2014.06.06

精神病棟転換型施設を巡る「現実的議論」なるものの「うさん臭さ」

竹端寛 障害者福祉政策 / 福祉社会学

福祉 #精神障害#精神病棟転換型施設

たとえば、ワープロの業界が「私たちが存続できるように消費税を出してほしい」と言ったとしよう。あるいは、ワープロを使って仕事をする人が「私たちの収入を護るために消費税を」と主張したとしよう。それらの主張が聞き入れられ、「ワープロ存続基金」が消費税増税分の補助金から使われる事になったとして、あなたは納得出来るだろうか?

たぶん、大半の方は、一笑に付すだろう。その理由は簡単。ワープロがなくてもパソコンを使えば文章は書けるし、パソコンが世界的に普及しているいま、わざわざワープロに税金を投入して保存するだけの価値が見いだせないからだ。民間企業なら、定年間近のお父さんも、「食べていくために」パソコンの使い方を必死になって覚えた。ワープロを生産していた企業も、パソコンやその他の製品へと製造開発をシフトしないと、倒産した。そこに、国庫補助金が入り込む余地は、当然ない。

ところが、すっかり時代遅れとなった生産様式を続けるために消費税増税の基金900億円の一部を投入しようと厚労省が本気で検討している出来事がある。それが、精神病棟転換型施設構想を巡る問題の本質だ[*1]。

[*1] この問題の歴史的経緯や論点については、杏林大学の長谷川利夫氏の文章を参照。

この「精神病棟転換型施設構想」とは、精神科病院の「不必要になった病床を有効活用」するために改築し、そこを「地域移行施設」などとして提供しよう、という構想である。日本の精神科病院では、長期に社会的に入院している患者が多くて、退院がなかなか進まない。しかも、長期入院患者は、比較的高齢化している。であれば、病院を一部改造して「入所施設」にすれば、長期入院患者にとって「終の棲家」になるではないか。そんな構想である。厚労省は、この構想の実現を目指し、来年度予算への反映を目指して6月中にも議論を終える勢いで、急ピッチで検討を進めている。これが、なぜ「時代遅れの生産様式」なのだろうか? そして、この構想の問題点とは、どんなところだろうか?

時代遅れの生産様式

そもそも、精神障害者「だから」精神科病院に入院する「しかない」というのは、世界的に見てもまったく「時代遅れの生産様式」である[*2]。だが残念ながらこの国では、この「時代遅れのシロモノ」が、未だに幅をきかせている。精神科病床が34万床あまりあり、諸外国に比べて人口比で4倍以上。長期入院患者も、世界で類を見ない多さである。諸外国は、地域での支援体制を充実し、薬物治療の効果的活用も相まって、1970年代からどんどん精神科のベッドを削減している。出来ていないのは、先進国においては日本だけである。

[*2] 日本でも、「病院からは出られない」とラベルを貼られていた人々を地域の中で支え続ける実践(=先駆的な生産様式)が各地で展開されている。例えば『精神障がい者地域包括ケアのすすめ』(高木俊介監修、批評社)を参考。

その最大の理由は何か。それは、精神科病院の9割を占める民間精神科病院の経営者団体である日本精神科病院協会(日精協)と積極的な関与を放棄していた厚労省、日精協から多額の献金を受けてきた政界との、癒着・固着関係がある。他国で精神病床の削減がドラスティックに進んだのは、「入院の必要のない患者に高額な医療費をかけることは、人権侵害であるだけでなく無駄遣いである」というまっとうな発想がある。大半の精神科病院が私立であるベルギーでさえ、保健省のリーダーシップで「病院から地域へ」という改革に乗り出し、成功させている。

これは、知的障害者や身体障害者の入所施設でも同様の傾向である。重度障害者であっても、沢山の支援が必要であっても、隔離収容せずに地域で普通の市民生活が出来るように支援する、というのがグローバル・スタンダードになっている。福祉政策の理念としてしばしば提唱されてきた「ノーマライゼーション」という概念は、障害のある人にもノーマルな(他の者との平等の)社会的環境を提供すること、という意味である。この2月に日本が批准した国連障害者権利条約第19条の中でも、障害者が「特定の生活施設で生活する義務を負わないこと」が明記されている。障害者が精神科病院や入所施設以外での暮らしの選択が出来ないのは、明らかにこの権利条約違反でもある。

