2014.06.07

現代河原者として生きる――明度の高い社会に闇を引き戻す

劇団「水族館劇場」作・演出 桃山邑氏インタビュー

社会 #SYNODOS演劇事始#synodos#シノドス#水族館劇場#長瀬千雅#嘆きの天使

水族館劇場は、1987年に創設された野外劇の役者徒党である。彼らは劇場を自前で建てる。建てさせてくれる場所も自分たちで探す。昨年からは、東京世田谷区の太子堂八幡神社の境内がかりそめの根城だ。

今年の演目は、「Ninfa 嘆きの天使」(5月16日〜6月3日、公演終了)。境内には、階段状のしっかりした座席を備えたキャパ約120人の堂々たる劇場が組み上げられた。回り舞台が上手・下手に2つ。劇場のいたるところに30トンもの本水が仕込まれている。クライマックスでは大量の水が吹き上がり、轟々と落ちる。水とライトを浴びた役者が負けじと叫ぶ、そのシーンはまさにスペクタクル、壮大な見世物だ。

時代背景は明示されないが、確認できただけでも、古代、中世の日本、革命前夜のロシア、1960年代の網走、津軽、東京、そして現在の東京のどこか。物語は時空を超えてさすらう。もちろん観客も道連れである。貧しい生まれで両親に捨てられ、勉学の道を閉ざされ、好いた相手との縁談も破棄され、子どもを流させられて精神を病んだセツと、その弟で、さまよいたどり着いた土地の映画館のスクリーン裏にもぐりこみ姉の幻に呼びかける少年ノリオ、姉弟をめぐって話は進む。

ノリオが出会う映画館のもぎりの女の子、自分を捨てたロシア人の父と出会うために同じ曲馬団の調教師になったハーフの少女、日本人街のボス、セツをとらえようとする精神病院の女医、都を追われて流浪する千年の時を超える国栖の一族など、多彩なキャラクターが登場する。そして、さすらい続けた物語は、ノリオが放った4発の銃声がセツの耳に届いたところで終わる。

ノリオは、1968年に19歳で連続射殺事件を起こした永山則夫だ。獄中で本を書き、1997年に死刑が執行された。「貧しいからこそ、セツは夢を盗まれたのであります」。桃山は劇中でそう語らせる。水族館劇場はずっと、貧困や無知ゆえに社会の最下層に追いやられる人たちの物語を描いてきた。けれど、目の前で繰り広げられるスペクタクルや、叙情的な台詞に心をわしづかみにされながらも、ある引っかかりが消えなかった。

1970年以降に生まれた人が人口の約半数に達する今の日本で、永山則夫という固有名詞はどこまで届くのだろうか。町中どこもかしこも開発されていく世の中で、水族館劇場はこれからもかりそめの劇場を建てる場所を見つけることができるのだろうか。

前置きが長くなりました。作・演出の桃山邑さんのインタビューをお届けします。(聞き手・構成/長瀬千雅)

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ラジカルな旅劇団に飛び込む

ーー 結成は1987年ですね。

この芝居のために四国から上京した巌基次郎と、主演女優の千代次と、ぼくでと旗揚げして、東京から筑豊へ向かいました。

ーー その時にもう水族館劇場という名前があったんですか。

ありました。あまり難しい名前にはしたくなかった。水族館劇場って、耳にポップでしょ。

ーー カラフルな魚が泳いでいそうですね。

そういうほうが新しい人も入ってきやすいんじゃないかと思った。水のイメージは最初からありました。それまではずっと火を扱っていたんです。曲馬舘の時も、驪團(りだん)の時も。芝居のなかで火炎瓶を投げるような劇団でした。

曲馬舘という、全国を転々と放浪する旅劇団があったんですね。そこに79年に入って、80年に解散してしまったんだけど。ぼくは田舎から東京に出てきて、建設現場で働いていたんですが、曲馬舘はテントに建築資材を使ったりしてたんですね。何かと重宝されました。曲馬舘は日本演劇史のなかでもっとも政治的だったと言われる集団です。機動隊とぶつかって公演を中止にされ、10何名も逮捕者を出してますし、公安警察がずっとマークしてました。だから、演劇史とは言いましたけど、当時のメンバーは明らかに演劇史とはまったく違う潮流のなかで芝居を考えていたんですね。

