2016.08.22
ウルトラマンは助けに来ない――『ウルトラQ』2020年への挑戦
日本を代表する怪獣番組であり、今でも根強い人気を誇る『ウルトラマン』シリーズ。その起源となった『ウルトラQ』をご存じだろうか。国内初の特撮テレビ番組として制作され、1966年に放送されるや否や、大きな反響を呼び、視聴率30%台の大ヒットを記録。日本に怪獣ブームを巻き起こし、のちの『ウルトラマン』シリーズの礎になった。
『ウルトラQ』が放映された1966年とはどのような時代であったのか、また、作品から未来のわれわれに送られたメッセージとは――。放映50周年を記念し、今年出版された『ウルトラQの精神史』でそうした問いに挑んだ著者・小野俊太郎氏にお話を伺った。(聞き手/若林良、構成/山本菜々子)
怪獣、宇宙人、そして妖怪へ
――『ウルトラQ』は『ウルトラマン』シリーズの前身として知られています。両者の違いはどこにあるのでしょうか。
端的に言えば、ウルトラマン=正義のヒーローがいるかどうかです。
『ウルトラQ』の主人公はSF作家でパイロットの男、その助手、女性新聞記者なのですが、ウルトラマンのようなヒーローがいません。
なぜ、ウルトラマンが必要だったのでしょうか。まず、毎回彼らが事件に遭遇するのは、シリーズを続けていくにあたり、ストーリー上、無理があったのかもしれません。
その上、当時はキャラクタービジネスが盛んでしたので、もっと怪獣を多く出す必要もありました。怪獣と戦う設定を続けていくのであれば、中心になるヒーローが必要となってきます。
そこで、宇宙人としてのウルトラマンが発明されました。これは、スーパーマンなどから着想を得たと思うのですが、巨大化するのが斬新な点でした。『ウルトラQ』 で出てきた、ケムール人からアイディアをとっていると思われます。
同時にまた、怪獣もキャラクター化しやすいものに変化しました。『ウルトラQ』に出てくる「カネゴン」や「ガラモン」などはとても人気がでましたが、モグラやクモといった既存の生物を単に巨大化させただけの怪獣など、キャラクター化が難しいものもかなり多かったのです。
――ストーリー上の制約と、キャラクター化の要望により、ウルトラマンが誕生したのですね。
そうなんです。しかし、『ウルトラセブン』でウルトラシリーズの第一期が終わると、1968年から妖怪ブームがきます。『ゲゲゲの鬼太郎』がアニメ化された1968年は明治維新から100年の記念すべき年で、自分たちのルーツを日本人が改めて考えた年でもありました。さらには、経済発展にともない、公害問題も出てきます。ですから、日本的な妖怪――自分たちの内部のドロドロしたもの――に襲われる方が、リアリティがあったのかもしれません。こうして、ウルトラマン物の人気は実は一回、低迷しています。
1971年から、『帰ってきたウルトラマン』の放映がはじまりましたが、これが大ヒットします。このときのテーマは「家族」です。ウルトラマンというヒーローにも、実は家族がいて、兄弟や親がいるという話になります。家族関係に目をむけるようになっていったのです。それは安保闘争が終わって、70年代が一定の経済的な安定を迎えたせいでもあるのでしょう。
――なるほど、時代によって、求められているものが違っていったのですね。その上で、『ウルトラQ』が生まれた1966年はどのような時代だったのでしょうか。
1966年は、日本の人口が1億人を突破した時代でした。当時は高度経済成長があり、オリンピックがあり……と、日本全体が成長を謳歌していた時代です。
ですので、『ウルトラQ』には、画面に余裕があります。出てくる車も最新の国産車ですし、SF作家は豪邸に住んでいます。貧乏な人は出てきますが、貧乏たらしいお古をきているような人は出てきません。みんな、そこそこに立派な住宅に住んでいます。高速道路もあるし、ジャンクションには車がひしめいている。
こんなに立派なのは、海外輸出を念頭に入れていたため、国外向けのプロモーションという面もあったのかもしれませんね。「われわれはここまできたんだ」という気迫が画面から伝わってきます。いい意味でのナショナリズムがあるんです。
話の内容自体にも、自信と勢いと余裕があります。たとえば、「カネゴンの繭」というエピソード。お金が大好きな少年・金男が道に落ちたお金を着服し、その結果「カネゴン」というお金を食べる怪獣になってしまいます。なんやかんやあって、元の金男に戻るのですが、家に帰ると、お金を着服していた両親もカネゴンになっていたという話。
内容をみると、お金ばかりの社会を皮肉っているのかもしれませんが、両親がカネゴンになってもあの家族は、楽しく生きていける感じがするんですよね。舞台になった郊外住宅地で、マイカーやマイホームのローンを抱えて、「社畜」になっていくかもしれないけど、いろいろなものを手に入れられて幸せな気もします。多くの人にとってそれが「中流幻想」とつながっていくわけです。
もう少し後の70年代にカネゴンの問題を扱ったら、ジョージ秋山の『銭ゲバ』のような、金のためなら殺人も厭わないような過激な世界観になったかもしれません。
電送線がスパーク!
