活が苦しいから、若い男と女がくっつくんです。一人で生活していけないから同棲・結婚する。しかもこのとき、女性も働き続ける見込みがないと、カップルをつくらないし、さらに子どもを作ろう、ということにはならない。

 なるほど、面白い。たくさんの答えがあるのに、もっとメディアにも発信して欲しいと思います。

筒井 うーん。ぼく達からすると、メディアの人たちに聞かれないから、といいたくなるときもありますね。新聞社の人から「これ、どうなんですか」って聞かれたら誠実に答えますけど。でも、研究の最前線でやっている人だと、ブログなんかで情報発信する暇がないこともあるし、ウェブに書いたら書いたで叩かれたりするし。タイトルだけ読んで炎上してしまうケースもありますからね。

量的調査と人間の判断

 量的調査の教科書でもっと取り上げて欲しいことがあるんです。アンケートを取って、生の声から数値に変えていく際に、調査者の判断が入ってくるじゃないですか。よく、質的調査は、インタビューで相手から話を聞き出して名人芸ですね、みたいに言われるんですが、量的調査にもそういった調査票をどう判断するのか、という名人芸なところがあると思うんです。

筒井 その部分は教科書に書きにくいんですよ。言葉にできない微妙な作業が無数にあるので。

 ぼくが以前アンケートを取った時に、こんなことがありました。屋台のたこやき屋さんなんですが、雇用状態を訪ねる質問で、「正社員」のところに○をしていたんです。たぶん、「一人前の社会人」のような意味で、正社員と答えたんじゃないかと思います。でも、どう考えても「自営業」なので、それを書き換えました。

質的調査は主観的で、量的調査は客観的と言われますが、量的調査にも人の判断が入ります。学生が、最初に量的調査をやるときに、そういうのってまったく分からないんですよ。処理の方法は書いていても、その前の話がどこにも書いていません。(この話は後に「量的調査のブラックボックス」という論文になり、『社会と調査』2015年第15号に掲載された)

筒井 そういう微妙な作業はいつもやっているんだけど、教える立場からすれば、ついつい「体で覚えてください」と言ってしまうところです。確かにその微妙な作業の内容を教科書に書いたら面白いのかもしれんけど、なんだかんだで実際に何回か調査をやったら出来るようになる作業なんですよ。

「たこやき屋」のおじさんの職業を「正社員」から「自営業」に書き換えると。多変量解析と違って、そういうのは日常的な常識の範囲内で作業できるやろう、と思ってしまうんです。

 それを、どうやって判断しているかって、すごく面白いじゃないですか。

筒井 うーん、そうかなぁ。

問いの立て方

 やっぱりアレですね、私たちは、問いの立て方が違うと思うんですよね。量的な問いの立て方って「○○な人ほど、××だ」ってことですよね。

筒井 そうそう。それと、昔と比べてどうなっているのか、変化も研究します。

一方で、経済学者って性別や学歴、年齢にあまり興味がないんですよね。たとえば、子ども手当をつくったらどうなったかなど、政策で介入して結果どうなったかに興味がある。集団としての異質性・多様性にはさほど興味がない。社会学者はむしろ、集団ごとの人々の傾向の違いに関心を持つことが多いです。

 人がそれぞれのグループに分かれているというイメージなんですね。例えば、学生の卒論を指導するときに、アンケート調査なのに「居場所とはなにか」みたいな問いを立ててくる子がいるんですよ。

筒井 ああ、それは量的には決着がつかない問いの形式ですね。

 アンケートをとっても無理だから、「○○な人ほど××だ」という疑問に変更しろ、と指導しています。たとえば、「友達の多い人ほど居場所感がある」。それだったら、友達が多いのか少ないのかをどうやって数字にするのか、携帯のメモリが何件入っているのか、とかいろんな方法がありますよね。

筒井 研究自体は量的な研究ですよね。でも、量的な調査を行う前提作業として、質的な作業が必要になる。たとえば「居場所を求めるのはどういう集団か」であれば量的に決着がつく問いです。

しかし「居場所とは」「友達とは」といったことについての理解は違う。なので、調査者が勝手に「居場所」の内容を想定してしまうと、実際に人々が思い描いている「居場所」とはずれてきてしまって、そうなるといくら厳密に量的調査をやっても的はずれな、妥当性のないデータしか得られなくなる。なので、概念をきちんと理解して質問文や選択肢を作りこむために、質的なインタビューデータを活用するという手順はよくあります。

ただ、それは「量的研究に組み込まれた質的研究」ですよね。さっきから言ってる「質と量のよくある関係」。そうではなくて、これはかねてから関心があったんですが、「量的研究で決着つかない問いの立て方」が質的研究にあるとしたら、それは何なんでしょうか。量的研究の準備やその結果の解釈としての質的研究ではなくて、量的研究ではそもそも答えが得られないような質的研究の問い、ということです。

