2020.11.19
趣味の社会学――文化・階層・ジェンダー
日本には経済的な格差はあっても、文化的な格差はあまり意識されることがない。たとえばクラシック音楽を好きな人が、JPOPも好きでカラオケをしていたり、あるいは古典文学を愛好しつつアニメも好きという人がいるので、文化はフラット化したとか、日本は文化的に平等だといわれることが多い。しかし本当に文化の格差はないのだろうか。
20世紀後半を代表するフランスの社会学者、ピエール・ブルデューの理論と問題関心に導かれた著者は、計量的な社会調査やインタビュー調査を通じて、日本の文化実践や文化格差について研究を続けてきた。そして昨年、『趣味の社会学 文化・階層・ジェンダー』を上梓した。タイトルの「趣味」とは「テイスト」の意味であり、本書は日本における趣味やライフスタイルの階層性、文化による差異化、文化資本や教育の再生産、階級のハビトゥスなど、文化的再生産とよばれる領域について、ブルデュー理論を日本で検証した社会学的研究である。
ブルデューがフランスで明らかにしたのは、フランスのエリートたち(支配階級)は、クラシックやオペラ、美術などの正統文化を愛好するが、大衆が好む文化には排他的であること、つまり、階級的地位を文化で表す、すなわち「趣味は階級を刻印する」ということであった。ブルデューは、われわれが趣味の良さや教養、上品なふるまいとして理解しているものを「文化資本」という概念でまとめ、階級の再生産、地位の世代間再生産にとって、文化資本は経済資本とともに重要であることを示してくれた。
エリート文化の明確なフランスにおいては、親から子へと受け継がれる文化的なもの、それはライフスタイルの再生産でもあり、文化資本の再生産という現象である。しかし日本では、ヨーロッパ的な階級文化やエリート文化は不在ともいわれ、文化の格差や文化的再生産を強調するブルデューの理論は興味深いが、日本には適用できないと考える人が多かった。
筆者は、ブルデューの『ディスタンクシオン』という著作に多大な影響を受けており、しかし一方でアメリカ流の地位達成研究にも惹かれて研究していたこともあり、計量的な手法も用いながら、文化資本が不平等の再生産にとって、どのような影響を与えているかを知りたかったという経緯がある。社会的な不平等は経済資本(お金の問題)だけでは説明がつかないことも多いからだ。文化資本や学歴資本、ハビトゥスという概念を用いて、戦後日本社会の文化の不平等や再生産問題を解明しようというスタンスで、『趣味の社会学』全体を構成している。
本書の中心的な問いは大きく2つあり、1つめは「日本ではなぜ文化的な平等神話が広がり、文化的再生産は隠蔽されているのか」である。
SSM95年全国調査で文化の調査を行った結果、日本のエリート層の多くが、正統文化と大衆文化の両方を好む「文化的オムニボア(文化的雑食)」になっていることが明らかになった。エリート層はクラシックも好きだが、一般大衆と同じようにカラオケをも楽しむ。その姿は文化的に平等な社会だと人々には映るだろう。さらにエリート層だけでなく、中間層にも「文化的オムニボア」は分布していることが明らかになった。そして日本人の約6割が、文化的オムニボアとなっていた。都市部の別の地域調査では、文化的オムニボアの率はもっと高かった。現代、少なくとも90年代以降の日本社会には、文化的オムニボア説がもっとも妥当するのである。
このように中流以上の多くの日本人が文化的オムニボアになり、エリート層も大衆化した文化に親しむという文化的寛容性を示すことが明らかになったのである。日本の企業社会を考えるとわかるが、クラシックやオペラのような高級文化趣味を示すことは、ルサンチマンの対象にこそなれ、組織の中での象徴的利益は得られそうにない。とくに男性はエリート層であってもカラオケやパチンコ、スポーツ新聞という大衆文化に親しむ人が多いことがデータで示された。そして日本では、大衆文化を通じて人とのつきあいが保たれ、大衆文化が人々の「共通文化」になっていることも明らかにできた。
他方、正統文化(クラシック、美術館、短歌・俳句、歌舞伎・能・文楽など)だけを実践する正統趣味オンリーの人(文化貴族)は、日本全体のわずかに1.9%とごく少数であった。
もちろん職業階層や学歴が高いと正統文化の実践率は高くなり、地位の高い人たちは正統文化を好んでいることも事実である。しかしフランスと異なり、日本のエリート層は大衆文化も好み文化的寛容性を示すことが、フランスとの大きな違いである。フランスの支配階級が文化的卓越化と大衆文化への排他性を示すのとは、大きく異なることがわかり、これが第1の主な発見であった。
