いま、わたしたちに「死ぬ権利」は必要なのか?

2012年7月31日付けの「東京新聞」朝刊 http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2012073102000091.html によると、超党派の国会議員がつくる「尊厳死法制化を考える議員連盟」(以下、議連)が、今国会への法案2案の上程を決めたそうですが、わたしは引きつづきこれらの法案の上程に反対します。

 

これまで、安楽死尊厳死法制化の波は2回(1979年日本安楽死協会「末期医療の特別措置法」草案を正式発表、2005年与党による「尊厳死とホスピスを推進する与党議員懇話会」結成))ありましたが、三度目の上程の噂を聞いたのは昨年の秋ごろでした。これまでわたしは、尊厳死の法制化ではなく、たんに尊厳死の賛否で議論が沸騰し世論が混迷することを恐れて、過去に寄稿したことのない媒体への問題提起は躊躇していました。

しかし、ここにきて議連は法案2つを今国会に上程することを決めたそうなので、国民的議論に発展させる時期が来たとの思いを強く持っています。ここで大事な点は、尊厳死の法制化をどう考えるかという議論が必要なのであって、個人の尊厳死に対する思いを問うのではないということです。

 

議連によると、尊厳死法制化の理由のひとつに、「延命措置が強制されている」との指摘があります。これは医師・患者・家族間のコミュニケーションが不足し、合意が取れないまま、治療の開始や不開始が医師の独断でなされてきたことを述べています。そのような実態はたしかにあり、昨今では認知症高齢者の胃ろう人口の増加が問題になっていますし、02年の川崎協同病院、06年の射水市民病院などでは、医師が独断で患者を死に至らしめて刑事事件に発展しました。

 

終末期のこのような混乱を収めようとして、07年に厚労省は「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」を制定し、家族も含めた関係者の綿密な話し合いを重視するよう、指導しています。

 

わたしは個人的には、このガイドラインをきちんと守ることにより、「治療の不開始」に関しては、患者本人の希望はかなえられると考えていますし、「治療の中止」にしても、学会等によるガイドラインで実施可能か否か、社会保障のあり方に照らしながら、引きつづき丁寧に検討していくべきであると考えています。

 

要は、個々の終末期をひとくくりにせず、関係者が何度でもよく話し合い、家族にも丁寧に対応できるシステムをつくることです。法律で病人を縛ることで、終末期医療への不信は解消できません。しかし、今回上程されようとしている法案2案では、いずれも、たとえ丁寧な話し合いのプロセスを省いたとしても、患者の自己責任(リビングウィルの書面通り)と言うことになります。

 

また、どちらの法案も終末期を定義していますが、そもそも終末期とは法律で一律に定義できるものなのか、議論しなければなりません。

 

この7月に行われた東京弁護士会主催の集会でも、終末期の定義が議論の的になりました。このとき20年間も日常的に人工呼吸器を利用し自宅で生活してきたALS患者(*1)、橋本操さんが登壇しましたが、「彼女は終末期ではない」と、すぐ横から尊厳死協会副理事長の長尾氏は言いました。

 

*1)ALS(筋委縮性側索硬化症)とは、前身の運動神経が徐々に侵される難治性疾患で原因不明。治療薬はいまだ開発されていない。国内におよそ8500名。特定疾患に指定されているため、人工呼吸器をはじめ様々な医療機器に医療保険が適応されている。全身性麻痺のほかに嚥下障害、呼吸筋麻痺を伴うため、これらの症状に対処するために、経管栄養(胃ろう)による栄養摂取や気管切開による長期人工呼吸療法が勧められるが、これらの治療の選択は患者の自己決定とされる。これらの治療を開始すれば10年単位の生存が望めるが、長期入院できる病院はかぎられており、患者の多くも在宅療養を希望する傾向にある。在宅では、365日24時間不断の身体介護が必要になるが、家族に負担をかけないために、これらの治療を望まず、発症から2、3年で、呼吸筋麻痺と同時に亡くなる患者が多い。

 

しかし、実際には多くのALSが呼吸筋麻痺をもって終末期と断定されており、呼吸器をつけずに亡くなる者は発症者全体の85%にものぼります。これは、呼吸器をつけることによる生存の長期化にネガティブな主治医が、患者の自己決定を左右しているケースも多々あり、ALSの患者会では問題になっています。つまり多くの神経内科医が、呼吸筋麻痺を終末期と認識していることを物語っていますが、これに対してほとんどのALS患者に呼吸器を装着している病院もあります。

 

