2026.08.31
AIにできることを、なぜ人間が学ぶのか――人間のなかに何を形成するのか
AIにできることが、急速に増えています。
文章を書く。翻訳する。計算する。プログラムを書く。
これまで人間が学び、身につけてきた多くの技能を、AIが代わりにできるようになりました。
そうなると、そうした技能を、人間はこれからも学ぶ必要があるのか。
当然、このような問いが浮上します。
これまでなら、「将来使うから」という便利な答えがありました。
文章を書くのは、将来、文章を書くため。外国語を学ぶのは、外国語を使うため。
学校で身につけた技能を、その後の仕事や生活で使うことが想定されていました。
しかし、AIがその技能を代わりにできるようになれば、この答えは自明ではなくなります。
AIが文章を書けるのに、なぜ文章を書くことを学ぶのか。
AIが翻訳できるのに、なぜ外国語を学ぶのか。
こうした疑問を教育は、今後どのように考えていけばよいのでしょうか。
「できた」と「できるようになった」
ペンシルベニア大学ウォートン校のイーサン・モリックは、ChatGPTの登場直後から、自身の教室でAIを積極的に使いながら、教育への影響を考えてきました。
「The Future of Education in a World of AI」(2023)で彼が描いたのは、AIによって教育のあり方そのものを変える構想でした。
一人ひとりの学生にAIチューターがつけば、理解度に応じた個別指導ができる。
教師は知識を一方的に伝える仕事からある程度解放され、教室では議論や問題解決、共同作業に、より多くの時間を使えるようになる。
AIに任せられる部分を任せることで、教育をより人間的で能動的なものにする。
これは現在でも、十分に説得力のある構想でしょう。
ところが、実際にAIを教育へ導入していくと、別の問題が見えてきました。
モリックがその後の論考で紹介している研究に、高校生の数学学習を調べた実験があります。
生成AIを使った学生たちは、AIを使っているあいだ、数学の課題で高い成果を上げました。
ところがAIを使えない試験になると、ふだん生成AIを使っていた学生は、AIなしで学習していた学生より成績が悪くなりました。
ここで起きていることは単純ですが、教育にとっては重大です。
「できた」ということと、「できるようになった」ということが分かれ始めたからです。
これまで、数学の問題に正解する、レポートを書くといった成果と、それを生み出す本人の能力とのあいだには、強い結びつきがありました。
学生が自分でレポートを書けば、その過程で資料を読み、考え、文章を組み立てたはずです。
数学の問題を解けたなら、その問題を解くための思考を本人が行ったと考えられました。
AIは、この結びつきを切り離します。
質の高い成果物が存在しても、それを生み出す能力が本人のなかに形成されたとはかぎらない。
AIによって、成果物をつくることと、その成果物をつくれる人間を育てることが、別々の営みになり始めています。
教育では、非効率に意味がある
仕事であれば、同じ成果を短い時間で出せるほうがいいでしょう。
レポートを3時間かけて書いていた人が、AIを使って30分で同じ品質のものをつくれるようになれば、生産性が上がります。
ところが教育では、同じ論理がそのまま通用しません。
学生が数学の問題を30分かけて考えている一方で、AIなら数秒で答えを出せる。
それでも、AIに解かせればいいとはなりません。
教育では、答えそのものだけでなく、その答えにたどり着く過程で、学生のなかに何が形成されたかが問題になるからです。
モリックは2024年の論考で、この違いを「教育では努力そのものが目的である」と表現しています。
考えてみれば、教育は、成果を効率的に生産するという観点からは、とても奇妙な営みです。
できない人にあえてやらせ、間違えさせ、考えさせ、書き直させる。
できる人や機械に任せず、本人ができるようになるまで繰り返させる。
仕事であれば削減すべきコストが、教育では能力形成のプロセスになります。
つまり教育では、成果にたどり着くまでの時間や手間を、たんに非効率だとして切り捨てることはできません。
その過程そのものに、教育としての意味があるからです。
ここでモリックの議論から離れて、この問題をもう一歩先まで考えてみたいと思います。
仕事と教育の合理性が分かれ始める
これまで教育と仕事の論理は、かなり素直につながっていました。
学校で文章を書く能力を身につけ、社会に出て文章を書く。計算を学び、仕事で計算する。外国語を学び、必要な場面で外国語を使う。
要するに、社会で必要になる能力を、教育によって身につける。
教育の目的がそれだけだったわけではありませんが、「将来使うから学ぶ」という関係は、教育を支える強い根拠のひとつでした。
AIは、この関係を変え始めています。
学校では、「AIに任せず、自分で考えてみなさい」と言われる。
しかし会社に入れば、「なぜAIを使わず、そんな仕事に時間をかけているのか」と言われる。
教育では自分でやることに意味がある一方で、仕事ではAIに任せるほうが合理的な場合があります。
