2013.10.15

ヘイトスピーチと「傷つきやすさ」の社会学

塩原良和 社会学

社会 #ヘイトスピーチ#レイシズム#多文化共生#エスニック・マイノリティ

ヘイトスピーチはなぜ許容されるのか

2000年代後半以降の日本社会では、いわゆる「ネット右翼」や「行動する保守」などと呼ばれる人々による、外国人住民をはじめとする民族的・社会的マイノリティ(*1)に対する攻撃的な言動が注目を集めるようになった(板垣2013; 安田2012; 前田2010a; 高・雨宮2013)。それにともない、「ヘイトスピーチ」という概念への関心も改めて高まっている。

(*1)本稿では「マイノリティ」を、ある社会においてネガティブだとされている差異(マイノリティ性)を有しているがゆえに不利な立場に置かれた人々と定義する。なお本稿では、近年の日本において急速に顕在化してきた、外国人住民をはじめとするエスニック(人種・民族的)・マイノリティへのヘイトスピーチを主な検討対象とするが、それ以外の社会的マイノリティへのヘイトスピーチについてもあてはまる分析については、「エスニック・マイノリティ」ではなく「マイノリティ」という言葉をあえて用いる。

本稿ではヘイトスピーチを、人種・民族/エスニシティ・宗教・ジェンダーといった集団に属しているとみなされた人々に対して、そうした属性を侮蔑し差別意識を煽って憎悪をかき立てるような表現と定義する(Delgado and Stefancic 2004: 11-12; 桧垣2010: 232; 長峰1997: 180; 小谷2004: 149; 安西2001: 2; 飛田2004: 204; 師岡2012a: 55-56)。従来、日本ではヘイトスピーチに関する学術研究は法律学の領域において行われることが多かった。そのなかにはヘイトスピーチが被害者やその所属する集団、そして社会全体に与える害悪を重視し、その規制を訴える議論もあるが、おもに米国での判例を念頭に、表現の自由を重視する立場から規制に消極的・批判的な主張も多い(奈須2000, 2004ab, 2009; 志田2002; 師岡2012b; 榎2006; 小谷1999, 2004; 梶原2007)。

筆者の専門は社会学であり、ヘイトスピーチ規制の是非をめぐる法律学的な論争に介入する能力はない。いっぽうヘイトスピーチをひとつの社会現象としてとらえたとき、それが明らかに非道徳的で非人道的であるにも関わらず一定の社会的影響力を維持している理由を解き明かすことは重要である。社会学の領域における先行研究のなかには、レイシズムやヘイトスピーチを人々が支持する要因の分析や、そうした集団に人々が動員されていく過程の分析を試みたものもある(樋口2012, 2013)。

それに対して、今日の日本社会では、レイシズムやヘイトスピーチを「支持」しているとまではいえない人々、とくに若者のあいだでも、そうした発言や主張が黙認・許容されてしまう「空気」が広がっていると指摘する論者もいる(安田2012: 314-365; 有田2013; 16-17)。この「空気」がもっともわかりやすく表象されているのはインターネットにおける言説であるが、インターネットもまたメディアである以上、そうした言説を形成し、それに影響されながら現実の社会で暮らす人々が存在する。本稿ではレイシズム・ヘイトスピーチを黙認・許容する、現実社会におけるこうした「空気」の存在を仮定したうえで、それがレイシズムやヘイトスピーチ運動が影響力を維持・拡大する社会的土壌を提供していると仮説づける。

この「空気」の実態を実証的に明らかにすることは現在の筆者の力量では困難だが、それは筆者が大学生に対して多文化主義や多文化共生を教える際に直面しているものでもある。

教員としての筆者が接している日本の若者たちは、受験、恋愛や人間関係、家族関係、就職活動や将来の進路選択など、さまざまな出来事を日々経験する。その結果、心理的に「傷つきやすい(vulnerable)」状況に置かれる若者も少なくない。そうした若者といっしょにマイノリティと社会との関係について議論すると、自らの「傷つきやすさ(vulnerability)」を強く意識している人ほど、マイノリティの権利の擁護や差別からの保護の主張に対して複雑な反応を示す。それは、同じように「傷つきやすさ」を抱えたマイノリティへの共感という、教師がしばしば期待する反応であるとは限らない。むしろ、同じように「傷つきやすさ」を抱えているのに、なぜマイノリティの人々だけが保護され、優遇されなければならないのか、という違和感・反感であることも少なくない。

