2022.11.30

座談会記録「映画から考える 民主社会における象徴君主の表象」

愛敬浩二×山元一×志田陽子

文化

2022年9月8日、イギリスでは、女王エリザベス2世が逝去した。ちょうど日本では元首相の「国葬(儀)」をめぐって賛否が分かれていたため、イギリスで行われた国葬の品格と自国を比べる言説も多く見られたが、もともと民主国家においては、政治リーダーである首相と、政治権力を持たないことと引き換えに「象徴」となった君主とでは、位置づけも役割も異なる。

むしろ、その文脈ではなく、「民主社会における象徴君主」というものが、人々にどのようにイメージされ、描かれ、受容され、または物議をかもしてきたか、という文脈において、イギリスの象徴君主と日本の象徴君主を比較するほうが、本来の筋だろう。

筆者(志田)はちょうど10年前の2012年11月22日に、武蔵野美術大学で3つの映画を題材としながらこのテーマで公開座談会を行った。この内容は10年を経た2022年の今、多くの人に意義を感じてもらえる内容だと思われたため、「シノドス」上で再掲させていただくこととした。

この座談会では、映画『太陽』、『英国王のスピーチ』、『バンク・ジョブ』を題材に、3名の憲法研究者が「象徴君主」について討論した。

登壇者 愛敬浩二(名古屋大学大学院法学研究科(当時))
登壇者 山元一(慶應義塾大学法科大学院)
司会 志田陽子(武蔵野美術大学)

志田 まず『太陽』を中心に、山元先生からお話を伺います。

山元 私を含めてこの3人は普通の人とは違う仕方で、天皇・天皇制というものにかかわっていると思います。日本国憲法を見ますと、第1章・第1条から天皇は象徴であると出てきますから、日本で憲法を勉強しようとすると、この問題は避けて通れません。

<「太陽」部分上映 冒頭で洋風の料理が出されるシーン 00:00:50〜00:02:20>

山元 何でこのシーンを最初に出していただいたかと言いますと、「天皇制」って、西洋のイミテーションだということが、最初からはっきりと出ているんですね。映画監督はむしろ、攻撃が東京に来るかもしれないという緊迫感の中で食事をしているということを言いたかったのかもしれませんが、しかし西洋の君主のまねをして、西洋風の料理を西洋風の服を着て朝ご飯から食べている。これが明治のときにつくった日本の天皇制の本質を大変鮮やかに示していると感じたわけです。

山元一氏

最初から最後まで、彼は徹頭徹尾、西洋風の紳士として出てくる。皆さん、例えば和服を着た天皇ってたぶん見たことないと思うんですよね。皇后の方は、和服を着ているシーンがあるかもしれませんけれども、天皇は、西洋の王様たちと一緒に自分がそこにいたときに、まったく違和感のない形でそこに共存できる、そういう風習を少なくとも外側に向かっては目指していた。そういうことがあるんじゃないか。

志田 私たちは天皇というと、天照大神の神話時代から天皇なる血筋が続いているものと思いがちですが、実は明治時代以降の天皇制は、西洋の君主制をまねたものであると。この映画の後のほうで、マッカーサーが、着物を着てこなかったのかと尋ねます。これに対して天皇は、儀式のときだけは古来の伝統装束を着ると答えていますが、それ以外は徹底的に西洋を模したものであるということは、その通りですね。

次は御前会議のシーンです。

<「太陽」部分上映 御前会議のシーン 00:14:30〜00:18:53>

山元 昭和天皇を語るときには、ここは落とせないシーンだと思うんです。8月9日と8月14日に御前会議をやったということは記録から明らかになっていまして、それで1945年8月9日から10日かけて、戦争を続けたいという人が3人、それから戦争をやめたいというのが3人、その会議にいて両方同数だったので両方の意見は聞いた。それで、では私の意見を言わせてもらうということで、この戦争はやめたいということを言う。これがいわゆるご聖断として有名になり、戦争を止めたということから、彼には平和的なイメージが付いた。ここが重要なわけですね。

さらに、この映画の中では、裕仁のさまざまな側面を映し出している。生物学者としての側面、それから国家の最高度のキーパーソンとしての役割を、デフォルメがあるとは思いますがきちんと描いています。非常に緊迫感のある、続けたい側も必死だし、やめたい側も必死という状況の中で、皇居で会議をしているシーンを、きちんと描いているなというのが、私の印象です。

志田 このシーンで私が、脚本家が調べて考え抜いているなと思ったのが、裕仁が、政治を生臭く語らず、明治天皇が詠んだ和歌を引き合いに出すところですね。天皇制というのは、血筋が代々受け継がれているところに正統性があるというところに重ねて言えば、自分の前の前の代の天皇は何を言っているかという先例を見る、しかも和歌に詠まれている抽象的な言葉から何を読み取ろうかという話に持っていく。ソクーロフも、そういった天皇制の特徴をよく研究していると、感心したところです。

