2016.08.30
貧困の基準はどこにある?――「貧困女子高生」報道から考える
経済的な理由から専門大学への進学をあきらめた女子高校生が、「現実を変えるために、子どもの貧困は日本にも存在するのだと理解してほしい」とNHKのニュース番組で訴えた。しかし、インタビュー中に映り込んだ彼女の自宅の文房具や、彼女のものと思われるSNSで1000円以上のランチを食べていた様子から「貧困ではない」と判断した人々が、NHKの捏造であると批判。国会議員までもが言及する騒ぎになった。そもそも、「貧困」とはどのような状態を指すのだろうか。その定義ついて、生活困窮者の相談支援に携わるNPO法人もやい理事長大西連さんにお話を伺った。(構成/山本菜々子)
彼女は貧困じゃない?
――今回の騒動では、「放送局の捏造だ」「1000円のランチを食べずに、貯金をしろ」「一度働いて専門学校にいけばいいのでは」「報道に配慮がなかった」など、様々な批判が飛び交いました。その前提に「彼女は貧困ではない」という判断があります。一連の動きについて、大西さんはどう感じましたか?
大前提として、「彼女が本当に貧困か」をニュース番組の断片的な情報だけで、判断することはできません。
その上で、「彼女は貧困じゃない」と断定していくような批判をみていくと、貧困についての理解が進んでいないこと実感しました。
――今回「貧乏と貧困は違う」「彼女は貧困ではなく貧乏」 のようなバッシングがありました。「貧困」には定義があるのでしょうか?
貧困には、「絶対的貧困」と「相対的貧困」という定義があります。
「絶対的貧困」は、ご飯を食べられない、住むところがない、着るものがない、病院にいくことができない、などのすぐさま生存の危機におちいりかねない、この極度の貧困常態のことを指します。多くの方の「貧困」のイメージはこれかもしれません。
――「痩せた子どもをハゲタカが狙っている写真」のようなイメージが沸いてきます。
そうです。「絶対的貧困」は発展途上国での指標として使われます。一方、日本などの先進国では、こういった貧困状態にある人は、生活保護などの制度を使っているのでいない、ということに建前上はなっています。
そこで、先進国では「相対的貧困」という概念が使われます。
「相対的貧困」はあくまで「相対的」なもので、時代や地域、国によって計算方法は同じでも金額や生活水準は変化します。一般的なのは、OECD(経済協力開発機構)によるものです。「等価可処分所得の中央値の半分未満の割合」(注)という計算方法で算出しています。
(注)収入から税金と社会保険料等をひいた可処分所得を世帯人数で合算し、世帯人数の平方根で割って「等価可処分所得」をだす。
――「等価可処分所得」は「手取り」のようなイメージでしょうか。その中央値の、半分未満の収入であれば「貧困」ということですね。
そういうことです。一般的に、1人で生活するより、2人で生活する方がお金がかかりませんから、世帯人数の平方根で割ることになっています。詳しく知りたい人は、厚生労働省の「国民生活基礎調査(貧困率) よくあるご質問」を参照してください。
さて、2012年の厚労省国民生活基礎調査によれば、日本で貧困ラインは単身で122万円/年(月に10万円)であり、2人世帯で173万円/年(月に14.4万円)、3人世帯だと211万円/年(月に17.6万円)、4人世帯だと244万円/年(月に20万円)です。
――単身世帯では「月に10万」が貧困ラインということですが、家賃の高い東京での10万円や、持ち家のある人の10万円、野菜をタダで分けてくれる優しいご近所さんのいる10万円だと、意味が違うように思います。
もちろん、同じ金額でも、住んでいる地域(都市と地方)や、数字化できない金銭的以外の資本(人間的なつながりや地域のつながりなど)の違いによって、実際の生活水準は変わってきます。
それこそ、単身で貧困ラインの122万円/年(月に10万円)で生活することが難しい人と、そうでない状況の人がいる、ということも事実であると思います。
また、「相対的貧困」はあくまで収入をもとにしたものであり、資産は含まれません。極端な話、無収入でも1億円の貯金がある人は一般的には富裕層にはいるかと思いますが、この計算だと貧困ライン以下の等価可処分所得とされてしまいます。
「貧困」についての完全な定義や統計の取り方は難しいのですが、おおまかなイメージとしては「相対的貧困」は大きな指標となると考えます。
――今回の発端になった番組は「子どもの貧困」を取り上げたものでしたが、「子どもの貧困」の定義はあるのでしょうか?
