2014.06.18

「尊厳死法案」をめぐる議論の論点整理――「国民的議論」活性化の一助として

児玉聡 倫理学

社会 #尊厳死#安楽死

現在、超党派の国会議員連盟による「尊厳死法案」が問題になっている[*1]。法案の現時点での名称は「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案」(以下、本法案と呼ぶ)であり、ウェブ検索すると本法案を見ることができる[*2]。その概要は、終末期と判断された患者について、医師が患者の意思に基づいて延命措置を差し控えるか中止した場合に、民事、刑事、行政上の責任を問われることはない、というものだ[*3]。

この法案については、Synodos誌上でもすでに先行する議論があるほか、各所で議論になっているものの、十分に論点が整理されているとは言えず、また筆者の考えでは誤解と思われる発言も散見される。そこで本稿では、筆者の目に付いた最近の諸論文を素材にして論点の整理を行うと同時に、筆者の現在の考えを述べる。筆者は、治療の中止と差し控えは主に患者の自己決定の観点から支持されると考えており、大枠で本法案に賛成である。

終末期の定義に関して

最初に、終末期の定義に関する議論を検討する。本法案では、終末期は以下のように定義されている。

「第五条 この法律において「終末期」とは、患者が、傷病について行い得る全ての適切な医療上の措置(栄養補給の処置その他の生命を維持するための措置を含む。以下同じ。)を受けた場合であっても、回復の可能性がなく、かつ、死期が間近であると判定された状態にある期間をいう」

この終末期の定義について、二つの批判を検討する。まず、立岩真也氏は以上の終末期の定義に対して、次のように疑問を呈している[*4]。

仮に「死期が間近である」というのが「あと何時間」というレベルであるならば、あえて生命維持治療を差し控えたり中止したりする必要はなく、「できるだけその人が楽であることに気を使いながら、維持し、見守ればよい」のではないか。つまり、この終末期の定義に従うなら、患者はまもなく死ぬのであるから、治療の差し控えや中止を論じる必要はなく、わざわざ法律を作るまでもない、と。

この点に関する筆者の見解はこうである。たしかに終末期の定義は困難であるが、筆者の理解では、必ずしも「死期が間近である」というのは立岩氏が言うような死期があと何時間後に迫っているという場合だけには限られないため、法律が不要ということにはならない。この点は、日本学術会議の臨床医学委員会終末期医療分科会が2008年2月14日に出した報告書「終末期医療のあり方について–亜急性型の終末期について–」でも指摘がなされている[*5]。

この報告書では、終末期は「疾病や患者の状態によって、三つのタイプに大別することが可能である」とし、1)救急医療等における急性型終末期、2)がん等の亜急性型終末期、3)高齢者等の慢性型終末期の三つを挙げている。

1)については2007年の日本救急医学会のガイドラインが参照されており、詳しくは述べないが、脳死と診断された場合や、現在の治療を続けても「数日以内に死亡することが予測される場合」などが挙げられている[*6]。立岩氏が考えている終末期はこれが最も近いだろう。また、法案の現在の文言は、立岩氏の解釈を支持するようにも思われる。法案が急性期以外の終末期も念頭に置いているならば、文言を修正するか、または本法律の成立後に省令や施行規則等においてより詳しい規定を置くことが必要だと思われる。

2)のがん等の亜急性型終末期については、上記報告書では次のように述べられている。「「がんを治すことを放棄した時点から、死亡するまでの期間」とか、「病状が進行して、生命予後が半年あるいは半年以内と考えられる時期」など、各種の定義がある。共通するのは、判断の基準に「生命予後」を必ず取り入れている点で、半年あるいは半年以内は概ね一致する予後判断といえる。」」(5頁)。このような予後判断がどの程度正確にできるかはさらなる検討が必要であろうが、いずれにせよ、このような場合に患者が治療の差し控えや中止を選択できることは意味のあることであり、したがって法律が不要であるとは言えないだろう。