ーー 1980年まで続いたということですが、1972年を過ぎるとだいぶ政治的な活動はしづらい雰囲気だったのではないかと思うんですが。

その時代はぼくは登場していません。子どもでしたし。やはりあの世代の人たちは、69年の安田講堂陥落から後退戦を余儀なくされたんだと思います。曲馬舘が結成されたのは三里塚闘争のなかからだと聞いています。大学闘争が雲散霧消して三里塚に行く。ところがやはりそこでも戦いを継続できなくなる。その人たちが次にどこへ行くかというと、山谷などの寄せ場です。しかし山谷も労働マーケットが解体されつくして、運動はどんどん収縮していった。

ぼくが入った頃も、かなり重苦しい総括会議があるわけです。新しくきた人たちは、芝居が終わって、ミーティングに入るとかなりやめていきました。ぼくはまあ、そういう話し合いに耐えられる気質だったんですね。この人たちの言っていることをいい加減に聞いて、俺はめんどくさいからやめるっていうのはどうも違うんじゃないかと思い始めて、最後まで付き合おうと思った。もう解散の空気が出ていましたから。

水族館劇場座付き作者、桃山邑さん。1958年生まれ。
水族館劇場座付き作者、桃山邑さん。1958年生まれ。

ーー 自分はあとから入ってきたしだいぶ年下だから、当事者じゃないとは思わなかったんですね。

そんなこと言ったら殴られます。京大に、京大西部講堂連絡協議会っていう、自主運営組織があるんですけど、旅の宿りで寄らせてもらったら、喧々がくがくの会議をやっているわけですよ。ある有名な劇団があとからきて、使わせろ、使わせないのと、トラブルになっていた。防衛線張ったりまでしました。それは80年でしたけど、その当時でもそういうことをやってたんですね。でもぼくは何も聞かされてないわけです、新人ですから。それで、「西部講堂連絡協議会って何ですか」って聞いたら、殴られましたね。「おまえだよ。おまえが西部講堂だよ」って。

ーー むちゃくちゃですね……

めちゃくちゃな論理です。でも考えてみれば、主体はどこにあるのかというようなことを問い続けている劇団ですから、新人だからどうとかまったくない。いちばん想像力を持ってるやつが主導権を握るというのがその人たちの考え方だった。そういう空気のなかでだんだん鍛えられますよね。

ーー 火がモチーフだったというのは、サーカスの曲芸みたいなイメージですか?

もっと危ない。本当に火炎瓶を投げてましたから。

ーー それはもう芝居じゃなくて闘争ですね……

だけど、闘争って言っても相手がいない。結局、芝居は現実を変える力はないわけです。変革と言いながらなぜ芝居の世界に甘んじているんだ、現実を変革しろという人と、いややっぱり自分は芝居だと思い定めている人に分かれていく。

彼らは10年近くもの年月そういうかたちで集団をやってきて、傷ついている人もいたし、やめていった人もいた。最後の賭けに出た旅も失敗して、借金を重ねて、結局解散した。今でもいさぎよかったと思っています。いちばん傷つかなかったのが若かったぼくでした。それで、じゃあ資材を引き取って、劇団を始めるよと。ぼくは若かったんで、勤続疲労を起こしてなかったんですよね。先輩たちができなかったことを、やってやろうという気負いもあった。それが驪團(りだん)という劇団です。

ーー 驪團はどれぐらい続いたんですか。

ぼくは3、4年いて出るかたちになったんですが、そのあとも1年は続いて、85年か86年が最後だったと思います。5回ぐらい全国を旅しました。

北海道大学で公演をつぶされたこともありましたね。北大に恵迪寮という有名な自治寮があるんですが、大学の管理が厳しくなるなかで建て替え問題が起こっていて、反対した人たちが芝居を呼ぼうというんで、ぼくらに白羽の矢が立ったんです。来て下さいというので、行きましょうと。ところが、大学に着いてトラックを入れようと思ったら、工事してるんです。劇団を絶対入れさせないとチェーンを取り付けていた。で、それを破ろうとして。まあ、ケンカですよね。機動隊と大学当局、ぼくらは学生諸君と、支援してくれる札幌のメディアや知識人。結局つぶされましたけど、リベンジで12月にやりました。吹雪のなかで。