文化的オムニボアは、現在では、アメリカ、イギリスなど多くの国で増加していることが確認されてきたが、本書のデータはアメリカにつぐ早い段階の指摘でもあった。とくに都市部の若い人々にとっては、文化的オムニボアになることは、文化のグローバル化や商品化とも関連し、さらに拡大している。
ではオムニボア化(雑食化)した社会では文化の格差や階級文化は不在なのかというと、必ずしもそうともいえないのである。
例えば、趣味判断を文化弁別力(文化の高低を見分ける力)という指標でみると、正統文化と中間文化を区別できる文化弁別力の高い人は、高学歴や高い出身階層に多い。文化弁別力は「違いがわかる」かどうかであり、文化の分類・識別能力といえる。これは自他の文化実践を分類する「眼」であり、ハビトゥスの重要な側面(構造化する構造)なのである。そして出身階層や現在の社会的地位によって、文化弁別力の大きさが異なっていた。
専門・管理職層ほど文化弁別力が大きく、クラシックとジャズ、ロック、演歌の違いを大きなスケールで識別する。クラシックをより高尚なジャンルとして評価するのである。しかし労働者階層では、そのスケールは小さく、文化ジャンルの違いがあまり識別されていない。ジャズもロックも演歌もほとんど同じレベルとして評価されていることが明らかになった。
もしこれが階級ハビトゥスであるとすれば、同じ学歴や職業が2世代続けば、文化の世代間蓄積となるのだが、なぜかそれは女性にのみ顕著に現れた。さらに父親が高階層出身の女性はたとえ夫が労働階層であっても、出身階層と同程度かそれ以上の高い文化弁別力を保持するのである。しかし男性はそうではなく、出身階層に関係なく現在の職業地位の平均的な文化弁別力に同化してしまい、文化弁別力は世代間で伝達されない(11章「階級のハビトゥスとしての文化弁別力とその社会的構成」)。
そこでジェンダーの側面から文化をみていくと、文化的オムニボアとは異なる側面がみえてくる。ジェンダーによる文化の差は実は子どもの頃から生じている。女の子の習い事はピアノで、男の子はスポーツというのは、今でも顕在だ。そこで本書の2つ目の問いとして、「なぜ男女で文化実践が異なるだけでなく、その社会的な意味が異なるのか」を扱った。
詳細に男性と女性を比較すると、まず正統文化を好むのは女性に多く、高学歴で専業主婦の女性ほど正統文化を好む。これに対し、高学歴男性の正統文化指数は女性の高校卒と同程度で、エリート男性といえどもクラシック音楽を聴いたり、美術館へ行く人はそれほど多くなく、文化のジェンダー差が浮き彫りになった(6章参照)。
さらに写真の題材を示して美的感性を問う質問を行い、ブルデューと同様の、「木の皮」「キャベツ」というとるに足らない題材でどんな写真がとれるかという趣味判断を調べた。ここでも日本の高学歴男性はフランスと異なり、キャベツや木の皮を「つまらない写真」と評価する者が多く、かつ男性では写真の美的判断で学歴差がほとんどみられないという不思議な結果が現れた。他方、女性では、キャベツや木の皮で「おもしろい写真」「美しい写真」がとれるという回答が男性よりも多く、とくに高学歴女性に多かった。写真の題材を用いた美的感性も、文化資本の一部であるテイストなのである。
写真だけではなく、女性は文化の違いを明確に識別して、かつ正統文化を好む傾向があること、しかも女性の正統文化嗜好は出身階層や現在階層によって強く規定されていた。しかし男性では、階層によるテイストの差は女性ほど大きくはない。日本の文化実践を理解する上で、ジェンダーと階層は重要であり、ジェンダーによる文化のセグメンテーションも生じやすいのが日本である。
では、日本の「文化的な」女性はどんな人生コースを送るのかという問について、全国調査データを計量分析の手法を用いて分析したのが、7章「階層再生産と文化的再生産のジェンダー構造」と8章「教育達成過程における家族の教育戦略とジェンダー」である。子ども期(幼少時)文化資本と呼んでいるが、子ども時代の文化的な経験や文化的な家庭環境が、その後の女性の学校成績から到達学歴、ひいては結婚相手の収入や財産までにプラスの強い独自の影響を及ぼすことが明らかになった。
すなわち女性にとって「文化的である」こと、「文化的洗練」というのが、教育(学歴)と同程度に重要なのである。しかし男性ではエリートになるために、文化資本は独自効果をもっていなかった。学歴や出身階層、年齢などを統制しても、子ども時代の家庭の文化資本の効果は男性では見いだせず、上位5%のエリート職になった男性にとって文化資本は関係がなかったのである。代わりに、男性にとって高い学歴獲得やエリート職につくことに大きな影響をあたえていたのが「学校外教育経験」と「学歴」である。