だが、日本では精神科病院も、そして入所施設も、いっこうに減らない。背後には、民間の医療法人や社会福祉法人が「既得権益」化して、入院・入所施設を「ドル箱」として維持しようとする姿勢があり、その収容政策に安易に乗ってきた厚労省との癒着・固着関係がある。厚労省は、イタリアやスウェーデン、アメリカなど世界各地での地域移行や入所・入院施設の削減という実態を知っている。それが出来ていないのは日本だけだ、とも知っている。だが、精神科病院や入所施設に強い姿勢でその過去の生産様式からの脱却を迫れない。入院患者や入所者の「声なき声」よりも、政治家との太いパイプをちらつかせながら自らの業界の保護を声高に主張する精神科病院や入所施設の経営者の声を聞き続ける、癒着関係があるからだ[*3]。

[*3] 日本の精神科病院と厚労省の半世紀以上にわたる癒着関係や、精神病院なしで地域支援を当たり前に行っているイタリアの実情などは、『精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本』(大熊一夫著、岩波書店)に具体的に描かれている。

こういう癒着関係が、まさか21世紀日本でも続いている、とは想像したくもない。だが、先日のネット記事を読んでいると。どうやら私の「妄想」ではないらしい。

既得権者の「本音」

先日開かれた厚生労働省の検討会の詳細を報じるウェブニュースの一部を引用してみよう。

<精神病床の削減、どうやって実現?- 厚労省検討会の作業チームで議論>

2014年5月21日 キャリアブレインニュース

厚生労働省の「長期入院精神障害者の地域移行に向けた具体的方策に係る検討会」の作業チームが、3回目の会合を開いた。この日の議論では、長期入院している精神障害者を地域社会に戻すためには病床削減が不可欠とする意見が大勢を占めた一方、その実現の難しさを指摘する声も上がった。

(略)

千葉潜委員(青仁会青南病院院長)は、長期入院している精神障害者をグループホームに移行させた場合、赤字経営を強いられる可能性が高いとする試算を紹介。それでもあえて入院患者の地域移行を進める病院は、精神医療の改革を意識した良質な病院であるとし、「そうした病院が病床を減らしても食べていけるような裏付けがなければ、長期入院する精神障害者の地域移行は進まない」と訴えた。

葉梨之紀委員(日本医師会常任理事)も、現行制度では民間の精神科病院が自ら病床を削減するのは、ほぼ不可能に近いとし、「削減を進めるための、なんらかの新たなモデルが必要」と述べた。

民間精神科病院の経営者が、「病院が病床を減らしても食べていけるような裏付けがなければ、長期入院する精神障害者の地域移行は進まない」という。これは、自分の病院に長期入院させている患者を外に出そうとするなら、その「裏付け」=財源保障がないと、「出来ない」という論理である。治療上の理由ではなく、経営上の理由で退院させられない、との本音である。

また、その日精協幹部である民間精神科病院の院長と「お仲間」の医師会委員も「現行制度では民間の精神科病院が自ら病床を削減するのは、ほぼ不可能に近い」と、援護射撃をする。そういえば、1957年から81年まで日本医師会の会長を務めていた武見太郎氏は、「精神科医は牧畜業者だ」と1960年に発言していた。長期の入院患者を「固定資産」と考えれば、その収用ビジネスだけで食べていけるのは「牧畜業者だ」という比喩である[*4]。この比喩は、50年以上経ったいまも、残念ながら「死語」にはなっていない。

[*4] この武見太郎氏の「牧畜業者」発言についても、詳細は先述の大熊一夫氏の著作を参照。

「病院内」という問題の本質

では、「病院が病床を減らしても食べていけるような裏付け」として、どのような「論理」が構築されようとしているのであろうか。その象徴として、精神障害者の地域生活支援に携わってきたソーシャルワーカーである岩上洋一氏(NPO法人じりつ代表)が、この検討会上で提起した、次の発言を見てみよう。

