2023.05.03

憲法をめぐる粘りと決断――法の遵守を決断するという逆説

志田陽子 憲法、言論・芸術関連法

社会 #法と社会と自分ごとをつなぐパブ

※この論稿は、2021年11月23日にオンラインで行われた、日本女性法律家協会主催の講演会の記録をもとにしています。

法のルールを守るという「決断」

どうも憲法改正が、本来あるべき熟議が行われない状態で、なんとなく進んでいくのではないか。そのような中では、法を遵守する、手続きを守るということが、「決断」しなければならないことになるという逆説的な状況が起きています。

今、憲法改正が必要だという声がいろいろなところから繰り返し出てくるのですが、その中にはかなり不要なものがあります。取り組みは必要だが、べつに憲法改正までは必要ない、というイシューですね。そういう不要枝(ふようし)を切って、必要な取り組みは憲法を言い訳にせず、ぜひやってくださいと言うべきです。他方で、現実の憲法政治のほうは、逆に国民の意思を問わずに実質的な改変が進みつつあるのではないか。これらの全体に通じるのが《熟議の不在》です。

コロナ改憲の議論

コロナについては、緊急事態レベルの社会対応は終了しつつありますが、コロナそのものが終息したわけではないので、《パンデミック政策と憲法》というテーマで議論することは引き続き必要だと思います。しかし、コロナ緊急事態宣言と「憲法に緊急事態条項を新設する」という話は、別の話です。平常モードでは国の機能を三権に分け、政策決定をするさいには国会での審議・議決を必ず通してから政府(行政)が実施をする、ということが基本になっていますが、緊急事態ではこうした仕組み・手順を守っている余裕がないために、政府が迅速に政策を決定・実施できるようにする、そういう条文を憲法に入れようというのが、「緊急事態条項」新設の改憲論です。

これがコロナ禍で必要かと言うと、私は必要ないと思っています。むしろ憲法の中に今書き込まれている「公共の福祉」と憲法13条・25条の正しい意味を見直す好機だと思っています。この普段ある憲法の言葉をきちんと理解しなおして運用していくことが《粘りの思考》として必要だと思うのです。

一方、「緊急事態宣言」のほうは、憲法ではなく改正新型インフルエンザ対策特別措置法に基づくものです。この法律だけで、憲法に抵触することなく、かなり強い権限をもって、移動の自由や集会の自由などの人権を制約する措置をとることができます。正確には、憲法との高度な緊張関係を内包しつつも、憲法違反とならずにできる、といえます。それは、それによって守るべき人権があるからです。

まず13条・生命権、そして25条・生存権(健康で文化的な生活)。これを守る政府の責任が「公共の福祉」の内容に含まれます。でも、そのときにも本来はどの権利も立法その他の国政の上で「最大の尊重」を必要とするわけで、この最大の尊重をするためには、「その制約は本当に必要なのか」と問わなければならない。憲法13条はこういう基本原則を定めています。

たとえば、もしも特定地域について「ロックダウン」を行うとしたら22条の移動の自由を正面から制約することになります。「ロックダウン」までの強い権利制限をするとしたら現行憲法の「公共の福祉」では足りず、憲法改正が必要ではないか、という議論もありました。私自身はこれのための憲法改正は必要ないという見解ですが、傾聴すべき点もあり、これは引き続き、理論の整理が必要なところでしょう。

次に「営業の自由」を考えてみると、飲食店、エンターテインメント系のイベント事業に制約が掛かりました。飲食店の時短要請については訴訟(グローバルダイニング訴訟)も起きました。また文化芸術に関わるアーティストも活動制約を受けることになりました。また「表現の自由」の中でもオンラインで代替できない「集会の自由」や、「信教の自由」の中でも礼拝などの宗教行為が制約を受けることになりました。

そして学校での対面授業が一斉にストップしたことで問題となった「教育を受ける権利」。ただ、教育の世界は、社会的関心が強かったぶん、コロナ後に向けた立て直しが進むことが期待されます。むしろ見えにくい部分のほうが心配です。学童期の子どもが自宅学習(ステイホーム)になったことで、その面倒を見る母親の負担が増え、そのために失職や家計悪化のリスクが高まってしまった。こうしたことはコロナが収まった後も事業者と社会全体が改善努力をしていかないと、開いた格差はなかなか元に戻らない。なので、政府の側に、こうしたことの修復支援をしてもらう必要があるのですが、今後、有権者の気を引く派手なキャッチフレーズ政策で花火をあげる方向ではなく、そうした地味なところを誠実にやってもらえるでしょうか…。