その有様を見てた予備校生がいたんですよ。市原(健太)さんというんですが、彼が時を経て、今では静岡で知る人ぞ知る「水曜文庫」という古本屋をやっているんです。彼と何十年ぶりかで再会して、去年、彼の古本屋でぼくが芝居をやりました。それから、東京の千駄木に古書ほうろうという古本屋があるんですが、店主の宮地(健太郎)さんも、ぼくらが駒込大観音で芝居をしていた時代からの付き合いです。そういう、今の世の中これではまずいんじゃないかというふうに思って、自分にできることをやりながら、人のつながりを地域のなかで展開していきたいという人たちと、芝居を通じて出会っていくというネットワークを水族館になってつくれるようになってきた。

時代の変化を乗り超えて

ーー そもそもなぜ筑豊へ向かったのでしょう?

なんでだろうね……でも最初は東京でやるつもりはなかった。

お芝居の世界にいる人、つまり、大学に入って劇研にいて、そういう流れのなかから自分たちで旗揚げしようというような人だったら、有名な劇場を目指すんでしょうけど、ぼくらはそうじゃなかった。大八車を引いて、炭鉱住宅長屋をめぐったんです。

ーー 水族館劇場を見ると、水の迫力が想像以上で、これはふつうの劇場ではできないなと思いました。

まあ、お金をかければできるかもしれないけど、これだけ危険なものはできないでしょうね。全部人力ですから。機械でやってはおもしろくない。

ーー 装置を動かすチェーン一つとっても、すごい太さですよね。あれがふってきて間違って当たったら脳しんとうではすまないのでは……

ちゃんと計算してます。でもね、芝居の最中はぶつかっても痛くないですよ。

ーー それだけ集中している。

してる。痛くないです。一公演一回は誰かがケガをしてるみたいな劇団ですから、終わったら骨折してたとかしょっちゅうあります。

ーー 筑豊に向かった時からそういう意気込みだったんですか?

いやあ、そんなことないです。あらかじめ、何か、はっきりと言えるものがあったわけじゃなかった。ただ、まだ20代だったから、「ここにはいたくない」みたいな感じが強かったんじゃないかな……。ドキュメンタリー作家の上野英信さんがまだ存命で、けっこう影響を受けていました。

ーー ドキュメンタリーと言えば、布川徹郎[*1]さんも撮られていたとか。

それは曲馬舘の最後の旅芝居です[*2]。布川さんはそのあと病気をされて、長く作品を作れない時代があって。ほんとの晩年にうちに来て、撮らせてくれとおっしゃったんで、どうぞと言いました。出演もしました。

[*1] 布川徹郎 ドキュメンタリー映画作家。1942〜2012年。

[*2] 『地獄の天使 昭和群盗伝』1978年。その旅を記録した映画『風ッ喰らい時逆しま』(布川徹郎)は1979年に公開された。

ーー 完成する前に亡くなられてしまったんでしょうか。

そうですね、フィルムも入っていたかどうか……。それぐらい、ボロボロになっていました。若い人は布川徹郎がどういう映画作家だったか知らないから、ぼやぼやしてないでパイプの1本ぐらい運べよとか怒られて。ぼくは、布川さん、最後の夢を見てるんだなと思って、お好きにさせていました。

開演前の太子堂八幡神社。境内で芝居をさせてほしいという申し出を、「ご祭神・八幡様と、末社に祀られる芸能の神・弁天様が導いた奇縁」と受け入れた宮司の理解と厚意により実現した。
開演前の太子堂八幡神社。境内で芝居をさせてほしいという申し出を、「ご祭神・八幡様と、末社に祀られる芸能の神・弁天様が導いた奇縁」と受け入れた宮司の理解と厚意により実現した。

