2023.04.06
都市の緑地開発問題を「倫理学」で斬る――公正、分配的正義、賢慮の観点から
本稿は、2017年10月にシノドスに掲載された「都市に「緑地」はなぜ必要か――「市街化調整区域」を真面目に考える」(以下、2017年記事と呼ぶ、https://synodos.jp/opinion/society/20444/)の続編である。この記事では主に、横浜市の瀬上沢緑地の開発問題を取り上げたが、その後、都市の再開発に伴う樹木伐採、緑地減少、公園の再整備などが、日本各地で問題視されるようになった。
例えばChange.orgという署名サイトでは、この間、神宮外苑再開発(イチョウ並木景観の変容と樹木伐採、神宮球場建て替え、秩父宮ラグビー場建て替えを含む)を筆頭に、都立日比谷公園の樹木伐採、都立井の頭公園の樹木伐採、横浜市上瀬谷で開催予定の「花博」に伴うソメイヨシノの伐採、兵庫県明石公園の樹木伐採、京都府立植物園の再整備、千代田区神田警察通りのイチョウの伐採、茨城県つくば市の洞峰公園のグランピング施設設置、三重県の鈴鹿青少年の森公園の再整備など、全国各地で樹木伐採と緑地・公園の再編に反対する署名運動が行われてきた。
2023年に入ると、それらの問題にさまざまな動きがあった。特に大きなものとして、2月17日に神宮外苑の再開発事業が小池百合子東京都知事によって認可されたことがある。それに伴い、2月28日に新宿区が風致地区内の樹木の伐採許可を出し、工事開始が可能となった。これを受けて、都内に住む経営コンサルタントのロッシェル・カップ氏を中心に、周辺住民ら約60名が、神宮外苑再開発の認可取消と認可の執行停止を求めて東京地裁に提訴した(訴訟の概要については「神宮外苑訴訟」のHPhttps://www.savejingugaien.com/ を参照。新聞報道としては、東京新聞「神宮外苑再開発の認可取り消し求め周辺住民らが提訴「東京の宝石の一つが取り壊されようとしている」」(2023年2月28日、https://www.tokyo-np.co.jp/article/233799)。
他方、2017年記事で取り上げた横浜市の瀬上沢緑地の開発は、2月28日に廃止が決定した。都市近郊の広大な緑地であり、ホタルの生息地であり、遺跡が存在するなど、さまざまな点から保全の必要性が提起されてきたが、最終的には、2021年7月の熱海の土砂災害を受けて規制が厳しくなり、それに対応できないことが大きな要因となり、廃止が決まった。これは各地で開発問題が進んでいる近年では画期的な出来事である(Save Segami http://savesegami.com/ を参照)。
本稿では、以上の新しい動き(都知事による再開発事業の認可、新宿区による伐採許可、東急建設による開発廃止)を、倫理学の立場から読み解いていく。以前に筆者は、2022年8月に「現代ビジネスオンライン」に投稿した記事「世界から大きく取り残されている、日本の「都市再開発」の残念な実態――環境倫理学からの提言とは?」(https://gendai.media/articles/-/98596 )のなかで「価値論」の観点から都市の街路樹や緑地を維持することを擁護した。今回は、倫理学における「公正」「分配的正義」「賢慮」という観点から、神宮外苑再開発と瀬上沢緑地の事例について論じてみたい。
「公正」の観点から神宮外苑再開発のプロセスを批判する
神宮外苑の再開発計画については、国民の献木にはじまり時間をかけて育ててきた自然景観が損なわれるとともに、歴史ある神宮球場と秩父宮ラグビー場が取り壊されることが問題視され、2022年6月28日の東京新聞では都民の約7割がこの再開発計画に反対していると報道された。またロッシェル・カップ氏がChange.orgで反対署名を呼び掛けたところ、2023年4月5日までに13万6000筆以上の署名が集まった。この間の経緯は東京新聞とハフポスト日本版が継続的に報道しているので、検索してみてほしい。ここでは2023年1月以降に起こった出来事だけを問題にする。