「相対的貧困」ライン以下の状態で生活している子ども(17歳以下)を、「子どもの貧困」と定義するのが一般的です。
2012年は16.3%の子どもが「貧困」であると公表されました。6人に1人の割合です。また、ひとり親家庭の場合は、54.6%で、OECDのなかでも一番高い子どもの貧困率と言えます。
「貧困は○○だと思う」がダメな理由
――「こんなにいろいろ買っているから貧困ではない」と議論がありましたよね。その点についてはどう考えていますか?
「こんなにいろいろ買っているから……」という議論は、その目的が「その人が貧困かどうか」のジャッジメントを目的としているのであれば、まったくもってナンセンスな問題だと思います。
というか、「議論」というのもはばかられる話です。たとえば、生活保護制度などの要件が厳格な制度を申請した人がいたとして、本当にその要件を満たしているかを判断する立場の人が、上記のような評価をしたり、聞き取りをしたり、調査をするのは当たり前のことだと思います。
それが仕事ですし、公的機関による公的支出には、法律があり政省令があり、通知があり、運用規則があり、それに基づいて給付やサービスが実施されるからです。そして、そういった公的支援や給付に関しての微妙な判断、すなわち「○○の費用を公費で出してよいか」などの話で議論がおこるのは非常によくわかります。
しかし、今回の件は全く違います。「この人が貧困であるかどうか」を、テレビの画面やSNSといった限られた情報で、自分の価値基準で、レッテル張りをしたり、断定をするものでした。
今回感じたのですが、貧困が身近だからこそ、「これは貧困と言えない」と過剰な反応になってしまったのではないか、ということです。
先ほどお話したように、OECDの基準でいくと、「子どもの貧困」は6人に1人です。ということは、日本社会のなかで貧困ライン以下の生活は珍しくないというか、ある種、残念ながらよくある生活水準になってきている、ということでもあります。
もちろん、個々人が報道をみてどう思ったか、どう感じたかは一人一人の自由でもあります。ですが、国会議員がそこにコミットして自身のTwitterで発信したのには驚きました。
――「こんなことも貧困にしていては、なんでもかんでも貧困になってしまう」という議論についてはどう思われますか?
「貧困」という定義をどうするか、によって、たしかに、「なんでもかんでも貧困になってしまう」という考え方はありうると思います。
しかし、先述した「相対的貧困」のように先進諸国で一般的に使われている指標をほかの国と同様に活用すれば、国際比較も容易になりますし、貧困対策の議論が進みやすいでしょう。
「貧困は○○だと思う」という、個々人の価値観で「貧困」が語られること自体が、政策としての貧困対策の一番の障壁になります。
――GDPのようなものだと考えればいいのですね。たしかに、個々人で「私の考えた経済基準」を設定したところで、経済政策の議論は進まないでしょう。貧困も同じように「私の考えた貧困基準」にしてしまうと、全然議論ができないと。そりゃそうだ。
経済に置き換えてみると、違和感があるでしょう。こういった話がでてくること自体が「貧困」についての理解が社会のなかで進んでいないことのあらわれかなとも思います。また、「相対的貧困」以外の貧困の指標がまだまだ多くはなく、貧困の実態を明らかにするための調査等も、まだまだ政府レベルで本格的におこなわれていないことも、大きな課題です。
――「貧困の家庭が目先の散財をしてしまうのは珍しいことではない」という話題もでましたが、これは本当なのでしょうか?