山元 後で見る『英国王のスピーチ』では、スピーチするというのが非常に重要なのに対して、日本は天皇が歌を詠む。天皇というのは横並びに比べる人はいないので、比べるとなると自分の祖先で、特に尊敬していた明治天皇だということで、ここは彼の頭の中ではどういう構造ができているかがよく分かるように描かれています。

愛敬 僕が一言申し上げたいことは、やはりロシア映画だということ、日本映画ではないということです。佐藤忠男先生の『日本映画史 増補版』(岩波書店、2007年)第4巻に「表現の制約とその打破」という項目があり、その中で天皇に関する表現を扱っています。それをご覧いただければ、日本ではいかに天皇を描くことが困難であったかということが分かると思うので、少しだけ紹介させて下さい。

愛敬氏

例えば戦前、1925年、衣笠貞之助が『日輪』という映画の中で、天皇と系譜上の関係があるかもよく分からない卑弥呼を描いたところ、右翼が妨害を起こしたという事件があるそうですし、1951年の吉村公三郎監督の『源氏物語』でも、平安時代の帝ですけど、それさえ御簾の奥にいてよく見えないとか、天皇を描くということは非常に難しかったわけです。

『太陽』では、御前会議のシーンで天皇が描かれていましたが、これは驚くべきシーンです。1952年の『黎明八月十五日』という映画では、カメラを天皇の目に置くことで、御前会議を描きつつ、天皇は描かないというテクニックを使っています。1952年でもそうなんです。

岡本喜八監督、この方は結構バイオレンスな映画を作る方ですが、岡本でさえ、『日本のいちばん長い日』(1967年)で天皇は遠景で描いた。このように、日本で天皇を描くことが非常に難しい。ですから、ロシア人だからこそ、天皇の微細な日常を描いている、というところがすごく重要だと思います。

<「太陽」部分上映 マッカーサーと会見をするヒロヒトのシーン 01:19:47〜01:21:27、01:25:12〜1:26:00>

山元 ここは面白いですね。実際にこんなふうに葉巻で火を移したりすることは、あり得ない。例えば、天皇が英語をしゃべっているということ自体、あり得ないと思いますけれども。戦後の日本の中で、結果的には、天皇制は守られた、ここはその要になる場面ですね。

それで、安保条約がその後できて、占領軍は今もそうですけれども在日米軍という形で日本にいるということで、日本とアメリカの特別な紐帯、つながりというものができてくる。これが日本の戦後の政治をもっとも基本的なところで規定しているわけですが、その事実とこのシーンというのは、無関係では存在しえないわけですね。

まず、この中でたぶん一番監督が描きたかったのは、マッカーサーが彼に敬意を持てるかどうか、だと思うんですね。敬意を持てるかどうかの分かれ目になる場面で、直截にヒトラーが比較の対象として出てくるわけです。これは、とても重要な問いでして、連合軍は日本とドイツとイタリアと戦っていたわけですから、ドイツのヒトラーとイタリアのムッソリーニと裕仁がファシズム勢力すなわち枢軸国の側で、それが連合軍と戦っているという構図の中でやっていたわけですから、もし、ヒトラーと裕仁が仲良しだったら、これは死刑にするしかない。戦争責任を徹底的に追及するしかないはずです。

だから、そこでマッカーサーは、ヒトラーは友達なんじゃないかと聞くわけです。しかしそこで彼は会ったこともないと言って、はねのける。それはそれなりにマッカーサーが納得できるものであったということが重要ですね。

葉巻のシーンは、エロチックというか、セクシュアルなものがすごくあるシーンだと思うんですが、これは戦後における日本とアメリカの離れられない関係性の始まりを描いたものと感じます。今の日本の歴史は、このシーンを超えるものとしては存在していない。そういう意味で、強い示唆を与える、見事な持っていき方。すべてフィクションですが、その中に、こういうふうに重要なものがちりばめられているなと感じます。

志田 確かにこの葉巻のシーンは、日本人が描こうとしたら、描けないだろうと思います。そこに二つの国のその後の関係が象徴されていると。さて、次は裕仁が「人間宣言」について語るところです。

<「太陽」部分上映 人間宣言について語るヒロヒトのシーン 01:36:50~01:38:05>

山元 ここも大変重要。このシーンが重要というよりは、天皇が神格を否定するということ自体が重要で、それがこういう形で、彼の生活というか人生の中で、こういう形で描かれているというのが印象的で、これはもちろんこんなふうだったとは思わないわけですね。

これは、歴史では、GHQが天皇の神格を否定する宣言をした方がよいと言い、それで天皇も同意して行ったものといわれていますね。実際にこれが行われるのは、1946年の1月1日ですので、戦争が終わった8月15日からしばらく経って、日本が占領されてからの出来事です。 