憲法で保障されている人権は、人間が人間らしく生きるために必要な事柄を権利として定めているもので、コロナ禍での政府の政策は、憲法の通常ルールを停止することではなく通常の国の仕事に人権保障ルールを組み込むことだと思います。コロナ禍で生じたさまざまなニーズを、議会あるいは自治体などに知らせるパイプが必要です。そのパイプを生かす、あるいは作るための政策を打ってもらわないとなりません。そこはじつはコロナ以前にすでに壊れていたというべきではないか…。そういう平常モードの血管や神経系をつなぎ直すことが、緊急事態条項の話よりも大切だと思います。

問いのゴムバンド

憲法では、その制約が本当に必要なのかと問うことが必要です。原則は自由、なので、規制をするならば、その規制はやむを得ないのか、本当にその方策が必要なのか、と問い詰め、チェックしていく。こういう問いの強力なゴムバンドが掛かっている、これが立憲政治だと思ってほしいのです。この質問に政府が答えられない場合には「自由を保障する」という原則に戻ってもらう。

それでコロナを考えてみると、感染症拡大を防ぐという目的は正当な目的です。25条の生存権の2項などを考えると、コロナが発生したのは日本政府の責任ではないにしても、国民の生活が危機にひんする場合には、国が責任を持って対処すべきことになる。自助で頑張ってくださいと言うだけで終わりにすることは許されないわけですね。そしてその時にも「やり方はいかようにも、国に任せる」というのではなく、やはり憲法ルールとして、人権侵害や人権剥奪になることはやってはいけない、どうしても必要なときは最小限度に、そして政府が説明責任を果たすことが重要になってきます。

つまり、権利制限を伴う施策は、目的は正当であったとしても合理的で必要な限度内に抑えることが求められるのです。たとえば飛沫感染を防ぐためにマスクを着用して、おしゃべりを自粛しようということは、合理的で必要な措置だったろうと思います。が、たまたま音楽をやっているライブハウスで感染者が出たからといって、音楽を聞くことを禁止するのは合理性のないことです。人間って恐れや不安を感じたとき、そういうふうに《なんとなく怖いもの》は一掃したくなってしまうことがあります。本来はこのいみでの「合理性」を問う検証の場が国会であるべきなのですが、国会のチェック機能がなかなか働かない。この話はこの後でします。

いまお話しした思考法は、すべて平常時の思考法です。憲法改正の必要のないことです。

そのようなわけで、コロナ緊急事態宣言の問題と、憲法の緊急事態条項の問題はそれぞれ別のものなのですが、混線と誤解が生じそうな場面もありました。まずは、憲法があるせいで有効な策が打てない、だから憲法に緊急事態条項を入れる憲法改正が必要なんだという言説。これは誤解です。むしろ13条や25条を見ると、憲法は国に、国民の生命、健康を守る仕事をやれと言っています。また、2020年当時、この緊急事態宣言は事実上の憲法停止になるので憲法違反だという言説もありましたが、これも私は誤りだと思います。ただしその心配が現実のものになってはいけないので、そこは市民やメディアが見守る必要があります。とくに「表現の自由」に関しては、言論手段に制約がかかったのはやむを得ない部分がありますが、その言論の内容や機会に制約がかかるいわれはないわけです。たとえば政府関係者による記者会見がコロナを理由に、時間も参加できる人数も極端に限定されてしまったことには疑問があります。いろいろな工夫はできたはずだと思うからです。

不必要な改憲論と足りなかった熟議

これまでのところを見てみると、必要のない憲法改正アジェンダがかなりありました。

コロナ関連以外の議論も見ておくと、大学などの高等教育を無償化するための憲法改正といった議論も過去にありましたが、これは政府と国会が財政に関する議論を経て決断すれば憲法改正なしに実現できるものです。また、今回は立ち入りませんが、同性婚制度化のためには憲法24条改正が必要だという議論、これも憲法改正までは必要のないもので、憲法を言い訳にせずに制度化すべきであると、私は思います。

