2013.04.10
日本はいかに死んできたのか
緊急地震速報のチャイム音の作り手・伊福部達。そしてその叔父にあたり「ゴジラ」の効果音を手掛けた作曲家・伊福部昭。彼は第二次世界大戦の勝利のために、科学研究に携わり、放射線に被曝していた ―― 『国の死に方』という不気味なタイトルがついている本書は、「ゴジラ」から保険制度、鎌倉時代から現代、そしてナチス・ドイツやソ連など、縦横無尽に国家が自壊していく様子を描いていく。そこで描かれるさまざまな時代の国家は、現代日本のありさまにそっくりであった。『国の死に方』はどのようにして執筆されたのか。現代の日本は歴史を繰り返しつつあるのか。著者・片山杜秀氏にインタビューを行った。(聞き手・構成 / 金子昂)
いま書けるものを書き残す
―― 最初に本書をお書きになった経緯をお聞かせください。
本書は2011年6月号の『新潮45』に単発で掲載した「<原爆の子>と<原発の子>」(「民族のトラウマ」と改題されて収録)と、それにつづく「国の死に方」という連載をまとめたものです。そもそも書籍化が前提ではなかったし、書き始めたころは地震が起きた直後で、連載が始まったときもずっとつづけてまとめるという発想はあまりなかったですね。つづいているうちに書けることは書く。雑誌なんていつなくなるともわからないし。そんなつもりで書いていました。
3月中旬・下旬は、このまま原発が爆発して、大勢の方が亡くならないにしても、東京も汚染地域となって住めなくなるんじゃないかとか、人々がパニックになって騒乱状態になるとか、そういったことをリアルに想像していました。信ずるに足る情報がなかなかなかったし、最悪のことを考えざるをえない。3月に書いたり喋ったりしたものは日本への遺言とか辞世の言葉みたいなのばっかりで……。
『新潮45』の6月号となるとお話をいただいたのは4月でしょうか。そのころは明日をも知れぬ感じではもうなかったけれども、復旧復興モードというよりは戦時の感覚ですね。「今日もどこどこで負け戦」みたいな。「でも大本営発表でごまかしているので、まあ、まだ負けないかな」「じつはあとで負けてしましたと言われるんじゃないか」とか。とても中長期的にものを考える段階ではない。雑誌に連載して本にするような発想はまったくありませんでした。ですから書けるときに書いておこうと。出版社もどうなるかわからないだろう。全何回の連載で、どのようにまとめるかなんて見通しを作ることなんて無意味だと。次回もあれば次回も書く。それだけだ。そういう感じでした。
―― その後、事態は少しずつ変わっていきましたが、心構えに変化はありましたか?
ええ、その後だんだん、少なくとも大出版社がすぐなくなるとか日本の社会秩序がすぐ崩れるという事態ではないととりあえず思えてきたので、「今回の掲載で連載が終わるかもしれない」という心構えも弱まっていきました。
とはいえ何年、何十年というスパンで考えると、この問題は日本の社会や経済、そして一人ひとりの心の問題にまで大きな負担になることはますます明らかになっていった。原発問題はいまだ収束していませんし、次の大地震は明日か十年後かちっともわかりませんしね。
少なくとも地震列島日本の地震発生の頻度が桁違いに上がったという、とんでもない時代が生きている時期にたまたま当たってしまったのですから堪らないですよ。破滅的な可能性をはらんだ危険な状況はこれからもつづいて行くでしょう。「国の死に方」というのは連載当初にわたくしが自分でつけて、そのまま書名にもなってしまいましたが、大袈裟すぎたとは必ずしも思っていません。むしろそのくらいのネーミングでは追いつかないくらいかなあと。
そもそも資本主義国として成熟しきり、さらには高齢化も迎え、右肩下がりとなっていた日本が、大震災と原発事故によって処置なしのところまで追いつめられてしまったわけでしょう。まさに未曾有の危機ではないですか。そんな日本の今後を考えるときには、たとえば福島原発の今日明日の危機に切り込むような本もけっこうと思いますけれども、そういう時事に密着したものはすぐ新しい情報に乗り越えられてしまうでしょう。かといって福島なら福島の問題を歴史として突き放してみるのは早すぎるというか無理なわけですよね、いまの出来事ですから。となりますと、いまから想い出される過去を参考にしてもらうくらいしか、少なくともわたくしにはやれないだろうなあと。時事ネタでなければ本の寿命も少しのびるんじゃないかと思っています。
「政治主導」を掲げていた民主党が、ナチス・ドイツやソ連に重なった
―― 本書では、ナチス・ドイツやソ連の崩壊、鎌倉幕府から大日本帝国までの日本が自壊していく様子などが描かれていますが、原発事故後になぜこのようなトピックを選んでお書きになられたのでしょうか?