2023年1月20日、三井不動産などの事業者は、神宮外苑再開発計画の環境アセスメントの評価書を提出し、東京都が公示した。それに対して、これまでもこの再開発計画に懸念を示してきた日本イコモス国内委員会が、事業者の評価書に「虚偽」が多数あることを指摘し、「評価書の調査や予測は非科学的だ」として、東京都知事による事業者に対する勧告と、環境影響評価審議会の再審を求めた。1月30日に開かれた東京都の環境アセス審議会では、多くの委員がその点を問題視し、継続審議となった(ハフポスト日本版「神宮外苑の再開発に「ゴーサインは出せない」と審議会委員。それでも事業は進められるのか」2023年2月8日、https://www.huffingtonpost.jp/entry/jingu-gaien-environmental-assessment_jp_63dbb17fe4b04d4d18eabc07)
ここで驚くべきことに、事業者は、イコモスの指摘に十分に答えないだけでなく、30日の環境アセス審議会が始まる前に、「着工届」を都に提出していた。このタイミングには大きな問題がある。環境アセス報告書の縦覧期間がまだ終わっていないのに、また審議会が継続審議にしているのに、着工届を出すという行為は、環境アセス制度を甚だしく軽視するものである。法令上、このタイミングで着工届を出すことを禁ずる決まりはないようだが、環境アセス審議会が認めていないのに着工が認可されるということは、環境アセス制度自体を無意味なものにする行為であるといえる。
2月17日、小池都知事はこのような問題の残る着工届を受理し、再開発事業を認可した。続いて2月28日には、吉住健一新宿区長が、神宮第二球場と建国記念文庫の森の周辺にある約3000本の低木の伐採許可を出した。ここで伐採が認められたのは、もともとは規制の厳しい「風致地区A地域」もしくは「B地域」に指定されていた地区である。それが2020年に規制の緩い「S地域」に指定変更され、そのことによって、樹林地を潰して芝地にしたり、高層ビルを建設したりすることも可能になったという。
問題なのは、この変更が都市計画審議会や議会にも報告されずに行われたことである。これは制度上は認められていることのようだが、風致地区を開発が容易になるように変更するといった場合には、そのことを十分に周知する必要があるのではないか。知らないうちに開発が可能になっていたことを、外部の人間は開発直前に知ることになったわけだが、そこには倫理的に大きな問題があるように思える(ハフポスト日本版「【神宮外苑の樹木3000本伐採問題】新宿区は「風致地区」の規制を緩めて高層ビルの建築を可能にしていた」2023年02月28日 https://www.huffingtonpost.jp/entry/jingu-gaien-shinjuku-scenic-zone-regulations_jp_63f8b700e4b04ff5b489b8ed )。
かみ砕いて言えば、環境アセスの終了前に着工届を出すことや、風致地区の規制をこっそり変えることは、「ずるい」行為だといってよい。制度の趣旨を無視して抜けがけをすることや、ルールを勝手に変更してそれをみんなに知らせないということは、多くの人が直感的にわかる「ずる」であろう。
倫理学の用語を使えば、ここでは「手続きの公正さ(fairness)」が損なわれている。ここでの「公正さ」は、むしろ原語をカタカナで「フェアネス」と表記したほうがわかりやすい。普段私たちは、公正/不公正という言葉をあまり使わず、「フェアにやりましょう」とか「それはアンフェアなやり方だ」という言い方のほうがなじみがある。
では、手続きのフェア/アンフェアとはどういうことかというと、手続きをしっかり守るとともに、条件が同じならルールが全員に適用されるのがフェアで、誰かが抜け駆けするのがアンフェアになる。例えばドーピングが疑われている選手たちがいて、その検査を行ったが、その結果がわかる前に、検査の結果を問わずにそのなかの一人の出場が決定していたとしたら、ドーピング検査って何なの?ということになる。
また、ルールを変更する場合にはそれが周知されないとアンフェアになる。例えば、サッカーのルールを5年前にこっそり変更して、ゴール前ではキーパー以外でも手を使っても「ハンド」にしない、というルールを導入したとして、それが周知されず、今日の試合でいきなりそのルールが適用されて、実は5年前に変わっていたので、今は「ハンド」にならないのだ、と言われたら、きわめてアンフェアな話だと思うだろう。