長期在院者への地域生活への移行に力を注ぐ。また、入院している人たちの意向を踏まえた上で、いろいろ御議論があることとは思いますが、病棟転換型居住系施設、例えば介護精神型施設、宿泊型自立訓練、グループホーム、アパート等への転換について、時限的であることも含めて早急に議論していく必要があると思います。

最善とは言えないまでも、病院で死ぬということと病院内の敷地にある自分の部屋で死ぬことには大きな違いがあると考えるからです。

(第6回精神障害者に対する医療の提供を確保するための指針等に関する検討会議事録)

「病院で死ぬ」とは、病棟の自分の居室で死ぬ、ということである。一方、「病院内の敷地にある自分の部屋で死ぬこと」とは、病棟を建て直した部屋で暮らして死ぬ、ということである。病院側にとっては、病棟改築で対応出来るので「食べていけるような裏付け」にもなる。

だが、これは「大きな違い」ではない、と筆者は考える。その理由は、入院患者さんの視点(収容されてきた側の内在的論理)に立って見るとよくわかる。以下に示すのは、精神科病院に入院中の患者から寄せられた「声」の一部である[*5]。

[*5] これはNPO大阪精神医療人権センターが行っている電話相談で聞かれた「声」である。http://www.psy-jinken-osaka.org/ この「声」については、拙著で分析している。『権利擁護が支援を変える-セルフアドボカシーから虐待防止まで』(現代書館)。

・しょっちゅう保護室にいれられている。保護室の使われ方に疑問を感じるが、どこに聞けばよいのかわからない。

・任意入院。退院させてもらえない。「今はまだ退院の段階ではない」の一点張り

・退院したいが、主治医が「一生ここにいたらよい」と言う。

・「退院したいと言うのなら医療保護入院に替える」と言われた。

これらの「声」が意味すること、それは、入院患者にとって精神科病院という場所は、絶対的な権力を持つ人の支配下から逃れられず、自由が制限され、これらを受け入れざるを得ない環境である、という実感である。誰しも、望んで長期入院している訳ではない。病院は治療の場なのだから、治療が終われば、即座に退院したい。ところが、この日本では、「家族が受け入れないから」「地域に受け皿がないから」「まだ退院の段階ではないから」という理由をつけて、退院の望みは退けられ、地域生活を諦めさせられてきた人がたくさんいる。その諦めや絶望的な境遇の中で、長期間、病院での生活を余儀なくさせられてきた。これは、「学習性無力感(learned helplessness)」とも呼ばれている。強いられた暮らしの中で、「無力」が社会的に構築されてきているのである。

そんな「学習性無力感」にある長期社会的入院患者にとって、精神病棟から病院内の福祉施設に変わっても、病院の敷地内にあり、病院と同じ法人(または関連法人)が経営している場所であれば、本人にとっては単に入っている病棟が変わった、という認識である。大切なのは、本人がその「学習性無力感」を脱する為の支援だが、それは「諦めさせられた、強いられた環境での暮らし」から抜け出す支援とセットになっている。つまり、病院の「外」に出ないと、この「学習性無力感」はなくならないのだ。

上記のことは、実は岩上氏自身、よくわかっている「はず」である。なぜなら、彼自身が、長期入院患者の退院支援に取り組み、「患者さんの退院促進は退院のための退院ではなく、患者さんの希望を取り戻すための退院でなくてはならない」[*6]とまで言っている。

[*6] http://www.nisseikyo.or.jp/about/katsudou/katsudouhoukoku/640.html

精神科病院の敷地内に作る入所施設への退院は、岩上氏の言葉を借りて言えば、「退院のための退院」である。この問題点は、それでは「学習性無力感」から脱する事が出来ないことだ。「患者さんの希望を取り戻す」退院とは、病院の支配下という「無力感」が構築される環境から外れ、地域で暮らし始める事によって、初めて獲得されるものである。岩上氏は、ある種自己矛盾する発言をしている。ここには、何らかの「妥協」なり「意図」が感じられる。病院-厚労省の癒着・固着関係と軌を一にする何らかの「意図」が。

病棟の「有効活用」?