原発事故の報道を見聞きしていますと、当時の民主党政権の動きが20世紀のいろんな出来事を想い出させてくれたんですね。
「政治主導」や権力の集中を掲げていた民主党政権は、地震の前からずっと混乱状態を呈していて、地震と津波と原発事故で混乱に拍車がかかって、これはもう「こんな時代に直面するとは!」と、大いに驚いてしまったわけなんですよ。危機に直面する日本の政治のすがたかたちが、かつての大日本帝国やナチス・ドイツやソ連の壊れ方と重なり合うように見えてきた。
権力を集中させたくてもタテ割りがきつくてうまくいかない大日本帝国。わざと下部に権力抗争を起こさせて独裁者の安泰をはかろうとするヒトラーのシステム。権力を集中させて下をがんじがらめにして結局全部が停止してしまったソ連のシステム。大日本帝国とナチスとソ連ではえらい違いだと思うんだけれども、それぞれがどこかいまの日本と似ている。ソ連の硬直化の果てに起きたのはチェルノブイリ事故だったとか、あの事故の報道が出たとき、駿河台の坂から天を仰いで、これでもう世界もダメかもしれないなあと、呆然としたこととか。それまでの知識や経験のもろもろがみんな目の前の現実にダブってくる。そういう感覚をとくに菅政権の初期対応のドタバタ、大本営発表のような枝野官房長官の会見、ほかのたくさんのことから、もう連想回路みたいなのができちゃいましてね。
―― 民主党のどういった点が、大日本帝国やナチス・ドイツ、ソ連とダブっていると思われたのでしょうか?
民主党は「日本の政治は多元的で、政党や内閣がうまく機能しなくて、議院内閣制といいながら、そうなってないのがけしからん」と言っていたわけでしょう。しかも「多元的と言っても対等にばらけているのではない。けっきょく多元的な機構の中でも官僚が強いんだ」と。
これは日本にかぎらず行政国家なら当たり前なんだけれども、現代社会は複雑であり、複雑なものを「大きな政府」で面倒をみるとすれば、すべてに専門的知識が必要になって、特定分野について一生勉強しつづけるくらいでないと追いつかない。そんなことが現に出来るのは役人だけだ。官僚しか必要なことを必要なレベルまでは真に知れない。それで行政部がやっぱり立法部を操縦してしまう。経験豊富な官僚がもっとも力を持つことになる。
そこで民主党は「それは民主主義国家じゃない。民主党は真に民主的な政治体制を目指します」と言った。「議会制民主主義で国民が信任しているのは官僚でなく国会議員である」「政治主導つまり議会主導、与党主導で、官僚を黙らせます」と。そう言ってみんな喜んだわけでしょう。学者や評論家なんかには、官僚の代わりに政治家に専門知識とかヴィジョンを吹き込む役目が自分たちに回ってくると思って狂喜乱舞していた人たちがたくさんいたでしょう。おろかでしたね。
でもうまく行かなかった。官僚を黙らせても大丈夫にするためには官僚なみに専門知識のある政治家が大勢いないといけない。そうでなければ官僚に匹敵する専門知識集団が別に存在しなければならない。これは行政専制国家を打破するイロハのイです。でも民主党の政治家は自民党と比べても経験貧困だったわけだし、学者の動員だって戦前の日本に比べても非効率にしかできなかった。政治主導なんてただの人気取りにすぎなかった。実体はなかったんですね。鳩山政権のときにそれはもう明らかでしたよ。そこに地震や津波や原発事故ですよ。
本の話にもどりますと、「雑誌に連載を」と言われたときに書きたかったのは政治の現状への批判であり、民主党論だったわけです。しかし地震や原発事故の経過も日々変わっていましたし、当時の民主党政権内部のこともわかりませんでした。とくに混乱のきわまっていた2011年春には、当時の報道を振り返っていただければわかると思いますが、記者や媒体ごとに発信する情報が異なり、翌日には覆されることも多々ありまして、時事的評論文を書くための定点がえられない。わたくしの人(にん)でもありませんしね。