ここまでの話と違って、安全保障関連の法改正については、憲法の議論が足りなかったし、まだこれからも議論が必要だと思います。これについては、熟議ができない状態が作り出されてきたように思われるのです。というのも、この問題で、公民館などで市民が議論をするための集会や講演会や写真展をやろうとすると、場所が借りられないといったことが続いてきたからです。そういう状態で、国民の意思を反映するための憲法改正手続きが無視されたままで、実質の憲法改変が起きていないか…。

議会ルールの重要性と、安保法制国会

もう一つ注意すべきことがあります。憲法改正の議論が出るときに、よく外国ではもう何度も憲法改正をしてきているのに日本では全く憲法改正をしていないという比較がされますが、日本の憲法は外国に比べて言葉数の少ないシンプルな条文になっています。そして細かいルールは、国会法や公職選挙法など「憲法付属法」と呼ばれるタイプの法律に委ねています。ドイツなど、外国で行われた憲法改正の内容の多くはこちらに属する内容なんです。日本では国会法や地方自治法などに規定されている内容です。そこを視野に入れて比較をしなければなりません。

そして今、議会ルール無視改憲や主権者スルー改憲というべき事態がズルズル起きている、こちらのほうが問題です。これに対しては一旦ストップをかけて「きちんと熟議をしましょう」と言わなくてはならないと思います。解釈や黙殺によって憲法条文の私文化、空文化が起きていると考えられるのです。憲法が前提としている民主プロセスが粘りを失って壊れてきているとも言えます。本日のタイトルの「粘りと決断」の「粘り」なんですが、たとえば内閣総理大臣が「解散」を宣言して大見得を切ることよりも、熟議を重ねることのほうが本来は大切です。「批判を受けたので解散総選挙で民意を問う」と言う前に、その疑問に対してしっかり説明をする、あるいはそれを吸収して次の策に生かす。この弁証法的な粘りが議会や内閣などの統治者に必要だと思います。この粘りを失って、解散、リセット、しかもいいタイミングを狙っての解散総選挙という傾向が続いています。しかし、必要な議論を公開でやってくれないと、国民は判断ができません。判断材料がない中でリセット解散総選挙を繰り返すのは不毛です。

2015年の安保関連法改正・新法制定についても、どうしても法制化したいのであれば憲法改正をしてからでないとできない内容が含まれていました。このとき国会では十分な熟議が尽くされたとは言えない乱闘状態の中で実質強行採決となってしまいました。そのために全国で今、安保法制違憲訴訟が係争中です。平和的生存権の侵害、人格権の侵害、憲法改正決定権の侵害という三つの権利侵害を根拠にして、国に国家賠償と差し止めを求める訴訟が行われています。私は、そのうちの「人格権」について複数本、意見書を提出し、いくつかの裁判で証人尋問に立っています。一方、政府のほうでは今、この安保法制の延長で敵基地攻撃能力(反撃能力)獲得の準備を進めるという発言を内閣総理大臣が行っているわけですが、集団的自衛権行使を組み込んだ安保法制とこの敵基地攻撃能力が組み合わさると、現行憲法との乖離がますます明白になっていきます(そして2023年4月現在、この方向政策が進んできています)。

国際社会との協調と言ったとき、アメリカだけを見るのではなく、もっと多くの国、もっと広い国際社会を見る必要があります。とりわけ環境問題や、国内または隣国との軍事的な紛争に苦しみながら立ち直ってきたアフリカの諸国などが今は経済、そして国際社会での発言力を増しています。そうした国々が、日本との経済協力関係に期待を寄せていることに、もっと真っすぐな形で答えることはできるのではないでしょうか。

53条臨時会問題と憲法条文の死文化

そういう議論を、国会で何度でも、蒸し返してやるべきなのですが、それを求める臨時会というものが、とくにこの安保法制国会後の2015年秋以降、野党が要求しても召集されない状態が続いています。憲法53条違憲訴訟で問われている問題です。