――『ゲゲゲの鬼太郎』や『ウルトラマン』と『ウルトラQ』の違いはどこにあるのでしょうか?
まず、『ウルトラQ』では、敵が日本、さらには地球の中からも、そして外からもやってくる点が特徴的でしょう。『ウルトラマン』では、敵は宇宙人や海の彼方からやってきます。『ゲゲゲの鬼太郎』では、日本の内部から出てきた敵と闘いますよね。『ウルトラQ』の場合は、宇宙から飛来するだけではなく、もともといた人間や動物が巨大になったり、怪物に変化するものもあります。
加えて、大きな特徴と言えるのは、ゴジラからはじまる「人間VS怪獣」という軸を守り切っている点です。
たとえば、ウルトラマンの場合は「宇宙人VS怪獣」。そして、闘いはしますが、最終的には横からみている人間、という構図です。ここに対しては様々な評価があります。たとえば、「アメリカ軍と日本の自衛隊の関係のデフォルメなのでは」というもの。私はそれだけでは物足りないと思っていますので、いずれ考えをまとめたいと思います。
鬼太郎の場合は、人間をそそのかす妖怪と、妖怪である鬼太郎が戦っています。これは、「妖怪VS妖怪」ですよね。
一方で、『ウルトラQ』では、怪獣に対して人間が闘います。ヒーローは助けに来てくれないのです。ドラマの中で起きる怪異は、たいてい人間が起こしたもので、それを始末するのも人間です。
たとえば、「宇宙からの贈りもの」では、火星に人工衛星を送った地球人が、逆に火星から金色の卵を送り返されます。それは、大きなナメクジの怪獣「ナメゴン」の卵でした。もともとは、人間が火星に人工衛星を送らなければ起こらなかった話です。最後は、運よく海水に落下し、ナメクジなので、溶けていなくなってしまいます。そんな都合のよい話……とは思いますが、人間がどうにかしないといけない事態で、必死に知恵をしぼるのが『ウルトラQ』の基本構造なんですね。だから完全無欠の怪獣だと、人間は歯が立たない。
じゃあ、人間が始末しきれないものはどう処理したらいいのか。これって、大変アクチュアルな問題ですよね。50年前に『ウルトラQ』はその問題と向かいあっていたのです。そういう相手の場合に、物語のラストは、だいたい宙づり状態で終わります。ナメゴンだって、「今度の贈りものは『海水を飲んで強靭になる』生物かもしれない」とナレーターが警告して終わります。
怪獣を倒すヒーローが出てこないと、人間は巨大なものに翻弄されたり被害を受けたりするだけになります。それは逆に言えば、行動の結果が自分たちに直接跳ね返ってくるということですよね。
現在公開している『シン・ゴジラ』も、初代の『ゴジラ』とおなじく人間たちがゴジラに対処しようとさまざまな知恵を働かせます。そうした態度が『ウルトラQ』とおなじく新鮮に感じられるかもしれません。
――妖怪と比較したとき、怪獣の意義とはなんでしょうか?