そういう状況下で、いまの日本政治は、どういうスパンで、誰がどんな意思決定をしようとしているのか、そもそも責任をもって決定しようとしている主体を見いだせるのか、仮になにか決定できるとして、その決定を機能させうる政治的・法的仕組みがあるのか、日本国民として生きるか死ぬか、あるいは財産は保全されるのかといったことを考えてみたかったのですが、結局、そんなことはわからない。わたくしなんかにわかるはずがない。武田徹さんのように一生懸命取材をされて書いている方もいるし、いまのことはひとさまが心配してお書きになっていることにお任せしていればいいので、張り合って出ていく力も才もこちとらにはない。であればわたくしとしては、大日本帝国やナチス・ドイツやソ連のことでも思い出して、いまを考えるための補助線を引くくらいが丁度いいやと。まあ、そんなところでしたね。
とくに大日本帝国のことですね。やはり世間のイメージではどうしても強権的な体制だと思われている。たしかに軍事や警察は戦後よりずっと強いですよ。でも物理的に強いということと、体制が一枚岩で強い意思で命令を発するというのは、なんの関係もないことでしてね。思想警察の刑事かなにかが独断専行で人を殴っていて、殴られた方は国家的暴力を感じるんだけれども、じつは刑事が勝手にやっているだけだと。そんなものであったりする。タテ割りで司令塔がなくて緊急事態に右往左往する点では、大日本帝国も日本国もそんなに変わるもんじゃない。そんな意識がかなりありました。
日本的なシステムと西洋近代システムが噛み合った
―― 本書を読んでいると、いままで日本が取りつづけてきた、権力と天皇を両立させるようとする仕組みにある問題点、とくに明治憲法体制下のそれは、現代日本にも通底しているように感じました。
そうですね。同時期に連載していた『未完のファシズム』にも多少書いていたことなのですが、明治憲法体制を考えることは非常に興味深く、かつ厄介な事柄です。
明治から始めればいいという話でもなくて、古代、大和時代からですね、日本の政治には、天皇をなるたけ存続させて、日本を四分五裂させないようにしよう、そのためにどうすればいいか工夫しよう。そういう伝統が積み重なってきたと思うんですね。
中国では、皇帝が政治に失敗すると革命によって王朝が交替する。交替していいんだと。易姓革命ですね。それで漢とか唐とか交替しちゃうわけですね。日本の場合はそうならないようにしよう。そのためには天皇親政にしないというのが一番よい。政治はずっとうまく行くことはない。どんな時代だって天災もあり人災もあり戦争があり飢饉があり悪人も愚か者もいる。権力者は失敗を運命づけられている。としたら、その失敗の責任をとるところに天皇がいたら、易姓革命を阻止できません。歌を詠んで、間接的に意思表示するくらいがちょうど良い。そうしておくのが、天皇を代々存続させるのが第一義と考える立場からすれば、いちばん存続見込みが高くなるわけですね。
それで摂政関白とか上皇とか征夷大将軍とかが、実質的な権力の運用を行って、うまくいかなかったら悪いのはそいつなんだと。でも彼らは形式的には天皇によって任命されているので、天皇は権力の頂点に君臨しつづけている。もちろん上皇とか法皇というのは天皇に任命して貰うんではないけれども、元職や前職の天皇なんですよね。元の天皇だというところに権力の源泉がある。