3)の高齢者等の慢性型終末期については、上記報告書は日本老年医学会の「病状が不可逆的かつ進行性で、その時代に可能な最善の治療により病状の好転や進行の阻止が期待できなくなり、近い将来の死が不可避となった状態」という定義を紹介している(報告書5頁)[*7]。しかし、高齢者を中心とした脳卒中、認知症、呼吸不全などの慢性疾患は余命の予測が困難であるため、上記報告書では「今後のわが国の医療上、社会システム上の重大問題となることは必至である」としながらも、事の重大さと複雑さのゆえに検討の対象からは外されている(同11頁)。本法案がこのタイプの終末期も射程に入れているとすれば、関連学会等とも協力して、どのように終末期を定義すべきかについて慎重に議論を進めるべきであろう。

次に、青木志帆氏は、「現在の法案が用意した要件だけで「終末期」を定義すると、呼吸器や胃ろうを利用しながら生きている重度身体障害者(代表的な例がALSの患者さんです。中略)が含まれます」という解釈を提示している。その理由として、青木氏は、「彼らは呼吸器や胃ろうなどの設備がなければ、現在のところ確実に死に至りますという意味で、「死期が間近である」と言えます」と述べている[*8]。この解釈に従えば、こうした医療機器を利用している重度身体障害者はすべて「終末期」であるということになる。これは立岩氏の解釈と正反対の、非常に広い終末期の理解である。

だが、本法案の終末期の定義では「行いうるすべての適切な医療上の措置を受けた場合であっても、回復の可能性がなく、かつ、死期が間近である(以下略)」とあり、適切な医療上の措置として「栄養補給の処置その他の生命を維持するための措置を含む」とあるため、このような事例–すなわち適切な医療上の措置を受けていない場合–が想定されているとは思えない。そもそも、ある種の医療設備がなければ「現在のところ確実に死に至ります」というのは、透析や移植を必要とするような慢性腎不全など他の多くの疾患にも当てはまるため、このような理解が適当であるようには思えないが、いずれにせよこのような解釈の余地を残さないよう、終末期の定義の文言を改善することが望まれる。

[*1] たとえば以下を参照。「尊厳死:自民PT案「患者の意思表示で医師責任問わない」」毎日新聞2014年3月20日 http://mainichi.jp/select/news/20140321k0000m040054000c.html; 「「尊厳死法案」提出へ…生命倫理議論 参院主導で」読売新聞2014年2月6日 http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=91991&cx_text=10&from=yoltop

[*2] 本論では以下のサイトを参照した。「尊厳死の法制化を認めない市民の会」http://mitomenai.org/bill

[*3] なお、第一案では延命措置の差し控え(不開始)のみが免責の対象になっており、第二案では中止(不開始を含む)が免責の対象になっているが、本稿では第二案を念頭に論じる。

[*4] 立岩真也「私には「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)」はわからない」Synodos 2012.08.24 https://synodos.jp/society/1265

[*5] 報告書は以下からPDFで入手可能。http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-20-t51-2.pdf

[*6] 「救急医療における終末期医療に関する提言(ガイドライン)」http://www.jaam.jp/html/info/info-20071116.pdf‎

[*7] 日本老年医学会「高齢者の終末期の医療及びケアに関する立場表明」(2001年6月)。なお、同学会は2012年に本立場表明を改訂しているが、終末期の定義については2001年のものを踏襲している。立場表明は以下のURLで見ることができる。http://www.jpn-geriat-soc.or.jp/proposal/tachiba.html

[*8] 青木志帆「尊厳死法案の問題点 ―― 法律家の立場から」Synodos 2012.08.23 https://synodos.jp/society/1477

尊厳死と安楽死の混同

尊厳死と安楽死が混同されて用いられることがある。それが意図的でない場合もあれば、意図的あるいは戦略的にあいまいにされる場合もあるように思われる。筆者の考えでは、両方とも混乱をもたらす点で問題が大きい。