これはどうも有名なあのラジオの話(玉音放送)と人間宣言という、それ自体は別にラジオ放送したわけではない、文書を出したものとが混同されていて、後で録音した若者が自決したというところが出てくるんですけれども、これは、実際には自決はしてないと思いますけど、録音したのは8月15日のラジオの放送の方で、だからその2つは違うんです。そうしたところはちょっと置いておきますと、神格、単なる人間であるにもかかわらず、血筋の故に神格性を与えられてしまった人が、神格を放り出す、普通の人間に戻るということの持っている意味ですね。

これは、普通の人間には味わえない。神格を普通は味わえませんし、神格から離れるということも味わえないわけで、そこをどう描いていくか。ちょっとカラ笑いをしていたように見えましたけれども、やはり嬉しかったんじゃないかと思うんです。無理やり神の座に上げられていたわけですから。それで、さらにまたこの後、桃井かおりが扮している皇后が来て、そこでますます人間となった彼の喜びというのが素直に出ているわけですね。そこは、政治的、社会的な話と別に、人間としてはそういうふうに感じるだろうなと。

一方、天皇が人間になったということを裏切りと感じる人たちもいるわけですね。神である天皇の下に命を落としたわけですから、自分だけ人間になっちゃったら、死んだ英霊たちは救われないじゃないかという、逆の感情も起こってくる。それは、三島由紀夫の『英霊の声』というのに出ています。映画でそのことは言っていませんが、それを部分的に暗示させるのが、桃井かおりが、若者が自決したと聞いたときに、ものすごく暗い顔をするところです。そこは、天皇本人としては嬉しいかもしれないけど、やっぱりそんなに簡単じゃないのだ、ということを言っている気がします。

志田 もう1シーン、「YouTube」からの天皇の広島行啓のシーンをご指定いただいているのでお願いします。

山元 ここに映っているのは原爆ドームです。これはもう戦争が終わって2年ぐらいたったとき、1947年12月7日に広島へ初めて行くわけですね。ポツダム宣言が出されたのは7月の末だったんですけど、これをすぐに受け入れて入れば、8月6日とか8月9日の広島や長崎よりも日付が前なので、原爆が落とされなかった可能性もあるわけですね。

しかし彼は広島に行って、そんなことを民衆から突き上げられることもなく、原爆ドームを背にしながら、熱狂的な歓迎を受ける。ビックスという歴史家が、このシーンは日本が戦争に勝って、それで各地を回っている天皇が称賛されているシーンにしか見えないんじゃないのかと言っているんですが、まさにその通り。

ここで感じる違和感というんですか、釈然としないものがやはり残るんですけれども、しかしこういったものの延長に今の日本があるんだなということです。

愛敬 私は先ほど、『太陽』はロシア人だから描き出せた映画だと言ったんですが、反面、ロシア人だから描き出せなかったこともあるんじゃないか。たとえば、天皇の人間宣言は、昭和天皇は「神から人になる」ことが苦痛だったのではなくて、「万世一系」という、少なくとも神話的には天照大神から、歴史としても千年以上、家系が続いているわけですよね。それが自分の代でなくなるかもしれない。この恐怖感って僕はすごいと思うんですよ。

皆さん、ちょっと考えてほしいんですけど、自分の家が代々の地方の名家で、何百年も家を守ってきたわけですよ。なのに、自分がその家を守れなくて、売り払ってしまうかもしれない状況に陥った場合、これはかなりの苦痛ですよね。ご先祖様に顔向けできません。

昭和天皇の場合、地方の名家とは比べものにならない苦痛でしょう。もしかしたら日本には1つしかない、たぶん世界でも珍しい、累々と続いてきた「万世一系」の体制が、自分の代でなくなってしまうかもしれないのですから。昭和天皇だって、近代人であれば、自分が神ではないということくらいわかっていたと思うので、神から人間になることは受け入れられたのではないか。けれども、自分の代で「万世一系」が途絶えてしまうかもしれないということへの恐怖感は物凄かっただろうと思うんですけど、そこはどうも描ききれてないのではないかという印象をもったという感想を申し上げておきます。

志田 ところで私たち3名は、憲法を専門にしている人間なので、一番大事なところを当たり前過ぎて言わずに話を始めてしまいました。君主といったときに、西洋では近代以前の国王、日本では第2次世界大戦終了までの天皇というのは、政治権力を持つ君主、主権者でした。実際に天皇が政治的決定をどのくらい主体的にしたか・できたかという問題は置くとして、天皇の言葉である政治的決定が語られたとき、それが日本国民に、政治的決定という形で浸透していく。そういう力を持つ存在だったんですけれども、象徴といったときには、この政治権力性はもう持たないということです。

それでは「象徴」として君主が存在するとはいったいどういうことを言うんだろう。私の授業でも、象徴ってこの場合何ですかと聞かれることがあります。憲法の教科書でいう説明は記号論などをやっている学生には物足りないのでは、と私も悩むところです。

志田氏

そこで『英国王のスピーチ』という作品を選びました。イギリスでは、政治権力性は持たない君主が、人々が不安にあるときにスピーチをすることで人々を落ち着かせる、なだめる。そういった役割を負っているんですけれども、これがなかなかできずに、苦労した国王が歴史上いるというところを描いた映画です。