その「意図」の具現化として、5月20日の検討会では、これまで議論に出てこなかった新たな概念が、厚労省の論点整理の中でさりげなく、入れられていた。ちなみに、中央官僚が審議会で出す論点整理なるものは、議論全体の論点を「整理」する風を装って、実は自分達が持って行きたい議論の方向性を示すだけの、お手盛り論点整理である場合が少なくない[*7]。今回の論点整理も、多分にその傾向が見られる。それは、この新たな概念をみれば、わかる。

[*7] 国の審議会の構造的問題については、以前シノドスに次のように書いた事がある。「誰を呼んで、どのような議論をさせるのか、の主導権はあくまでも官僚側が握っている。ゆえに、厚労省がコントロールできる範囲での議論が展開され、ときとして国の都合の良いように「まとめ」が修正された上で、答申される。ここから、御用学者やアリバイ審議会、なる批判が出てくる」https://synodos.jp/welfare/1805/3

「生活の場」に近い病床

<論点>

※「生活の場」に近い病床、患者が退院した病床をどうするか。

※急性期等必要な医療への資源集中のためにどうするか。

※なぜ、長期入院精神障害者の住まいの確保が難しいのか。

本来、病院のベッド(=病床)とは、治療が必要な人のためのベッドのはずだ。それが「生活の場に近い」とは、一体何を意味するのか。一言でいうなら、入院する必要がない人の「病床」である。そこが、「生活の場」として機能している実態がある人のベッドだ。普通に考えれば、地域で住まいを確保し、その病床を削減すればよい。なのに、最初から「長期入院精神障害者の住まいの確保が難しい」と結論づけた上で[*8]、「「生活の場」に近い病床、患者が退院した病床をどうするか」と、既得権益保持者のご都合を心配する。そして5月29日の検討会では、このストーリーを「具体化」する為に、厚労省は「これまでの議論を踏まえた整理」なるものを提示した。

[*8] 「長期入院精神障害者の住まいの確保が難しい」というのが、医療関係者の思い込みであることは、実は本文でも引用した5月20日の作業チームに参考人として呼ばれた、「不動産屋のおばちゃん」阪井ひとみさんの資料を見れば一目でわかる。彼女は、アパートの大家という福祉専門家ではない「民間」の立場から、生活保護を利用する元入院患者が安心して暮らせる居住支援の仕組みを創り上げ、岡山で450人の精神障害者に住宅提供を行ってきた。こういうイノベーションが全国に広まれば、住まいの場の確保は格段に進むはずである。

<不必要となった病床の有効活用について>

不必要となった病床の有効活用については、以下の場合が考えられるが、ここでは、(2)のアについて議論してはどうか? (略)

(2)医療等を提供する施設以外としての活用  ア、居住の場

不必要となった病床を削減し、病院資源を医療等を提供する施設以外の居住の場として有効活用する場合、どういう条件を設定することが適切か?

ワープロ業者が「食べていけるような裏付け」として、使われなくなった敷地の「有効活用」まで、国がご丁寧に考えてくださる。そんなことは普通の業界ではあり得ない。故にこの「政策誘導」には、かなりの「配慮」と「恣意性」が見られる。

「不必要となった病床を削減」=Aとし、「病院資源を医療等を提供する施設以外の居住の場として有効活用」=Bとしよう。国の論理は、「A and Bの条件は?」という問いである。だが、AとBは本来、全く違う問題である。もちろんAについて国は責任を持つべきだが、Bについては、本来なら民間事業者の敷地の「有効活用」にまで、国が親切に段取りするべき問題ではない。なのに、国はAとBのセットを暗黙の前提にしている。ここからは、民間病院の病床削減には、「病院資源の有効活用」=「食べていけるような裏付け」が必要不可欠だ、という厚労省の「配慮」や「恣意性」を感じる。

「事業経営」は患者の声より優先すべき課題?