 中範囲の社会問題に(非政治的な意味で)「コミット」することですよ。

筒井 うーん。それだけ聞いちゃうと、それは量的でもできるように聞こえちゃいます。もう一声お願いします。

 「○○な人ほど××かどうか」ではないですね。「Xとは何か」あるいは、「Xであるのはなぜか」という、対象そのものについての問いが多いです。

たとえば、量的調査だと、1000人くらいAV女優を集めて、アンケートを取るとする。「どうして仕事を続けているんですか」という問いにたして、答えが「お金の為に」「やりがいがあるから」みたいなカテゴリーでしか聞けないわけです。

『AV女優の社会学』(青土社)という質的調査の本がありますよね。そこでは、AV女優に参与観察をしていて、彼女たちが仕事を続けていく理由が細かに書かれています。

年齢が行ったAV女優が、人気がなくなってもらえるお金も減っているのに続けている。何が楽しくてやっているのか。いろいろあるけど、例えば、仕事に慣れてスタッフと仲良くなって、仕事に居場所ができてきてやっている面があるんだよ、と、そういう理解の仕方をするんですね。それは、量的ではたぶん無理ですよね。

筒井 無理というよりは、熟練した量的研究者だったら、自分たちでそれを知ろうと思わないんです。それは、質的の方に任せる。量的研究者ならば、たぶん次のように問いを立てる。「今までは特定の職業は学歴の低い人がやっていると思われがちだったが、量的なデータを取ってみると、そんなことないのではないか」とか、「実は今と昔で違うのではないか」みたいな問いです。それは、量的調査じゃないと絶対把握できないですよね。

ついでにいえば、世間の思い込みと事実が異なると分かった時には、なぜそういった傾向が現れるのかを「解釈」します。そして解釈自体は検証されていないので、あらたな仮説になります。

話を戻すと、たとえば仮に自殺した人に質問できたとして、自殺の理由について「経済的な理由だった」とか「さびしくて」とか返ってくるかもしれない。でも、そういった「聞かれたら自分でそう答える」ような主観的な理由とは離れて、性別、年齢、世代、学歴、そして職業が自殺行動に影響していることがあると思います。それはアンケート調査じゃないと分からないですよね。自殺率はたいていの国で男性の方が高いですが、かといって自殺の理由を個々の人間から聞き取っても「男だから」とは答えないでしょうから。

 問いを限定しているんですね。

筒井 限定……というよりは、我々はそっちの方が大事だと思っているんで。それこそ、客観主義と主観主義の話だと思うんですよ。

いくら人に深く聞いても分からないことってあると思うんです。人間は自分が思っているより、その考え方や行動が、性別、年齢、職業といった要因、量的調査だと基本属性っていいますが、そういった社会的要因に影響されているかもしれない。そんな傾向が実際にあるのかどうかは、量的調査でないとわかりません。

 なるほど、「解釈」の意味が違うのかもしれませんね。(私たちは)特定のことを深く理解することが解釈だという認識でしょうね。

「比較しろ」というけれど

 あと、量的の人って、やたらと「比較しろ」って言いますよね。ぼくの連れ合いの齋藤直子は被差別部落の研究をしているんですが、学会で発表した時に「在日と比較しろ」といわれたそうなんです。

筒井 ああ、確かに「比較しろ」と言いたい気持ちは分かりますね。

 そんな、部落と在日とを比較しろなんて、それ自体が「マイノリティといえば」っていう安易なステレオタイプですし、簡単に比較できるわけがない。全然違うものを恣意的に並べているだけになっているんです。

筒井 その問いには意味がないということですね。ですが、不自然な問いではないと思いますよ。ものすごく簡単な理屈なんですが、Aとはそもそも何か、という時に、Bと比較することで、Aと違っていることが分かるのは、日常的な感覚だと思うんです。

 全然そんなことないですよ。たとえば、焼き肉が食べたいときに、バナナと比較しませんよね。

筒井 そんなことぼくもしませんよ(笑)。

 それぐらい、違うものを比較しているような気がするんですよ。

筒井 たとえば、差別A、差別Bがあった時に、なぜそれが焼肉とバナナくらい違うのか、ということについては、その説明責任はそちらにあると思いますよ。

 安易すぎるという感覚があるんです。部落の話題を出しているのに、在日を比較しろっていうなんて、それ自体が暴力とすらいえる。そんなことも分からないなんて、説明するのも徒労に思えてしまいます。