こちらは、かなり人間くさく描かれていまして、今の『太陽』とは大変対照的だと思います。主人公の国王ジョージ6世は第2次世界大戦時の国王なんですが、どもりの症状があってスピーチができない。とても自信がない状態。まずは映画冒頭のスピーチのところです。

<「英国王のスピーチ」部分上映 国王のスピーチ失敗 00:03:30~00:05:07>

志田 この映画は意図的だろうと思うんですけれども、この国王のスピーチの様子と、それを受け止めている民衆の表情というのがシンクロしていて、国王がおどおどしていると民衆もとても不安げな気分になる、という雰囲気が非常によく描かれていて、象徴君主の役割はここだというのをとても分かりやすく描いてくれているように思うんです。次のシーンは、クリスマス放送でスピーチしなきゃいけないというので、国王ジョージ6世がすっかり落胆している、自信がないというところです。

<「英国王のスピーチ」部分上映 泣き出す国王。「僕は国王じゃない」。妻がなだめる 01:14:45~01:16:20>

愛敬 やや誇張されているとの評価もあるようですが、ジョージ6世が吃音であったというのは実話のようです。ジョージ6世に関する記述をみると、そのことが書かれています。

志田 そして家族に支えられる、家族の前では素顔を見せるというところも、この映画は大変分かりやすい描き方で出てきますね。これに対して先ほどの『太陽』は、むしろ全体に漂う違和感というのが大変重要なポイントだったという対比もできる気がします。

次は王位に就く根拠に関連して、国王の特権と義務が語られるシーンというのがあって、これが象徴君主というものを大変分かりやすく描かれているところではないかと。

<「英国王のスピーチ」 王位に就く根拠に関連して、国王の特権と義務が語られるシーン 00:59:20~01:01:10>

山元 ちょうど憲法という言葉も出てきますけれども、フランスは革命の時にルイ16世という王様の首を飛ばしてしまいまして、その後、紆余曲折を経たあとで共和制が続いていますので、こういうことがあるのかとびっくりしたんです。

これは日本でいったら、皇太子と秋篠宮が話しているということですよね。その兄弟の間で王位をどうやって継承するかという話になっていて、何で私たちは王様でいられるのか、王様ということについて、正統性があるのか。それはきちんと義務を果たしているからであろう。そういうところを彼らなりに問うていくというシーンがあるんですね。

日本だと本当に血筋の問題、血統だけの問題というふうになっていて、ここでいうような、君は王様になりたいからスピーチの練習しているんだなとか、そういう話には全然なってこないはずです。そこが一応どちらも世襲的に王位が継承されていく同じシステムであっても、ずいぶん違うなと感じるんですね。比較として面白いなと思いました。

志田 今日は上映はしなかった別のシーンで、父王のジョージ5世が息子のジョージ6世に、我々は役者なんだ、と言い聞かせるシーンがあります。昔の国王は戦場にも出たし、政治的な権力も持っていたけれども、同時に象徴としてのカリスマ性も発揮して、人々の求心力にならねばならなかった。そのときに、軍服を着て馬にまたがって、黙ってその姿を現すという、そのプレゼンスだけでよかったけれども、現在はそうではなく、言葉で語り掛ける役者にならないといけないんだ、と。そういう「象徴君主の義務」を、父親の国王が説教しているシーンです(『英国王のスピーチ』00:30:00~00:32:39)。これも今の山元先生のご指摘と重なるところではないかと思います。

もう1カ所、山元先生のご指摘のところをお願いします。日本的な現人神とはまったく異なったイギリス国王の地位について。

<「英国王のスピーチ」部分上映 兄王の退位問題が政治問題として議論されるシーン 01:07:00~01:11:30>

志田 ここは、兄エドワードが民間の女性と結婚したがっている、となると、退位しなければいけないのでは…、と議論しているところです。

山元 ある王がいて、その王が死んで、あるいは不都合があって王位が他の人に移っていくという、そのプロセスはどうやって決定されるのかということについて非常に面白い。日本の象徴天皇制というのは、少なくとも現在の法律制度では退位できない。生きているときには退位できないので死ぬまで天皇で、死んだ途端に次の人が皇位を継承する。法律上はこういう仕組みになっていますので、こういうふうに首相を交えて、王の候補者が説得して、次の王は君だということはまったくないわけですね。

もう1点。実はこれが昭和天皇だとちょっと複雑な話になりまして、彼は退位を考えていたんですね。戦争に負けたときと、それから東京裁判という戦争犯罪の国際裁判が終わったときと、それから日本が独立したとき、この3回、彼自身、退位した方がいいんじゃないかという気持ちで揺れたらしいんですね。国会でも、やがて首相になる中曽根が若いころ、天皇は退位したらどうだということを吉田茂という首相に対して言っているぐらいでして、そういう点において随分違うなというのが面白かったですね。