憲法53条は、前段では内閣が必要と感じたとき内閣が臨時会を召集することができるという、内閣の裁量を認める規定になっています。後段は逆に、いずれかの議院の国会議員の4分の1以上が臨時会召集を要求したときには、内閣は臨時会を開か「なければならない」と明記されていまして、これは内閣の義務です。多数決だけで考えると、「もう勝敗は決まったんだから蒸し返さなくていいじゃないか」と多数派の議員は思うかもしれませんが、そう思ったとしても、この要求があれば多数派および内閣は、この少数派の議員の要求に応じて国会で議論しなくてはならないのです。積み残した議論や国民に知らせなければいけない議論を国会の場できちんと言葉にして可視化させたい、ということがあったときに、そこに意義を認めるわけです。ちなみに、憲法の条文にある正式な言い方は「臨時会」なのですが、メディアなどでは「臨時国会」と言っています。

2017年、4分の1以上の議員によって召集要求が行われたのですが、これが98日無視されて98日目に臨時会が形だけ召集されたけれども、冒頭で解散が宣言された。議員たちが求めていた審議、議論は一つも行われずに、いきなり解散になったんですね。これを憲法違反に問う裁判が行われています。この訴訟でも、私は複数本の意見書を裁判所に提出して、東京地裁で証人尋問に立たせていただきました。

こういう、法文で内閣の義務となっていることを内閣の裁量に読み替えてしまうという憲法改変は、手続き抜きでやってはいけないわけで、もしどうしてもこれをやりたいのなら、国民にその可否を問わなくてはいけないはずです。

この状況を克服するために、「憲法改正決定権」という考え方も裁判で登場してきました。これは、2015年以降の安保法制について、そのような憲法改正に自分は承諾した覚えはないので承諾するいわれはない、とする主張です。国民投票を経ずに憲法改正が行われることを拒否する権利が、国民主権から導き出せるはずだ、という主張で、先にご紹介した安保法制違憲訴訟で主張されている新しい権利です。

ただし、手続きはもちろん遵守されなくてはならないですが、さりとて、形式手続きはやったよと言いつつ、実質的には主権者の意思をスルーするやり方を取ることも、あってはならないことです。憲法改正国民投票が、「仏作って魂入れず」になってはいけない。ここで言う魂というのは、「主権者の自由に表明する意思」の結果が結実して、ある結論が出るということです。知る権利と情報公開、報道の自由、市民の集会や意見表明の自由、各自治体のポリシー表明の自由など、憲法に関する判断材料と熟議形成の道を真の意味でオープンにすること、同調圧力を取り除くこと・・・。これを本当に実現する仕組みを確保しましょうという《理路》を、統治に関わる人々に理解し決断してもらう必要があるのです。

うわべの数でなく、各「個人」の意思を

今の点で、最近、大変説得力のある論説を見ました。2021年11月14日の東京新聞に掲載された、田中優子法政大学名誉教授の論説です。今の流れからいくと、憲法改正の議論が進みそうな気配だが、今後の憲法が、個人を基本として人間を見る憲法であるのか、それとも家族を単位として人間を見る憲法になるのかというところで、大きな岐路にさしかかっている、そしてそれが現実には思いのほか少ない賛成票で決まってしまう可能性もある、と。

家族の中でも人間は一人一人違いますし、親が思っている「子ども」のイメージと実際のその子の個性は違うこともあります。だから人間をまずは個人として見ることが必要です。そうした議論がされてきたかというと、議論をするよりは、そこは女性が心得が足りない、わきまえが足りないということで、女性が皺寄せを背負わされてきた歴史があったので、そこを田中優子先生も、打開しなければいけない問題として指摘しているのだと思います。

そして、多くの人が憲法改正に十分な関心を持っていない中で、手続き上のうわべの数だけで決まってしまうこともありうる。議員が特別多数(総議員の3分の2)で憲法改正案を発議すると次はその賛否を問う「国民投票」となるわけですが、今の国民投票法だと、たとえば今の選挙の投票率と同じ半数の人だけが投票しに行ったとすると、その投票者の半数が憲法改正に賛成すればそれで改正が決まる。多くの人は無関心で投票に行かない、その人たちは憲法改正をしたいと思っているわけではなかった、しかし一部の少数者の熱情で憲法改正が成立した、ということは起こり得るわけです。

