2026.10.28

「治療しなかった自分」と比べる――デジタルツインが変える医療

芹沢一也 SYNODOS / SYNODOS Future 編集長

科学

ある薬を飲んだ自分と、飲まなかった自分。
もし、そのふたりを比べることができれば、その薬が本当に効いたのかどうかを確かめることができます。

残念ながら、もちろん、そんな比較はできません。
私たちが生きることのできる未来は、ただひとつだけだからです。

薬を飲めば、「飲んだ自分」がその後どうなったのかは分かります。
しかし、「飲まなかった自分」がどうなっていたのかは、永遠に分かりません。

これは、医学が長く抱えてきた問題です。
だから医学は、他人と比べてきました。

なぜ医学は「他人」と比べるのか

新しい薬の効果を調べるとき、医学では多数の患者を集めてふたつのグループに分け、一方には新しい治療を行い、もう一方には別の治療やプラセボなどを用いて、結果を比較します。

本当に知りたいのは、同じ患者について、「治療した場合」と「治療しなかった場合」に何が起きるのかです。
しかし、そのふたつを同時に観察することはできません。

そこで、「治療しなかった同じ人」の代わりに、「治療しなかった別の人」を比較対象にします。
これが、現代医学を支えるランダム化比較試験です。

多数の患者をランダムに分け、ふたつのグループを比較することで、治療が集団全体にどれほどの効果をもたらすかを推定します。
しかし、目の前の患者について、治療を受けなかった場合に何が起きたのかは、依然として分かりません。

ところがいま、まったく別の方法で、「もうひとつの未来」をつくろうとする技術が登場しています。
それがデジタルツインです。

コンピュータのなかに、もうひとつの未来をつくる

デジタルツインとは、現実に存在するものをデジタル空間にモデルとして再現し、その状態や変化をシミュレーションする技術です。
もともとは航空機や工場などの分野で発達してきましたが、近年は人体への応用も進んでいます。

2024年に『Noema』に掲載されたジョー・ザデーの「デジタルツインがあなたの命を救うかもしれない」では、医療におけるさまざまなデジタルツイン研究が紹介されています。

たとえばELEM Biotechは、MRIなどから得られる患者固有の情報と、心臓がどのように動くのかという物理的・生理学的モデルを組み合わせ、一人ひとりの心臓をコンピュータ上に再現しようとしています。
目標のひとつは、患者本人に薬を投与する前に、その人のデジタルツイン上で治療の影響を試すことです。

薬Aを使ったらどうなるか。薬Bならどうか。何もしなければどうなるか。
現実の患者にはひとつしか選べない治療を、デジタル空間ではこのように、複数試すことができます。

ELEM Biotechでは、患者ごとの心臓モデルで、ペースメーカーによる刺激の条件を複数比較したり、仮想的な心臓集団を使って、薬による心臓への影響を調べたりする研究も進めています。

デジタルツインはしばしば、「コンピュータのなかに自分のコピーをつくる技術」と説明されます。
このコピーを使うことで、現実には存在しない「別の未来を生きた自分」をつくれるわけです。

「治療しなかった自分」を対照群にする

この発想は、すでに医学研究に取り入れられています。

2026年、移植用の肺などを体外で機能させて評価する「体外肺灌流(EVLP)」を使った研究で、研究チームは約1000件の肺のデータからデジタルツインを構築しました。
そのうえで、現実の肺には治療を行い、デジタルツインの肺には治療を行わずに、結果を比べました。

つまり、比較されるのは、「治療された肺」と、「治療されなかった同じ肺のデジタルツイン」です。
研究者たちは、後者を「個別化された対照(personalized control)」と呼んでいます。

従来なら、治療された肺Aと、治療を受けていない別の人の肺Bを比較します。
しかし、そのふたつは別の個体ですから、もともとの状態も完全に同じではありません。

そこでBの代わりに、「治療されなかったA」を計算によってつくります。
別の個体ではなく、別の可能性を生きた同じ個体を比較対象にするわけです。

同じ発想は、すでに臨床試験にも入りはじめています。

Unlearnという企業は、臨床試験に参加する一人ひとりについて、「もし対照群に入っていたらどうなったか」を予測するデジタルツインを開発しています。
こうした予測を統計解析に組み込めば、治療効果をより少ない患者で検証できる可能性があります。