日本は古くから、このようにして誰かが誰かにお任せして、お任せする方は、「いや、任せているので詳しいことは知らないけれど、なにかまずかったら心苦しいので和歌詠んじゃいます。本心はそこはかとなく感じてください、そんじゃまた」というシステムをとってきました。
―― しかしそのシステムには限界があった。
そうです。たとえば幕末ですね。アメリカ海軍のペリーが大統領の親書を持って日本に来たりする。「鎖国しているから帰ってくれ」といっても何度も来て「責任ある人と交渉したい」という。となると外交を行わないわけにはいかない。その際にこのシステムがはらんでいる問題が露呈しますね。
ペリーとかは、江戸幕府がすなわち日本の国家権力と考えた。だから浦賀とか江戸の方に来る。ところが江戸幕府がいちいち「京都におうかがいたてる」と言い出す。「なんだ、この国は?」ということになる。権力の所在がはっきりしていないんですよ。いままでの天皇と将軍、朝廷と幕府の両立するシステムは、国内を安定化させるにはよかった。泰平の世がつづいたわけですから。反乱も起きない。易姓革命も倒幕も夢想する人はいたでしょうが、本格的なものはなにもない。せいぜい大塩平八郎の乱くらいなものだ。赤穂浪士の話題で百年単位でもつほど他に話題がないんですから、いい世の中ですよね。将軍も「よきにはからえ」とか言って、さらに誰かに任せてるわけですしね。
ところが外国が出てくると死んでしまうシステムだったんですね。そこで「公武合体論」とか出てきますけど、佐幕も倒幕もとにかく権力の一本化の点では合意するわけでしょう。どうすれば一本化できるかの揉め事の末、明治国家ができた。しかし、じゃあ、その一本化するシステムが大問題だったわけですよね。天皇に責任が集中するように権力を一本化させてしまうと、天皇が政治を失敗したとき、革命が起きて天皇が滅ぼされてしまう。それを避ける伝統は生きる。つまり天皇に権力を集中させながら、天皇に判断させない、責任は集中しないような新たなシステムを考えなくてはいけないわけです。
ではふたたび摂政や関白、征夷大将軍のようなものを天皇の下に置いてみたらどうなるか。権力がそこに集中しすぎて、せっかく武家の世を打倒したのに天皇がまた空虚な存在になって国民に忘れられてしまうのではないか。やはり明治維新は尊皇思想ですから、天皇と将軍はどっちが偉いのかとペリーやハリスに言われるみたいなことがくり返されたら、明治維新をしたかいがない。
―― 天皇が権力の頂点にいながら、自らの責任において権力を運用しない仕組みが必要になってくるわけですね?
それでいて天皇になりかわるようになんでもかんでも代行して偉そうにみえる存在は決して出てこれないような仕組みですね。そこで明治国家は、天皇の下の権力機構をなるべく多元化してタテ割りを強くすることにしました。
たとえば行政をつかさどる組織として内閣と枢密院を設ける。行政だけでも一体でない。枢密院というのは行政部の中にあって内閣を監察する機構ですね。二つは敵味方みたいなもので互いに牽制し合う。さらに言うと内閣総理大臣も閣議のとりまとめ役みたいなもので総理大臣権限というものは弱い。それは省庁のタテ割りを推進しますね。総理大臣が行政の一本化をしにくい程度の弱い権力しかもたないと、各省庁が独自の意見で突き上げたくなるから、だってそう出来る見込みが高いんだから、言いたいことは言うようになるでしょう。多元化促進ですね。
あるいは軍ですね。天皇直属にして行政機構から切り離す。戦争が始まって軍隊が作戦を行っても、勝ったか負けたか総理大臣が知らなくても法的にはおかしくない。「教えろ」とも言えません。タテ割りでセクションが違いますから。そのうえ海軍と陸軍にわかれている。対等ですから、お互いがお互いに教え合う義務はないんですね。凄いタテ割りでしょう?
