2018.11.19
日本における政策形成過程をより民主主義的にしていくためのいくつかの提言
筆者は、この30年ぐらい、政策や政治に関係する仕事に関わってきた。より具体的には、東京財団や自民党等の政策シンクタンクの設立および運営に関わった。その後、東日本大震災の際、原発事故の調査のために、東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)が国会に時限的につくられたが、この委員会の事務局に参加した。また、塩崎恭久議員の大臣時に、厚生労働省総合政策参与としても勤務する経験も得た。
こうした点から筆者は、政策シンクタンクの経験も含めて、議員経験なしで、政党、立法府、行政府、民間などの多様な立場で広い意味での政策に関わってきた、日本においては稀な存在だといってよい。そのような様々な経験を踏まえて、日本における政策形成の現実、および今後の可能性について論じていくのが、本稿の主旨である。
筆者も、学校の社会科や憲法の授業などで学ぶように、日本は民主主義の国であると元々考えていたし、信じていた。だが、上述のような経験をしてからは、「日本は、本当に民主主義の国なのだろうか」と疑問を持つようになった。
もちろん、憲法上は国民主権と定義され、立法・行政・司法の三権分立とされている。選挙で主権者の代表として立法に関わる者を選ぶ仕組みも、かたちの上では存在している。しかし、戦前の日本の政治体制の問題もあり、主権者である国民自身の地域や社会への愛着や意識の問題、行政中心の三権分立体制、国民の選挙への関わり方、議員の機能・役割などの多くの面に問題や課題があり、この国には民主主義という政治の枠組みはあるが、それが日本の政治の実態の中に落とし込まれていないのではないかと思わざるをえない。
そもそも民主主義とは、国民・市民・有権者がその社会を支配・運営すれば、いろいろな問題・課題はあっても、少なくも長期的には全体としてはよりましな運営が、他の政治制度よりは可能だというフィクションに基づいて構築されているものであろう。だが、そのフィクションは、当然に地域・社会・国により様々な違いがあるので、それらに応じたノンフィクションに昇華されねばならないのだが、日本では戦後その作業がどれだけ行われてきたかというと、非常に疑問を感じざるを得ない。
本稿では、「日本は民主主義の国か」という大きな問いに対して、政策形成の観点から考えていきたい。
日本は、この約30年間、政策形成を、行政・官僚中心から政治、とくに首相を中心とする政治家がリーダーシップを発揮し、官邸がイニシアティブをもって政策形成を行う仕組みに変えようとしてきた。その結果、総理を中心とした政治の側が、より強力にイニシアティブを発揮して政策形成を行えるシステムが構築されてきた(注1)。これはある意味で事実である。だが、その結果生じたのは、官邸に多数を占め、総理らの政治家を補佐する官僚(いわゆる「官邸官僚」)の影響力の増大と、それに伴う新たなる官僚中心の政策形成であった。
現政権の前の民主党政権時代は、行政・官僚中心の政策形成をドラスティックに変更することを試みた。だが、同政権の政権運営が稚拙であったこと、行政・官僚の力を抑制しようとしたが、それに代替できる仕組みや人材が不足・不備だったことなどのために、その試みは結局のところ失敗に終わった。
その失敗を受けて政権に返り咲いた自民党現政権は、その中心とする安倍晋三総理の志向もあり、政治の側が若干イニシアティブを取りながらも、政策形成に関しては必ずしも新しいビジョンもなく、従来型の行政・官僚を中心とするものに回帰した(注2)。
筆者は、行政や官僚の役割がないとか不要であるとは考えないし、むしろ現代社会においては官僚機構の存在なしには、政治は機能しないとも考えている。他方、官僚機構は縦割り主義や前例主義を土台に成立している。社会的には、その手法は意味があるが、現在のように社会の変化が大きい時代には、それだけでは時代のニーズに対応できない。
したがって、そのような手法を乗越えられるアプローチとの共存とバランスが必要となる。この問題とその改善策については、拙著「こうすれば日本の政治はもっとよくなる! 政治の政策能力向上のために『変える』べきこと」(αシノドス vol.252[「日本の政治の行方」]2018年9月15日)を参照願いたい(注3)。