前者の意図的でない場合については、2004年に道立羽幌病院で「脳死」患者の治療中止が行なわれたときに新聞報道等で「安楽死」と報道され、しかも東海大安楽死事件に関して横浜地裁が示したいわゆる積極的安楽死の四要件までもが示された[*9]。同じことが2006年に問題となった富山県射水市民病院「安楽死」事件でも繰り返されたため、治療の差し控えや中止に関して、現在に至る混乱が医療現場にもたらされた[*10][*11]。つまり、終末期が近い患者にいったん人工呼吸器を付けるなどの積極的治療を開始すると、仮に治療が医学的に見て無益であり、また患者や家族が中止を求めたとしても、医師は法的責任を問われる懸念から、患者の最期が来るまで積極的治療を続けざるをえなくなるという事態が生じたのだ[*12]。

後者の意図的あるいは戦略的に安楽死と尊厳死をあいまいに論じる例はあえて挙げないが、尊厳死法案を批判するために、オランダやベルギーなどの安楽死が認められている国で起きている問題事例を解説するといったものが考えられる[*13]。

そもそも尊厳死概念があいまいだという議論は以前からある[*14]。しかし、大方の共通理解としては、安楽死と尊厳死は、先の学術会議の報告書にある以下の理解でよいと考える。

「安楽死の定義も多様であるが、現在主に問題とされている安楽死は、耐え難い苦痛に襲われている死期の迫った人に致死的な薬剤を投与して死なせるものである。これに対し、尊厳死は、過剰な医療を避け尊厳を持って自然な死を迎えさせることを出発点として論じられている概念である。」(報告書3頁)。

簡単に言えば、安楽死(積極的安楽死)は、致死薬投与によって患者を死なせることであり、尊厳死は治療を差し控えるか中止して患者に死をもたらすことである[*15]。現在の日本では、よかれあしかれ、安楽死はほとんど議論の対象外となっており、尊厳死法案も後者の尊厳死すなわち治療の差し控えまたは中止を問題にしている。重要な点なので繰り返しておくが、現在の法案では安楽死は問題にされていない点に注意すべきである。

治療を拒否する権利と死ぬ権利の混同

今回の尊厳死法案は、患者に「死ぬ権利」を認めるものだという主張が見られる。たとえば川口有美子氏は「尊厳死議連は『死ぬ権利』を法制化しようとしているのです」と述べ、松田純氏も尊厳死法案に対する日弁連会長声明を引用しつつ、「患者の『生きる権利』が保障されていない現状のなかで、なぜ『死ぬ権利を保障する法律』の制定を急ぐのか」と記している[*16]。

しかし、筆者の考えでは、患者の意思に基づく治療の差し控えや中止を認めることは、「死ぬ権利」を認めることではなく、「同意のない医療行為は暴行である」というインフォームド・コンセントの原則の一部である。「死ぬ権利」は英国の運動ニューロン疾患の患者が欧州人権裁判所まで争ったときにも焦点になったが、そこで争われていたのは致死薬投与による安楽死をした場合であり、治療拒否権ではない[*17]。ここにも2.で述べた尊厳死と安楽死の意図的・非意図的な混同があるように思われる。もちろん「死ぬ権利」をどのような意味で用いるかはそれぞれの論者の自由であるが、その場合には混乱が起きないように定義をして用いるべきである。

一方、「説明と同意」と訳されることもあるインフォームド・コンセントは、患者に対する適切な説明と同意がなければ、その身体に侵襲的行為をなすことは許されないという原則である[*18]。この考え方は、患者が望まない治療を拒否する権利を含むものである。本人の同意がなければ治療行為ができないのだとしたら、本人の同意がなければ治療行為の継続もできないはずだからだ。

「いいかげん死にたいと思っても『生きられますから』と生かされたらかなわない」という麻生太郎氏の発言がある[*19]。これはかなり問題視されたが、できるだけ好意的に解釈するなら、自分の身体に関しては、自分に決める権利があり、医療従事者には本人の同意なく治療の継続・中止を決める権利はない、という主張だと理解することができる。このような主張だとすれば、この部分に関しては筆者も基本的に同意する。

繰り返しになるが、今回の尊厳死法案で問題になっているのは、治療拒否権であり、「死ぬ権利」ではない。筆者はインフォームド・コンセントの原則の見地から、個人にはこのような治療拒否権も認められるべきだと考える。

