2011.01.17
法の支配の外側で
一人の大統領がいるとしよう。独立後15年を経て、彼は2期目の任期の終わりにさしかかっている。独立後に定められた憲法には、大統領は二期をこえて在任できないという制限がある(それは独立時から権力者だった彼自身が認めた条項なのだが、そのときは十分な期間が手に入ると思ったのだ)。
彼の政権運営には批判も多く、権力を失えばどのような報復を受けるかわからないし、だいたい彼自身が実入りのいい権力の座を手放すつもりはない。さて、どうしたらいいだろうか。
何人かの法律家にこの問題を話してみたところ出てきた対応には、次のようなものがある(どこかに似た話があるかもしれないし、廣瀬陽子先生ならたちまち実例をみつけてしまうかもしれないが、あくまで架空の設例だということにしておいてほしい)。
いくつかの選択肢
第一に、まず憲法を改正して首相に権限を移し、適当な人物を新たな大統領にかつぎ上げて自分は首相に回る、というもの。なるほど《形式的には》まったく問題は見当たらない。憲法が禁じているのは連続での在任だけだから、次に自分がもう一度戻ってくるという手も使えるかもしれない。
第二に、憲法を改正して任期制限を廃止してしまうというもの。狙いがあからさまなのが問題だし、国内からも諸外国からも批判があるだろうが、やはり《合法性》に問題はなさそうだ。
第三に、たとえば最初の任期は憲法の制定前からはじまっていたので、憲法の予定している任期制限の対象にならず、いまが一期目なのでもう一回再選できるというように、必要な憲法解釈を発明するという方法。どうがんばってもあと一回ということが確定してしまうし、終わりのみえた権力者に人々がおとなしく従ってくれるかという疑問が湧いてくるあたりに難点があるが、それだけに国内外からの批判も弱いかもしれない。
第四に、もうあきらめて誰か適当な人間を傀儡に立て、自分は院政を敷くという方法もあるだろう。息子とか娘婿とか、適切な人間が探せればよいのだが、有能かつ忠実な人間がみつかるか、いたとして自分が公式な権力の座から降りてもなお忠実でいつづけてくれるかが問題かもしれない(もちろんここで「リア王」の教訓を思い出してもよい)。結局、最後に裏切るのはたいてい身内なのだ。
もうひとつのさえたやりかた
さてしかし現実にはここまでに出てこなかった(ということは多くの法律家にとっては思い浮かばなかった)解答というのもある。繰り返していうが、架空の設例だ(わたしはまだ多分その国に出張しなければならない)。
つまり、たんに《選挙を行わない》のである。理由があるのかないのか発明できるのかはともかく、なににせよ次の大統領が生まれないならいまの大統領しかいないわけだ。裏切りに合う危険性も、何とか理屈をつけて出馬した大統領選でうっかり落選してしまうような恥をかく危険もなく、権力の座にとどまることができるのだから、これが最善の方法だという考え方すらあるかもしれない――合法性という問題さえ考えなければ!
問題は、われわれが(あるいは少なくとも、われわれの法律家の多くが)仮にも憲法とか法律とかいうものがそこにある以上それを尊重し、守ることを前提としなければならないと考えるのに対し、多くの発展途上国においてそれは現実でないという点にある。彼らにとって法の支配とか法への尊敬ということは存在しないか、自分にとって有利なときに持ち出せるようなお題目にすぎない。
その一方、最後の解決が思い浮かびもしないというあたりから、とくに我が国における法律家に「法がある以上は尊重しなければならない」という観念がいかに深く内面化され、疑いもしない前提になっているかということを考えてもよい。
「いや法律家なんか三百代言だ」という人もいるだろうが、あくまでもそれは《存在する法》を前提として自分のいいようにいいように理屈をこねるという意味であって、法を無視したり暴力的に破壊したりするわけではない。
真犯人に依頼され、詭弁を弄して無罪判決を勝ち取る弁護士は良い法律家であると同時に悪い隣人かもしれないが、有罪判決の言い渡しを阻止しようと裁判所を爆破する弁護士がいたとしたらただの阿呆である。良かれ悪しかれ、法的な紛争というのは一定のルールの範囲内における闘争なのだ。
法の支配の外側で
念のためにいえば、わたし自身は法自体がなるほどお題目であり、しかしお題目にはお題目としての役割や機能があるという立場である。だから別にどちらか一方の立場から他方を断罪しようというのではない。たんに、世の中には違うルールで動いている人々というのがいるのだし、それを無視してもろくなことはないといいたいだけのことである。
さらにわれわれは、世界的にみれば法に従う義務とか法に対する尊敬というルールを尊重していないか、あまり認識していない人々と、彼らが統治していたりされていたりする国家・領域が相当に多いということを考えておく必要があるだろう。
「法の支配」の確立は、1980年代から多くの国際機関や先進国による支援のテーマでありつづけている。数えてみたら世界銀行だけで「法の支配」がタイトルに含まれるプロジェクトが300以上あったという話さえある。
ということは逆にいえば、それがまだあまり成功していないということが端的に示されているわけだ。そういう世界のなかで、相手も国家である以上は法に従うであろうとか、こちらが法を尊重する態度を示せば相手にもその思いが通じるであろうとか、そういう推定が成り立つものかという話である。
そしてさらにいえば、他国の自己決定権とか主権とかいうものを真面目に尊重すればするほど、他国の採用しているルールを一概に否定できなくなることにも注意する必要があるだろう。共通のルールが通用するだろう、相手もそれに従ってくれるはずだという期待と、相手を他者として尊重することは、究極的には両立しない。
そもそも「他者」とは、自分とは異なるルールに従うもの、同じ状況で相容れない回答を返す存在のことである。たとえ法というかたちで示された「正しさ」であれ、そのような自分の信念が相手に無条件で通じるであろうという期待ほど、他者を他者として尊重することから遠いものはないのだ。
推薦図書
発展途上国をめぐる国際的な議論がすれ違いがちになるのは、日本は東北アジア・東南アジアを、アメリカはラテンアメリカを、そしてヨーロッパ諸国はアフリカのことを暗黙のうちに想定してしまっているからだ、という指摘がある。その《日本からみえにくいアフリカ》の状況を中心に、選挙やアカウンタビリティ、安全保障・内乱・クーデターといった要素と経済発展の関係がどうなっているかを、統計などを通じて分析しつづけてきた結果をわかりやすく解説した書籍。
とくに民主的な選挙の実現が発展の第一歩だという従来の想定がいかに誤っているかということを指摘している点が衝撃的。また、アカウンタビリティや安全保障を地域的に、あるいはそれが不可能な場合には外部から実現するべきだという主張も、多くの論争を呼んでいる。
なお邦訳のタイトルは著者の主張をかなりアグレッシブに誇張しているので注意してほしい。著者の主張の中心はあくまでも、アカウンタビリティや安全保障抜きに選挙だけを実現しても国家は安定しないというあたりにある。
プロフィール
大屋雄裕
1974年生まれ。慶應義塾大学法学部教授。法哲学。著書に『法解釈の言語哲学』(勁草書房)、『自由とは何か』(ちくま新書)、『自由か、さもなくば幸福か』(筑摩選書)、『裁判の原点』(河出ブックス)、共著に『法哲学と法哲学の対話』(有斐閣)など。