本稿では別の観点から、論じていきたい。
まず議員内閣制を基にした内閣提出法案の容認と与党事前承認制の問題である。日本では、それらの仕組みが取られているために、行政・官僚が中心になって政策案や法令案を作成し、その成立のために行政・官僚が調整し(注4)、動き回ることになる。この場合、議員立法などを中心に、一部議員がその作成調整に動くこともあるが、とくに与党の場合、日本では内閣提出法案(官僚・行政が作成したもの)が多数を占め、予算も官僚が作成しているために、政策や法律の案は、官僚・行政抜きには回っていかないのが現実である。
しかも、そのプロセスは、基本的には官僚・政党・議員・関連業界団体等のインナーサークルの中で行われ、国民にはあまり知らされない(注5)。結果、与党の政治勢力を土台に、そのクローズドのプロセスで決まったことは、すでに結論がでていることになる。国会において政策案や法案が審議され、その時点で国民がいかに反対しても、その結論が変更されることはほぼないのである(注6)。つまり、日本では、国民は政策論議や政策プロセスに関わることが非常に難しいのである。こうした点からも、日本の政策形成は民主主義的でないといえるのである。
また日本の政治や行政は、民意をできるだけ的確に把握するためのチャネルや仕組みを持っているとはいえない面がある。それは、日本には民意を反映できる仕組みがないことを意味する。
何度も述べてきたように、日本は行政を中心とした政策形成の仕組みをとっている。それは、基本的に行政つまり各省庁に繋がる業界団体などを中心に情報を集約し、それに基づき政策案や法案をつくっていく仕組みである。第二次大戦後、日本がいまだ貧困に喘ぎ、その状況を脱し、より豊かになりたいという日本の方向性が比較的明快かつ単純であった際には、その手法で政策や法律を作成しても、それらは有効に機能した。
だが、官民(主に関連業界)癒着の問題と弊害が90年代以降指摘され、その関係性の維持が難しくなり、業界からの情報も入りにくくなった。しかも日本社会全体が豊かになり、国民や地域に多様な違いが生まれ、きめ細かな政策的対応が必要になると、その手法では国民のニーズに十分に応えられなくなった。
本来なら、その時点で、行政も、国民のニーズや考え・意向を把握する新たなる手法やチャネルの開発等を行うべきであったが、政治・行政改革の中それもできなかった。
また政治、とくに政党は、行政と比較すれば、本来は国民・有権者に近い存在のはずである。しかも、政治がより有効に行政・官僚機構をコントロールし機能させるためには、行政等のみの情報に依存するのではなく、国民・市民・住民の情報を独自に収集・集約してしかるべきあろう。だが、日本の政党は、所属の候補者や議員が独自にそれらを集約し政策や選挙に活かすことはあっても、組織的かつ継続的にそのような取り組みをしてきたとはいい難い(注7)。
付け加えると、極端にいえば、現在の日本では選挙以外に、国民・有権者の民意を反映できる機会や仕組みがほとんどないのである。その選挙も、民意を反映できるような形式にはなっているが、公職選挙もそうであるが、政党の代表を決める選挙なども、すべての政策の問題や課題を包括的に扱い、非常に短期間で行われ、場合により国会議員や候補者のみで決められることも多い。国民・有権者の民意を的確に把握したり、集約する機能を果たしているとはいい難い。
さらに重要な問題がある。それは私たち国民・市民・有権者自身の問題である。私たちが、選挙制があり投票できれば、民主主義であると考えていることだ。しかも、有権者の投票率は必ずしも高いとはいえない。
先にも述べたように、民主主義は人々・民が支配する政治制度である。その意味で、自己の代表を選出する選挙は重要ではあるが、民主主義はそれだけではない。各国民・各有権者等が、自身の意見を持ち、ときに市民運動やアドボカシー活動・ロビーイング活動などを通じて、社会、議員・政党、あるいは行政に働きかけることや、社会起業家やコミュニティ-活動家として自身で問題解決を図ることも大切なのである。
