2013.12.19

「新しい認知症ケア」の時代と労働・仕事・活動――認知症ケアの現在地点とその先

井口高志 福祉社会学

福祉 #介護#認知症ケア

1.はじめに

2013年10月14日、私はとあるイベントに参加していた。

朝、京都と奈良の境で、所属する大学のゼミの学生が中学生チームからたすきを受取る。秋晴れの大和路を学生たちと奈良県庁に向かって走り、介護関係の仕事の人たちからなる次のチームにつなぐ。日中しばらく休んだ後、夕方、大阪城天守閣前に行き、そこで走ってくるランナーや協賛している企業の関係者、ロックバンドなどと最終地点のゴールを祝うイベントで盛り上がる。

……これは、オレンジのTシャツを着た人たちが、北海道から大阪城までたすきをつなぐRUN Tomorrowと名付けられたイベントで、3年前、認知症フレンドシップクラブ(Dementia Friendship Club[DFC])という団体が主催して北海道から始まった。

このイベントには、認知症と診断された人、グループホームへの入居者、介護に携わる人たち、行政関係者、その他の人たちなど多数参加しているが、主催者・参加者たちは、介護や医療という枠を越えて、広く一般の人たちが認知症のことを知り、ともに「認知症になっても生きやすい社会」「認知症の人と一緒に生きる社会」を作っていくための取り組みに参加してきてくれることを目指している(*1)。

(*1)DFCに関しては、http://dfc.or.jp/を参照のこと。

DFCはこの年に一度の大規模なイベント単発だけを行っているわけではない。普段は、街にある飲食店などにボランティアのメンバーや当事者などが認知症について説明に行き、認知症の人が入りやすいお店(フレンドシップスポット)として登録してもらう活動や、登録サポーターが依頼に応じて認知症の人たちの外出に「友だち」として一緒に行くなどの活動をしている。

参加者にはさまざまな人たちがいるが、たとえば、今回イベントの中心を担った人たちの中には、介護サービス事業へ従事しつつ、普段から若年の認知症の人たちの外出や旅行、ちょっとした仕事の支援などの「労働・仕事」をはみ出した活動をしている人たちなどがいる。このように、認知症の人たちが出て行ける場所と機会を増やすことを目指した活動を、さまざまな人を巻き込んで、主に「労働・仕事」以外の時間で行っており、このイベントはそうした活動のシンボル的な位置付けにあるのである。

さて、冒頭でこうした活動に言及したのは、その宣伝をしたいからではない。こうした活動に、本稿の主題である認知症ケアの「現在」が典型的に現われていると考えるからだ。

「認知症ケア」や「高齢者への介護」は、主には施設や家などの限定的な場所で、介護職や家族介護者の関与する取組みとして描かれてきた。それはたいてい介護の提供者が介護の受け手の必要を満たす行為やそれがなされている関係としてイメージされる。そうしたイメージを念頭に考えると、冒頭で見たようなイベントや人びとに認知症のことを知らせていく活動は、それそのものは確かに重要でも、認知症の人へのケアというテーマからはみ出したものに見える。あるいは、介護保険制度の枠内でのフォーマルな介護という仕事の外のおまけの活動、または別立ての啓発的な事業であり、ここで論じることではないように見えるかもしれない。

実際に、DFCの活動を行っている者たちも、自分たちの活動を、「お世話をする」というニュアンスの強い「ケア」や「介護」とは異なるものではないか、と述べている。

だが他方で、ケア概念を時代や状況によって変わる文脈依存的なものと捉えるならば、時期によってそのあり様は変わる(*2)。私見では認知症に関するケア(ケアが十分に無いことも含めて)は、この何十年かで、そのあり様を大きく変化させてきた。私は、冒頭で見たような活動は、認知症ケアという実践領域の誕生・展開の先に現われたもの、すなわち、認知症の人たちへの「はたらきかけ」の理念的展開の一つの帰結だと考える。

(*2)上野千鶴子は、ケア概念を文脈依存的なものと捉え、「いかなる文脈のもとで、ある行為はケアになるのか?またいかなる文脈のもとで、ケアは労働となるのか?」を論じるのがケアの社会学のひとつの課題としている(上野2011: 42-43)。

そこで本稿では、認知症ケアという領域の誕生、およびその内実の変化を、まずは大まかな理念のレベルで追いながら、現在、認知症ケアが、(少なくとも理念的には)どのような特徴を持つようになってきたのかを示す。次に、2005年頃から私が調査をしてきた団体や人びとのなす認知症ケアの特徴とジレンマをいくつか記述する。

調査対象としてきたのは、主に若年認知症の人の支援の必要性に強く駆り立てられ、理念的な認知症ケアを試みている団体や人であり、必ずしも一般的な実践ではないかもしれない。しかしながら、認知症ケアの理念の展開の先にある「現在」を先鋭的に示す場である。その検討の上で、冒頭のようなとりくみが、そうしたケアの流れといかなる関係にあるのかを明らかにし、認知症の人とともに生きることを可能とするケアを創るために、これから考えていくべき課題を、とくにケアの労働や仕事という文脈と関連付けて提起してみたい(*3)。

(*3)本小論は、井口(2011)のエッセンスを取り出し、その後の調査研究を踏まえた考察を加えたものである。

2.コミュニケーション労働としての「認知症ケア」

認知症(「痴呆」や「呆け」という呼び方がなされてきたが、2004年末より、この用語が用いられるようになった)になるかどうかは、加齢と強く関係している(認知症になる最大のリスクファクターは加齢である)。そのため、認知症の人たちへの対応は高齢者介護やそれと密接に関係する医療の中で問題となってきた。