愛敬 念のために言っておきますと、エドワード8世のケースは例外的ですね。(王位継承者が)生存中に王位(継承権)を失ったのは、他に有名な例としては、名誉革命のときに王位から排除されたジェームス2世のケースがありますね。もちろん、王位に就く前に、やばそうな人を王位継承者から排除するということは、結構あるんでしょうけれども。

志田 では、この『英国王のスピーチ』のクライマックスに当たるシーンをお願いします。

<「英国王のスピーチ」部分上映 イギリスはドイツと戦争状態に突入。ラジオ生放送でスピーチ。不安げな町の人々、不安げな国王のシーン 01:34:00~01:38:20>

志田 まずイギリスがドイツと戦争状態に突入したというところです。これだけの長いスピーチはとてもこなしきれないと不安になった国王は、ドクターにスピーチ前の特訓をお願いするんですが、この特訓の中で国王が、いろいろ口汚い言葉をぽんぽん間に挟みます。それは訓練の中で、自分が抑圧していた言葉、国王たるもの人前で出してはいけないということで抑圧していた言葉が多すぎて、それがどもり症状の原因になっていたとわかってくるんですね。だから、しゃべる練習では、こんちくしょうみたいな言葉はどんどん出せと言われていた。

その集大成のように、スピーチを集中的にしゃべる練習と、くそったれ、この野郎という言葉が出てくるところが面白い場面です。精神分析の知識が下敷きにありそうですね。国王も人間なので、そういう人間らしい言葉が許される場がないことが問題だったのだという、国王の人間くささを訴えているんだと思います。

(プレッシャーに負けそうな国王。「できない」「バーティ、時間よ」)

志田 このようにして、最後、観る者をはらはらさせつつ、最後のラジオ放送スピーチのシーンになるわけです。

<「英国王のスピーチ」部分上映 ラジオ放送スピーチがイギリス全土に流れるシーン 01:42:40~01:47:29>

志田 そこで対比として皆さんに注目していただきたいのは、先ほどドイツとの戦争に突入しましたとアナウンスが流れたところで国王が、こんなスピーチできっこないと不安におののいていたときには、民衆の表情も非常に不安げだったんですけれども、この国王のスピーチが流れるにつれて、民衆や、これから自分たちも戦闘活動に入らねばならないという軍人たちの表情が映し出される。これが、国王の心理状態と国民の心理状態がシンクロしているように描かれているというところ。単純化しすぎかもしれないけれども、象徴君主に託された役割がこれなんだというところが、非常に分かりやすく見えるシーンだと思います。

そしてスピーチを見事に演じ切った国王に対しては、最後に家族が祝福をするシーンがありまして、ここは山元先生がお気に入りというシーンですよね。山元先生からは、この部分にコメントをいただいていまして、「『太陽』のラストシーンでも、そしてこの『英国王のスピーチ』でも、君主というのは本質的に孤独である。それを最後に支えるのは、やはり心を許せる家族だというところが、どちらの映画にもラストシーンで描かれているというところは興味深い」、と。

<「英国王のスピーチ」部分上映 奥さんと子供たちから祝福されるシーン。01:49:10~01:51:10>

志田 先ほどの天皇が広島原爆ドームの前で手を挙げたときの人々の様子とちょっと重ね合わせて見てほしいんですけれど、こちらの映画は、この国王、最初はまるでスピーチができなかった人が、見事なスピーチができた。その感動と重ね合わせて、人々が盛り上がっているところが描かれているわけですね。かたや日本の天皇の場合には、何かを達成したから感動するという話にはならないのかもしれない…

次に、愛敬先生からは、『バンク・ジョブ』を素材にお話しいただきます。

愛敬 僕が今、手にしているのは、エリザベス女王の人形です。これは太陽電池が付いていて、日光が当たると一日中手を振り続けるんです。天皇でこれと同じ人形を作ることができるか、考えてみてください。

さて、『バンク・ジョブ』という映画は、まず映画監督がロジャー・ドナルドソンといって、これはトム・クルーズの『カクテル』やケビン・コスナーの『13デイズ』などを作っている人で、完全にエンターテインメント系の映画監督です。主演もジェイソン・ステイサムという人で、『トランスポーター』でしたっけ、アクション物の俳優です。サスペンス映画としては非常に面白い映画です。

前提をお話しさせていただきます。1970年にイギリスのベイカー・ストリートにあるロイズ銀行の地下に穴を掘って銀行強盗が入って、金庫の中の物を全部持っていかれたという事件があるんですが、その事件をなぜかイギリス政府は報道しなかったんですね。政府は「D-Notice」という報道禁止の通告を出して、この事件について報道させなかった。莫大な被害があったのに、犯人は捕まっていません。この映画はその事件を、政府が明らかにしたくないものが奪われたから、報道管制をしたんだと解釈して、それが王室のスキャンダルだという設定にしています。そのスキャンダルの証拠になるものをある黒人が握っていて、だから彼はやりたい放題なんですね。