筒井 でも、そういった問いが実際に多いんだとしたら、ぜひこっちにも分かるように説明して欲しいわけです。レベルの高い質的研究に対して安易に「比較したらどうか」といった質問をぶつけるのはムダであるというのはわかるとしても、もしかしたら質的研究をはじめたばかりの人にとってみたら、比較したらどうなるのか、というのは意味のある質問かもしれませんよね。

ぼくの指導している院生が、中国からの結婚移民の研究をしているんです。まずは、歴史記述からやると、ある程度量がたまってきたら、中国からの結婚移民がどういう理由で移民してくるのかインタビューをしていく。昔は金銭的な問題だったけど、今は日本人の文化的なものに惹かれているんじゃないか、というふうに持っていきたいようです。

そこで、ぼくは、「中国からの結婚移民を調べたら、東南アジアからの結婚移民を調べて、比べたらどうか」というアドバイスをします。これって、よくあることだと思うのですが。

 いやぁ、どうでしょう。中国からの花嫁と、東南アジアの花嫁を比べる準拠点がないじゃないですか。

筒井 海外からの花嫁というのを根拠にしています。

 うーん、なんでわからないんやろ。

筒井 そこが、「壁」なんでしょうね。たぶん、ぼくたち量的調査の人は単純に物事を考えているのかもしれませんが。

 比較しろって言うけれど、それは、ベッドのシーツの片方がずれることに似ていると思うんです。三つの隅っこを合わせてみても、残りのひとつは絶対ずれてしまうようなかんじでしょうか。

筒井 うーん。あんまり良い例えじゃないような(笑)。

 ライフヒストリーをやっていると、比較することの重要性をあまり感じないんですよ。人生って生きなおせないでしょう。

筒井 そりゃそうやね。

 ライフヒストリーじゃなくても、沖縄の本土就職について、違う要因を抜いてもう一度やり直してください、なんてできないですよね。

筒井 でも、やり直せないから比較するのでは。

 特に質的調査をはじめたばかりの人は、比較しない方がいいとぼくは思います。まずは、フィールドに入り込んで、その問題を徹底的に調査した方がいいです。2か所同時にフィールドワークするなんて簡単にできないですよ。一箇所入るのに何十年かかります。ちょっと、人間の能力を超えている。

ぼくは、沖縄の集団就職について調査をして、それだけで10年かかりました。でも、その発表をすると、「集団就職は沖縄だけの話じゃないから東北も調べてみたら」というアドバイスが来ます。

筒井 怒られるかもしれませんが、そう聞きたくなってしまいます(笑)。

 質的調査をやろうとすると、どうしても数に限界があります。そこから解釈していかないといけませんから、いろいろ総動員するんです。沖縄の本(『同化と他者化──戦後沖縄の本土就職者たち』ナカニシヤ出版、2013年)では、生活史が中心ではあるんですが、その他にありとあらゆる沖縄の本土就職のデータを載せて、間接的な証拠を集めることをやったんですよ。そこからなんか絞り出していくんですね。乱暴な言い方をすれば、ちょっとあやふやなところから手探りでやっていっている。

そこから、比較するために違う領域まで手を出そうとすると、どうなるか。そもそも、比べるものを何にするのかも難しい。ものすごくあやふやなものに、さらにあやふやな比較対象をかけ合わせて、あやふやが二乗されているような感覚があるんです。

ぼくたちは現場でいつも、「お前には何がわかるねん」と言われ続けているんです。10年、20年かけて、やっと歴史的背景も知れて、関係性もできてきて、話をしてくれるようになった。それなのに、急に「他と比較したら」って言われると、それは違うだろうと、なりますよね。

筒井 なるほど、仰りたいことがわかってきました。だんだん納得してきました。

 あと、中国人の結婚移民を知るために、東南アジアの移民を使う、っていう発想そのものが失礼な感じしますしね。

筒井 じゃあたとえば、うちの院生がこれから長く研究を続けていくとして、安易に比較する方法を取っていたら、もしかしたら、どちらも分からない、となってしまう可能性があるということなんですね。

 一つのことを極めた方がいいですね。

筒井 そう言われると、我々は「ざっくりでいいじゃん」って思っちゃうんですよね。

 ぼくらは、量的な人に答えを出してほしいんです。そのためには、比較しないといけないのもよく分かります。それは、やってほしい。でも、比較するのはぼくたちの仕事ではないと思います。むしろ、いつも思うのですが、よい質的調査は、ある対象の「内部の多様性」を描いていますね。恣意的に集団Aと集団Bを比較するのではなくて、集団Aに徹底的に入り込んで、その中での様々な多様性や流動性、亀裂や葛藤を描きます。そのほうが生産的だと思います。