そんなとき、「マジョリティであるあなたの『傷つきやすさ』は『たいしたことではなく』、マイノリティの『傷つきやすさ』は『より深刻』なのだ」という「教育的」説得はあまり有効でない。誰にとっても、自分自身の「傷つきやすさ」は自分にとっては「たいしたこと」であり、他人の経験と安易に比較などできないからだ。

この「傷つきやすさ」は単に個人的な感情というだけではなく、社会的な条件のなかで構築され、人々に内面化されていくものでもある。それゆえ、もし人々の「傷つきやすさ」がヘイトスピーチやレイシズムを黙認・許容する風潮と関係しているのであれば、それに注目することでレイシズムやヘイトスピーチの社会的影響力の拡大メカニズムを社会構造・社会変動研究の観点から分析できるだろう。そのような問題意識から、本稿では社会的構築物としての「傷つきやすさ」が、社会現象としてのレイシズムやヘイトスピーチの影響力の拡大とどのように関連しているかを試論的に考察する。

構造化され身体化されるレイシズム

米国においてヘイトスピーチの規制推進を主張する「批判的人種理論(critical race theory)」に与する研究者・活動家たちは、歴史的に形成されて遍在するエスニック・マイノリティに対する不公正な社会構造が、日々の経験を通じてエスニック・マイノリティ個々人に内面化される過程を強調する(Delgado and Stefancic 2012: 3-10; Delgado and Stefancic 2004: 32-33)。こうした視点は、レイシズム・ヘイトスピーチを社会学的に把握するものだといえる。

批判的人種理論の主張者たちによれば、自らにとって不公正な社会構造のなかで育つことで、エスニック・マイノリティの人々は差別や不平等に対する敏感さをその内面に抱え込みがちになる。言い換えれば、レイシズムはマイノリティに対して「傷つきやすさ」を不公正に過剰配分するように歴史的に形成されてきた社会構造なのであり、そのなかで育ったエスニック・マイノリティの自己と身体は、そうしたレイシズムに対して圧倒的に「傷つきやすい」ものとして構築されるのである。

この「傷つきやすさ」は構造化されたマイノリティ‐マジョリティ関係に由来しており、個人の意思や努力では完全に克服できない。レイシズムやヘイトスピーチとはまさに、こうした自己責任に帰すことのできない「傷つきやすさ」に対する攻撃であり、それゆえそれは単なる誹謗中傷よりもいっそう深刻に他者の尊厳を否定する。その標的となったマイノリティ個々人は深く傷つけられ、自信を喪失し、ときにはトラウマを抱えることもある(Delgado and Stefancic 2004: 12-15; 前田2010c)。

もちろん、マイノリティと呼びうる立場に置かれていても、自分は差別されたことがない、あるいは差別されても気にしないという人もいる。しかしそのような人々の経験してきた人生にも、歴史的に形成されてきた構造としてのマイノリティ‐マジョリティ関係は確実に影響を与えている(川端2013: 130-151)。

レイシズムやヘイトスピーチはそうした「強い」「慣れている」はずのマイノリティの内面に眠っていた、差別や偏見への「傷つきやすさ」の感覚を強引に揺り起こそうとする(安田2012: 222-224)。その結果、マイノリティの人々は自らが傷つけられるリスクを避けるために、レイシズムやヘイトスピーチが起こったり起こる可能性がある場所に行くことや、それらを起こしたり許容したりする可能性のある人々と出会うことを避けるようになる(前田2010b, 2011a)。こうして彼・彼女たちの行動の自由や、自分の人生における自己決定の余地が狭められていく(Delgado and Stefancic 2004: 15-16)。とりわけインターネットに影響されて育った若い世代のマイノリティのアイデンティティやライフコースの形成に、ネット上に氾濫するヘイトスピーチ言説が大きな影響を与える可能性は高い。