また選挙をはじめとする政治活動に参画したり、政治献金で政治家や政党をサポートすることも重要だ。さらに、今の議員・首長や行政に不満を感じ、現候補から選べないなら、自身で候補者を立てるか、あるいは自身で選挙に出て議員等になること(注8)、行政に様々なかたちで参画することも、じつは民主主義なのである。
いずれにしても、そのように考えていった場合、日本の国民・有権者は、民主主義における政策形成過程において、プレイヤーとしての役割を十分に果たしているかという疑問を持たざるを得ないのである。つまり、国民・有権者自身も、政策過程を民主主義的にしてきていないといえる。
以上、いくつかの面から、日本における政策形成の現状について見てきたが、それらのことからもわかるように、形式はともかく、実質的には必ずしも民主主義的でないことがわかっていただけただろう。
そのことを踏まえて、日本における政策形成過程をより民主主義的にしていくためのいつつかの提言をもって、本稿を閉じることにする。
(1)事前準備承認制の緩和
現状の事前承認制のものでは、国会の立法機能は形式的・儀式的にならざるを得ない。とくに国民の意見が分かれるような政策案や法案などの場合は、より民意が反映されるように、国会で議員がより自由に審議し、その進捗が国民に明示されるようにすべきであろう。そのような審議が可能になるためにも、現在の省庁の人材の一部を出向でなく切り離し、国会の方に異動させ、議員や政党のサポートができるようにするべきである(注9)。
また、民意を政策に反映させ、政策が社会的に理解されやすくするために、国会で審議されるよりもかなり前から、それらに関するテーマの政策論議が、日本国内でなされるようにする。その意味では、現在はすでになくなった政党シンクタンクや独立系のシンクタンクの役割が、いま一度見直されるべきであろう。
(2)民意把握のための新しいチャンネルや手法の開発
上述したように、日本の政治・政党も行政も、選挙および世論調査を超える民意把握の方法を有しているとはいえない状況にある。とくに与党は、議員内閣制のもと、情報的に行政・官僚機構に一方的に誘導・操作されないようにするためにも、民意把握の独自の情報源や情報が必須である。
その意味で、海外で行われている「政治・政策マーケティング」という手法が参考になる。「政治・政策マーケティング」とは、国民や有権者、政治家・議員、政党、行政そして社会全体が、政策および政治の活動やメッセージなどの創造と交換を通じて、必要性があったり、あるいは望んだ政策や公的サービスを提供する社会的活動・制度・プロセスのことである。
より具体的にいえば、マーケティング論やその手法である世論調査やフォークスグループなどを通じて、政治や政策に関する情報収集や分析、ブランディング(ブランド構築)、有権者へのターゲティング、政策や戦略における立案などを行うことであり、バイアスのかかりやすい世論調査とは大きく異なるものである(注10)。なお、最近であれば、これにAIやビッグデータ、ブロックチェーンなどの新しいテクノロジーなども活用することも考えられる。
また上記のこととも関連するが、政党の場合は、党代表選(とくに与党自民党の場合、それは総理選出選挙にもなるので)や党の公約づくりのプロセスで、党員を中心により民意を反映し巻き込んでいくことが、小選挙区制においては必要であると考えられる。
(3)国民・市民・住民・有権者の主権者意識の再認識とそれに基づく行動
提案としては最後になるが、これがもっとも重要である。
これまでにも述べたように、日本は民主主義の国(少なくとも形式上は)であり、その主権者は国民である。別のいい方をすれば、国民がこの国の決定権を握っており、最終的には国の行末は私たちの責任であるということである。そして、自分たちの意見を政治や社会に反映するのには、選挙だけでなく様々な関わりや行動ができるということである。
そのすべてとはいわない、各個々人が自分のできる範囲で、能動的かつ主体的に関わり(注11)、その結果に責任を持つことがいまこそ求められているのである。
またこれらのことを、私たち国民が自覚するためにも、子どものうちからの政治教育、有権者教育あるいは市民教育が必要なのである。