男性にとっては、学校外教育経験が高学歴や高い学業成績を保証するものとなり、勉強していい学校へ行き、いい会社に入って出世するという物語が現実のものであったこと、そして就職後はカラオケ、スポーツ新聞、パチンコにも親しむ文化的雑食者になって、高尚な趣味は表向き隠すか、消失してサラリーマン人生を送る人が多いということなのだろうか。
それゆえ、男性にとって文化資本は、日本の組織社会ではあまり必要のないものである可能性が高い。もちろん例外は多々ある。筆者の研究結果に不満をもらし、たとえそれが女性の問題であっても、文化資本の地位形成効果を否定しようと努力していた人たちは、すべて男性研究者であり、強い同意と支持をくれたのが女性研究者に多かったことは、示唆的な経験であった。
調査データから明らかとなった要点をざっくりまとめると、まず「文化的な女性」ほど学校の成績がよい。つまり習い事をしたり、家庭教育を通じて、美術やクラシック音楽に親しんで、趣味やセンスを磨いた文化資本の高い女性ほど、高い学歴を獲得し、さらに結婚市場でも高い地位の男性と結婚して成功ルートにのりやすいのである。例えば、同じ高学歴女性でも、幼少時文化資本が高い層と相対的に下位の層では、夫の年収が160万円も異なっていた。家庭での文化的経験の効果は、意外と強くライフチャンスを左右するのである。
女性にとって文化資本が高く、文化的であることは、ライフチャンスでの地位上昇にとって重要なアイテムである。世代により多少の差はあるものの、地位達成メカニズムが男女で文化資本の効果をめぐって異なっていたことは、日本社会をジェンダーという視点からみたときに、かなり揺るぎのない基本構造として存在している。
そして日本では正統文化の多く(例えばピアノ、短歌、茶道・華道)が、歴史的にも女性向きの文化として浸透していたため、人々の文化定義がジェンダー化しており、それゆえ文化資本の意味作用も男性と女性で異なってくるのである。女性にとって正統文化を実践し、文化的に洗練されることは、エリート男性との結婚にも結び付きやすいことから、とくに高学歴女性を中心に、文化的洗練性たる芸術文化資本は、女性の地位アイデンティティの源泉になってきたのである。
男性にとって、文化資本や文化的洗練は地位達成にあまり重要ではないが、女性は長い間、労働市場の主要部分から排除されていたこともあり、女性の地位形成にとって文化資本は重要なアイテムである。これらの分析結果は、複数の異なる調査で検証できたこともあり、これまでの日本社会において、「女子のたしなみ」ともいうべき文化的な経験が、女性の社会的な武器として、学校や婚姻市場で効果を発揮していたことが分かる。そして、この文化のジェンダー構造はなかなか堅固である。
SSM調査などを用いた計量的な社会階層研究では、地位達成の主な要因として親の地位と本人の学歴の効果を測定することが多く、文化の効果を測定した研究は筆者が最初に実施するまではほぼ皆無だった。筆者らの提案で、SSM95年調査に、ブルデューの文化資本、とくに子ども時代の文化資本(読書文化資本、芸術文化資本)を質問群として入れてもらえることになって、文化資本効果や男女差、文化実践の日本的構造である文化的オムニボアなどを明確にすることができた。
さらに本書には、「象徴的境界」という概念で友人関係を分析した論稿を収めた(10章 バウンダリー・ワークとしての友人選択とハビトゥス)。人々は友人交際や他の人との間に、目に見えない境界線をひくことがある。文化的排除といってもよいだろう。これを象徴的境界(シンボリック・バウンダリー)という。どんな人と友人としてつきあいたいかという質問をすると、その境界線には4つの基準があることが明らかになった。
文化的境界として、クラシックの好きな人や言葉使いが丁寧など、文化資本の高い人を好むグループ(文化的境界)、業績を上げている人やお金もちといった経済的基準を重視するグループ(経済的境界)、道徳的な基準を重視するグループ(道徳的境界)のほかに、大衆的で下品な活動をする人とつきあいたいというグループ(大衆的境界)が存在しており、最後の大衆的境界を用いる人は、主に若い年齢層の男性高学歴層のうち社会的に成功していない不満層と、男性の労働者階層である。