[*9] 積極的安楽死とは、致死薬を投与するなどによって、患者の生命を断つことである。羽幌病院の事件については、以下を参照せよ。前田正一・児玉聡「院内に倫理的助言者を」読売新聞(北海道版)、2004年5月20日http://cbel.jp/modules/pico/200405.html

[*10] 射水市民病院の事件については、詳しくは以下を見よ。児玉聡、前田正一、赤林朗「富山県射水市民病院事件について–日本の延命治療の中止のあり方に関する一提案」(PDF)、『日本医事新報』、4281:79-83 (2006年5月13日)。http://cbel.jp/images/topics/topic200606.pdf

[*11] 現在でも、ベルギーにおける安楽死の議論を、日本の尊厳死の議論と一緒くたにして論じる報道記事が見られる。下記は、朝日新聞の記事(「安楽死、18歳未満も ベルギー合法化へ、7割賛成」2014/02/12)について、日本尊厳死協会がそのウェブサイトのコラムで苦情を述べているものである。「【ひとりごと】-困ります。尊厳死も、安楽死もごっちゃでは」日本尊厳死協会、2014.02.14 http://www.songenshi-kyokai.com/messages/column/101.html

[*12] この点については本論の「あえて立法化する必要はないか?」も参照せよ。また逆に、いったん呼吸器を付けるなどの積極的治療を始めると止められなくなるため、たとえ回復の可能性がいくらかある場合でも、積極的治療を差し控えるという事態も生じたと考えられる。

[*13] ベネルクス3国の安楽死法などの優れたサーベイとして、以下の特集を参照せよ。「特集:終末期の意思決定-死の質の良さを求めて」『理想』692号(理想社、2014年3月5日)

[*14] 最近の論文としては、以下を参照。品川哲彦「尊厳死という概念のあいまいさ」『理想』692号(理想社、2014年3月5日、111-122頁)。海外では尊厳死は「自発的な積極的安楽死」という意味で用いられることが多いので、注意が必要である。たとえば米国のオレゴン州やワシントン州のいわゆる尊厳死法(Death with Dignity Act)は、医師が致死薬を処方して患者が自ら服薬する「医師幇助自殺」について規定した法律であり、現在日本で問題になっている延命治療の不開始と中止に関する法案とはまったく性格を異にするものである。

[*15] さらに詳しくは、以下を参照。赤林朗編『入門・医療倫理I』(勁草書房、2005年)。

[*16] 川口有美子「いま、わたしたちに「死ぬ権利」は必要なのか?」Synodos 2012.08.09 https://synodos.jp/society/1481; 松田純「事前医療指示の法制化は患者の自律に役立つか--ドイツや各国の経験から」『理想』692号(理想社、2014年3月5日、78-96頁)、93頁。なお、日弁連の会長声明自体には「死ぬ権利」という言葉は出てこない。下記を参照。「「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)」に対する会長声明」http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/2012/120404_3.html

[*17] この事件については、詳しくは以下を参照。児玉聡・田中美穂、「英国における終末期医療の議論と課題」、『理想』692号(理想社、2014年3月5日、52-65頁)。

[*18] インフォームド・コンセントの原則(法理)については、たとえば以下を参照せよ。前田正一「インフォームド・コンセント」(赤林朗編『入門・医療倫理I』勁草書房、2005年、第8章)。

[*19] 松田純、上掲、93頁に引用。

このような法律は時期尚早か?

前出の日弁連の会長声明では、現在の法案の前身である「臨死状態における延命措置の中止等に関する法律案要綱(案)」が2007年に出されたときに出した意見書を引いて次のように述べられている。

「「尊厳死」の法制化を検討する前に、(1)適切な医療を受ける権利やインフォームド・コンセント原則などの患者の権利を保障する法律を制定し、現在の医療・福祉・介護の諸制度の不備や問題点を改善して、真に患者のための医療が実現されるよう制度と環境が確保されること、(2)緩和医療、在宅医療・介護、救急医療等が充実されることが必要であるとしたところであるが、現在もなお、(1)、(2)、のいずれについても全く改善されていない。」[*20]