「高齢者介護」の中で「認知症ケア」領域はいかなる特徴を持ったものなのか。まずは、いくぶん単純化した形ではあるが、ここ何十年かを簡単に振り返ることで見てみよう。

まず議論の出発点として、認知症の人や高齢者などへの介護という仕事を、便宜的に「肉体的・作業的な労働」と「コミュニケーション労働」との二側面に単純に分けて考えてみよう。前者は入浴介助などの実際体を動かして遂行する作業、後者は、相手を気にかけ続けること、相手の気持ちをよい状態に保とうとすること、相手の生活の管理責任を負うことなどの広い範囲のものと捉える。

最初に結論的なことを言えば、認知症ケア領域の誕生と展開とは、高齢者介護において、後者の「コミュニケーション」そのものが対象者への「ケア(配慮)」という意味を持つようになり、仕事・労働と認知されてきたプロセスだと言える。だが、当初よりこうした「コミュニケーション」が労働・仕事という意味を持っていたわけではなかった。

(1)「寝たきり」への介護

「高齢者介護」そのものは、まず「寝たきり」状態への制度的対応として生まれ、その対応のあり方を問題化していくことで生まれてきた(井口2007)。

1960年代には全国社会福祉協議会によって「在宅寝たきり老人」の実態調査などが行われるなど、身体的な障害を抱える高齢者への社会的な注目が生まれ、そうした状態が、まずは対応すべきものとして位置付けられていった。たとえば、1960年代には「寝たきり」が調査の対象となり、救貧的な意味ではなく、「老齢」を入所要件とした特別養護老人ホーム(1963年の老人福祉法を根拠法)が生まれたり、もともとは貧困世帯向けの制度であった老人家庭奉仕員派遣事業(1963年)の所得制限・家族要件、対象の緩和などが徐々になされていく。

また、2000年に施行された介護保険制度の目的のひとつが医療と介護との制度上の区分けであったことからもわかるように、医療制度の中にも老人病院への長期入院(社会的入院)という形で、高齢者が「長期の療養」をする領域が存在してきた(岡本2009:68-76)。

そうした形で存在してきた「長期の療養」の内実の反省を通じて、1980年代に介護という仕事の領域が目立った形でせり出してくる。この頃には、「生活」を重視した北欧の先進的な高齢者介護のシステムと対比させて、当時「長期療養」の高齢者の行き先であった老人病院などでのベッドへの「寝かせきり」の看護が問題化された(大熊2009: 46-54)。そして、適切な離床の働きかけの重要性が言われ、「寝たきり老人ゼロ作戦」(大熊2009: 55-58)や「自立支援」(高齢者介護・自立支援システム研究会1994)などの言葉とともに、今日、介護と言われるような専門領域が生まれてきた。

そこで主に念頭に置かれていたのは、身体的な世話の必要性(「寝たきり」をもっとも下の極に置いた身体的な障害)であり、「寝たきり」が、施設などの職員たちの不作為で「作られた状態」であると指摘される。そして、そうした状態ではなく「本来あるべき姿」でいられるような「はたらきかけ」として介護領域が展開していった。

このような介護実践にも介護者と介護を受ける者との間でのやりとりや意思疎通は存在する。しかし、「高齢者介護」としての議論の対象は、あくまでも何らかの身体的必要に対応した具体的な世話行為であり、そうした行為を「円滑」にできるかどうかを考える範囲でコミュニケーションの問題が位置づけられていた。

たとえば、高齢者に対する世話と言ったとき、第一に不可欠なのは何らかの医療行為や、食事介助などである。だが、徘徊などの「問題行動」を示す者に対しては意思疎通も難しく円滑にそれらを遂行できない。多くの場合、こうした「問題」の典型として、痴呆や呆けが問題視される。痴呆や呆けの人たちは点滴やおむつを外してしまうが、それは適切な世話行為を妨げるノイズとして考えられていたのである。

もちろん、徘徊や異食、妄想などの痴呆の典型的イメージである「行動」そのものが「寝たきり」とは別の困難な問題であることは、とくに家族や現場の介護者には認識されていた。しかし、それは、「寝たきり」への介護を主として、それと質的に異なる特殊な困難として別課題とされてきた。たとえば、対処や改善のしようがないため、「一般の」高齢者の居場所とは異なる、精神科病棟での問題などの、例外的な課題として位置付けられていたのである。そのために、痴呆や呆けと言われる人たちと日々向き合い生きていかなければならない家族やそれに共鳴した専門職たちは、自分たちで課題に向き合って助け合い、社会にその問題をアピールする、家族会活動などを行ってきた。

(2)認知症への関心と「コミュニケーション」としてのケア

1990年代後半から2000年代になってくると、痴呆・呆けという状態への関心が高まり、高齢者介護の本流の課題に合流してくる。徐々に痴呆・呆けの人たちの気持ちに配慮することそのものが重要なケアだと捉えられていくのである。それは、痴呆の人たちそれぞれの気持ちに目を向けやすくする、「個別ケア」を可能とするような施設づくりやケア実践の導入・模索と重なっている。