もうひとつ言うと議会もそうですよ。当時は貴族院と衆議院の二院制でした。お互いの拒否権はいまの日本の二院制よりずっと強いんですよ。だから議会でものごとを決めるのは大変だったんですね。片方で通っても片方で通らないからなんでもすぐに廃案になってしまう。それに衆議院は政党に所属する議員が選挙で決まってくるけれど、貴族院は華族や高額納税者で政党と関係ない人たちです。いまだと衆議院と参議院の両方に自民党や民主党や公明党や共産党の議員がいて、政党で二院がつながるけれども、そうなっていない。ここまでやると陸軍や海軍や内閣や議会で力をもったからといって、大したことないんですね。そんなに力はないんですよ。
「護憲思想栄えて国滅びる」
―― このタテ割りの仕組みにもやはり問題があったわけですよね?
その通りです。この仕組みは、いざというときにヨコの繋がりが作りにくいんですね。ヨコがつるまないようにわざとそうしてデザインしているのだから当然ですけれども。
産業革命後の世界では、日本は、アメリカやらイギリスやらロシアやらと比べて鉄や石油、といった資源が豊富でない「持たざる国」でした。産業革命前の、農業や漁業や家内制手工業の時代だったら日本も豊かだったのですけれども、鉄の時代、石炭と石油の時代になりますと、日本は厳しい。ところがそれなりに頑張って日露戦争もやって、大正以後には、ついにアメリカのような「持てる国」の代表と張り合って、戦争さえ想定するようになった。持ち物が少ない国が持ち物の多い国と対等に張り合おうとするのだから、無駄を少なくして、少ない持ち物を最大効率で使って、帳尻を合わせようとする。
極端な例で言えば、ソ連のように中央ですべてを決めて国民はそれに従うような、少ない国力を最大限活かせる大胆な政策を行わなくては太刀打ちできるはずもありません。明治憲法を作って半世紀も経たずに、そういう段階に立ち至るわけです。タテ割りでは困るんですね。総動員社会を作れませんから。明治憲法の策定者たちは、そこまでは思い至らなかったのでしょう。具体的かつ効率的なひとつのデザインのうえで国民総動員を可能とする国家社会は一元的な社会であり、権力が多元化していては不可能です。総理大臣や他の誰かが権力を集中して運用できないといけない。でもそうするとたとえば総理大臣が天皇になりかわるくらい強くなって尊皇家には好ましくない。かくして明治憲法体制はタテ割り打破を拒むのですね。
―― 当時は軍部が大きな権力を持っていたと聞きます。軍部が権力を一元化する可能性はなかったのでしょうか?