このマイケルXというのは実在人物です。このマイケルXは、黒人運動家として有名な人物で、ジョン・レノンとオノ・ヨーコも寄付をした人らしいんですけど、この映画では大変な悪人として描かれています。実際、彼は殺人罪で絞首刑になっています。

このように、事実とフィクションが交ざっている映画です。簡単に映画の筋を紹介します。ステイサムたちは銀行強盗には成功するんですけど、余計なものまで奪ってしまった。マフィアに買収されている警察官のリストです。だから、マフィアから追われる。その一方、イギリスの諜報機関であるMI-5からも追われる。そして、仲間がどんどん殺されていく。でも、クライマックスでは、アクション俳優のステイサムが大活躍します。そういう娯楽映画の中で王室がどう描かれているかを見ていただこうと思います。

<「バンク・ジョブ」部分上映 マーガレット王女らしき女性の奔放な性行為が盗撮されるシーン 冒頭〜00:07:00>

愛敬 音楽はT. Rexの“Get It On”ですね。この女性がマーガレット王女です。映画の中では、マーガレット王女であるとは言いませんけれども、マーガレット王女だということは分かります。髪型は完全に当時のマーガレットを真似ていますし。この描写が日本の皇室についてできるかどうかを考えてみてください。顔は絶対映さないんだけどマーガレットなんですね。

これがジェイソン・ステイサムです。かっこいいですね。彼は小物の悪党の役を演じます。お金に困っているところに、昔のガールフレンドから銀行強盗の誘いが来る。で、仲間と銀行強盗に成功するんですが、その金庫の中から取らなくてもいいものも取ってきてしまって、そのことでマフィアたちが怒って、彼らを殺し始めて、それで政治家ではなく王室に保護を求めるんです。

<「バンク・ジョブ」部分上映 主人公(ジェイソン・ステイサム)が安全を図るため、女王と取引。マウントバッテン卿が登場し、問題の写真を見て「Scallywag(お転婆娘め)!」と言うシーン 01:30:20〜01:38:00>

愛敬 パディントンという駅で会って、ここで新しいパスポートをよこせと交渉するシーンですね。このマウントバッテンというのは、ビクトリア女王の曾孫で、エリザベスの旦那さんであるエディンバラ公の大叔父に当たる人物です。王室と関係の深い大物の貴族です。このマウントバッテン卿が、写真をもらった後にいう台詞が、僕はすごく好きなんですよね。

日本の天皇・皇族に関して、こういう描写が可能かということを考えていただければというのが、この映画を選んだ意図です。マウントバッテン卿というのは、すごく王室と近い人物だから、女王の代理として、訴追免除の約束ができる。「イギリスらしさ」という観点からすると、政府ではなくて、王室に許可を求めるというところにも注目してください。ともあれ、マウントバッテン卿みたいな人物がこの場面で出てきたということは、問題の写真に写った女性はマーガレット王女だということになるわけですよね。

このシーンでもう1つ注目してほしいのは、マウントバッテン卿が盗撮写真を回収した際に発する一言です。彼は、「お転婆娘だ She is a scallywag」と言っています。scallywagは、「ならず者」というような意味で、普通、王室の人とか貴族が使う言葉ではないみたいです。大きな辞書で調べると、リバプールのような港町のちょっと乱暴な人々が使う言葉と書いてあるんですけど、マウントバッテン卿のこの台詞が目茶苦茶かっこいい。

日本の皇室に関して、あんなにかっこいいシーンは描けませんよね。そこがちょっと癪に障る(笑)。『太陽』でイッセー尾形が演ずる昭和天皇は、ちょっと子供っぽすぎるんじゃないかという不満を僕は持っています。狡さもあり、情けなくもある大人としての昭和天皇を描いた方が、彼の苦悩も伝わるのではないか。イギリス王室は、タブーが日本より弱いからこそ、王室の関係者をこんなふうに格好良く描くこともできる例として、紹介させていただきました。

志田 次は、愛敬先生がお持ちいただいた映像集があるということなので、お願いします。

愛敬 これは、王室の描き方としては本当にひどいものばかりです。(机上のエリザベス人形をみて)あ、人形が手を振り始めましたね。では、上映をお願いします。

(上映開始)

愛敬 これは、「モンティ・パイソン」という1960年から1970年にBBCで放送されたものです。ちなみに、このアニメーションを作っているのが、テリー・ギリアム。現在は映画監督として有名な方ですね。『未来世紀ブラジル』とか、『12モンキーズ』とか。最初のアニメーションでは、大砲の砲弾がどこに飛ぶのかを見てください。日本でこの描写が可能かです。大砲で頭を打ち抜かれたのは、ビクトリア女王です。ビクトリア女王の頭を突き抜けた砲弾が、半裸の女性の乳房の部分にくっついてブラジャー代わりになる。こんなシーン、日本で可能かですね。