私は、1980年代から痴呆や呆けを取り上げてきたNHKの医療福祉番組を、アーカイブスのデータベースから検索して時期ごとの特徴を検討する研究を行ってきた。そこで作成したリストからテーマの変化を見ると、90年代後半には、グループホームなどの小規模な環境でのケア実践が頻繁にとりあげられ、2000年代初期にはその人の生きた過去を話題に施設の仲間やスタッフとコミュニケーションをとる方法である回想法が紹介されるようになってくる(井口2013)。

こうした番組の「取材対象」は、その時代の先駆的取り組みだが、それらの映像では、身体的介護よりも、痴呆の人たち同士や痴呆の人たちとスタッフとのコミュニケーションの様子、普段の生活の落ち着いた様子などが描かれている。こうした具体的なコミュニケーションに関わるケアの方法などとともに「認知症(痴呆)ケア」と呼ばれる領域がプレゼンスを増してきたのである。

「コミュニケーション」が前面に出てきたのは、まずは「問題行動」と呼ばれてきた症状を抑えて介護を楽にするうえで、本人の気持ちを知ることやコミュニケーションのあり方が有効だと分かっていったためである。だが、1990年代後半あたりからは、介護を楽にするといった手段としての有効性だけでなく、徐々に「本人の思い」を大事にすること自体がケアの目標として強調されるようになっていった(永田2003)。

2000年度に「自立支援」を理念とした介護保険制度がスタートした後、「本人の思い」を重視した「認知症ケア」の領域は形をより明確にし、介護保険制度を中核とした高齢者介護政策における中心的な話題となっていく。たとえば2004年度に京都で開催された国際アルツハイマー病協会国際会議の前後から、認知症と診断された本人(主に40代から50代で発症した「若年認知症」とされる人たち)が公の場に登場して経験や気持ちを表現するようになり、本人の「思い」の存在が言語という明確な形で示されるようになった。また、今後の高齢者介護のあり方として、本人の「思い」によりそい、「尊厳」を守ることが課題とされ、高齢者介護全体が「寝たきり」の人の「自立支援」ではなく、「痴呆ケアモデル」に基づいて設計されるべきという方向性が示されていった。

このケアモデルの中では、「プライド」を感じる「思い」を持つ痴呆性高齢者像と、「思い」を持つ本人が環境への適応行動をとることで「行動障害(周辺症状)」が生まれるという症状の説明モデルが示され、それゆえに本人の「思い」へ配慮することが重要なケアだとされた(高齢者介護研究会2003)。

こうした周囲からの関わりのあり方や環境整備がケアとなるという認識は、認知症に関する医療からの知識の発信と、その普及にも後押しされ強調されている。「認知症は脳の変性から生じる不可逆的な症状群であり、その症状群は、中核症状と周辺症状に分かれる。そして周辺症状は、中核症状(記憶障害や見当識障害など)を持つ本人が、環境との不適合の中で対処することで出現していくので、周囲の対応の仕方によって悪化したり和らいだりする」という症状の発現のモデルは(小澤2003など)、医療の中にも蔓延していた治療への諦めに抗して、先駆的な実践者の間でそれまでも語られ書かれてきたことであった(室伏1998など)。

そうした見解が、とくに2000年前後に、それまで蓄積された臨床経験や施設などでのケア実践、外国での実践に基づく理論書などとともに示されて(Kitwood,1997=2005)、そのモデルの確からしさを高め、現在では一般向けの本や政策文書などで広く示されるようになってきている。

3.「新しい認知症ケア」の時代

以上のように、認知症ケアが高齢者介護の中心的課題となってくることとは、コミュニケーションそのものがケアの意味を持つことが認知されるようになってきたことと等しい。このような大まかな流れの延長上に「現在」の認知症ケアがあるが、そうしたコミュニケーションとしてのケアが、2000年代に入った後、どのような文脈に置かれているのか、以下で確認してみよう。

(1)「地域」を舞台とした認知症ケア

コミュニケーションとしてのケアは、最初は施設の小規模化やグループホーム実践として論じられてきたが、2000年代に入って強調されてきているのは「地域」でのケアである。

2005年度における介護保険制度の一度目の改定の方向性を示した青写真である『2015年の高齢者介護』(高齢者介護研究会2003)という報告書で、介護政策の方向性として「寝たきりモデル」から「痴呆ケアモデル」への転換が強調された。

その「痴呆ケアモデル」に対応するのが「在宅」とも「施設」とも異なる「地域密着型」と呼ばれるサービス群であった。そこで示された象徴的なサービスモデルが、以前から草の根的に生まれてきた宅老所をモデルとした小規模多機能型居宅介護である。これは、通い、泊まり、訪問という在宅サービスすべての提供、居住する地域の事業所へ登録制という形をとるサービスで、認知症の人の生活全体を「面」で支えることを企図している。

この小規模多機能型に典型的に示される「地域密着型」とは、いわば在宅と施設との「あいだ」の拡充を目指した発想である。介護保険制度開始前後までにイメージされていた、自宅で高齢者自身がホームヘルプサービスなどを組み合わせて利用して生活する「自立支援」よりも、グループホームやデイサービスなど、共同で生活や時間を過ごす場の「効果」に注目が集まる。とくに「通い」は宅老所の中核的な機能であり、介護保険制度の在宅サービスとしても以前からデイサービスとして一般的に利用されてきた。そのサービスは、家族の介護負担の軽減だけでなく、介護を受ける者の生活を、自宅や施設で完結させるのではなく、他のさまざまな利用者などもいる場を含めて作っていくという意味も持っている。