ーー そうやって時代が変わっていくなかで、水族館劇場は生き残っていますよね。最近も、20代30代の新人が入ってきていますし。

お金にならないのにね。

ーー どういうところに引きつけられているのでしょうか。

劇団の中軸の40歳ぐらいの人にかんしては、第二次ベビーブーマー世代なんですよ。全共闘世代のお子さんたちが多くて、ということは、わりとリベラルなお父さんが多い。こういうものに飛び込みやすい環境にあるんじゃないかと思います。ぼくの時なんか勘当ですから。曲馬舘に入るって言ったら、河原乞食になるのかって言われました。田舎に帰ってきて百姓やれ、地道に生きろ。河原乞食なんて恥ずかしくて世間様に顔向けできない、と。

だけど今の若い人たちは、親御さんがわざわざあいさつにきて、「今度娘がお世話になります」って言うから、びっくりしちゃうよね。「好きなことをやらせてあげたいんです」っていうんですね。

ーー 時代は変わったなという感じですか。

日本が豊かになったんだと思います。少なくとも物質的には。大学に行く人が増えて、余剰時間が増えて、みんな何していいかわかんなかったんだと思う。ぼくらの世代の親は、ぎりぎり、食うので手一杯という世代です。そのなかでも余裕のある層は生まれていたのでしょうけど、ぼくは貧乏だったから。

戦後、高度経済成長を果たして一億総中流みたいな時代がありましたけど、その頃はホームレスはいなかった。日本はよくできた社会主義だって揶揄されるような時代があったと思うんです。けれど、やっぱり平成になってから、世界の情勢とグローバル化だと思うんだけど、日本もその余波を受けて社会がどんどん壊れてきて、露骨に貧富の差が広がっていった。そういうなかで、水族館劇場の意味がまた逆に浮上してくるっていうことは、あるのかもしれません。

あと、生き残っているとしたら、ぼくなんかが、ちょっとポップだったってことが大きいんじゃないかしらと思います。もともとぼくは学生運動をやってないので。ラジカリズムっていうのは、頭では理解できるし好きなんだけども、同時に、ポップなもの、消費されるものも嫌いじゃないんです。矛盾してますね。曲馬舘や驪團の時代は、どこまでラジカルであるかが問われ続けたわけですが、それだけではもうやっていけない。それは嘘すぎる。それにぼくは、偽ものとか、まがいものであるということにもあんまり反発しない。そういう感覚が受け入れられる土壌というのが、やっぱり時代とともに変わっていくんですよね。

今回の演目のために建てられた野外劇場。公演が終わると解体され、もとの景色に戻る。撮影:宮村洋一
今回の演目のために建てられた野外劇場。公演が終わると解体され、もとの景色に戻る。撮影:宮村洋一

現代の河原者であり続ける

ーー でも80年代後半から90年代という、バブルとその後の時代がありましたよね。その頃はどう過ごしてこられたのか。

つらかったですよね。その時はね。劇場では、野田秀樹さんや鴻上尚史さんが活躍されて、小劇場ブームと言われていました。

ーー 当時は、興行主が、どこかに若くていきのいい劇団がいないかと探していたような時代だったんですよね?

そうですね。そういう話もきたりしましたね。でも、そういうのがやりたいわけじゃないから。

95年ぐらいかな、演劇批評家の松井憲太郎さんが、新宿梁山泊とうちを見比べて、まったく違うと言われたんです。新宿梁山泊は唐十郎の系譜にある劇団なんですが、洗練された都市型のエンターテインメントに昇華していくだろう。一方で、水族館劇場は「わけがわからん」と。もしかしたらこの集団は演劇ではなくて、大いなる放浪芸的なもののほうに可能性があるのかもしれない。

そう言われた時に、なるほどなと思いました。と言うのは、お芝居の上手い下手ということに、ぼくはあんまり興味がないんです。リアリティーということには興味があるんですけど。だから今回もものすごく下手な人というか、素人も出ます。たとえば、大島渚は主演に素人を使ったでしょう。あれはすごくよくわかります。やっぱり、おもしろくないんです、プロの俳優は。

それに、歌えて踊れてダンスができてっていうことをやろうとしたって、それは劇団四季にはかないません。スタイルがよくて、歌の才能があって、踊りも踊れる人が一日何時間も訓練してるわけだから。一糸乱れぬパフォーマンスをやるよりも、バラバラのものをやったほうがいい。

ーー 出る人によって桃山さんの書くものも変わりますか。それとも自分のなかに書きたいものがある?