「貧困家庭」といっても、一概に「○○だ」ということは適切ではないでしょう。金銭の使い方が上手ではない貧困家庭もあれば、節約しながらやりくりをしている貧困家庭も存在します。
また、仮に、「貧困の家庭が、「目先の散財」をしてしまうのは珍しいことではない」としても、鳥が先か卵が先かのような議論と同じで、お金の使い方が上手ではないから貧困になるのか、貧困だとお金の使い方が上手にならないのか、もよくわかりません。
ですので、ぼく個人の考えとしては、「貧困家庭」でも各家庭によって千差万別であり、一概には言えないだろう、ということです。
しかし、一点だけ追加すると、金銭の使い方や管理について、得意でない場合に利用できる支援が少ない、という問題はあります。認知症や依存症など、医療的な必要性から支援を利用している人は多く存在しますし、たとえば、生活保護制度などを利用している場合は、担当者が何らかの支援をおこなう場合はあります。
ですが、公的な支援を利用できる所得や資産の状況ではなかったり、医療的な必要性が認められない場合は、なかなか活用できるサポートがないこともあります。そういった、個人のがんばりだけでは難しい場合の、周囲のサポート、公的なサポートがまだまだ不十分であることを認識する必要があると思います。
イメージで語らず質の高い議論を
――実際の貧困と世間とのギャップは感じていますか?
「貧困」の議論はあまりにもイメージで語られすぎていると思います。
私たちNPO・NGOも、時に「やむを得ない事情で困窮した人」を発信しがちです。それは、いわゆる「自己責任論」への対抗からくるものではあるのですが、実際の「貧困」の実相は多様で、複雑で、画一的なものではないことも事実です。
なかには自己責任的に見える言動をしたり、経歴を持っている人もいます。しかし、そこの部分だけを切り取って評価をしたり、その人の人生を判断することは、大きな間違いと言えるでしょう。
――貧困をメディアで取り上げる際の注意点があれば教えてください。
「貧困」は「結果」でなく「状態」です。そして、その「状態」は、当たり前ですが、変化します。収入が増減することもあれば、人間関係も変わります。「貧困」である人は、ずっと「貧困」であるかというと、そういう人もいますが、そうでない人もいる。
一人一人の事象から見ていくことはとても大切な一方で、全体の動きや傾向、起きている事実を見ていくことも重要です。「貧困」をめぐる報道や議論の際には、極端に思えるような取り上げられ方や展開が多いことが気になります。
そして、すでに6人に1人という、先進諸国でも最も悪いレベルで相対的貧困率が高い日本で、そういったレッテル張りや人によって異なる「貧困」の定義で議論を進めていくことは、百害あって一利なしだと思います。
私たちの社会が「貧困」の解決を目指して進んでいくためには、間違いなく、質の高い丁寧な議論が必要です。そして、それは、「1000円のランチ」がどうの、などという話でもなければ、ソースが定かではない内容を安易に引っ張ってさもそれが正義のように振りかざすことでもないでしょう。
冷静に、データやエビデンスに基づき、日本の「貧困」について、どのような対策を取るべきなのか、どのような再分配をおこないながら成長を実現するのかを、丁寧に議論することが求められています。
このことは、私たち支援の現場に携わる者も、肝に銘じながら、情報発信や政策提言をおこなわなければならないと、実感させます。
日本の貧困対策は少しずつ進んでいます。相対的貧困率が公表されるようになり、「子どもの貧困対策基本法」も成立しました。しかし、私たちの社会はまだ、「貧困」を理解し、分析し、議論する段階にはたどり着いていないのではないか、とも思います。
質の高い議論を積み重ねて、日本の「貧困」の解決に資するために何ができるのかを、あらためて考えていきたいです。
プロフィール
大西連
1987年東京生まれ。NPO法人自立生活サポートセンター・もやい理事長。新宿での炊き出し・夜回りなどのホームレス支援活動から始まり、主に生活困窮された方への相談支援に携わる。東京プロジェクト(世界の医療団)など、各地の活動にもに参加。また、生活保護や社会保障削減などの問題について、現場からの声を発信したり、政策提言している。初の単著『すぐそばにある「貧困」』(ポプラ社)発売中。