2010.06.25
「ヒトiPS細胞」臨床研究指針、有益な議論を
現在、再生医療の実現化に向け、さまざまなアプローチによって、基礎研究や臨床研究が行われています。こうした研究では、高分子化合物などの人工材料から、細胞を用いた生体材料まで、多くの研究分野があります。
「ヒト幹細胞を用いる臨床研究に関する指針」見直しへ
そうしたなか、我が国で政策的にもっとも強力に推進されているのが、iPS細胞をはじめとした幹細胞と呼ばれる細胞を用いたもので、たとえば内閣官房知的財産戦略推進事務局が策定する『知的財産推進計画2010』には、7項目からなる「国際標準化特定戦略分野」のひとつに、iPS細胞を中心とする先端医療が明記されています。
我が国では平成18年9月1日に、厚生科学審議会科学技術部会”ヒト幹細胞を用いた臨床研究の在り方に関する専門委員会”によって、「ヒト幹細胞を用いる臨床研究に関する指針」が施行され、安全基準や倫理問題への対応などが定められています。
しかし、指針の施行当時にはiPS細胞は存在していませんでした。そのため、造血幹細胞(血液を作り出す細胞)や神経幹細胞(神経細胞の素となる細胞)など、身体から取り出した組織幹細胞のみを想定しており、現在の状況にはそぐわないものとなってしまいました。
そこで、施行から3年が経過した平成21年5月、厚生科学審議会科学技術部会”ヒト幹細胞を用いる臨床研究に関する指針の見直しに関する専門委員会”が招集され、加速する再生医療研究の現状に応じたかたちでの見直しが開始されています。
再生医療は自家移植に限定してはならない
しかし、この委員会で検討されている見直し案には、『当面は、ヒトiPS細胞を用いる臨床研究は、提供者に移植又は投与を行う場合に限り実施されるものとする。』という項目が存在します。
これまでの再生医療に関する議論では、細胞の提供者本人への移植(自家移植)は、規制を緩和すべきだとされてきました。他人からの移植とは異なって、免疫抑制剤なしで実施できるからです。しかし、修正案で、自家移植のみ臨床研究を容認しているのは、iPS細胞の特性をないがしろにする、無意味な条項であるといわざるを得ないのです。
iPS細胞が短時間で培養できるものであればよいのですが、iPS細胞の樹立、そして特定の細胞への分化誘導には、数カ月の時間を要することが知られており、この期間を大幅に短縮することはほぼ不可能です。
たとえば、脊髄損傷に対する細胞移植療法の場合、受傷後10日目前後に移植することが必要とされています。となると、あらかじめ健常人からiPS細胞の樹立と分化誘導を行っておかなくてはなりません。仮に自家移植に限定される場合、患者に著しい不利益を与えるものとなってしまうことは目にみえています。
iPS細胞バンクを設立せよ
京都大学・中畑龍俊教授らの研究によれば、日本人に多い免疫型の上位50パターンからiPS細胞を樹立、バンキングを行えば、我が国の90%以上の人口をカバーできるとされています。
また、京都大学・山中教授、慶應義塾大学・岡野栄之教授らの研究では、iPS細胞は細胞株ごとに、そのがん化能が著しく異なることが示されています。つまり、樹立された複数のiPS細胞株のうちから、安全性の確認されたものを選抜しなければならず、当然そのための時間も必要になります。
こうした理由から、幅広い臨床応用のためには、他人からの移植を前提とするiPS細胞バンクが不可欠です。ところが、改正案にあるように自家移植のみに限定する場合、iPS細胞バンクは成立できません。
移植医療はカニバリズムか?
また、移植医療について、ジャック・アタリや鷲田小彌太らはカニバリズムであるとし、批判しています。他者の命そのもの、あるいは他者の身体を動員することで、患者に救命の道が開かれるからだ、というのがその理由です。
しかし、iPS細胞の樹立過程を検討しても、他者の生存への侵犯や臓器の動員を強制する「生命の簒奪」は成立しておらず、iPS細胞を用いた研究では、アタリらが主張するような倫理的な背景は適用できません。
もちろん臨床研究の倫理として、プライバシーの保護など、詰めていかなければなければならない点はあります。しかし、俯瞰的にみて、生命倫理上の疑義によって他家移植を禁じなければならないかは、疑わしいといえます。
生命科学や医療の発展に向けて本質的な議論を
科学的及び倫理的というふたつの視点から検討を行っても、自家移植が他家移植に先んじる合理的な理由があるとは考えにくい。今回提示された修正案は、社会的な影響や嫌悪感の緩和を狙った安全策と考えることができます。
しかし、幹細胞研究を促進し、生命科学や医療の発展に資することを考えれば、自家移植限定の明記は思考停止へとつながりかねない。他家移植への道を確保するために、いまこそ本質的な議論を行う必要があります。
他国の先行が喧伝されるiPS細胞研究ではありますが、それでも最初にその萌芽を見出した国として、法制度などの制定については依然、他国から注視されていることを、忘れてはならないのです。
推薦図書
初手から拙著の、しかも2年前の著作の宣伝で恐縮ですが、発生学の歴史からiPS細胞に至る技術の流れを追うことがメインですから、基本的な技術背景や思想的なものの基盤は現在でも同じです。人々が持つ生命観は様々で、一つに収束することが幸せということは有り得ません。しかし、新しい技術が出現した今、ヒトはどこまでテクノロジーを取り込むことを受容出来るのか。現在の、そして今後現れる新しい生命科学のテクノロジーを考えるスタートラインになれば幸いです。
プロフィール
八代嘉美
1976 年生まれ。京都大学iPS細胞研究所上廣倫理研究部門特定准教授。東京女子医科大学医科学研究所、慶應義塾大学医学部を経て現職。東京大学大学院医学系研究科博士課程修了、博士(医学)。専門は幹細胞生物学、科学技術社会論。再生医療研究の経験とSFなどの文学研究を題材に、「文化としての生命科学」の確立をを試みている。著書に『iPS細胞 世紀の技術が医療を変える』、『再生医療のしくみ』(共著)等。