内密に風致地区の地域の指定を変更して開発を容易にする、というのは相当なアンフェアである。それだけでなく、この変更は「風致地区」という制度の理念(あるいは趣旨)がまったく考えられていない点で大きな問題がある。ここでは次に述べる分配的正義が侵害されているとみなされうる。先取りしていえば、ここでは「風致地区」という社会的財の意味を無視した分配がなされているのだ。
「分配的正義」の観点から都市の緑地を社会的財と位置づける
倫理学者・政治哲学者のマイケル・ウォルツァーは、『正義の領分』(而立書房、1999年、原書は1983年)において、正義にかなった分配の基準は「社会的財」(social goods)ごとに異なると主張した。ウォルツァーによれば、現代の西洋的な民主主義の社会においては、医療、初等教育、高等教育、愛、商品は、それぞれ異なる社会的財だと考えられている。そしてこれらの社会的財は、それぞれ異なる基準によって分配されることになっているという。例えば、医療の分配規準は「必要性」に応じて、初等教育は「平等」に、高等教育は「能力」に応じて、愛は「自由」に、商品は「市場での自由取引」により分配されるべきものと考えられているという。
かみ砕いて言えば、手術や薬は必要な患者に優先的に与えられるべきであり、初等教育は全員に与えられるべきであり(だから義務教育なのだ)、高等教育は能力別に与えあれるべきであり(だから入試がある)、恋人や結婚相手は各人の自由な意思によって与えられるべきだ(身分制社会ではないのだ)ということである。
ここで問題になるのは、ではそんなことを誰が決めたのか、ということである。ウォルツァーは、以上の基準を自分が提案したものだとは言わない。むしろこういったさまざまな基準は、共同体の慣習のなかに存在し、自分はそれを解釈したまでだ、という。これらの基準は、その共同体に暮らしている人々が、その財にどういう意味を付与しているのかによって決まるという。そしてそのことは、この基準に反する分配がなされたときに、共同体の成員が不平を言う(complain)ことから明らかになるという。
例えば、必要性の基準で分配されるべき手術の順番が、金持ちや権力者に優先的に与えられ、それが発覚したらスキャンダルになる。よくドラマなどで、社長や市長の子どもが優先されたために手術が遅れて子どもを亡くした家族が復讐するという話を見かけるが、それが人々の共感を呼ぶのは、この分配が不正義であると皆が思っているからである。同じように、能力に応じて分配されるべき高等教育が、お金の力で分配されたら「裏口入学」として非難される。ここでウォルツァーは、そもそも医療とは必要な人に与えられるものだとか、大学入学資格は金で獲得するものではないといった、共同体の成員の常識に訴えている。共同体の成員が、その財をどのように意味づけているのか、が重要で、その意味づけを無視した分配は不正義として非難されることになる。
長くなってしまったが、以上がウォルツァーの「分配的正義」論のあらましである。興味深いことに、ウォルツァーは、ここでの解釈はあくまでも自分の解釈にすぎず、暫定的なもので、よりよい解釈もありうると述べている。また社会的財も追加で提示されてもよいと考えている。そうだとすれば、ウォルツァーがこの理論を提示した1983年から40年が経過し、毎日のようにSDGsが話題にのぼる現代においては、「環境」を医療や教育と並ぶ社会的財とみなすことに異論はないだろうと思われる。
ここでようやく新宿区の「風致地区」の話に戻る。風致地区というものをわざわざ設定したということは、その地区の環境は商品とは異なる基準によって分配されるべき社会的財だと認定したということに他ならない。だからこそ、その地区の利用に規制をかけてきたわけだ。それを情報公開もせずに開発が可能な形に変更することは、人々が「風致地区」として理解してきた地域を「商品」に勝手に変えることを意味する。商品の分配基準は貨幣による取引であるから、お金を出した人が自由に改変できることになる。しかしその地域は、そうしてはならない地域だ、と認められたからこそ「風致地区」とされたのでる。したがって手続きの公正さの観点からだけでなく、分配的正義の観点からも、新宿区による風致地区内のS地域への変更には大きな問題があったといえる。
