2024.12.09
先端技術の考察を通じて人間を学ぶ――『技術哲学(3STEPシリーズ)』(昭和堂)第二部の各章から
今年の9月に、金光秀和氏との共編で『技術哲学(3STEPシリーズ)』という本を昭和堂から刊行した。それにあわせて、本誌SYNODOSに「技術哲学と環境倫理学をいっぺんに学ぶための読書ガイド」という記事を書き、昭和堂から過去に刊行された環境倫理学関連の本と一緒に紹介した。というのも、私の専門分野は環境倫理学であり、この本を環境倫理学との関係において位置づけているからである。
『技術哲学(3STEPシリーズ)』の編者として私が担当したのは、「第Ⅲ部 技術哲学と環境」の部分であった。「第Ⅰ部 技術哲学の理論」と「第Ⅱ部 技術哲学と社会」の部分は共編者の金光氏がとりまとめた。前回の紹介では、環境倫理学に引き付けすぎたきらいがあるので、今回あらためてこの本を「哲学」との関連で紹介したいと思う。
これまでの人間の規定とその揺らぎ
技術哲学は「技術とは何か」を問う分野であるが、そもそもの哲学の主要な問いの一つは「人間とは何か」という問いである。実は本書の中にも「人間とは何か」という問いが随所に見られる。とりわけ「第Ⅱ部 技術哲学と社会」は、先端技術の社会的影響が論じられるなかで、人間についての考察が垣間見られる。
例えば「第9章 宇宙開発」(立花幸司)のなかで、筆者は、「ホモ・サピエンス」(知恵ある人類)、「ホモ・ルーデンス」(遊戯する人)、「ホモ・エデゥカンス」(教育される人)、「ホモ・ファーベル」(工作する人)といった従来の人間の規定を紹介したうえで、これらの規定の前提には「アースリングearthling」(地球で生まれ育った)という特徴があると述べる。
このように、これまでの人間の規定には「地球人」という前提がある。この前提が、宇宙進出によって揺らごうとしている。つまり地球人でない人間が登場する可能性が出てきているということだ。
また、「第5章 AI」(久木田水生)のなかでは、生成AIの発達により、独創性を持った作品を生む可能性のある創作者の芽を摘むことになり、人類全体としての創造性が低下することへの懸念が示されている。生成AIは人間に固有のものとされてきた創造性に大きな疑問符を突きつけている。
このように、先端技術の発達によって人間独自の属性とされてきたものが揺らぐなかで、逆に先端技術が人間の独自性を浮き彫りにしてもいる。第Ⅱ部の残り3つの章にはそれを示す記述がある。
「いいかげんさ」
「第6章 ロボット」(岡本慎平)は、医療・介護、自動車、兵器の分野において、ロボットが進出している様子とそれに対する懸念を簡潔にまとめている。特に、自動運転車についての記述のなかにある、「自動運転のアルゴリズムが厳格であることを求められるのに対して、人間のドライバーはいいかげんでも許容される傾向」にあり、両者がともに公道を走ること(混在交通)によって危険な状況が生まれるという指摘は興味深い。
確かに、人間のドライバーが厳格に交通法規(制限速度など)を遵守しないことによって道路の秩序が保たれている面があるのだが、自動運転車をそのいいかげんさに合わせるのは無理筋である。そしてこのことは、ロボットにない人間の特徴は「いいかげんさ」であるということを示唆している。
あえて「手間」をかけること
「第7章 テレプレゼンス」(呉羽真)は、テレプレゼンス技術(離れた場所にいる、あるいは、離れた相手と一緒にいる、と感じさせる技術)について論じられる。そのなかで筆者は、いわゆるオンラインよりも対面でのコミュケーションを重視する姿勢を「対面神話」と呼び、そこに二つの問題があることを指摘する。
第一に、「対面神話」にある「オンラインコミュニケーションの普及が人間関係を貧困化させる」という言説は、技術が社会のあり方を決定するという見解、すなわち技術決定論であると筆者は言う。実際にはそうした技術が、その利用法次第で、人間関係を豊かにする可能性もある。
第二に、「対面神話」は人々の身体性が多様であるという事実を無視していると筆者は言う。マイナーな身体性をもつ人たちにとって、オンラインコミュニケーションの普及は福音かもしれない。
このように筆者は「対面神話」を批判するのだが、その後でテレプレゼンスに関する倫理問題として、「テレビ会議での解雇通告」を例に挙げ、その問題の本質を、技術ではなく「手間を惜しんでいるかのような態度」に見てとる。殴り書きの謝罪文と同じように、そうした態度は不適切なものとして伝わる。
逆に、他に手段がない場合にテレプレゼンス技術を使う場合には、「手間を惜しんでいる」ように見えないので問題が生じないと筆者は言う。これは、人間のコミュニケーションにおいて、あえて「手間」をかけることの重要性を示唆するものであり、ここには人間の営みに関する一つの洞察がある。
「手抜き」と「余計なこだわり」
「第8章 農業技術」(鈴木俊洋)は、スマート農業技術(ICT、AI、ロボットを活用した農業)の利点と問題点について論じている。筆者は、スマート農業技術はあくまで人間を助ける技術となることを目指すべきで、人間に代わって判断する技術を目指すべきではないと喝破する。農業には多様な価値と多様な方法論があり、スマート農業技術がそれを奪うことは許されない。このように論じた後で、筆者は「人間にしかできないこと」について考察する。
ここで筆者は「人間にしかできないこと」を、いわゆる「匠の知」(熟練労働者の経験知)そのものには求めていない。スマート農業技術は、「匠の知」の共有やその修正にも貢献する。つまり「匠の知」はスマート農業技術の利用と矛盾しない。
重要なのは、機械の「匠」(農業熟練知AI)は、人間の「匠」の代わりにはなれないということだ。ここで筆者が提示する「人間にしかできないこと」は二つある。一つは「手抜き」である。農業には神経を使うべきポイントと、そうでもないポイントがあり、そうでもないポイントを見抜いて「手抜き」ができるところに人間の特徴がある。もう一つは「余計なこだわり」である。余計なこだわりは個人ごとに異なっており、農業熟練知AIではそれが文字通り余計なものとして削られる。
しかし筆者によれば、「手抜き」や「余計なこだわり」こそが農業の方法論の多様性を生み出し、それが農業の強さや柔軟さの源泉になるのだという。この説明は、スマート農業技術は人間に代わって判断する技術になってはいけないという筆者の主張と軌を一にする。同時にここには、先端技術には見られない人間固有の特徴が提示されている。
先端技術が浮き彫りにした人間の特徴
以上の3つの章から、先端技術で代替できない人間の特徴が浮き彫りになったといえる。それは「いいかげんさ」であり、あえて「手間」をかけることであり、「手抜き」ができることであり、「余計なこだわり」があることである。このように、本書の各章を読むことで、技術と何か、技術は社会にどのような影響をもたらすか、といった技術哲学のテーマと並んで、「人間とは何か」という問いについても、いくつかの重要な知見を得ることができる。先端技術の考察を通じて人間を学ぶことができるのだ。
『技術哲学』という名前から、理系かつ哲学という二重の意味で難解な本をイメージする人もいるかもしれないが、以上のように本書は、具体例も多く、人間に対する洞察に満ちた本になっているので、幅広い分野の人たちに読んでもらいたいと思う。
プロフィール
吉永明弘
法政大学人間環境学部教授。専門は環境倫理学。著書『