2012.04.23

「エコロジカル・フットプリント」と人間開発 ―― 資源消費量を減らしながら、社会を発展させることは可能か

橋本努 社会哲学

社会 #「エコロジカル・フットプリント#人間開発指標#ジェニュイン・セイビング#持続可能性指標リスト

日本人の生活水準は地球2.4個分

「エコロジカル・フットプリント」という指標がある。私たちが資源をどれだけ浪費しているのかを表す指標である。例えばある人が、電気やガソリンやプラスチックなどの資源を、ふんだんに使って生活しているとしよう。そのような生活を人類すべてが実行した場合、地球は何個分、必要になるだろうか。エコロジカル・フットプリントは、この問題を、各国別の平均で教えてくれる。

例えば日本人の平均的な生活を、世界中の人々が実行したとしよう。地球はおそらく耐えられないだろう。資源は枯渇し、環境は破壊されるだろう。この指標によると、現在の日本人の生活を世界規模で実現するならば、地球は二・四個分必要になるという。「地球環境に負荷をかけない」という倫理規範に照らした場合、私たち日本人は、再生不可能なエネルギーの消費量を、いまの半分以下に減らさなければならないということになる。これが「エコロジー」生活のための、一つの規範的な要請である。

だがエネルギー消費量を、いまの半分以下に減らすことはできるのか。そのためにはおそらく、私たちは1950年代ごろの生活水準に戻らなければならない。まだ洗濯機や冷蔵庫が普及していなかった時代の水準である。はたしてそのような生活水準の劣化を、私たちは「エコロジー」の理想のために、受け入れることができるだろうか。

1950年代と言えば、民主主義の政治は未熟で、女性の社会的進出も進んでいない。教育環境も十分とは言えず、医療環境やその他の福祉環境においても劣った状況にある。人々の平均寿命も短く、幼児死亡率も高かった。考えるべきは、私たちが資源消費量を落としながらも、なおかつ各種の指標において、すぐれた成果を挙げることはできるのかという問題である。

以下のリンク先の図は、グローバル・フットプリント・ネットワークが作成した、「人間開発指標」と「エコロジカル・フットプリント」の関係である。各国は、1980年から2007年までのあいだに、どれだけ人間開発を進め、資源を利用するようになったのか。それが分かりやすく把握できるようになっている。

http://www.footprintnetwork.org/en/index.php/GFN/page/fighting_poverty_our_human_development_initiative/

「人間開発指標」とは、平均余命指数、教育指数、成人識字指数、総就学指数、GDP指数を、ある一定の数式を用いて総合的に判断した指数である。上記のリンク先の図によれば、日本は「人間開発指標」においてすぐれた国のひとつであり、先進諸国のあいだでは、環境にあまり負荷をかけない社会といえる。しかしそれでも、エコロジカル・フットプリントに照らせば、日本人は、まだまだ浪費的であり、地球に負担をかけない生活とはかけ離れた状態にある。

フィンランドその他の国から学べ

ここで興味深いのは、1980年から2007年のあいだに、人間開発をすすめながら、再生不可能な資源消費量を減らすことに成功している諸国が存在する、という事実である。

例えば、フィンランド、ノルウェー、ドイツ、ハンガリー、ニュージーランド、オーストラリアといった国々は、人間開発指標における水準を改善しながら、エコロジカル・フットプリントの水準を下げることに成功してきた。これに対して、日本、アメリカ、イタリア、ベルギー、オーストリアなどの国においては、ますます資源浪費的な生活になっている。

こうした違いは、どこから生まれるのだろうか。各国の事情によって、さまざまな要因があるだろう。私たちは、エコロジカル・フットプリントの値を減らしながら、人間開発指標を改善するための余地がある。環境に負担をかけないで、よりよい社会を築くための余地がある。そのような可能性について、フィンランドその他の国から大いに学ぶことができるのではないか。

環境に配慮した成長社会のために

あるいは、私たちはEU諸国の取り組みに倣って、GDPとは別の福祉指標を用いて、環境問題について考えることもできるだろう。「ジェニュイン・セイビング」という指標は、環境に配慮しながら、私たちの福祉水準を維持・発展させるための、一つの方向性を与えている(以下の図を参照)。