ぼくは全部当て書きですから。どの人がいるかで変わります。自分のなかに書きたいものなんて、ないと言えば嘘だけど、基本的にはないと自分では思っています。自分の書く台本は、集団を束ねていくための接着剤だとしか思ってない。一人ひとりみんな技を持ってるから、ダメなところも含めてね、そういう個性を生かすことしか考えてないです。だから発声練習もしない。いろんなことを訓練すると、慣れてきちゃうんですよ。レベルの低い人は上がるかもしれないけど、だいたいみんな似たようになっちゃう。6点とか7点の人ばっかりいても、おもしろくないでしょ。

ーー 突出する人がいなくなりますか?

うーん、いなくなるのかな、どうなんだろうね……突出する人の真似をするでしょうね。だからね、あれ嫌いなの、演劇メソッド。そういう意味では、演劇が嫌いですから。

ーー そうなんですか。

自分たちがやってることを演劇だと思ったことないし。

ーー じゃあ、水族館劇場はなんなんでしょう。

サーカステントに似てるんじゃないのかな。ほんとに。

ーー 今年もうちの町にきてくれたわ、みたいな。

そうですね。芸術とかオリジナリティーとか、大っ嫌いです。ものごとって、きれいに意味づけできるものばかりじゃないじゃないですか。矛盾したものを矛盾したままでとらえる視点があったほうがいいんじゃないのかなと思っている。

ーー ただやっぱり、サーカステントや河原乞食という言葉は、頭ではわかるんだけど、リアリティーが薄いと言いますか、それってどういうことなんだろうって。

日本の社会の明度が高くなって、暗闇がなくなってきたんです。たとえば、ぼくの小さい頃はこういった神社に行くと乞食が本堂の縁の下に住んでいました。赤襦袢のお姉さんがいて。寺山修司の世界ですよね。でもああいう光景はもうない。コンビニの明かりが24時間煌々と照らされるようになった。小劇場の人たちは、現代のそういう、明るい不安みたいなものを非常にうまく表していると思う。等身大の痛みっていうのかな。

一方で、明度の高い社会から切り捨てられた人たちがいる。永山則夫もそうだし、去年やった踊り子の一条さゆりもそうです。今もいますよ。写真家の鬼海弘雄さんが浅草の裏でずっと写真を撮っていますよね。あそこに写っているような人たち。この人、何して生きているんだというような。

この前もびっくりしたんだけど、新横浜の駅で、背の高いおばあちゃんが二人で乳母車を持ってエレベーターに並んでいたの。で、降りてきたら、おばあちゃんじゃなくて男だったの。二人とも。しかも乳母車に乗っているのは赤ちゃんじゃなくてリカちゃん人形だった。相当ショッキングな絵でしたよ。

そういうどはずれな、べらぼうな人たちが見えにくくなっているでしょ。ぼくはやっぱり、闇をぐんと引き戻したいみたいな気持ちがある。向こうからおいでおいでされて、入ったら帰ってこられないような、怖い闇というか。実際にぼくは曲馬舘に手招きされてこの世界に入り、もう戻る道はないわけですから。

『Ninfa 嘆きの天使』プロローグの一場面。撮影:中原蒼二
『Ninfa 嘆きの天使』プロローグの一場面。撮影:中原蒼二

でも、若い子は、もともと人間が持っているはじまりの意識みたいなものを、どこかで持っているんだと思うんですよ。昭和だとかいつの時代だとか、そういうものじゃない、世界の「はじまり」というのかな。ただ、その感性は大人になるにつれて摩耗したり、削られていく。それを削られないうちに水族館と出合うと、こういう世界があったんじゃないかということを感受するんだと思います。