また批判的人種理論によれば、ヘイトスピーチが規制されずに許容されることは、標的になったマイノリティだけではなく社会全体へと害悪を及ぼす。加害者側はそもそも、被害者側と討論したり対話したりするためにヘイトスピーチを発するわけではない。ヘイトスピーチに目的があるとすれば、それは他者の社会的承認の否定、すなわち相手を物理的・社会的に沈黙させ、排除することである。それゆえヘイトスピーチの標的にされた人々が、自分を傷つけるためだけに発せられる言葉に言論をもって対抗することは難しい(Delgado 1993: 90-96)。その結果、ヘイトスピーチが社会に蔓延すればするほどマイノリティの人々は沈黙させられる。それは、その社会で自由に主張される言論の総量が減少していくことを意味する。

「甘え」を言い訳にした共感拒否

このように、社会構造的に不公正配分された「傷つきやすさ」を過剰に身体化させられたマイノリティの人々を、ヘイトスピーチは狙い撃ちにして傷つけようとする。それは歴史的・社会的に構造化された「弱い者いじめ」に他ならず、その非人道性は明白である。にもかかわらずガッサン・ハージが論じたように、マイノリティへのレイシズムはそれを積極的に行うレイシストだけでなく、自分自身ではレイシズムを行わず、自分は差別などしていないと思っている周囲のより多くの人々によって許容され、ときには暗黙のうちに歓迎すらされる(ハージ2003: 343-347)。学校内でのいじめが、いじめっ子たちの周囲の生徒に黙認されることによってエスカレートするように、レイシズムやヘイトスピーチもそれを黙認する社会的土壌があるからこそ存続し、増幅されるのである。では、そのような黙認はなぜ生じるのか。それを理解するためには、「傷つきやすさの遍在性」のもたらす逆説的な効果に注目する必要がある。

社会構造の観点からいえば、「傷つきやすさ」は確かにマイノリティに対して不公正に過剰配分されている。しかしそれは、マイノリティではなくマジョリティに位置づけられる人々が「傷つきやすさ」をもっていないということではない。むしろ、人間は誰でも何らかの「傷つきやすさ」を抱えているのが常である。かつて哲学者の花崎皋平はこの「傷つきやすさ(受苦可能性)の遍在性」こそが、マイノリティの苦難に対するマジョリティの人々の「共感可能性」の根拠であると論じた。自分自身の「傷つきやすさ」を顧みることで人は他者の「傷つきやすさ」に共感することができるのだ、と(花崎2001: 352-386)。

実際、たとえば多文化共生をめざした教育活動(*2)や啓発活動の実践では、マイノリティの置かれた困難や苦しみを強調し、それをマジョリティの人々に「自分のことのように」感じてもらい、共感してもらおうとする試みがしばしばなされる。

(*2)そうした教育の方法論については松尾2011を参照。

こうした取り組みは確かに必要であるが、大きな矛盾を抱えてもいる。それは今日の日本社会において、人が抱える「傷つきやすさ」は原則としてその人の個人的問題であり、したがって「自己責任」で克服しなければならないという価値規範が大きな影響力をもっているからである。そこではハージが「わたしは強いから、自分の傷つきやすさを他者の目から隠し、他者がその傷つきやすさを利用してわたしをやっつけないようにすることができるのだ」と表現したような強さのあり方が望ましいとされる(ハージ2008: 106)。マイノリティとされる人々自身も、このような価値規範を受け入れることで主流社会に適応しようとすることがある。

こうした「強さ」のイメージは、他者に自分の「傷つきやすさ」を開示し、共感に訴えようとする主張に対して発せられる「それは甘えだ」という非難としても表現される。今日の日本では、「それは甘えだ」という他者への非難は、他者と関わりあいにならないこと、他者に共感しないことを正当化する免罪符の役割を果たすことが多い。しかし第2次世界大戦後の日本で「日本文化論」の一類型として人口に膾炙してきた「甘え」をめぐる議論には、「甘え」を肯定的にとらえるニュアンスが含まれていた(青木1990: 98-101)。