それゆえ「「尊厳死」の法制化の制度設計に先立って実施されるべき制度整備が全くなされていない現状において提案されたものであり、いまだ法制化を検討する基盤がないというべきである。」[*21]と結論されている。

これについて、筆者は次のように考える。上記3.でも述べたように、本法案で実質的に保障されるのは、終末期に関わる患者の治療拒否権である。これは、上記(1)に述べられているインフォームド・コンセントの原則の一部であるため、むしろ日弁連は本法案を積極的に支持すべきように思われる。この点は、会長声明でも次のように認められている。

「そもそも、患者には、十分な情報提供と分かりやすい説明を受け、理解した上で、自由な意思に基づき自己の受ける医療に同意し、選択し、拒否する権利(自己決定権)がある。この権利が保障されるべきは、あらゆる医療の場面であり、もちろん、終末期の医療においても同様である。」[*22]

たしかに、本法案で保障される治療拒否権は、終末期医療の、しかも延命措置の差し控えおよび中止に限定されたものであるが、治療の差し控えと中止について医療現場で混乱が起きている現在においては、この治療拒否権を保障することは患者が適切な医療を受ける上で非常に大切なことであるように思われる。

日弁連は、上記の(1)、(2)が改善されない限りこのような法案を認めないという態度を取るのではなく、本法案の検討を終末期医療の改善の一歩と見なして、患者の権利を保障するよりよい法案となるよう協力していくべきだと思われる。

あえて立法化する必要はないか?

前出の射水市民病院事件によって延命措置の差し控えや中止に関する法的地位が不明確になったことを受け、厚生労働省は2007年に「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」を公表した[*23]。また、各種学会も終末期における治療の差し控えおよび中止のガイドラインを出した[*24]。厚労省のガイドラインや学会ガイドラインは、特定の法的根拠を持たないため、実際に所定の手続に従って治療を差し控えたり中止したりした場合に医師が免責されるかどうかは明らかでないが、一部の論者は、こうした行政あるいは学会のガイドラインがあれば十分であり、あえて立法化するまでもないと主張している。

たとえば前出の青木志帆氏は次のように述べている。

「現在のところ、厚労省ガイドラインが適切に運用されており、またそれによって大きな問題が発生しているように見えません。尊厳死協会の推奨するリビングウィルと、厚労省ガイドラインが推奨する医療者との話し合いに基づけば、今でも十分納得の行く最期をむかえられるはずです。」[*25]

たしかに、このガイドラインが公表されて以降、射水市民病院事件のような目立った事件はほとんど報道されていない。しかし、2012年に行なわれた厚労省の調査では、本ガイドラインを知らない医師が3人に一人に上ることが示されており、必ずしも本ガイドラインが「適切に運用」された結果ではないように思われる[*26]。むしろ、医師が法的責任を問われることを恐れて治療中止を行なわなくなった結果とも考えられる。

たとえば、末期患者における人工呼吸器の中止に関して、救急医対象に会田らが2006年〜2007年に行なったインタビュー調査では、「末期患者における人工呼吸器の中止に関して対象医師が最も懸念していたのは、それを行った場合の刑事訴追の恐れと、それに関連する報道問題であった。」としている[*27]。この調査は厚労省ガイドラインの公表前後に行なわれたものであり、必ずしもガイドライン公表後に医師たちが同じ意見を持っていたか明らかではない。しかし、上記のガイドラインの周知率に関する調査を見るかぎり、ガイドラインの策定で事態が大きく好転したと考えるのも楽観的に過ぎるだろう。質問紙等によるより規模の大きな調査が望まれるところである。

一度法律を作ると変更が難しいとか、医療現場の事情に即した法律を作ることは難しい等の理由で、法制化に反対する主張もある。筆者も、理想的には関係学会や医療機関がガイドラインを作成し医療現場を自律的にコントロールする方が望ましいと考える。しかし、射水市民病院事件以降、延命措置の中止や差し控えが適法なのかどうかがグレーになり、医療従事者が警察の介入や法的責任の追及を恐れて患者の意向を尊重できない現実があるのだとすれば、そのような現状においては、何が適法で何がそうでないかを本法案によって明確にする意義は非常に大きいと筆者は考える。