こうした中で、24条の「個人の尊厳」が危ういという指摘は重要です。たとえば家族内でも弱者は生まれます。虐待の対象になってしまった子どもや高齢者、家庭内暴力にさらされている妻や、モラルハラスメントにさらされている夫もいるかもしれません。そういう家庭内弱者に「家族でなんとかして」と言うのでは、弱者当人は、救済の道がなく放置されてしまいます。そういうときには「個人」として、国や自治体などに支援・救済を求めることができる仕組みが必要です。24条を、そういうときに社会権的な支援策を国に求めることのできる条文として読む説もあり、今後重要性を増してくると思います。そこから考えたとき、24条は、開花していないつぼみの状態にとどまっています。24条を改正する議論をするのであれば、まずそこをきちんと開花させてから、その次の話としてだと思います。

熟議と粘り

ここまでざっと見ただけでも、憲法が生かせていない、生かすにはどうするか、という議論の必要な事柄が山積しているのですが、この数年で起きたことをみると、私たちは熟議のできない社会、民主主義の基礎体力が低下している社会の中にいるように思えます。「知る権利」や「表現の自由」、そして「知らせる自由(報道)」が非常に弱まってきているからです。民主主義の循環に血行不良が生じてきた、この状況で投票手続きだけを行っても、実質的にはアンフェアな手続きになってしまうのではないか。もし憲法改正の議論をするならば、今必要なのは、その前に、それにふさわしい熟議、《粘り》が生かせる環境を取り戻すことです。

粘りというのは、批判されたら反射的に撤回する、解散する、というのではなくて、それを受け止めて説明や議論の応酬ができることが「粘り」です。今、日本の公共空間から、この粘りが失われていることを憂慮しています。その中で熟議は可能なのだろうかと。

「知る権利」と知る決断

私は、憲法改正時には、政党のメディア広告の規制も必要だと考えているほうです。主権者の「知る権利」や「表現の自由」を大切にするなら、規制はないほうがいいと考える考え方もありますが、私は、ここは規制が必要な場面だろう、と。これは、政党は国民投票広報協議会による意見広告放送の機会が確保されていることを前提にして考えています。

資金がたくさん出せる強い側、強い集団がその資金力にものを言わせて、メディアの紙面やテレビの放送の枠などを買い占めてしまって、資金力のない政党や市民がなかなか発言ができない、聞き手・読み手はやはりメディアのフィルターを通過したものを信頼する傾向が強い。その結果、せっかく公平に機会確保をした意見広告の価値が薄れてしまうおそれがあります。

さらには市民が集会をしようとしても、政治的な議論につながるからという理由で公民館などの会場が借りにくい、というふうに、《幅寄せ》をされてしまっている状態が2014年ごろから、かなり見られます。これが続いてしまうと、憲法改正について考えるための判断材料となるべき情報に深刻な偏りが出てきます。しかも、情報公開をしても政府側が開示すべき情報が軒並み不開示となったり、文書不存在ということになったりで、私たちに知らされない事柄が多いですね。せめてアメリカの情報自由法のレベルに揃えてほしいと思います。ここにも「知る権利」すなわち民主主義プロセスを確保するための決断が必要なのだろうと思います。同時に、市民側にも、「知る決断」が必要ではないか。

恋愛などでは、「不都合な真実は知らなくていい、美しく騙し続けてもらうのが粋」という価値観もアリかもしれません。私的領域ではそれも本人の自由ですが、国政と国民の関係では、不都合な真実も知る・知らせる決断をする必要があります。特に憲法改正の議論をするなら、その気構えが必要になってきますね。それが日本には足りないと思うのです。たとえば、負の歴史と向き合う決心ですね。それは決して「自虐」ではないと思います。