同じ行為について、教育と仕事に異なる合理性が生まれるのです。
AIが文章を書き、翻訳し、計算し、プログラムを書く範囲が広がれば、このずれはさらに大きくなります。
すると、教育はこのような問いに答えなければならなくなります。
AIが翻訳してくれるのに、なぜ外国語を学ぶのか。
AIがコードを書くのに、なぜプログラミングを学ぶのか。
AIが文章を書くのに、なぜ作文を学ぶのか。
「将来必要になるから」という答えだけでは、不十分であることは明らかです。
その技能を使わなくても、学ぶ意味はあるのか
学ぶことで身につくものは、技能だけではありません。
たとえば文章を書くとき、私たちは何を言いたいのかを考え、材料を選び、順序を組み立てます。
主張と根拠がつながっているかを確かめ、書いているうちに、自分の考えの曖昧さや矛盾に気づくこともあります。
文章を書くという作業を通じて形成されているのは、文章を書く技能だけではありません。
考えを整理すること、自分が何を理解していないのかを知ること、複数の情報を結びつけ、ひとつの判断へまとめること。
そうした別の能力も、その過程で育っています。
さらに、知識には、それを自分もっていること自体に意味があります。
認知科学では、背景知識が、新しい情報を理解し、推論するための基盤になることが指摘されています。
AIが必要な情報をいつでも示してくれるとしても、情報を手に入れられることと、それを理解できることは同じではありません。
新しい情報を理解し、そこにある矛盾や問題に気づくためには、すでに自分のなかにある知識が必要なのです。
ここまで考えると、「できるようになった」ということの意味も、もう少し広く捉える必要があります。
教育の成果は、その場でその課題ができるようになったかだけでは測れません。
その経験によって、その後、新しいことを理解したり、別の問題に取り組んだりできるようになったか。
教育が育てているものには、その先の学習を可能にする力も含まれているからです。
AIに任せるとき、何まで手放すのか
もちろん、これまで人間が身につけてきた知識や技能を、すべて残す必要はないでしょう。
私たちはすでに、多くのことを機械へ渡してきました。
計算の多くは電卓やコンピュータに任せるようになりました。道順も、地図を頭に入れなくてもナビが教えてくれます。
そうした作業を機械に任せるようになっても、それによって大きな支障が生じているわけではありません。
ただし、すでに身につけた能力を機械に任せることと、その能力が形成される前から、学ぶ過程そのものを機械に任せることは同じではありません。
すでに自分で文章を書き、考えを組み立てる力を身につけた大人が、文章作成の一部をAIに任せることと、まだその力を身につけていない子どもが、最初から文章をAIに書いてもらうことでは、起きていることが違います。
前者では、すでにある能力の一部を外へ移している。
後者では、本来その過程で形成されるはずだった能力が、そもそも十分に育たない可能性があります。
さらに、AIが高度になるほど、人間に求められる役割も変わります。
文章を一から書く機会は減っても、AIが書いた文章のどこがおかしいのかを判断しなければならない。
コードを書く量は減っても、生成されたコードが何をしているのかを理解し、問題を見抜かなければならない。
大量の情報を自分で集める必要は減っても、AIが示した情報の何を信頼し、何を疑うのかは決めなければなりません。
つまり人間は、自分で成果物をつくるだけでなく、AIがつくったものを評価し、必要に応じて修正する役割を担うようになります。
ところが、そうした判断をするためには、その領域についてある程度の知識を持ち、自分自身で考え、試し、失敗した経験が必要です。
ここに、ひとつ逆説があります。
AIによって直接使う機会が減る技能や知識が、AIをうまく使うための判断力を支えるものとして、なお必要になるのです。
ここに、AI時代の教育の難しさがあります。
これまで教えてきたことを、そのまま守ればいいわけではありません。
逆に、AIにできるようになったことを、順番に人間の外へ出していけばいいわけでもない。
では、どの知識や技能を、人間自身のなかに形成しておく必要があるのでしょうか。
問われるのは、その技能を将来直接使うかどうかではありません。
それを学ぶ過程で人間のなかに何が形成され、身につけた知識や技能が、その先のどんな思考や学習や判断を可能にしているのか。
AIは、これまで「将来必要になるから」という言葉の陰に隠れていたこの問いを、教育の中心に押し出しつつあります。
プロフィール
芹沢一也
1968年東京都生まれ。株式会社シノドス代表取締役。
言論プラットフォーム「SYNODOS」を立ち上げ、編集・運営に携わる。研究者や専門家とともに、政治、社会、科学技術などの複雑な問題を、社会にひらかれた言葉で伝える活動を続けてきた。
現在は、私たちが生きる世界を新たな視点から捉え直す「SYNODOS Future」を展開。また「シノドス英会話」を主宰し、「分かっているのに話せない」がなぜ起こるのかを起点に、大人のための英語教育にも取り組んでいる。