怪獣ものは、映画であれドラマであれ、送電線と怪獣がぶつかるのがひとつのクライマックスです。妖怪は送電線にぶつかる、ということはありませんよね(笑)。つまり、怪獣は基本的にエネルギー問題の象徴なんです。ですから、送電線と怪獣がぶつかり、スパークし、日常的に使っている電気が使えなくなる光景は非常に示唆的です。電気がなくては怪獣の世界を描いている映画もテレビもみることができませんしね。
そして『ウルトラQ』は、怪獣を倒す物語でもあるのですが、同時に、自然災害や、人口問題、異常気象、そしてエネルギー問題など、全28話で様々な社会問題をシミュレーションしているとも言えます。こうした意味で、怪獣は人間が引き起こしている社会問題の象徴でもあったわけですね。
子どもと大人の境界線
――『ウルトラQ』は、基本的には子ども向けながらシリアスな部分も多く、大人でも楽しめるような作品になっていますよね。なぜこのような作品になっているのでしょうか?
これは、制作の経緯に関わっています。当初は、アメリカで流行していた『ミステリー・ゾーン』や『アウターリミッツ』といった、大人向けSF番組を想定していたのです。しかし、視聴率が取れないことが懸念され、制作の第一シーズンと第二シーズンでプロデューサーが交代し、方針も変更になりました。
その結果、第一シーズンでは、大人向けの奇妙な世界を描くSF的なもの、第二シーズンでは子ども向けにアピールする怪獣ものが撮影されます。しかも、全部撮り終わってから放映を開始したので、制作順ではなく、人間ドラマ重視の第一シーズンと怪獣路線の第二シーズンがシャッフルされた形で発表されました。悪く言えば雑多、良く言えばシリアスとコメディの融合だったと言えます。この融合は、後のウルトラマンシリーズにも踏襲されていきます。
もちろん、「大人向け」「子ども向け」は大人が考える区分けなので、ほんとうに「子ども向け」なのかはわかりません。「大人向け」だって、子どもたちは様々なメッセージを受け止めるものです。「子ども向け」を口実に、実際には大人向けのものをつくったと言えます。
余談ですがこの「子ども向け」と「大人向け」を上手に利用したのがディズニーでした。アメリカでは、テレビなどの映像の検閲が厳しいので、アニメはどんどん子ども向けになっていきました。当時のディズニーは劇場で流行った劣化コピー版を、映画やテレビ向けとしてつくっていたのですが、売り上げが落ち、倒産の危機までささやかれました。
そこでディズニーは大人向けの要素をアニメ映画に盛りこみます。子どもが映画をみにいくときは、たいてい大人がついてくるからです。親が退屈したら、子どもは連れていってもらえない。親を引きつけるためには、シリアスな問題を扱う必要があります。そこで生まれたのが、人種問題を入れ込んだ『美女と野獣』だったのです。その延長に『アナと雪の女王』もあります。
――つまり、『ウルトラQ』はもともと大人向けで、ディズニーの場合は意図的に大人向けになっていったのですね。
そうですね。『ウルトラQ』もそうですが、日本の特撮では大人と子どもの境界線をどう描くのかがひとつの課題です。あこがれの大人のヒーローが、子どもを一方的に助けるパターンもありますし、大人は蚊帳の外で子どもたちが活躍するものもあります。ですが、『ウルトラQ』の場合は、子どもと大人がフレキシブルに交じりあっています。両親から注意を受け、カネゴンになってしまいますが、親だってお金を着服しカネゴンになるのです(笑)。境界線が非常にフレキシブルですよね。
また、「カネゴンの繭」に出てくる子どもたちは、フリーマーケットを開き物々交換するような、学校の算数は苦手だけど、小遣いの計算は抜群なタイプです。大人が望まない子ども像をみせてくれるのも、子どもにとっての『ウルトラQ』の魅力だったのかもしれません。
「日本はすごい」のか
――日本のアニメや特撮のような作品では「子どもらしさ」と「大人らしさ」が両方備わっているものが多いですよね。
それらは意図して行われたものとは必ずしも言えません。日本のコンテンツづくりは、そこが面白いですね。
手塚治虫の『鉄腕アトム』以降の作品は、ディズニー映画みたいにたくさんコマを使えないから、動きの足りなさをカバーするために、セリフによる心理描写を多用して、人間ドラマを深める形につながりました。経済的な理由のせいで内容や表現が深化したわけです。それが、スタジオジブリや『機動戦士ガンダム』、『新世紀エヴァンゲリオン』といった人気アニメの隆盛につながっていきます。