次のシーンです。日本の競馬でも、天皇賞ってありますよね。ビクトリア女王杯障害レースといえば、優勝者に女王杯が授与されるレースだと思いますよね。ところが、この映像では、馬ではなく、ビクトリア女王が障害レースを走るんですね。すごくおかしくて、走ってるのが全員ビクトリア女王だから、アナウンサーは、「先頭はビクトリア女王、二位もビクトリア女王」と言ってますね。同じ描写を明治天皇でやることは可能でしょうか。

次もモンティ・パイソンからです。これは、生物の生存競争に関する説明が、どんどん馬鹿な話になっていくというスケッチです。マーガレット王女が出てきます。朝食とマーガレットの生存競争なんですね。そして、ケント公という貴族とその仲間が現れて、マーガレットに殴る蹴るの暴行。イギリスではなぜ、こういう描写が可能なのかというのが、昔から関心があることなんですね。

次の映像は、イギリスのコメディアン、サシャ・バロン・コーエン主演の『アリ・G』という映画のワン・シーンです。あまりにお馬鹿でお下劣な映画なのでお薦めはしませんが、僕は大好きです。失業者だったアリ・Gはお馬鹿でお下劣な政策を訴えて国会議員となり、エリザベス女王に謁見するのですが、そのとき、転んで、女王のスカートを引きずり下してしまいます。

次はエルビス・コステロの“Everyday I Write the Book”という曲のミュージック・ビデオです。一目瞭然だと思いますけど、チャールズとダイアナのそっくりさんですね。ダイアナはテレビに夢中で、チャールズに全然関心を向けないという、そういう内容です。チャールズはダイアナの気を惹くため、彼女の見ているドラマの登場人物の格好をして現れるんですけど、ダイアナは完全無視なんですね。このシーンを皇太子と雅子さんで描けるのか、ちょっと考えてみてください。極めつけのシーンは、チャールズがサーカスのライオンのように、火の輪をくぐるシーンです。でも、ダイアナは完全無視。チャールズは全然相手にしてもらえません。だいたいこんな感じでこのビデオは終わるんですけど。

次はご存じの方もいるかもしれませんが、セックス・ピストルズというパンク・バンドのポスターです。エリザベス女王の写真に目張りが入っています。これ指名手配写真ですよね。 イギリスの国歌と同じ題名の曲(God Save the Queen)のジャケットですけど、歌詞を聞くと、「女王陛下万歳!ファシスト体制万歳!」とか、「お前らに未来はない」とか、そんなことを歌ってます。こういう曲が、普通にシングルとして発売されてヒットするというところは、やっぱり日本と決定的に違うのかなということで、紹介させていただきました。

(上映終了)

愛敬 僕がこういう問題に関心を持ち始めたのは、イギリスの郵便局に行ったら、王室の人々の顔写真、それも団扇みたいに大きな顔写真で作った絵葉書を売っているんです。その絵葉書を買えば、女王や皇太子の顔に落書きしたり、仮装パーティーの際に被る御面としても利用できるわけですよね。日本で無理でしょう、そういう絵葉書を売るのは。この違いは何だろうということを考えてみたいというのが、僕の今日のプレゼンテーションの趣旨です。

志田 モンティ・パイソン、そしてピストルズの『ゴッド・セーブ・ザ・クイーン』、一つ一つは何となく知っていても、こうしてまとめて見ると、衝撃的なぐらい、王室をおちょくることをメディアやアーティストがやって、そして社会もそれを楽しんで受け入れているんですね、イギリス社会は。

今日の講座とは別の公開講座でも扱ったことですが※、日本では、天皇の肖像をコラージュの素材として使った美術作品が物議を醸してしまって、美術館で展示することもなかなかできないという問題があります。日本ではいかに君主を描くことがタブーであり描きにくいかということと、今見た映像を対比していただくと、大変な違いが分かってくるかと思います。

※武蔵野美術大学造形研究センター成果公開小冊子別冊『芸術と法』に収録した君島東彦講演「社会の中の芸術家」、シンポジウム「芸術の多様な局面と法」の中の小倉講演「芸術表現の場・美術館とストリート」では、1980年代の「天皇コラージュ事件」(大浦信行)への言及があった。この「天皇コラージュ」は、後に「あいちトリエンナーレ2019」の中の「「表現の不自由展」に対して起きた妨害騒動の中で、抗議・妨害の対象ともなった。

山元 これは日本ではできないなということは確かですね。だから、イギリスには王室があります、日本にも皇室があります、民主主義の国でも同じ君主制がありますと言っても、その中身が全然違う。

日本の場合は、天皇のものまねをするコメディアンはいないですよね。『太陽』の中のイッセー尾形は完全に裕仁のモノマネをやり続けたわけで、普通のコメディーの枠の中ではできないことを『太陽』という映画の中でやったという点でも、非常に日本の恐るべき、触れてはいけないもの、アンタッチャブルとしての皇室というものの存在が日本社会にはやっぱりあります。