フォーマルな介護サービス内においてはこうした「通い」を中心とした場が、「地域」として認知症ケアの「舞台」と位置付けられていく。そこにおけるコミュニケーション労働は、限られた空間や人の間で完結しがちな特別養護老人ホームや、家族の生活に一時点的に入って、その家族の生活時間に合わせて手助けをするホームヘルパーとは異なった状況で行われる。自分の「住まい」や、主たる介護家族といういわば私的領域を生活の中心に既に持つ「利用者」に対して、別の場所で日中6~7時間ともに過ごすことを中心とした仕事となるのである。また、その場は、他利用者を含め多くの人がかかわりを持つ場ともなり、利用者だけでなく、利用者の背後にいる家族などについても意識をしてケアを行うことも重要になってくる。

(2)「早期対応」という志向

また、「早期発見・早期対応」という予防的な発想の強まりにも注目する必要がある。医療において「予防」は、疾患の状態が悪化しないようにあらかじめ介入を行うことを意味している。65歳以上の健康診断における「特定高齢者」の割り出しと運動療法的な活動を中心とした介護予防事業に見られるように、高齢者介護全般において「予防」の発想が強まってきているが、認知症ケアでも例外ではない。むしろ脳の疾患であるため「医療」が深く関わりながら、そうした発想がケアの中に入ってくることになる。

これまでの認知症介護は、重度認知症の人の「問題行動」に周囲がいかに対処するか、本人の安全をいかに守るかなどを中心課題としたものだった。「医療」はこれまでも関与してきたが、その「医療」とは、主には、もう回復しようがないことを前提にした精神科病院への入院対応などであり、誤解を恐れずに言えば「放置」的なものであった。

それまでの「なってしまったら終わり」というイメージに対して、主流の医療から外れた介護などの現場で、環境の整備、コミュニケーションの改善などで、何らかの「効果」が見込めることが示されてきた。また、先に述べたように、医療の枠組みの中で、認知症の「中核症状」と「周辺症状(行動障害)」という区分が示され、適切な対応で後者を和らげられることが一般的な認識となってきた。そうした流れの先に、進行を遅らせる薬の使用や、薬を適切に使用して認知症の状態をうまくコントロールして生活を送っていくことを目指すような志向が現われてきている。場合によっては、本人に自覚がある内に「診断」を受け、その後「重度になること」を意識し、その進行と向き合っていく「療養」がなされるようになってきている。

このように、「進行」「変化」という時間の流れを示す概念が認知症の人への介護に現れることで、認知症の「軽度」段階から先を見越してケアを行うことの重要性が強調されるようになってきた。軽中度の段階から認知症について気にし、その進行を「予防」的に見越し関わっていくようなデイサービスが生まれたり、「進行」に何らかの影響を与える「効果」を既存のデイサービスが期待されるようになっていく。このような雰囲気の中で、認知症の人が利用者としてデイサービスなどの「地域」に現れ、そこでコミュニケーションを重視したケアが展開されていくことになるのである。

4.あるフィールドにおける認知症ケア

3節で見たような、2000年代に入ってからの「地域」と「早期対応」という特徴が先鋭的に現れている場で、「コミュニケーション」としてのケアはどのような形をとり、どういった課題を抱えるのか。2005年頃から私が調査をしてきたあるデイサービスでの実践を主な事例に、そのことを見ていこう。

2000年代に入ってからの認知症ケアの特徴が、現場ではどのように現われているのかを掴むために、私が主に調査を行ってきたのは、40代から50代を中心とした、男性で言うと「定年退職」前の年齢で認知症と診断された「若年認知症」の人たちへの支援を中心とした取り組みである。それらの取り組みは、認知症の本人の語りを聴いたり、本人の講演をサポートしたりと、2000年代の新しいケアの理念を典型的に示す内容も含んだ支援であった。私は、そうした場での観察や、関わる人たちへのインタビューを行ってきた。

(1)デイサービスX

その一つに、開設以来、認知症の本人に「よりそう」ことを理念に実践を行ってきたデイサービスXがある。このXでは、認知症の度合いが軽中度(要介護度1、2くらいまでの人が多い)の利用者が中心で、若年認知症の人も数人利用している。大学病院の脳神経内科医とのつながりが強く、医療的な認知症への対応も重視され、認知症の「進行」「重度化」を意識しながら日々のケアがなされている。行き場が無くなり介護が困難になることが多い若年認知症の人たちと家族が集まる会を開催したり、在宅で介護をする家族の相談を施設長が積極的に受けたりと、通常のデイサービスの運営とは別立てで、在宅でのくらしをサポートする活動を行っている。

商業ビルの一室にあって、デイサービスらしい雰囲気があまり無いXでは、体操や歌、陶芸や絵画などの「習い事」のようなプログラムを設けながら、利用者とスタッフが会話をするといった1日が過ごされている。スタッフは介護士、看護師といった職種にかかわらず交代でそのプログラムの進行を担当し、日中も利用者の傍らに座って話をしたり、トイレの問題や徘徊などがあるときには、さりげなくサポートを行っている。

たとえば、入浴サービスがあるデイならば、家庭での充足が難しい入浴ニーズを満たすことを目的に一日が編成され、スタッフもそれに追われる。しかし、Xでは、一日の時間をその人の傍にいてとくに分かりやすい目的なく過ごすような仕事が多くを占めている。何かあらかじめの確定したニーズに対して介護行為をするというよりも、来た人がそこにいられる場を作る仕事と言える。