民主主義社会における政策形成プロセスをより民主主義的にしていくには、これ一つで変えられるというマジックはない。国民・住民等も含めた様々なプレイヤーやアクターが、できるかぎり全体観を持ちながら、日々問題と課題に向き合い、解決していく以外に処方箋はないのである。
(注1)「『日本国』の経営診断…バブル崩壊以降の政治・行財政改革の成果を解剖する[検証報告書]」(PHP総研、新・国家経営研究会、2017年5月 https://thinktank.php.co.jp/policy/3780/)参照。
(注2)しかも、政治の側がイニシアティブとれることや人事権を握ることのできる仕組みができたことで、行政・官僚は、これまで以上に「忖度」、「配慮」することになり、当然に政策形成における力の発揮が難しくなったのである。
(注3)同拙著においては、あまり明確には論じていないが、現在の仕組みでは政治の側が選挙を中心にあまりに多忙であるために、政治が行政をより有効に監視・コントロールすることは不可能に近い。そこで、政治の側を政策的にサポートする人材の育成と存在も必要であることを明記しておきたい。
(注4)この場合、官僚は議員間の駆け引き等を勘案・操作しながら、自省庁に有利な方向に、政策案や法案を誘導していくことも多いといわれる。
(注5)一部の情報はメディアを通じて社会に流れることもあるが、メディア自身もある意味でそのインナーサークルの中の者であるので、その点でも制約や課題は多いのである。
(注6)現在の衆参における議席数で3分の2以上が与党議員で占められている際にはとくにそうである。
(注7)近年は、政党やメディアが世論調査を頻繁に行いようになっている。政党はその調査結果を選挙や一部政策づくりに活かしているようであるが、それはあくまで世論調査であり、政治や組織のバイアスがあるものである。国民や有権者の意見を、可能な限りバイアスを減らして、より正確に捉えているとは言い難い面があるといえよう。
(注8)代わりを立てられず、現候補者からも、自身の観点から良い候補者はいないと考えるなら、自身が候補者として選挙に出馬するしかないというのが、じつは民主主義の根本だと考える。
(注9)本題からは外れるが、筆者は、日本でも内閣提出法案という制度をなくし、すべての法案や政策案を議員立法にすれば、議員の質の向上、国会の立法機能の強化につながるのではないかと考えている。
(注10)拙記事「政治とマーケティング[https://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20120828/236105/]」(日経ビジネスオンライン)を参照。
(注11)国民・有権者・市民・住民が、社会的・政治的に関わる活動や動きに関わるのをサポートしたり、推進したりする動きも出てきている。例えば、グラスルーツスクール(https://grass-roots.net/lp/)を運営するグラスルーツジャパン、日本若者協議会(http://youthconference.jp/)、市民アドボカシ―連盟(https://www.facebook.com/lobbyingadvocacy/?fb_dtsg_ag=AdzVl2HvIFmBdICaoJvAY5ViqW9JFwfl-YUSBiPK_9OFdw%3AAdwzDDrc5nFUgN55E_ZZSD8A11Ot2nnypcbg-LCX5QARGg)など。
プロフィール
鈴木崇弘
城西国際大学大学院教授および「教育新聞」特任解説委員。宇都宮市生。東京大学法学部卒。マラヤ大学、イーストウエスト・センター奨学生として同センター及びハワイ大学等に留学。東京財団・研究事業部長、大阪大学特任教授・阪大FRC副機構長、自民党の政策研究機関「シンクタンク2005・日本」の理事・事務局長、中央大学大学院公共政策研究科客員教授、東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)事務局長付、厚生労働省総合政策参与等を経て現職。91年―93年まで アーバン・インスティテュート(米国)アジャンクト・フェロー。PHP総研主席研究員、Yahoo!ニュースのオーサー、日本政策学校代表等も務める。主な著書は『日本に「民主主義」を起業する』『シチズン・リテラシー』『Policy Analysis in Japan』等。