実際の対照群は必要ですが、デジタルツインによって予測の精度を高め、その人数を減らそうというわけです。
この解析方法はすでに規制当局の評価を受け、臨床試験への導入も進みはじめています。

医学は長いあいだ、「治療しなかったあなた」を見ることができないために、別の人間を比較対象にしてきました。
デジタルツインは、それを「起こらなかったあなたの未来」に置き換えようとしています。

「起こらなかった自分」は何からできているのか

ただし、デジタルツインによって、医学が他人を必要としなくなるわけではありません。

患者のMRIや心拍、血液検査など、その人自身のデータだけでは、治療しなかった場合の未来を計算することはできません。
だから、人体がどのように働くのかという生理学的な知識や物理モデル、そして過去の多数の患者から得られたデータが必要になります。
むしろ、実際に起きた多くの他人の人生を使って、「起こらなかった自分」をつくっているのです。

デジタルツインによる個別化とは、集団についての知識を捨てることではなく、その知識を使って、ひとりの患者についての反実仮想をつくることだといえます。

そして、ここからひとつ難しい問題が生まれます。

起こらなかった未来を、どう確かめるのか

デジタルツインが、あなたについてこう予測したとします。
「このままなら、10年以内に心疾患を発症する可能性が高い」。
医師はその予測を見て治療をはじめ、あなたも生活を変え、そして10年後、心疾患にはならなかったとします。

このとき、デジタルツインは正しかったのでしょうか。

予測が正しく、早期に介入したからこそ、病気にならなかったのかもしれません。
しかし、何もしなくても、病気にはならなかったのかもしれません。

本人について、そのふたつを比較する方法はありません。
治療を受けたあなたが現実になった瞬間、「治療を受けなかったあなた」は、存在しなかった未来になるからです。

そのため、デジタルツインが発達しても、ランダム化比較試験や、多数の患者から得られるデータは必要です。

ひとりの患者について、「治療しなかった未来」が正しかったのかを直接確かめることはできません。
それでも、多数の患者についてモデルの予測と実際の経過を比較したり、推定された治療効果が臨床試験の結果と整合するかを調べたりすることで、モデルの信頼性を検証できます。

デジタルツインは、因果推論が抱えてきた「同じ人のふたつの未来は観察できない」という問題を消してしまう技術ではありません。
あくまで、観察できないもうひとつの未来を、モデルによって推定する技術なのです。

治療する前に、結果を比べる

デジタルツインが変えようとしているのは、治療の方法だけではありません。

これまで医学は、過去に治療を受けた多くの患者の結果を比較し、その知識を目の前の患者に当てはめてきました。
この薬なら、この患者にも効くだろう。この手術なら、この患者にも有効だろう。
そう考えて、治療を選んできたわけです。

もちろん、年齢や病歴、検査結果などを見ながら、一人ひとりに合わせて判断します。
それでも最後に残るのは、「この治療をしたら、この人はどうなるのか」という予測です。
実際にどうなったかが分かるのは、治療を選んだあとです。

デジタルツインが目指しているのは、この順序を少し変えることです。
治療を選ぶ前に、「治療Aを受けた場合」「治療Bを受けた場合」「治療を受けなかった場合」を、その患者のモデル上で走らせてみて、それぞれの結果を比較してから、現実の治療を選ぶのです。

もちろん、そこで示される未来は事実ではありません。あくまでモデルによる推定です。
それでも、十分に信頼できるデジタルツインがつくられるようになれば、医療の判断には新しい段階が加わります。

過去の患者に何が起きたかをもとに、目の前の患者の未来を予測するだけではありません。
その患者について、複数の未来を先に比較してから、ひとつを選ぶことができるようになります。

デジタルツインが可能にしようとしているのは、そういう医療なのです。

プロフィール

芹沢一也SYNODOS / SYNODOS Future 編集長

1968年東京都生まれ。株式会社シノドス代表取締役。

言論プラットフォーム「SYNODOS」を立ち上げ、編集・運営に携わる。研究者や専門家とともに、政治、社会、科学技術などの複雑な問題を、社会にひらかれた言葉で伝える活動を続けてきた。

現在は、私たちが生きる世界を新たな視点から捉え直す「SYNODOS Future」を展開。また「シノドス英会話」を主宰し、「分かっているのに話せない」がなぜ起こるのかを起点に、大人のための英語教育にも取り組んでいる。

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