Xにおいて、このいられる場は、無為に時間を消費することで成立しているのではなく、スタッフは意図的なコミュニケーションを通じてその雰囲気を作り出そうとしている。スタッフの多くは、利用者とのやり取りで、「穏やかになること」や「笑顔を見られること」など、落ち着いた状態や良い感情を引き出せることをケアの成果として語っていた。

ただし、最終的なケアの目標が、Xの場で利用者の良い姿が見られることであるかというとそれは少し違うようであった。たとえば、スタッフたちは、「利用者が穏やかになることで自宅に帰ったときに家族の介護が楽になる」ことや、「本人が家族に帰ったときに穏やかな状態にあることで、デイサービスに行く意味を家族が強く感じることができる」ことの大事さを強調していた。つまり、Xの場で利用者がいい状態になることが、生活の中心である家族の場に対して何か重要な影響を与えていると考えているため、相手の「笑顔」や「穏やかさ」が仕事の目標と位置付けられていたのである。

(2)「いる」ために「できる」?

このように、Xは、その人が多くの時間を過ごす家族での関係も視野に入れて、認知症の人が「いる」ことのできる場所を作るという支援を試みていた。だが、同時に、私が気づいたのは、Xでは単に「いる」ことが強調されるだけでなく、やってくる利用者にとって何かが「できる」ことを感じられるような場作りを試みていたことであった。

ある利用者Aさんは、認知症と診断された後、会社を辞めざるを得なくなった。同居家族からは難しいと捉えられていたが、Aさん自身は求職情報誌を読むなど、再び働きたい気持ちを持っていた。そのため、スタッフは家族と協力して、認知症という病気の意味は曖昧にしたままに、Xを「仕事の場」として設定し、通ってきてもらうよう試みていた。具体的には、Xでの昼食の配膳や椅子の移動などを、Aさんの仕事としてやってもらうこととし、それに対する対価として、あらかじめ家族がスタッフに渡してあったお金を月末にAさんに給料として渡すという試みである。こうした「フィクション」をXという空間において作ることがスタッフの仕事なのである。

以上は顕著な例であるが、Xはもう少し日常的に「できる」という意味が保持されるような場作りをしている。日中の芸術やレクリエーションの活動を、講師を呼んでカルチャーセンターのように行ったり、決して賃料の安くない街中のビルの一室での営業を維持したりするなど、何かをするために集まってくる雰囲気を作っているのである。このように「できる」ことの強調は、「いる」ことの強調と反するように思えるが、なぜそのような実践がなされているのであろうか。

物忘れなどの生活の支障を経験し、認知症と診断されていく本人や家族にとって、認知症の経験は、それまでとは「異なる人」に変容していく経験である。認知症を脳の疾患として正しく理解することの必要性が強調されているが、生活においては「認知機能」を中心とした「能力」に関わる変化として現れ、多くの場合、他者との間で形成される社会生活において「できなくなる」経験となる。そして、その変容を見守る者(本人、家族)にとっては、本来あるべきもともとの姿から離れていく経験になる。主に中軽度の認知症の人が通ってくるXでの支援は、本人、家族がそうした変容プロセスのただ中にいることを前提に行うものとなる。

こうした経験をしている人たちにとっての「いる」ことのできる居場所を作るという課題に対して、理念的に考えれば、変容し、できなくなっていくことに適宜合わせた集団や場を作ることがもっとも望ましいのかも知れない。たとえば、それは「できなくても問題ない」場や、「できる」ことの意味を大きく変えてしまうような場を作ることである。

しかし、認知症の経験とは、本人にとっても家族にとっても、それまでの姿と変化した姿とが混じり合いながら、日常生活の中で徐々に変容を味わっていく経験である。とくに、そうした変容の初期、一般的には認知症の軽中度と言われる時期の「その人らしさ」は、本人や家族にとって、その人の「それまでの姿」に引っ張られたものとなりがちである。

たとえば、ある介護家族(妻)は、認知症となった現在の夫の姿を、定年退職するまでの夫を知る会社仲間や近所の人に見せて「面子」を失うことを怖れ、生活の場を、自分と夫との二者関係に限定しようとしていた。また、デイサービスなどの「福祉」の場に行くことは以前の夫の姿やその姿を前提とした自分たちの理想像を壊すものと見なしていた。そのため、それまでの姿を、二者関係の範囲内で、さまざまな方策を用いて保持することを、とくに妻にとって夫のその人らしさを守ることと捉えていた。

そのような家族や本人の意識に向き合い、可能ならばXとつながってもらうことが、まずはXの重要な仕事となる。本人や家族は、認知症でそれまでの姿から離れていく中で「できない」存在であることを痛感していく。しかし、すぐに「できる」価値観から離れることは困難である。そのため、本人や家族にとって「できる」ことが感じられるようにはたらきかけたり、場を作ったりしようとしている。認知症の人にとっての「いる」場所とするためには、何かを「する」「できる」場所だとまずは感じられる必要があるのだ。

また、「できる」場所をフィクショナルに作ることは、家庭内からXに出てきてもらうためだけになされているのではない。Xに出てきて、それから認知症を抱えて生きていく上での中核的な支えとして、そうした雰囲気が重要な役割を果たしている例もある。