アラートの鳴らない社会の怖さ

社会が高度化すればするほど、アラートの鳴らない社会、SOSが伝わらない社会というのは怖いものになります。この怖さをコロナ社会は炙り出してくれたと思います。SOSが伝わらないと、すぐに命の選別に直結してしまう。憲法24条や25条をコロナ禍のニーズに応じて実現する決断をしていかないと、施策が市民社会の生活場面に回っていかない。2021年には、女性の自殺者が増えてしまっていることが統計で明らかになりましたが、これも、実生活の中から出てくるSOSが伝わりにくい状況になっていることが一因ではないかと思います。この問題に対処するために、ニーズを伝えるパイプを国が支えないと、不作為による命の選別が起きてしまうわけです。そうした事柄に向けての知の循環、SOSの伝達に、政府はきちんと注力しているか。憲法改正よりこちらのほうが緊要課題です。重装備の攻撃能力は持った、でも、その足元で現実の国民たちは、一番大事なニーズを伝え切れずに生活に疲弊して、戦争があったのと同じくらいの自殺者が出てしまった、という成り行きになってしまったら、そのほうがよほど深刻な失政になりますね。

ですから、憲法が想定している常態の憲法政治を取り戻すことのほうが、まず先決と思います。有権者にアピールしやすい、大見得を切るような政策リップサービスではなく、今すでにある規範を守る、使う、実現する、という決断ですね。

最後に、立憲政治を劣化させていく力は常に働くものだと思っておくべきでしょう。統治の担当者というのは、自分にうるさいことを言ってくる存在は煩わしく思うもので、それを無視できるものなら無視しようとする力は常に働くので、だからこそ私たちは、こと憲法に関しては、「乖離してますよ」とアラートを鳴らさないとならないのです。

もうひとつの「知らせる」仕事

「知らしむべからず寄らしむべし」の社会状況のまま、憲法改正の手続きが行われる可能性は、十分にあると思います。そこで私たち主権者のほうがその状況に流されずに、熟議の努力をする、おまかせコースというわけにいかないんだという決断をすることが必要です。それには、各自が《自分ごと》と言えるポイントを見つけることが大事だと思います。憲法のここが改正されると自分の暮らしはどう影響を受けるのか、自分の大事にしてきた活動が変わらずに自由にできるのか、というふうに、憲法と《自分ごと》とをつなげて考えることが大切で、メディアや識者、法律家は、そういったことを、わかる言葉で市民に知らせていくことを仕事にしなければならないと思います。そのために、日本女性法律家協会は、「憲法問題研究会」を発足させました。本日の講演は、その課題の一端を整理してみたものです。一つ一つのイシューについては、弁護人や検察官や裁判官として実務面から深くかかわっている方もいらっしゃいます。いずれ各論として、そうした知見を社会提供していただくときもあると思います。

そして、最後は結局、主権者の自助努力によるしかないわけですね。コロナ関連の施策については「自助」を言いっぱなしでは駄目で、政府にまだまだ責任を担ってもらわなくてはならないのですが、国をどう舵取りしていくか、この国にどこへ向かってほしいかというのは、「専門知を持っている人に任せよう」ではなく、「こうであってほしい」という主権者の願望が、舵取りの最終的な根拠です。主権者が示した願望、意思の方向に向けて、専門家や公務員が専門知を発揮していく、というのが、本来のあり方です。その意思を普通の市井の人々が表明していくことが、憲法12条でいう「不断の努力」です。私たちは法律家・法学者として、その手助けとなるような仕事をしていきたいと思っています。

※日本女性法律家協会は、女性の弁護士・検察官・裁判官・大学所属法学研究者から成る社会活動団体です。協会では、2021年9月から「憲法問題研究会」を発足させ、女性の法律実務家集団としての視点から、昨今の憲法をめぐる議論について研究会を行い、発信も行っています。筆者(志田陽子)は、この団体の幹事および憲法問題研究会の座長を務めています。その研究活動の一端として、この「キックオフ講演」を行い、講演録を日本女性法律家協会会報60号(2022年11月発行)に収録しました。この講演録を一部修正したものを、「シノドス」に提供させていただきました。

プロフィール

志田陽子憲法、言論・芸術関連法

武蔵野美術大学造形学部教授、「シノドス」編集協力者。憲法と芸術関連法を専門にしている。本稿と関連する編著図書として、『映画で学ぶ憲法』(法律文化社、2014年)、『映画で学ぶ憲法 2』(法律文化社、2022年)、『「表現の自由」の明日へ』(大月書店、2018年)がある。

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