ここで現代の東京における神宮外苑の社会的意味について考えてみると、それは都心に残った広大な緑地空間(オープンスペース)という点だといえる。現在、神宮外苑には多くの人がやって来るが、それはイチョウ並木や、神宮球場、秩父宮ラグビー場、そしてここから見える広い青空を求めてのことだ。これらは自由に売買される商品として扱われるのではなく、きちんとした都市計画と建築と環境の専門家によって管理されるべき社会的財であろう。都市内の緑地や街路樹に関しては、ヒートアイランド対策として役に立つことが認められており、近年では「グリーンインフラ」としてその意義が強調されている。都市内の樹木をむやみに伐採することは、SDGsの時代に市民に分け持たれている分配基準からしても認めがたいものだろう。
ちなみに、これは神宮外苑だけの問題ではない。2017年の都市公園法改正により新設された「パークPFI」制度や、2013年に創設された東京都の「公園まちづくり制度」によって、民間の事業者が公園とその周辺の整備に携わることができるようになったが、そのことによって公園が商品として扱われ、公園に固有の社会的意味が侵食されることが懸念される。
「賢慮」の観点から開発廃止を擁護する
ここまで「公正」と「分配的正義」の観点から論じてきたが、倫理学には「プルーデンス」という観点が存在する。プルーデンスは「賢慮」あるいは「思慮分別」「用心深さ」「慎重さ」と訳されることが多いが、内容的には「自分の利益と周囲の状況を自ら総合的に考えて判断を下せる実践知」と定義できる。最後に「賢慮」の観点から都市の緑地開発と保全の事例を読み解いてみたい。
ここでは2017年記事でも紹介した「鎌倉広町の森の保全運動」を再び取り上げる。これは1979年から2003年までの25年にわたる住民運動の末に、近隣の森の全面保全を達成したことで有名な事例である。その経緯は、鎌倉の自然を守る連合会『鎌倉広町の森はかくて守られた』(港の人、2008年)に詳細に記されている。初期の運動の中心となった、「広町の山を守る会」は、現地の観察会から始め、市長への陳情、署名活動などを活発に行った。その後、保全を求める自治会が結集し「鎌倉の自然を守る連合会」が結成され、この「連合会」が最後まで運動を牽引していった。この間、選挙で保全派の市長を誕生させたり、土地の買い取り資金を集めるべくトラスト運動に乗り出したり、環境アセスメントに多数の意見書を提出するなど、可能な限りの手を尽くした結果、2003年に市の買い取りによる全面保全を実現することができた。
興味深いことに、保全を実現させた「連合会」は、鎌倉市長と神奈川県知事から称えられ、国土交通大臣から表彰を受けることとなった。一方で、開発事業者のうちの一社がこの過程で倒産してしまった。この結果は当該の開発事業者にとっては災厄でしかないだろう。では開発事業者どうすればよかったのか。最終的に表彰を受けるくらい保全の側に「理」があったのだから、事業者は開発が遅れて多大な損失を被る前に、早めに撤退すべきだったのではないか。これは事業者側の「賢慮」の問題である。
先に紹介した、瀬上沢緑地開発の事業者であった東急建設が「開発廃止」という判断を下したのは、都市における緑地の価値や分配的正義の問題を考慮したというよりも、事業者自身の利益を総合的に考えてのことだったといえる。鎌倉広町の森の事例からもわかるように、多くの問題が指摘されている開発を無理に続けようとすることは、事業者にとってもマイナスであるだろう。事業者自身の利益を考えることは決して非難されることではない。東急建設が下した開発廃止という判断は、「賢慮」に基づく判断として賞賛されるべきであろう。
2022年4月にシノドスに掲載された「企業が環境を守るための4つの方法――環境倫理学の視点から」(https://synodos.jp/opinion/society/28040/)のなかで、筆者は企業が第一にやるべきこととして、「環境破壊を伴う事業をやめること」を挙げた。企業はSDGsを達成するために何か特別なことをする必要はない。SDGsと矛盾する事業をやめることこそ、「賢慮」に基づく判断であり、賞賛に値するものである。
*本稿は2023年3月17日にハフポスト日本版に掲載された記事「神宮外苑再開発が「アンフェア」である理由。倫理学の観点から考える」を敷衍したものである。
プロフィール
吉永明弘
法政大学人間環境学部教授。専門は環境倫理学。著書『