おわりに

その他にも、まだ論じるべき問題がいくつかあるように思われるが、別の機会に譲りたい。本稿では本法案を大枠で支持する観点から、先行する論文等のいくつかの論点についてやや批判的に見てきたが、少なくとも一点は大いに同意するところがある。それは、本法案に関する「国民的議論」が十分に尽くされていないことだ。

そもそも、法案作成に関してどのような議論が行なわれているのかが不明瞭だ。本法案をウェブで検索するとすぐに気付くことだが、法案全文を記載しているのは本法案に反対するサイトだけであり、そもそも本法案の作成に関わっている国会議員等のサイトが出てこない。まだ国会に提出していないことも関係しているのかもしれないし、法案に関する「公式サイト」を作るのも考えにくいのかしれないが、厚労省や文科省などの省庁が委員会を作って審議する場合と比べ、議員立法の場合はあまりに情報公開が行なわれていない。法案作成に関わる者は、法案に関して国民の議論を喚起するために、十分な情報提供を行なうべきである。

本法案に関わる国会議員はメディアやシンポジウム等で積極的に発言する機会を持つことで、本法案についての適切な理解を国民の間に広げるとともに、広範な議論を通じた法案の改善に努める責任がある。本稿が議論の活性化の一助になれば幸いである[*28]。

(※本稿は、2014年4月23日に脱稿しました)

[*20] 上掲注16参照。また、同様の論点については、上掲の青木志帆氏の論文も参照せよ。

[*21] 同上。

[*22] 同上。

[*23] 以下を参照。http://www.mhlw.go.jp/shingi/2007/05/s0521-11.html

[*24] 上記の日本学術会議の報告書を参照せよ。

[*25] 上記注6参照。

[*26] 「指針「周知不足」 終末期医療、体制整備を 厚労省検討会」産経新聞2014.3.24 http://sankei.jp.msn.com/life/news/140324/bdy14032423080001-n1.htm; なお、この調査結果を受けて、厚労省医政局は2013年7月にガイドラインの周知を求める依頼を各種医療機関に出している。たとえば以下を見よ。http://www.jcma.or.jp/news/association/post_545.html; 厚労省の報告書は以下で見ることができる。「終末期医療に関する意識調査検討会報告書及び人生の最終段階における医療に関する意識調査報告書の公表について」2014.04.02 http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000042776.html

[*27] 会田薫子、甲斐一郎「末期患者における人工呼吸器の中止-救急医に対する質的研究-」『日本救急医学会雑誌』20(1):16-30 (2009)

[*28] 本稿の執筆後に日本医師会第XIII次生命倫理懇談会が「今日の医療をめぐる生命倫理–特に終末期医療と遺伝子診断・治療について–」(平成26年3月)という報告書を公表した。本報告書は終末期における治療の中止に関して医療現場で混乱があることをある程度認めながらも、厚労省や関連学会および医師会のガイドラインの遵守を強調し、法制化には慎重な態度を示している。本報告書は以下から読むことができる。http://dl.med.or.jp/dl-med/teireikaiken/20140402_3.pdf

サムネイル「”11/52″ The puzzle of life」Tim RT

https://flic.kr/p/dWqVJq

プロフィール

児玉聡倫理学

京都大学大学院文学研究科 倫理学専修 准教授。京都大学大学院文学研究科博士課程修了 (博士 (文学))。日本学術振興会特別研究員(PD)を経て、2003年に東京大学大学院医学系研究科の医療倫理学講座助手に着任。2007年、同専任講師。2012年10月より現職。主な著書に『入門・医療倫理I』(共著、勁草書房、2005)、『入門・医療倫理II』(共著、勁草書房、2007)、ジョンセン『臨床倫理学』(共訳、新興医学出版社、2006)、ホープ『一冊でわかる医療倫理』(共訳、岩波書店、2007)、『功利と直観』(勁草書房、2010)、『功利主義入門』(ちくま新書、2012)『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人、2013)など

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