これまで議連は、尊厳死の法制化に反対意見を表明している人や団体(日本医師会、DPI日本会議,日弁連)に対して、形式的なヒアリングを2回実施しましたが、彼らを議論の輪に加えることはせず、日本尊厳死協会の意見ばかりを熱心に聞いてきました(というよりは、日本尊厳死協会が尊厳死議連の結成を働きかけました)。

 

そして、今国会中に法制化しようとする態度を変えていません。これら2案が各党にどのように持ち帰り検討されているのか、その事実も確認できませんが、議連は国会終盤に党議拘束を外し、二者択一で投票に持ち込もうとしています。

 

これは、尊厳死に対して悪いイメージはもたないが、法案の中身についてはほとんど知らされておらず、検討したこともない多くの国会議員に対して、考える猶予を与えず、二者択一形式で「どちらかひとつ」を選択させるやり方になりかねず、公正さも正義も感じられません。

 

各党の厚生労働委員会等の専門機関も通さず、法制化に慎重な法律家や倫理学などの専門家の意見も聞かず、障害当事者の「殺されるかもしれない」という恐怖の声も無視して、多数決による議員立法に持ち込もうとしているのですが、このようなことを民主主義と呼ぶのでしょうか?

 

これまでに行われた障害者団体への形式的なヒアリングは、議連総会の2日前にならなければ、時間も会場も知らせてもらえないような状況でした。外出のたびに福祉車両やヘルパーの手配が必要な重度身体障害者に対する配慮は微塵も感じられず、議論の場を求めてきたわたしたちには、国民の基本的人権を侵す政治が行われているとしか思われないのも当然です。

 

法案の中身については、次回に検討することとしますが、たとえば、この2案のうち、いずれが制定されても、「リビングウィル(治療を断る事前の意思表示)」の作成が、15歳以上に対して一律に、あらゆる場所で、都道府県の啓発事業として、政省令に則って、積極的に行われるようになります。

 

これは、いざというときの治療断念を、15歳以上に前もって文章で宣言させることですから、突発的な事故や急病で脳の低酸素状態がつづき、意思伝達機能が弱まれば、本当に危ういことになります。その場の医師の判断次第では、救命努力も行われなくなりますし、一か八かで治療を行った末、重い障害が残り、患者の思うように治癒できなければ、尊厳死法を無視したとして、医師は訴えられるかもしれません。これでは医師はますます委縮してしまい、治療に対する情熱を放棄してしまうかもしれませんし、重い障害をもった人への偏見はいまより増すようにさえ思われます。

 

この法律は、すべての国民に対して、終末期どころか、重度障害者に「なりそう」なとき(障害者になったとき)や、介護が必要な高齢者になったときの「死ぬ義務」を推進するものになりえます。ですから、尊厳死の法制化が、自分たちの生活にどのような影響を及ぼすのか、提出されようとしている2つの法案をよく読んで検討することが重要なのです。法律を制定するという作業は、日本の未来を決定すると言ってもいい作業です。

 

わたしたちは、尊厳死の法制化で、どのような近未来に臨むことになるのでしょう。病気や高齢や障害等で自分のことが自分でできなくなった人(食べられなくなったり、呼吸ができなくなったりした人)は医師が終末期と判定し、法に則って治療を控えて死なせていくことにより、自立した人だけが、長く生き残れる社会の構築が望まれているのか。それとも、自己主張できない高齢者や、人の介護を必要とする障害のある人でも、必要な治療を保障され、生きられるだけ生きられる社会が望まれているのか。

 

それとも、それらの中道を模索したいと思うのか。とにかく、今回のこのような拙速な法案の上程は、断固として阻止しなければなりません。終末期をめぐる社会のあり方を、自分や家族や友人のこととして想像し、学びあうための時間が必要です。

 

何度も繰り返しますが、わたしたち市民はいま、ほとんど何も知らされないまま、また国会議員の多くも、誰ともこの件についてまともに議論をしたこともないまま、尊厳死議連は「死ぬ権利」を法制化しようとしているのです。

 

 

 

 

1
 
 
シノドス国際社会動向研究所

vol.279 

・川口俊明「全国学力テストの失敗は日本社会の縮図である――専門性軽視が生み出した学力調査の問題点」
・神代健彦「道徳、この教育し難きもの」
・大賀祐樹「懐疑的で楽観的な哲学――プラグマティズム」
・平井和也「世界の知性は新型コロナウイルスをどう見ているのか」
・川名晋史「誰が、なぜ、どこに基地を隠したか」
・石川義正「「空洞」の消滅──現代日本「動物」文学案内(4)」