「甘え」が他者との相互依存関係のことだとすれば、「上手に甘える」とは他者とのあいだに共感と信頼にもとづく協働の関係を構築することである。他者とこのような関係をうまく構築できる人は、実は「強い」。これはハージが「他者が自分の傷つきやすさを利用するのを恐れることなく、自分の傷つきやすさをさらけだすことができるくらい強い、という強さ」と呼んだ、もうひとつの「強さ」のイメージである(ハージ2008: 107)。にもかかわらず、新自由主義が優勢となり自己責任規範の影響力が増大する社会においては、そのような他者への「甘え」はしばしば「弱さ」として表象される。その結果、マイノリティの「傷つきやすさ」を強調してマジョリティの共感を呼び起こそうとする主張がマイノリティを「甘やかす」ものとされ、むしろ「自分の問題を自分で解決することのできない劣った者」という意味での「弱者」としてマイノリティがスティグマ化されることを助長してしまう。

今日の日本の若者が用いる「情報弱者(『情弱』)」といった言葉のように、自己責任規範が支配的な言説空間において「弱者」は尊重されエンパワーされるべき存在ではなく、軽蔑され無視されるべき存在として表象される。それゆえレイシズムやヘイトスピーチに反対する側がマイノリティを「弱者」としてのみ表象し、強調することは、彼/彼女たちへの共感ではなく蔑視や無関心を助長しかねない。

勘違いの共感と反動としての反感

もちろん、自己責任と「甘え」を言い訳にマイノリティの人々への共感を拒否してきた人々も、マイノリティ当事者との出会いの経験や、教育者や活動家の粘り強い教育や啓発によって変わることはある。そんなとき、マジョリティの人々は自らのもつ「傷つきやすさ」を媒介として、マイノリティの「傷つきやすさ」に共感する。花崎はこのような共感が、自らが知らないうちにマイノリティにとっての加害者になっていたのかもしれないという「加害可能性」への気づきをマジョリティ側にもたらすことに、両者の共生への展望を見いだす(花崎2001: 352-378)。同様にテッサ・モーリス‐スズキは、自らが受益してきた社会構造によって他者が苦しみを被ってきたという「連累」への気付きが、そのような構造を変革しようとする意思を生み出すことに希望を託す(モーリス=スズキ2002: 56-61)。筆者自身もまた、そのような希望を抱きながら日々の研究や教育に従事する者のひとりである。

しかしマジョリティ側に立つ人々がマイノリティに共感したからといって、それが直ちに自らの加害可能性や連累への自覚をもたらすとは限らない。むしろそのような共感は、マジョリティの人々が自らとマイノリティを過度に同一視し、そもそも社会構造的に異なる立場にある彼・彼女らを、あたかも自らと同じ立場に立つものであるかのように錯覚することにつながりかねない。

「あなたの痛み、私にもわかる」というマジョリティ側からの共感の表明が、マイノリティ側からの「あなたに何がわかるのか」という拒絶にしばしば直面する理由がこれである。そんなとき、マジョリティの人々はマイノリティの人々の「傷つきやすさ」を分かったつもりになっているが、実は他者という鏡に映った自分自身の「傷つきやすさ」を眺めているに過ぎない(*3)。ようするにそれは、マイノリティの境遇に同情する「善意の」マジョリティが陥りがちな「勘違いの共感」なのである。

(*3)自己を他者に投影してしまう他者理解のあり方を表す「鏡」というメタファーについては、ナーラーヤン(2010: 207-265)も参照。

先述した批判的人種理論が主張するように、マイノリティの置かれた不公正な状況の是正を目指すためには、そうした不公正がいかにして歴史的に形成され、社会的に構造化されてきたのかに注目する必要がある。それは必然的に、いまを生きるマイノリティが抱える「傷つきやすさ」が、そうした歴史・構造から生じてきた独特の要因を含んでいるがゆえに、マジョリティの人々の「傷つきやすさ」と安易に同一視できるものではないという理解を導く。そしてそうした独特の「傷つきやすさ」を緩和するために、マイノリティにはマジョリティとは異なる保護が、ときには優先的に与えられなければならないということになる。これが、マイノリティへの支援・優遇措置を正当化する論理である。