昨今の社会保障改革の流れの中で、病床削減や在院日数を減らすことを通じた医療費抑制は、大きな政策課題になっている。この大きな流れと照らし合わせると、精神病棟を転換して居住施設とすることで、厚労省は医療費を削減でき、病院側は入院患者を敷地内の福祉施設で収容でき、Win-Winの関係になれる、という構図が見て取れる。

ただ、最大の課題は、そのWin-Winの関係を勝手に構築しているのが、癒着関係にある厚労省と精神科病院経営者であり、入院させられている精神障害者の声に基づいていないどころか反している、という点である。厚労省がこの検討会用に委託した入院患者への実態調査でも、73%もの患者が「退院したい」と望み、「退院後の住まいが病院の敷地内なら」と聞くと、60%の人が「病院の中はいや」「退院した気にならない」などの理由で敷地内を望まなかったという[*9]。つまり、まったく患者の声やニーズに基づかない、勝手な構想なのである。

[*9] 福祉新聞5月19日 http://www.fukushishimbun.co.jp/topics/3997

この点に関連して、先述の岩上氏だけでなく、同じくこの検討会の委員である毎日新聞論説委員の野沢和弘氏は、次のような発言をしている。

この問題というのは利用者、障害当事者が中心で、障害当事者をいい生活にするための議論ですが、その理想を追求するためには事業経営に踏み込んで考えていくリアリティを持たないと、なかなかそういう理想には近づけないのではないかと思っているのです。

(第7回精神障害者に対する医療の提供を確保するための指針等に関する検討会議事録)

「病床削減」という「理想を追求する」ためには、「事業経営に踏み込んで考えていくリアリティ」が必要不可欠という論理。これは、二通りの解釈が可能である。一つは、精神科病院という事業モデルの限界を示し、病院を縮小・廃業し、職員達も再トレーニングを受け、地域支援の担い手として活躍できるように、ある種の業態変化の支援にまで「踏み込んで考えていくリアリティ」である。

だが先の「不必要となった病床の有効活用」という厚労省の主張を重ね合わせると、もう一つの選択肢が浮かぶ。病床削減とセットで、病院敷地内に、病院関連法人が経営する「居住の場」を作り、患者はそこに「紙の上だけの退院」のための「退院」をさせられる。すると「事業経営」も実質的に脅かさず、「食べていけるような裏付け」が担保されるので、民間病院経営者も納得するのではないか、という「リアリティ」である。

確かに後者だと、経営者は納得する。だが、それは「障害当事者が中心」の議論ではない。「学習性無力感」に陥っている当事者にとって、「希望を取り戻すための退院」ではないのである。この二通りの解釈のどちらを選ぶかで、全く異なる展開になるのだ。

では、どうすればいいか?

こう書くと、必ず受ける反論がある。「そんなの理想論だ。現実を見よ!」「学者は勝手な事を言えるが、現場は霞を食って生きてはいけない」という主張である。「やってもいないものが、口出しするな」という恫喝である。

だが、そういうことを言う人が見ている現実は、「事業経営」の「現実」である。冒頭の比喩で申し上げるなら、ワープロという時代遅れの、古いパラダイムにしがみついて離さない人々の「事業経営」の「現実」である。一方で、私やこの病棟転換型施設構想に反対する人々[*10]が見ている現実とは、このような「事業経営」優先の論理は、時代遅れの生産様式だ、という現実である。患者を収入源にして「事業経営」の維持を引き出す補助金を取る作戦を「時代遅れだ」と喝破するリアリティである。さらに言うなら、一度こういう「有効活用」を認めてしまうと、現在入院中の患者がその施設を使わなくなったあと、今度は認知症の「収容施設」と早変わりする可能性がきわめて大きい。そういう「施設収容」の論理を21世紀になってもの残してはならない、というリアリティである[*11]。