大学病院の神経内科医とつながっているXでは、先駆的な認知症医療の協力も「できる」場所を作るための資源となっている。Bさんは、「治らない」ことは自覚しつつも、Xにきちんと通うこと、認知症の進行を遅らせるアリセプトという薬を飲んで現在の状態を維持すること、時々に新薬の治験に参加することなどが「自分を高める」と語っている。Bさんの妻も、薬を飲んだ後のBさんの状態に関して、「調子がよくなったね」と声をかけるなど、薬の効果としてよくなったという感覚を与える働きかけを自宅で意識的にしているという。

一般的に、「治療」に従事することは、働くことなどの通常の社会的役割からの一時的な免除の正当な理由となる(Parsons 1951=1974: 431-4)。原因疾患を診断された認知症は、医学的には不可逆的な疾患であり、現在は根治できない。だが、専門の医療などを通じて病気の進行への抵抗を可能としている場所として意味づけられることで、少なくとも「治療」を「する」存在となることはできる。すなわち、働く姿そのままの保持ではないが、それまでの姿と同居できる「患者」という意味づけを獲得しやすい場を作っていると言うことができる。

5.新しい認知症ケアのジレンマと展開・課題

(1)Xでのジレンマ

以上で見てきたXの実践は、進行する認知症を抱えた、いわば「境界に位置する」「どっちつかずの」状態に置かれた人のための居場所を作るために試行錯誤して工夫を試みている実践の一例である。それはとくに軽中度認知症の人の「その人らしさ」を何とか維持しようとする先進的な試みである。しかし同時に、認知症の人たちの生全体に何とかよりそおうとする仕事が潜在的に有するジレンマもそこに見ることができる。

Xでは、認知症の症状がいつかは「進行」することも見据えてさまざまな対応がとられている。たとえば、Xを利用して在宅生活の維持が困難となるくらいの重度になる時点が来ることを見越し、早めにX以外の複数のデイに通って、重度状態になった際にスムーズに移行できるように家族にアドバイスしている。それは進行性の疾患として見たときに否定できない認知症の「進行」という現実を見据えると、本人や家族にとって明らかに重要なことであるが、同時にXという「いる」場所を維持するために止むを得ないことでもある。

あるスタッフによると、Xに来ている人たちは「ある程度認知症ってわかって来ているが、物忘れがここに来れば維持できるか、ひどくならないで済むという認識がある」。そうした場所に、黙って座っていることが難しいとか、それまでやっていた絵画などを描くことができなくなるなど、認知症の「進行」が見られる人がいると、Xという場所の持つ意味・効果の信憑性が失われてしまう。したがって、「進行」した人がXにいることは望ましくなく、次の場所への移行が重要だとされる。

また、こうした移行は、「進行」した本人の「思い」を考えた際にも必要なことだと説明される。「本人も周りから変な目で見られたら、仲間意識からも疎外されてしまう。そういう思いが、伝わってきだしたら[本人にとっても]楽しくないとこだっていうこと」になってしまう。他の人と同じようにしていられないほどに「進行」してしまった状態でい続けることは、本人の「思い」にそうことに反するとも解釈されるのである。

認知症の進行を前提にすると、ある状態より先に「進行」してしまった人に対して、Xでは直接的にはどうすることもできない。そのため、先々のリスクを見越した予防的な対応や、できている「現在」を大事にすることを、Xでの仕事として優先せざるを得ない。

Xの責任者は、「本来ならば看取りまでできる場を作りたいのだが」と、こうした現状へのもどかしさを語っている。衰えていくことを前提に、重度になった先も含めたその人の全体の生を見据えていこうとするならば、そこに集う人たちにとって「できる」場所という意味を維持しつつ、個々人の認知症の「進行」に関しては、その先の場所を見通し、そこにうまく馴染めるよう早めに調整するしか方法はない。だが、それは、その人との直接の関わりをある時点で断念せざるを得ないことであり、その先にその人がどうなっていくかは運に委ねられ、事態への関与も難しくなっていく。そのため、「進行」していくことも含めて認知症の本人を支えていこうという理念を強く持つ人にとってはジレンマの経験になる。

こうしたジレンマは、一つは、変化や衰えを示す認知症とされる人へのケアを場所や段階で区切って、その役割を分業した仕事とすることの困難さを示している。「その人らしさ」によりそうといった高い理念的目標を設定した仕事であればあるほど、その理想とのギャップが問題となる。また、老いや衰えという変化を、認知症概念を強調して、より明確な医療の論理・段階モデルを援用してケアしていくことは、その人や家族にとっての生きる支えとなる物語を作る強力なフレームとなるが、同時にそれを貫徹することの難しさにどこかで直面する可能性を含みこんでいる。

(2)区切らない試み

以上で見てきたような認知症ケアとおおもとの理念を共有し、そこで突き当たるジレンマを踏まえ、その乗り越えを企図した試みとして、いくつかの実践を位置付けられる。

たとえば、冒頭で見た、社会の中に認知症の人が気軽に出て行ける場所を作ることや、関わってくる人を増やしていこうとするDFCの活動は、そのバリエーションの一つではないだろうか。

Xの実践では、介護サービスの一類型のデイサービスにおいて、「できる」場をフィクショナルに設定し居場所としようとするものだった。しかし、Xという場を「できる」場所として維持することと、そこにさまざまな人にいてもらうこととの間にジレンマが生まれていた。そう考えると、理想的には、そうした一部の場に限定せずに、認知症の人が「できる」と感じられる場所をたくさん作ったり、あるいはそうした場を認知症の人が必要としていることを感受する人を多く作ったりした方が手っ取り早く、それは結果的に「フィクション」ではなく「現実」に近づく。