しかしそうした論理に対して、マイノリティと「勘違いの共感」をしているマジョリティは「自分たちもマイノリティと同じように『傷つきやすさ』を抱えているのに、どうしてマイノリティの『傷つきやすさ』だけが特別扱いされ、優先的に保護されなければならないのか」と反感を抱きがちである。マジョリティ自身が抱える「傷つきやすさ」が深刻であればあるほど、「特別扱い」に対する反感も大きい。こうして「マイノリティは『弱者』であることを武器にしている」「教師や役人は、マイノリティを『えこひいき』している」といった主張が受け入れられていく。そこでは「同じように痛みを抱えているからこそ、わかりあえる」のではなく「同じように痛みを抱えている(と勘違いする)からこそ、反感を抱く」関係が生じてしまうのだ。

グローバル化、個人化社会(バウマン2008)、リスク社会(ベック1998)などと呼ばれる後期近代の社会変動は、特定の人々だけではなく社会全体における「傷つきやすさ」の総量を高める。なぜなら、人々の自分自身の人生に対する自己決定可能性が急激な社会変動のなかで縮小していくにつれて、より多くの人々が自分自身のなかに、自分ではどうすることもできない「傷つきやすさ」を見出すようになるからである。「傷つきやすさ」が飽和している社会においては、マイノリティに対する優遇措置はマジョリティ側の相対的剥奪感を強化しがちである(ヤング2008: 247-279)。こうして自覚的なレイシストではない大多数のマジョリティのあいだでさえ、「マイノリティは特権/利権を享受している」「差別されているのはわれわれマジョリティのほうである」という主張が、実際にはほとんど根拠がないにも関わらず、心情的に許容される可能性が高まっていく。

わかりあえないことをわかりあおうとすること

本稿では、社会全体における「傷つきやすさ」の遍在性と総量の増大が、マジョリティのマイノリティに対する共感拒否や「勘違いの共感と反動としての反感」といった状況を増幅させ、それがヘイトスピーチを許容する社会的風潮を生み出す一因となっているという見立てを示した。本稿での考察は試論の域を出ておらず、さらなる理論的精密化と実証的検証が必要である。それでも、ひとまずここまでの知見をもとに、レイシズムやヘイトスピーチの社会的影響力の拡大を抑制するための指針を示しておく。

まず教育や市民運動、行政の啓発活動などの実践的場面においては、これまで述べてきた「『甘え』を言い訳にした共感拒否」「勘違いの共感と反動としての反感」という状況の発生を抑制することが必要である。こうした状況は、マイノリティが歴史・社会的に構築された不公正な社会構造のなかに位置づけられた存在であり、それゆえその「傷つきやすさ」にはマジョリティには決して共有できない部分(共約不可能性)があることにマジョリティが無知・無関心であることによって起こる。それゆえそれを抑制するには、「マジョリティの人々にマイノリティの置かれた状況を自らのことのように深く共感してもらいながら、それと同時にわれわれとかれらの乗り越えられない違いを自覚してもらう」という、一見すると相反する課題を同時に達成することが求められる。これは保苅実のいう「ギャップ越しのコミュニケーション」の推進である(保苅2004: 222-232)。ただし、先述したように社会全体の「傷つきやすさ」の総量が高まっている状況において、こうした実践を人々のあいだに広めていくことは決して容易ではない。

そこでこうした実践とともに必要になるのが、ヘイトスピーチやレイシズムの温床となる、マイノリティとマジョリティのあいだの「傷つきやすさ」の不平等配分の構造の是正に取り組むことである。それはマイノリティの存在に対する社会的承認と、貧困や社会的排除の状態に置かれたマイノリティの社会的包摂の促進、すなわち社会政策およびそれを正当化する理念としての多文化主義の推進を意味する(塩原2012)。今日の日本でとくに顕著な問題となっているエスニック・マイノリティへのヘイトスピーチやそれを含むヘイト・クライムに関していえば、人種差別撤廃条約の国内法化としての人種差別禁止法の制定(前田2010d; 師岡2012a; 有田2013: 89-128)と、従来はおもに地方自治体や市民社会に委ねられてきた外国人住民支援施策の全国レベルでの発展・体系化、そしていわゆる多文化共生理念(*4)の再構築と普及が具体的な方策として考えられる。

(*4)もちろん、今日の日本社会に流布している「多文化共生」というスローガンにはいくつかの理論的問題点があり、その脱構築・再構築が要請されている(塩原2012)。