これは自己否定的に思うんだけど、今の若い人たちにとっては水族館劇場はノスタルジックな色合いが強いんだと思う。だから、「三丁目の夕日」みたいなものと、近いんだと思う。

ーー そうかもしれません。

ぼくは嫌いだけど、それでもいいと思ってるの。21世紀になって社会はさらに酷薄としてきたから、ノスタルジックな色合いのものが好まれるのかもしれない。「三丁目の夕日」なんてウェルメイドな作品で、毒気はあんまりないですよね。唯一、氷を使う冷蔵庫が電化製品にとってかわられて、捨てられているのを見て氷屋がかなしげな表情をしているのがちょっと印象に残ってるぐらいで、全体としてはあの時代はよかった的なところでおさまっていますよね。これが大ヒットするんですから、人間は勝手なものです。自分たちが捨ててきたものを懐かしむ。浄化作用なんですよね。

ぼくはセットでバラックを建てるけど、狙ってやっているわけじゃなくて、自然にそうなってしまう。筑豊に行って炭鉱住宅に行ったら、ほんとにボロボロのバラックしかないわけです。それが目に焼き付いているから、作るだけ。それを見て懐かしいと思うのは、「三丁目の夕日」が懐かしいと思うのと同じ感覚だと思います。これは仕方がない。

それで見に来てくれて、それだけではないメッセージみたいなものが、かすかにもし届くのであれば、それはその人が育てていってくれるだろうと、そういうふうに考えてるんです。それは育てるものであって、消費されないものなんです。ノスタルジーは取り入れます。でもそれは糖衣錠のようなもので、おなかの中に入ったら甘いノスタルジーは溶けて、あれは何だったんだろう、あの人たちはなんであんなことをやるんだろう、じゃあ自分は何がしたいのだろうと、飲み込んだ毒がきいてくるように、考えてくれたらいい。

『Ninfa 嘆きの天使』の一場面。撮影:宮村洋一
『Ninfa 嘆きの天使』の一場面。撮影:宮村洋一

ーー 年末から正月にかけてのさすらい姉妹[*3]の寄せ場路上巡業で、上野公園でやられてたのを見たんですけど、寒空の下で、よくわかんない人たちがいっぱい見てるっていうのがおもしろかったです。

炊き出しやって集まってきたホームレスの人たちと水族館のファンが一緒になって見るっていうのがおもしろいんです。どこからどこまでが芝居だかわからないっていうのが、ぼくが狙っていることです。前に路上でやった時、セットで作ってあったポストに本当に手紙を投函したおばさんもいたしね。セットだからダメですってあわてて止めて。

[*3] さすらい姉妹 水族館劇場の別ユニット。山谷などの路上巡業を行う。

ーー 劇場では起こらないことですね。

それも芝居なんだよね。それも芝居なの。ぼくは台本をどんどん書き換えちゃうんだけど、台本が間に合ってなくても、みんなが台詞を覚えてなくても、芝居ができあがってなくても、幕を開けちゃう。作品の出来には自信ないけど、これだけ2カ月かけて30人の人間が朝から晩まで作ってきたことにかんしては自信があるから、それを見せればいい。台本は時の運で、いいものが書けるときもあれば、なんにも書けないときもある。それを全部見せれば、客は何らかの反応を示すだろう。そういう感じでやってますね。

<水族館劇場 2014年公演 Ninfa  嘆きの天使>

プロフィール

桃山邑水族館劇場 座付作者・演出家

1958年生まれ。現代河原者にして水族館劇場座付作者。若い頃より建築職人として寄せ場を渡り歩く。1980年、曲馬舘最後の旅興行から芝居の獣道へ。1987年に水族館劇場として、あたらしく一座創設。ほぼ年に一度のペースで本公演を行い、そのほとんどで作・演出を務める。看板女優・千代次を座長とするユニット「さすらい姉妹」にも台本を書き下ろす。http://www.suizokukangekijou.com/

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