フランスでよく、日本のアニメが人気であると言われます。たとえば、『アタッカーYOU!』というアニメがフランスで大流行しました。伝説的なアニメで、子どものいる家庭では「視聴率100%」をとったといわれています。まあ、数字は都市伝説でしょうけど。
なぜ、フランスでこれほどまでにヒットしたのでしょうか。フランスでは思春期の子どもを対象とした文学がほとんどないからです。小学校を卒業したら、バルザックやゾラを読まないといけない世界。ですから、日本のアニメの主人公に、「これは私だ」と思春期の子が感情移入をし、「どうして、少女の話がこんなに深いんだ」と大人たちは驚くのです。
また、特撮の現場だって、制約の中から様々な技法が生まれていきました。たとえば、ゴジラの円谷英二監督は、もともとアメリカの『キング・コング』のように、模型をひとコマずつ動かす特撮をやりたかったわけです。ですが、日本だと予算と時間がないため、仕方なく怪獣の着ぐるみを使わざるを得ませんでした。その結果、あの下半身に重心のある、迫力ある図体の『ゴジラ』が生まれてきたのです。
『ウルトラQ』でも、テレビ用のスタジオが狭いため、横にカメラをふると、すぐにスタジオの壁が映ってしまいます。だから、アップを多用せざるを得なかった。それが結果的に迫力のある画につながっていったのです。一体しか怪獣を用意できなくても、「ガラモンの逆襲」のように二重写しでみせる工夫をし、それが幻想的なイメージを喚起しました。
このように、限られた条件の中で一生懸命に創造し、それをプラスに働かせているのが日本の特撮であると言えます。
でも、このことについて「日本の独自性があるんだ」「日本は優れているんだ」と言ってしまうのは、誤りでしょうね。なぜなら、それぞれの国の文化の弱みと強みが重なって、このような現象が起きたわけですから。
私は、『ゴジラの精神史』『スター・ウォーズの精神史』『フランケンシュタインの精神史』と、日本と世界を往復しているので、何がやりたいんだ? と思われているかもしれませんが、このように日本と世界を往復しないと、日本のことは見えてきません。もっと言うと、特撮だけをみていても、特撮の位置づけはよくわからない。その裏にある外国や他ジャンルとの相互関係や作品を成立させている「精神史」を読み取ることが重要なのです。
2020年へのメッセージ
――『ウルトラQ』の放映から50年が経過した、現在の私たちへのメッセージとはなんでしょうか。
「ヒーローは来ない」ということです。『ウルトラQ』の世界のように、人類が自分で起こしたことは、人類で解決せざるを得ない状況は、まさに今の状態を表しているでしょうね。
『ウルトラQ』には、「2020年の挑戦」という話があります。2020年はまさに、2度目の東京オリンピックが行われる年ですよね。2016年の私たちには、そこにむけて解決すべき問題が山積みになっています。
この、「2020年の挑戦」では、若者が次々と謎の失踪を遂げます。実はそれは、2020年の未来のケムール星に住むケムール人の仕業であることがわかります。ケムール人は長寿を手に入れたのですが、肉体が衰えていくことを嫌悪します。そこで、ケムール人たちは、1966年の地球から、若者を誘拐し自分たちの肉体と交換していくのです。
まるで、2020年のケムール人は高齢化社会に悩むわれわれのようです。社会が弾力性を失い、嫉妬から誘拐や略奪という方法をとってしまう。そうしたあり方をどこかグロテスクな怪獣を通してみせてくれるわけです。ケムール人など鏡に映った私たちの自画像ともいえますが、歪んでいるのは鏡なのか、それとも自分たちの顔なのか、いろいろと考えさせられます。
このように、『ウルトラQ』は私たちに様々な難問が待ち構えていることを示唆してくれる作品群なのです。1話ずつみていくことでそうした点が理解できるのはないか、と私は思います。それが今回の本で描いたことなのです。
プロフィール
小野俊太郎
1959年札幌生まれ。文芸&文化評論家。著書に特撮ものとしては『モスラの精神史』、『大魔神の精神史』、『ゴジラの精神史』三部作がある。SFものとしては、『スター・ウォーズの精神史』、『未来を覗くH・G・ウェルズ』がある。