たとえば、DFCの活動の中核を担っているある団体は、日頃から外部のデイサービスからの仕事の発注を受ける形で、認知症の人たちが活動できる場を作り、入ってくる謝礼を給与として認知症の人たちに渡すという支援を行っている。このように限定された場でのコミュニケーションという形の認知症ケアを超えていく試みに展開し、デイサービスで介護を行っている専門職などもそうした試みにコミットして行く。その延長にDFCのような活動があるとも言えるのである。

また、これまでの認知症の人に向き合ってきた実践の歴史の中に、Xで見られたようなジレンマを無くそうとする試みを発見することもできる。それは、たとえば、いくつかの宅老所における、認知症の重度化、あるいは認知症かどうかという区別をとくに重要な区別とせず、「誰でも受け容れる」ことを原則とした場を作っていく実践である(伊藤2008など)。そうした場で、身体性を伴った直接的ケアと、その人の生きてきた姿やその先を考えることを分離せず同時に行っていく。そこから、あらかじめ決まったサービスに、今いる人を合わせるのではなく、その人に必要があるならば、泊まりや訪問などの仕事内容を生み出していく方向に向かい、結果として通い、泊まり、訪問を備えた実践となっているのである。

こうした新しい取り組みや、宅老所のやってきたことが示しているのは、認知症となったその人の全体に関わり続けようという理念を突き詰めると、その活動はある限られた空間に収まらないことになったり、必要に応じて変化する「運動」となったりしていくということである。縮めて言うならば「区切り」を設けることが難しいのだ。

(3)区切らない試みの文脈

以上で見てきたような「区切らない」試みは、認知症の本人の「その人らしさ」へよりそう理念を追求していく先に自然と生まれてきたような実践と言える。そのことを確認した上で、最後に、それを仕事や労働といった文脈に置いたときに浮かび上がってくるいくつかの考察課題を指摘しておこう。簡単に言うと、課題は、その理念の追求が、労働・仕事という枠内をはみ出した性格のものとなってしまうことをどう考えるか、である。

いわゆる賃金の授受を媒介とした仕事や労働の範囲でそうした実践を追求しようとするならば、そこでなされていることをどの程度のものと評価し、どのように保障するかが課題となる。ここまで見てきたように認知症の人の「その人らしさ」を大切にし、かつ長期的に関わり続けていこうとしたとき、強いコミットと多くの人が必要とされる。しかし、その試みは一般的な介護のイメージから離れ、見えにくい。それをいかなる形で目に見えるようにし、評価の対象にしていくか。

介護保険制度には、2005年の改訂で先に見た「区切り」を越える宅老所のやり方をもとにした、小規模多機能型居宅介護と呼ばれるサービス類型の一つが生まれた。このサービス類型では、受け入れた認知症の人の数および程度に基づいて事業者の得る介護報酬が決まる包括的なものになっている。これに対して、その仕事を支える収益(その多くは人件費となる)に直結する点数的な評価が「コストに対応した報酬になっていないこと」が現場から指摘されてきた(土本2010: 152-162)。

もちろん、うまく経営している事業者の例もあるだろうし、合理的な額がいくらかどうかという点はここでは論じられない。ここで確認しておきたいのは、おそらく原理的には、認知症となったその人の全体に関わろうとしていくとき、かける時間や労力は今よりも大きくなり、状況の変化に応じて変動していくということである。たとえば、外に出ていきたい人と付き合おうとする際に、建物の中にとどめておくことが一番楽であり、また、何とか帰ってきてもらうことを目的として付き合うこともできる。しかし、その人のしたいことによりそおうとしたときには、外に出ていくことを楽しむことを支援するということになる。その場合は、必ずしもすぐに帰ってきてもらうことが目的ではなく、一緒に「歩く」こととなる。そして、その「歩く」ことの意味も常に同じではないため、考え工夫をし続けることとなる。

制度の中での仕事や労働として位置付けるのならば、こうした非定型に拡張していく活動をどのように評価し、それを続けていくことをどのように保障していくかが一つの課題となるだろう。

しかし、こうした「活動」は、介護保険制度の枠内で考えるべきではないという考え方もありうる。実際に、「区切らない」試みを行ってきた者たち自身も、介護保険制度に縛られることによる活動の制限を煩わしいものと捉え、ボランティアなどを入れた助け合いの重要性などを指摘し、そうした「活動」を現実化してきた。その意味では、認知症の人によりそうという理念を追求していくと、いまある形の介護労働や仕事の外にある活動としてそれがなされることになるのは自然なことなのかもしれない。

ここで注目すべきは、介護保険制度を含めた介護・医療システムの流れ(地域包括ケア)も同様に地域におけるインフォーマルな支え合いを強調しているということである。たとえば、認知症ケアの今後のあり方の青写真である「認知症施策推進5か年計画(オレンジプラン)(*4)」では、「地域での生活」を支えることを目標においた上で医療やケア連携のあり方、サービスなどについての具体的課題が示されているが、その中で、認知症地域支援推進員や認知症サポーターの養成などインフォーマルな支え手の目標値が示されている。こうした動きを批判的に考えるならば、「本来制度の内で行われるべきもの」の切り下げを、「地域の可能性」の強調が代替する形を構想しているという評価もできるだろう。実際に高齢者への介護供給システムの中核をなす介護保険制度は、複数の改訂を重ねる中で、軽度者の利用を制限するという方向に動いている(*5)。