たしかに戦後の歴史観では、戦争の時代には軍部が権力を獲得していったことになっていますが、軍部はクーデターをやって軍部独裁にして明治憲法体制を改変したわけではないんです。二・二六事件は、クーデターだけれど未遂です。失敗なんです。軍人が総理大臣になっても、制度的限界に直面して大権というほどのものは発揮できない。たとえば東条英機は陸軍の現職の軍人のまま総理大臣になったわけだけれども、陸軍の軍人だから陸軍のことがみんなわかるということはないわけですよ。
いまだって会社や役所に勤めていても自分のセクションのことだって全部知らないし、知ろうとしても限界があるのが普通でしょう。東条首相も陸軍軍人として内閣のトップになって軍の意向を行政に反映させやすくはなるわけだけれども、あくまで内閣総理大臣だから、軍の作戦や日々の戦闘の結果については知る権利を有さない。軍の組織と内閣の組織はタテ割りで、関係ありませんから。
陸軍省とか海軍省は行政部に入っているけれども、実際に戦争をするのは陸軍参謀本部と海軍軍令部で、参謀本部には参謀総長が、軍令部には軍令部の総長がいる。これが実戦のトップで、その上に居る人はもう現人神の天皇だけですよ。総理大臣や陸軍大臣や海軍大臣は横並びの存在で、参謀総長や軍令部総長は総理大臣や陸軍大臣や海軍大臣に報告義務はないんですよ。都合の悪いことは黙っていても、怒れるのは天皇なんです。
それで東条英機は困ってしまって、ついに総理大臣と陸軍大臣と陸軍参謀総長を兼ねることにした。海軍大臣の嶋田繁太郎にも軍令部総長を兼ねさせた。兼職は想定外で、禁止する法律はなかった。東条は改憲せずに、日本がもつタテ割りの仕組みの突破口を見つけたわけです。タテ割りの組織はそのままでもトップは同じ人だから、見えないところが見える。そうでないとまともに戦争ができませんから、ある意味当然ですよね。
ところが東条と嶋田は総スカンを食った。ファッショだと言われた。「東条は天皇大権を干犯して独裁者になろうとしている」と。東条内閣に対する倒閣運動が本格化し、暗殺計画だって考えられたわけですね。
こういうのは軍部独裁なんですかね? タテ割りを守り職域からはみでないのが日本の臣民の奉公の道であると言われ、リーダーがタテ割りを超えてリーダーシップを発揮しようとすると、それだけで「出過ぎた奴だ」「天皇に失礼である」と排斥される。極端に言うと「負けてもいいから成り行きに任せて余計なことをするな」と言っているわけですよね。これが日本なんですよ。
こういう具合で、国難を前にしても国としてまとまることは最後までなかったわけですね。第二次世界大戦末期には、誰も国家の現状、大戦争の現況が把握できていない。しまいには原子爆弾が落とされてソ連が攻めてきたにもかかわらず、内閣にも軍にも議会にも、戦争をやめることすらできなかった。結局、天皇の、表だって使いたくない大権が発動され、聖断によってようやく終わる。「聖断で決めないにこしたことはない」という明治憲法の根本精神がここで終わったと。そうも言えると思うんですね。
―― 東条英機以外に、日本のタテ割りの仕組みを突破しようとした人物はいたのでしょうか?
東条英機の前に、近衛文麿という総理大臣がおりました。彼も非常時の日本ではタテ割りを超えた「決められる政治」が必要だと考えました。
強いリーダーシップをもった政治主体をつくらなければならない。貴族院と衆議院を抑えて議会で圧倒的な勢力を持つ巨大政党を生み出し、原敬内閣から犬養毅内閣までの習慣に戻して、実質的な議院内閣制にする。議会を支配して法律を決められる政党が内閣もつくる。さらに軍の協力もとりつけると、大日本帝国でも「決められる政治」が可能になる。当時の言葉では「決められる政治」は「強力政治」と言っていたわけですけれど、これが大政翼賛会の構想です。
でも護憲主義者が「明治憲法の精神に反している」と反対した。「近衛は日本のスターリンやヒトラーになりたいのか」と。大政翼賛会の総裁が総理大臣を兼ねるというのが大政翼賛会思想の根本ですが、それは果たされなかった。しようもないですねえ。日本では、非常時に即応した体制をつくるよりも護憲思想を守ることが優先されたということでしょう。本書にも書いたように「護憲思想栄えて国滅ぶ」という話です。
権力の集中を防ぐことで一般民衆の権利を守ろうとする三権分立や立憲君主制といった西洋近代のシステムと、権力を集中させないことで天皇を守る日本的なシステムが見事に噛み合っていた。それが明治憲法体制の近代性と前近代性の同衾ということでしょう。ただ大戦争や大災害といった緊急時には、非常に弱いんですよ。
権力を集中させることへの嫌悪感
―― いままでお話くださった明治憲法体制と現代日本はどのように繋がるのでしょうか?