ただし、こうしたエスニック・マイノリティ向け社会政策の拡充がマジョリティの相対的剥奪感を高めてしまわないようにするためには、急激な社会変動によって増大した人々の「傷つきやすさ」の総量を低下させる、より根本的な取り組みが同時に行われなければならない。すなわち社会全体の貧困や社会的排除の是正に向けた政策を整備することで、マイノリティの人々に対する反感の発生を抑制する試みである。たとえば近年の日本の外国人集住自治体には、貧困に直面している外国人家庭への支援施策を生活保護受給家庭をはじめとする貧困世帯全般への支援の一環として実施しているところがある。マイノリティへの支援施策がより包括的な社会政策プログラムと一体化して推進されることで、マイノリティの人々が「えいこひいきされている」「特権を享受している」という「反動としての反感」をある程度抑制できるだろう。そしてそうした取り組みから、外国人住民の直面する困難の独特な側面を認識しつつ、それを人々が貧困や排除に陥る多様な要因のひとつとして把握し、対処しようとする意識が広がっていく可能性もある。

「傷つきやすさ」を抱えた人々が他者の「傷つきやすさ」の「独特さ」を想像することが、「100%はわかりあえない他者と1%でもわかりあおうとする」ギャップ越しのコミュニケーションを可能にし、そこから公正な社会に向けた変革への意思が生じる。それゆえマイノリティの社会的承認と包摂のための構造変革に取り組むことは、急激な社会変動によって擦り減らされてきた、人々の他者に対する想像力を回復していく試みと同時に進行されなければならない。それによってはじめて、レイシズムやヘイトスピーチ集団の「フォロワー」を減らしていくことが可能になる。ただしこのような働きかけは、他者を対話の相手とみなさず、象徴的・物理的に抹殺することのみを目的とする確信犯的なレイシスト・ヘイトスピーチ集団の活動を抑え込むには即効的な効果がないかもしれない。いま現在、こうした集団の脅威にさらされている人々を救うためには、より直接的な対応を検討する必要もある。

もちろん、ヘイトスピーチを直接的に規制する法を制定することの是非については法律学的に厳密な検証が必要である。たとえば米国における一部のヘイトスピーチ規制反対論は、ヘイトスピーチの規制が社会における言論の自由の発展を阻害し、それが結果的にはマイノリティ自身の利益にも反する結果になると主張する(飛田2004; 榎2006; 奈須2000)。しかし社会学的観点からいえば、日本ではエスニック・マイノリティの社会的承認・包摂がいまだに進んでいないことが議論の前提とされるべきだろう。そもそもエスニック・マイノリティの存在自体がじゅうぶんに知られていなかったり、彼・彼女たちが自分のアイデンティティを表明したまま対等で自由な言論をたたかわせることができる状況が確立していない日本において、レイシズムやヘイトスピーチをじゅうぶんに規制しないことはエスニック・マイノリティの社会的承認・包摂にとって深刻な障害となりうる(前田2010e, 2011bc; 有田2013: 131-156)。言論の自由とのバランスという論点にとどまらず、日本社会におけるマイノリティの社会的承認と包摂の推進というより広い見地からも、ヘイトスピーチを法的に規制しないことのデメリットは検討されなければならない。

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飛田綾子,2004,「アメリカの表現の自由の『特殊性』――『ポルノグラフィー』『ヘイト・スピーチ』規制をめぐって」『早稲田政治公法研究』76: 199-230.

安田浩一,2012,『ネットと愛国――在特会の「闇」を追いかけて』講談社.

ヤング,ジョック(木下ちがや他訳),2008,『後期近代の眩暈――排除から過剰包摂へ』青土社.

タイトル「Fragile」Francesca M. Fontana

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プロフィール

塩原良和社会学

1973年埼玉県生まれ。慶應義塾大学法学部教授。慶應義塾大学大学院社会学研究科後期博士課程単位取得退学。博士(社会学)。主な著作に『共に生きる-多民族・多文化社会における対話』(弘文堂)、『変革する多文化主義へ-オーストラリアからの展望』(法政大学出版局)、『ネオ・リベラリズムの時代の多文化主義-オーストラリアン・マルチカルチュラリズムの変容』(三元社)など。

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