(*4)認知症施策検討プロジェクトチームがとりまとめた「今後の認知症施策の方向性について」や認知症高齢者数の将来推計などに基づいて、平成24年9月に25年度概算要求とあわせて策定された。http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000002j8dh.html

(*5)たとえば、2005年の介護保険制度の改訂において要介護度1に当たる数を減らす形で要支援が1と2の二段階になった。その後、社会保障国民会議などで要支援のサービスを介護保険制度から外し市町村に移管することなどが提起され、その是非が議論になっている。

だが、やはり他方で、「地域」や「助け合い」という言葉が説得力を持って私たちに訴えかけてくること自体も否定できない。その背景には、一つには、「軽度」の人まで範囲を広げた場合の認知症になる人の数の多さがある。オレンジプランにおいては「認知症高齢者の日常生活自立度Ⅱ」(日常生活に支障を来すような症状・行動や意思疎通の困難さが多少見られても、誰かが注意していれば自立できる)以上を基準に認知症の人の推計上の増加が強調されている。

その数を背景にすると、認知症の問題は地域で生活をする自分や自分の家族の問題としてもありうるように思えることであり、リスク感を喚起する。そのために、その問題は自分たちとは関係ない悲惨な人たちの問題ではなく、自分たちが経験するかもしれない問題としても感受され、まちづくりなどの一般的課題と結び付いていくことになる。認知症の人たちへの支援の活動が、障害者や生活困窮者などの問題よりも「ユニバーサルデザイン」的なものとして受け入れられやすいのもこうした背景があるだろう。

このように仕事・労働との関係を考えると、「新しい認知症ケア」は微妙なバランスの上にある。だが、こうした地域での活動に向かっていく動きがある程度否定できない流れならば、その動きそのものを批判的に評価するだけでは不十分だろう。このようにインフォーマル領域にいろいろな課題の解決を求めていったときに、そこでどのような分断が生まれてくるかを課題として意識し、それを捉える方法に敏感になっておくことが重要である。

「活動」的な領域につながることができたり、参加できたりする認知症の人とはどういった人たちなのか。それは認知症の軽重ももちろんあるだろうが、ひょっとしたら認知症になる前の社会関係が影響をしているのかもしれない、あるいは、ケアをする家族の有無や、その家族の持つ資源が運命を分けるのかもしれない。このように、仕事や労働の外にケアが拡散していったときに、その理念に照らして、結果として現実がどうなっていくのか、その行く末を丁寧に見ていくことが必要とされている。

参考文献

井口高志2007『認知症家族介護を生きる――新しい認知症ケア時代の臨床社会学』東信堂.

井口高志2011「新しい認知症ケア時代のケア労働――全体的にかつ限定的に」仁平典宏・山下順子編,『労働再審 第5巻 ケア・協働・アンペイドワーク――揺らぐ「労働」の輪郭』大月書店:127-159 .

井口高志2013「映像の中に見る認知症の人の「思い」――ぼけ・痴呆・認知症をめぐるケア実践の社会学」副田義也編『シリーズ福祉社会学② 闘争性の福祉社会学――ドラマトゥルギーとして』東京大学出版会: 151-172.

伊藤英樹2008『奇跡の宅老所「井戸端げんき」物語』講談社.

Kitwood, T., 1997a Dementia Reconsidered: The Person Comes First, Buckingham: Open University Press (高橋誠一 訳 2005 『認知症のパーソンセンタードケア──新しいケアの文化へ』筒井書房).

高齢者介護研究会2003『2015年の高齢者介護──高齢者の尊厳を支えるケアの確立に向けて』.

高齢者介護・自立支援システム研究会1994『新たな高齢者介護システムの構築を目指して』

室伏君士1998『痴呆老人への対応と介護』金剛出版.

永田久美子2003「痴呆ケアの歴史──なじみの暮らしの中の作業の重要性」『作業療法ジャーナル』37(9): 862-5.

大熊由起子2010『物語介護保険(上)――いのちの尊厳のための70のドラマ』岩波書店.

岡本祐三2009『介護保険の歩み――自立をめざす介護への挑戦』ミネルヴァ書房.

小澤勲2003『痴呆を生きるということ』岩波書店.

Parsons, T., 1951 The Social Systems, New York: The Free press.=1974佐藤勉訳『社会体系論』青木書店.

土本亜理子2010『認知症やひとり暮らしを支える在宅ケア「小規模多機能」』岩波書店.

上野千鶴子2011『ケアの社会学――当事者主権の福祉社会へ』太田出版.

仁平典宏2011『労働再審<5>ケア・協働・アンペイドワーク』大月書店.

サムネイル「11470023」SungHsuan Wang

http://www.flickr.com/photos/wasimark/611086187/

プロフィール

井口高志福祉社会学

1975年山梨県生まれ。奈良女子大学生活環境科学系准教授。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(社会学)。主著に『認知症家族介護を生きる――新しい認知症ケア時代の臨床社会学』(東信堂、2007)、最近の論考に、「閉じること/開くことをめぐる問い――家族介護を問題化する〈まなざし〉の変化を素材として」『支援vol.3』(生活書院、2013)

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