[*10] http://blog.goo.ne.jp/tenkansisetu

[*11] 同じ厚労省が、政務官をトップに据えた局横断の認知症施策検討プロジェクトチームをつくって2012年にまとめた「今後の認知症施策の方向性について」という報告書の中では、「『認知症の人は、精神科病院や施設を利用せざるを得ない』という考え方を改め、『認知症になっても本人の意思が尊重され、できる限り住み慣れた地域のよい環境で暮らし続けることができる社会』の実現を目指している」とはっきり宣言している。http://www.mhlw.go.jp/topics/kaigo/dementia/dl/houkousei-02.pdf

ワープロ事業者には、再就職トレーニングをほどこし、パソコンが当たり前の現場で働き直してもらう。あるいは、それが無理なら、その業界から撤退してもらう。同じように、民間精神科病院の経営者・職員は、本気で地域支援が展開出来るよう、再トレーニングを受け、仕事のやり方を180度転換する。入院中の精神障害者に「社会復帰トレーニング」を施す前に、まず自分たちが「古い生産様式」に固執しているという事実を認め、地域支援というグローバル・スタンダードに合わせる「社会復帰トレーニング」を受ける。そのためにこそ、国の税金は使われるべきだ[*12]。

[*12] この点については、2011年にまとめた、内閣府の障がい者制度改革推進会議総合福祉部会の「骨格提言」でも具体的な方策が示されている。また、上記の内容については、筆者のブログでも一部、紹介している。「社説が暴露する「病院の論理」」

繰り返し言う。精神科病院という隔離収容された場所で、諦めさせられた生活を続けてきた長期社会的入院患者にとって、病院も、病院内の居住施設も、「強いられた暮らし」の場である事実は変わらない。たとえ敷地内の「居住の場」で、外出の自由が認められ、外部からの自由の訪問が可能であり、プライバシーが尊重されても、「学習性無力感」に陥った人にとっては、「統計数字上の退院」のための「退院」であり、「希望を取り戻すための退院」ではない。利用者の権利擁護を第一に考えるなら、これまで十分稼いでこられた精神科病院経営者の既得権益を守るより、地域で暮らしたい患者の希望こそ、優先すべきである。患者を「事業経営」の「財源」にする「収容ビジネス」には退場を迫らねばならない。

本気で「患者さんの希望を取り戻すための退院」を考えるなら、「事業経営」への踏み込み方を、見誤ってはならない。既得権益者の保護という「現実的議論」なるものの「うさん臭さ」を見抜き、その既得権益保護とは裏腹に、自らの「当たり前に地域で暮らす権利」を奪われた、長期に入院する精神障害者のまっとうな暮らしへの「転換」をこそ、支える必要がある。諸外国では、40年以上前から、どんなに重度の障害がある人でも地域で支える居住支援や地域生活支援が展開されている。日本でも、地域で重度の精神障害者を支える仕組み作りが、各地で展開されている。厚労省も、それらの実践を、よく知っている。ならば、不必要な「病院・施設収容主義」を終わらせ、真っ当な地域支援政策への「転換」にこそ、貴重な消費税財源は投入されるべきである。

私の払っている消費税は、既得権益者保護ではなく、強いられた暮らしからの解放のためにこそ、使われたい。一納税者として、心から願っていることである。

サムネイル「Scratched Blue and Gray Wall Surface」Sherrie Thai

http://www.flickr.com/photos/shaireproductions/5719277410

プロフィール

竹端寛障害者福祉政策 / 福祉社会学

兵庫県立大学環境人間学部准教授。専門は福祉社会学、社会福祉学。大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科講師・准教授・教授を経て、2018年より現職。元内閣府障がい者制度改革推進会議総合福祉部会構成員。著書に『枠組み外しの旅-「個性化」が変える福祉社会』(青灯社、2012年)、『権利擁護が支援を変える-セルフアドボカシーから虐待防止まで』(現代書館、2013年)、『「当たり前」をひっくり返すーバザーリア・ニィリエ・フレイレが奏でた「革命」』(現代書館、2018年)など。

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