「ジェニュイン・セイビング」とは、国民総貯蓄から固定資本分の消費を差し引いて、教育への支出を「人的資本」への投資として加え、さらに天然資源の枯渇・減少分と、二酸化炭素排出等による損害額を、ともに控除して計算したものである。この指標の経緯をみると、日本社会は1970年代以降、地球環境にとって、しだいに持続不可能な消費生活へと向かってきたことが分かる。こうした傾向に歯止めをかけるためには、私たちは消費の性向を、教育機会その他のサービスに向け直すことが求められているのではないだろうか。

別の指標にも目を向けてみよう。EU諸国ではすでに、経済成長の指標(GDP)に代えて、新たに環境の持続可能性と調和するためのさまざまな指標(「持続可能性指標リスト」)が用いられている(次図を参照、出所は先のリンク先と同じ)。私たちもこうした各種の指標を総合的に用いて、「福祉」の水準を実質的に検討するための語彙を発達させることができるのではないだろうか。

「ジェニュイン・セイビング」や「持続可能性指標リスト」といった新しい指標が示唆しているのは、私たちがたんにエネルギーの消費量を減らすのではなく、エネルギー消費量の削減が、同時に、私たちの「生活の質」を高めるための各種政策と両立しなければならない、という考え方である。

私たちは、消費のパタンを変化させることで、現在世代と将来世代の福祉水準を、ともに維持するような社会を築くことができる。こうした新しい指標にもとづく経済政策は、経済成長を否定するのではなく、成長の理念を新たに方向づけている。「経済成長第一主義」を避けるとして、目指すべきはどんな社会なのか。私たちのライフ・スタイルの変化を含めた、新たな理念が求められているように思われる。

推薦図書

エコロジカル・フットプリントが示しているのは、地球に負担をかけない生活の水準である。だが世界全体で、人類はすでに、資源環境を維持できない水準に達している。このまま資源を浪費していくと、どうなるのか。

資源はいずれ枯渇する。それが100年先だろうか、1,000年先だろうが、私たちにとってはある意味で、どうでもよいことかもしれない。多数派がそのように考えるかぎり、民主主義の枠組みでは、制度を変えることはできない。だが私たちは、将来世代に対して、何らかの責任を負っているのではないか。

ロールズはそのような関心から、自著『正義の理論』の前提を修正した。ところが本書の中で大澤真幸は、ロールズの修正の試みが、失敗であったと批判している。高レベル放射性廃棄物は、10万年程度は、生物の生存権から隔離されていなければならない。しかし10万年先の将来世代に対して、私たちはいかなる責任を負っているのか。それはロールズが考えるような、過去から受け継いだ遺産を将来世代に継承する責任がある、という程度の考え方では解決できないという。

私たちが過去から受け継いだ遺産の一部は、「負の遺産(資源環境の悪化、あるいは放射能/放射性廃棄物)」である。この遺産を10万年後の人類に継承していく、あるいはさらに多くの負の遺産を加えていくための正当化根拠は、いかなる倫理的基礎に基づくのか。本書の最後では、そのような問題を解決するための「委員会」のあり方について、ラカンが実際試みた事例を参照に、強度の思考がつづく。きわめて思考喚起的な一冊だ。

プロフィール

橋本努社会哲学

1967年生まれ。横浜国立大学経済学部卒、東京大学総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。現在、北海道大学経済学研究科教授。この間、ニューヨーク大学客員研究員。専攻は経済思想、社会哲学。著作に『自由の論法』(創文社)、『社会科学の人間学』(勁草書房)、『帝国の条件』(弘文堂)、『自由に生きるとはどういうことか』(ちくま新書)、『経済倫理=あなたは、なに主義?』(講談社メチエ)、『自由の社会学』(NTT出版)、『ロスト近代』(弘文堂)、『学問の技法』(ちくま新書)、編著に『現代の経済思想』(勁草書房)、『日本マックス・ウェーバー論争』、『オーストリア学派の経済学』(日本評論社)、共著に『ナショナリズムとグローバリズム』(新曜社)、など。

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