愛敬 ザ・ニューズペーパーというコント集団がありますよね。政治家とかのまねをして笑わせる人たちです。僕はけっこう好きなのですが、皇室関係者の真似は見たことがありません。政治家をあれだけ馬鹿にするのに、皇室の人たちは出てこない。山元先生のおっしゃる通り、同じ象徴君主、立憲君主であっても、社会がどう受け止めているかということの違いも踏まえて、その是否を議論する必要があるんじゃないかなと思いました。

志田 最後に一言ずつ、今日のまとめをお願いします。

愛敬 『太陽』を見て、やはり感じたのは、外国人だから描けたのだろうということですね。日本では現在でも、あのように天皇を描くのは難しいということを僕はあらためて痛感しました。僕は映画好きですので、『太陽』についてはもちろん、映像が美しいとかいろいろと別の感銘も受けましたけれども、やはり最も感銘を受けたのはさっきの点です。ですから、いつか日本の監督がああいう形で、天皇の実像を描くことを期待したいと僕は思います。

山元 私も『スピーチ』と『太陽』って、ある種のシンクロを感じるんですね。やはり1つヒトラーというのがあそこの中で出てきて、1つは友達だ、知り合いだったんじゃないかといって、もう片一方はヒトラーに対抗して演説をすると、そこにある種の同時代性、君主をめぐる同時代性というのがあったということですね。

それから、日本のあの玉音放送は、聞いている一般国民の側は何を言っているのか全然分からなかった。どうも戦争に負けたらしいと受け止めたらしいですけれども、『英国王のスピーチ』では明確な言葉で、戦争をしなければいけないんだというのを語る。やっぱり絶対的な君主と、大衆と関わらなければいけない君主の、少なくとも、あの裕仁とこちらの王様とは、すごく違うと。

最後に、まさに外国人が描いたものということなのかもしれないんですが、私はやっぱり『太陽』の最後のシーンがすごく感動的で、大広間に子供たちが遊んでいますよと言って、手を取って、夫妻で行きますね。これがラストシーンなんですよ。これは、子供たちが遊んでいるところに夫婦2人で行くという、そこは人間としての共感、この監督はすごく裕仁が好きな人らしくて、そういったものに対する共感は隠しきれないシーンを描く。イギリスのあの映画のようにエリザベスを抱いたり、そういうところは出てこないんですけれども、その先にある大広間で2人が子どもたちを抱き上げるシーンを想像させるところがロマンチックで、政治的な文脈を超えて私は好きです。そして政治的文脈との関連でいえば、戦後日本の戦争から解放された平和な時代が暗示されているということ、そして、自分自身がそのような日本社会で生を受けることができたことが、シンクロしてきます。

志田 今日は、民主国家なのに君主がいるという大変不思議な制度を取っている日本とイギリス、この2つの国の君主の描き方の対比を行ってみました。本日の成果は、本学イメージライブラリーのデータベース構築作業に提供します。山元先生、愛敬先生、ありがとうございました。

【参考作品】

『太陽』 監督:アレクサンドル・ソクーロフ/ロシア、イタリア、フランス、スイス/2005年
『英国王のスピーチ』 監督:トム・フーパー/イギリス、オーストラリア/2010年
『バンク・ジョブ』 監督:ロジャー・ドナルドソン/イギリス/2008年

※この座談会記録は、2012年に武蔵野美術大学イメージライブラリーから公開された座談会記録をベースに、語尾言い回しや司会発言を中心に若干の圧縮整理を加えています。(原稿作成:志田陽子、2022年11月14日記)

プロフィール

志田陽子憲法、言論・芸術関連法

武蔵野美術大学造形学部教授、「シノドス」編集協力者。憲法と芸術関連法を専門にしている。本稿と関連する編著図書として、『映画で学ぶ憲法』(法律文化社、2014年)、『映画で学ぶ憲法 2』(法律文化社、2022年)、『「表現の自由」の明日へ』(大月書店、2018年)がある。

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山元一憲法学・比較憲法学

慶應義塾大学法務研究科教授。現在の研究課題:フランスの憲法思想、現代憲法理論の研究。現在力をいれて研究しているのは、グローバル化の進展によって、憲法学、国家に関する基礎理論・人権論・統治機構論はどのような課題に直面しているのか、というテーマです。英語やフランス語の文献を参照しながら、どのような理論的可能性があるのか、検討しています。主著:『現代フランス憲法理論』(信山社、2014年)、『グローバル化時代の日本国憲法』(放送大学教育振興会、2019年)他多数

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愛敬浩二立憲主義の憲法史的・憲法理論的研究

早稲田大学法学学術院教授。研究分野:立憲主義の憲法史的・憲法理論的研究、比較憲法、イギリス憲法史・憲法理論。近代立憲主義の起源と展開を憲法思想・憲法理論・比較憲法の三つの観点を総合して研究するという問題意識の下、John Locke等の古典的思想家の研究や現代イギリスの「政治的憲法論」の研究をしています。主著:『改憲問題』(単著)(ちくま新書、2006年)、『立憲主義の復権と憲法理論』(単著)(日本評論社、2012年)他多数

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