明治憲法と戦後の民主主義憲法は内容にかなり違いはあるものの、日本の伝統的なタテ割りと天皇の役割は強く残っているので、明治国家と同じ問題をいまでも抱えている面がありますね。
戦後初期には早くも吉田茂内閣が官邸主導論を唱えて試行錯誤を重ねましたし、近年であれば小泉純一郎政権の官邸主導、そして民主党の政治主導など、日本政治の多元性に対する批判はくりかえされています。
先日、ロシアに隕石が落ちたとき、ロシアでは国家緊急事態省が指揮をとって災害対処にあたっていましたね。しかし日本では、そのような対処はとられません。東日本大震災の対応のために設立された復興庁は、いまだに伝家の宝刀と呼ばれる他省庁への勧告権を行使していない。日本では、大戦争や大災害といった国家非常事態においても権力を集中することに嫌悪感がまさってしまう。
権力を集中させようとすると「戦争を想定しているんだ!」と社会党や共産党から強い反発があがります。別にファシズム体制を作らなくたって、原発事故のような国家緊急事態に対応するために、自衛隊と内閣と議会の連絡をよくしようとか、誰かが命令できるようにしましょうとか、限定的な仕掛けにすればいいのに、なぜか顔色を変えて「平和国家として許せない!」となってしまう。
安倍内閣になってから改憲が話題になっていますが、タカ派の総理がやらなくても、「東日本大震災の現実をみたからこそ、緊急事態に対応できるよう改憲しよう」というロジックでいいはずなんですよ。でも自民党はやっぱり原発の話をしたがらないんですよね。自分たちが戦後に行ってきた政治を否定することになるので。
東日本大震災の経験はなんだったのか。思考停止があるような気がしてなりません。戦前に権力を集中させることを拒んでいたのは右翼で、戦後は左翼が拒んでいる点は興味深いですよね、同じことをやっている。これが日本の精神なんですね。東日本大震災や原発事故のような大災害が起きても、いまだ伝統的な日本のタテ割りで、お互いが干渉しあわずに空気を読みながら誰も偉ぶらずにやっている。チェルノブイリ事故からソ連崩壊までおよそ5年。大政翼賛会結成から大日本帝国滅亡までも5年。ことが起きても、すぐに最終結果はでません。
いまの日本の場合は、5年よりもう少し長いかもしれませんが、次の衆議院議員選挙まであと4年。それまでに次の地震が起きてしまうかもしれませんし、最近では箱根が噴火しそうだという報道もありました。隕石だって落ちてきたわけで、なにがあるかわからない。わたくしが若いころに読んでいたSF小説みたいな世界に突然なってしまってびっくりしています。まるで小松左京みたいなんですよね。こういうときにいまみたいな調子でいいのか。歴史の轍を踏まないということをもう少し真剣に考えないとよろしくないのではないか。
―― 5年後の日本がどうなっているのか恐ろしくなってきました……。最後に、読者に向けてメッセージをお願いします。
本書は歴史的な材料を並べて、あとは読者の想像力に任せるかたちで書いたつもりです。
今日お話した内容だけでなく、本書には、第一次産業から第二次産業に労働者を移転するために、民政党が東北を中心とする第一次産業従事者を犠牲にしたという話、関東大震災で受けた被害を保障するために火災保険や地震保険、生命保険がどのように扱われていたのかといった話にも比重をかけています。まさにいまの問題であるTPPや東日本大震災と原発事故の補償・賠償の問題を考える材料になればというつもりで、本人としては書いていたんですけれども。
大和時代から現代の日本まで誤魔化し誤魔化しやってきたことが、いま改めて問われています。政治家も学者も、処方箋を出せずに困っている。そういうときは歴史を振り返って温故知新で考えようじゃないか。まわりくどいし、即効性もない話かもしれず、恐縮なんだけれども、そんなつもりでございます。
(2013年2月18日 渋谷にて)
プロフィール
片山杜秀
1963(昭和38)年生まれ。思想史研究者、音楽評論家。慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。慶應義塾大学法学部准教授。著書に『音盤考現学』『音盤博物誌』(吉田秀和賞、サントリー学芸賞)。