やっぱり、教科書をだそう

 しかしいずれにせよ、質的調査と量的調査は分断されてますね……。もっと量的の人にも材料として使って欲しい、素晴らしい質的調査っていっぱいあるんですよ。

筒井 それは、不幸な分断ですよね。良い研究があってもどれが良い研究か分からない。一方で、ぼくたちにも、沢山の蓄積があるんです。それは、質的の人にどんどん使ってもらいたいと思います。でも、なかなか伝わらない。もったいないと思いますね。

まぁ、ある程度は仕方ないのかもしれませんね。質的調査の人が複数のフィールドに同時に入りにくいとすれば、たくさんの量的手法を習得しつつ、質的にも立派な調査をするってのはなかなかできません。人間には限界がありますから。

 だから、ぜひ量的の人にはどんどん教科書を出してほしいと思うんです。

筒井 そうですね。必要ですね。

 あと、やっぱり、質的調査って、何の役に立つのかって問われていると思うんですよ。ぼくは昔、「黒木のなんでも掲示板」(東北大学の黒木玄氏が90年代〜00年代に運営していた、多方面の研究者や知識人が集まって議論をしていた伝説的な掲示板)で活動していた時期があったんですが、そこで経済学や理系の人たちから「社会学って何してるの?」ってよく言われたんです。

筒井 ああ、それ見てました。ぼくは書き込みませんでしたが。

 そこで、他のディシプリンのひとからみて、社会学は何の役に立つのか、すごく考えるようになりました。ですから、フィールドワークをちゃんととまっとうな実証的な科学として、社会問題を蓄積していく学問にしていきたいんですね。

ちょうどぼくもいま教科書を書いているのですが、ちゃんと素人でも実行可能で、なおかつ他の分野のひとにも理解してもらえるような教科書を描きたいと思ってます。質的調査って魔法使いのようなイメージがあると思うんですよ。フィールドに入り込んで、インタビューではまるで手品のように相手の話を聞き出してくる。でもそれじゃもうやっていけない。

筒井 そのイメージは変わっていないですよ。10年つづけてフィールドに入ってやっと心を開いてくれる、とさっきおっしゃっていて。やっぱりそういう世界なんや、って。

 統計だって訓練を積むでしょう。

筒井 まぁ、5年はやんなきゃ外に出しちゃダメ、と言われることもありあますが。

 一緒なんですよ。当事者に寄り添ってとか、主観に入り込んでみたいな話ではないんですよね。

だから、教科書を書いて、質的調査を世俗化して使いやすくしたい。いい調査は結論もしっかりしていますから。難しい話ではないと思います。(この教科書は岸政彦・石岡丈昇・丸山里美『質的社会調査の方法──他者の合理性の理解社会学』として、有斐閣から2016年に出版された)

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宇宙人との対話

筒井 思いのほか質的と量的の分断を強調してしまいましたが、ぼくは質的調査で中に入り込んでやることの価値は分かっているつもりですし、そこからしか得られないものもあると思っています。これは、言っておかないと。

 ぼくも、量的調査によって、思い込みがバーンとひっくり返されるのは快感です。

筒井 やっぱり、質的調査をやっている人と、量的調査をやっている人は日頃話しませんからね。別の世界でやっている感じします。お互いそれが標準だと思っていますからね。お互いが宇宙人なんですよね。

 (手のひらで喉を小刻みにチョップしながら)「我々ハ、宇宙人ダ」ってことですね。筒井さんもぼくもこれから教科書を書きますが、その分断を少しでも埋めるのに役立てばいいですね。我々の次回作に期待、ということで今日はありがとうございました。

(2014年10月17日、大阪・中崎町「ラテンバー・ソンリサ」にて)

プロフィール

岸政彦社会学

1967年生まれ。社会学者。大阪市立大学大学院文学研究科単位取得退学。博士(文学)。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。研究テーマは沖縄、生活史、社会調査方法論。著書に『同化と他者化──戦後沖縄の本土就職者たち』(ナカニシヤ出版、2013年)、『街の人生』(勁草書房、2014年)、『断片的なものの社会学』(朝日出版社、2015年)、『ビニール傘』(新潮社、2017年)など。

この執筆者の記事

筒井淳也計量社会学

1970 年生まれ。一橋大学社会学部卒業、同大大学院社会学研究科博士課程満期退学。博士(社会学)。現在、立命館大学産業社会学部教授。専門は家族社会学・計量社会学。著書に『制度と再帰性の社会学』(ハーベスト社、2006)、『親密性の社会学』(世界思想社、2008)、『仕事と家族』(中公新書、2015)、『結婚と家族のこれから』(光文社新書、2016)など。

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