さらに、それぞれの基準を用いるグループの価値観やハビトゥスの特徴も明らかになり、文化的境界を重視する人は、都市の中上流階層ホワイトカラーであり、正統趣味をもつほか、非物質的価値観、公共性・道徳性の高さ、非権威主義的パーソナリティをもつ、いわゆるコスモポリタン的な価値観と文化による差異化を重視したライフスタイルとハビトゥスをもっている。
対照的に大衆的境界をもつ人たちは、若い男性で大衆趣味と関連が強く、風俗の利用や下ネタ、ギャンブルを好み文化資本は少ない。また他人に迷惑をかけなければ何をしても自由という個人主義的自由主義の価値観が強く、リバタリアン的な価値観とハビトゥスをもっていた。大衆文化を好む若い男性の存在は、社会の中でジェンダーの文化的な壁を作りだし、女性を排除する文化として作用しているのかもしれない。男性ホワイトカラーのビジネスマンには、文化的境界と大衆的境界の両方を使い分ける人も多く、それぞれの場面で異なる象徴的境界を作動させていると思われる。
大衆的境界を持つ人が男性大卒に一定程度いることは、日本では学歴が同じでも、文化資本やハビトゥスが似ているわけではないことを示唆している。あるいはメリトクラティックな学歴選抜が、必ずしも文化選抜ではないことも意味している。
ジェンダーによる文化の差異だけでなく、幼少時に獲得した家庭からの相続文化資本の効果が、成人後の文化実践だけでなく、社会的地位形成にも大きく関連していた。このことから、学校で文化資本を学ぶこともできるが、親や家族からの影響による相続文化が、その人の人生の機会やライフスタイルと強い関連があることが、本書から読み取れるのではないだろうか。
さらに文化実践を理解する上で、職業や教育の効果、家庭文化の効果など、複数の文脈で得た文化経験が、そのまま実践につながるのではなく、社会の支配的な文化のあり方、たとえば男性はどう舞うべきかや、女性が文化的に洗練されると望ましいという、社会の中の支配的な文化定義というものが存在していることも事実である(9章 ジェンダーと文化)。
文化実践は、ブルデューのいう階級のハビトゥスだけを強調すると見えなくなる部分があり、その一つがジェンダーであるといえよう。それゆえ私は日本の地位達成の構造を「文化的再生産と社会的再生産のジェンダー構造」としてとらえている。性別役割分業が強かった戦後日本社会では、男性が主に社会的再生産を担うことが多く、文化資本の再生産は女性に求められるという理念型である。
このような社会では、文化的教養を身につけた「お嬢様」が婚姻市場で価値をもつ。男性は文化よりも、メリトクラティックな選抜で生き残り、出世することが求められ、経済資本を獲得する。そして婚姻を通じて文化資本の高い女性と出会い、経済資本と文化資本が家族の資本として階層再生産に寄与するのである。
もちろん例外は多々あるし、あくまで統計学という蓋然性の基準で導きだされた構造とメカニズムなので、個別の反例を示したからといって、それは結果を反証できたことにはならない。当然、反例はいくつも身の回りに見つかるはずである。しかし、それらは少数の例外的なものであるということになる。その例外を追求することも重要ではあるが、まずは日本社会の大きな文化の構造を明らかにすることを本書は目的としている。
本書が描いた文化の状況は、少し前の日本についてである。なぜなら用いられたデータは、筆者が中心となって進めてきた1989年と1991年の神戸調査、SSM95全国調査、1999年の川崎市調査からのもので、90年代の分析をまとめたものであるからだ。その後の文化の変容やグローバル化の影響、SNSの拡大などが文化に与える影響については、2019年の全国調査を終えて分析を進めている。ポスト・モダン社会における文化資本の問題として新たな課題が生まれている。
本書に示した分析結果から、日本では文化のジェンダー差が大きいことがわかるが、筆者自身も結果そのものに軽いショックを覚えることが多々あった。それは予想以上に現実が、ジェンダーに彩られて存在しているということを、データが示していたからである。
日本のジェンダー不平等指数の世界ランクが低下している中で、現在どのような文化と社会の構造になっているか、最新データで分析をしているので、興味のある方は最近の、あるいはこれからの論考をご覧いただけることを期待している。ポスト・モダン社会の文化の構造は、男女の差もさることながら、世代差が拡大し、かつてのような正統文化の卓越化戦略は、若者には適用できそうもないと予想している。
プロフィール
片岡栄美
駒澤大学文学部教授。共著に『変容する社会と教育のゆくえ』(岩波書店)、『文化の権力』(藤原書店)、『社会階層のポストモダン』(東京大学出版会)など。