2014.07.04
カリフ制樹立を宣言した「イラクとシャームのイスラーム国」の過去・現在・将来
2014年6月、「イラクとシャームのイスラーム国」[*1]の攻勢を前にイラク軍が脆くも敗走、イラク中部の諸都市や、西部のシリアやヨルダンとの国境通過地点が「イスラーム国」などの武装勢力の手に落ちた。
これを受け、「イスラーム国」やイラクの政情がにわかに注目を集めた。しかし、このようなできごとは、「イスラーム国」が突如イラクに現れたことや、イラクの政界で突如「宗派対立」が嵩じたことを意味しない。「イスラーム国」は少なくとも10年前にはイラクで活動していたし、イラクの政界も諸政治勢力の個利個略に基づく政争に明け暮れるようになってから久しかった。
むしろ、「イスラーム国」による攻勢が「大戦果」を収めたのは、イラクの政治過程の破綻と9.11以来の「テロとの戦い」の破綻の帰結であり、同派の主な活動地域であるイラクやシリアでその思想や実践が住民の支持を得ているわけでも、「スンナ派」という宗派共同体を代表してイラクやシリアの社会のその他の構成要素と権益を争っているわけでもない。以下では、「イスラーム国」がどのような経緯を経て現在のような状況に至ったかを明らかにした上で、同派や地域の情勢について展望する。(本稿は7月2日に脱稿しました)
[*1] الدولة الاسلامية في العراق و الشام 英語略称はISIS、またはISIL。「イスラーム国」やその前身となった組織が名称で使用した地名には、イスラーム世界や彼ら自身の活動地についての組織の思想が色濃く反映されているため、複数の組織名のうち注意を要するものは原語(=アラビア語)標記を併記した。なお、この団体は6月29日に発表した報道官の演説でカリフ国の樹立を宣言し、名称から「イラクとシャームの」を取り去って「イスラーム国」に改称した。本稿ではこの団体を以下「イスラーム国」と記す。
「イスラーム国」の“発展”
この団体の起源は、1980年代にアフガニスタンでソ連軍と戦おうとしたアラブ人義勇兵達(=ムジャーヒディーン)にある。このようなアラブ人のうち、その後、「イラクとシャームのイスラーム国」の前身となる組織を立ち上げたヨルダンのザルカー出身のアブー・ムスアブ・ザルカーウィー(本名:アフマド・ハラーイラ)が、1990年代にアフガニスタン領内に拠点を設置した。
このころ、既にムジャーヒディーンの間で指導者として名声を得ていたウサーマ・ビン・ラーディンの下、後にアル=カーイダと呼ばれる団体がアフガンに留まらず世界各地で活動していたが、ザルカーウィーのグループはビン・ラーディンに従う下位集団というわけではなく、半ば独立し、人材や資金などの資源の獲得を巡りアル=カーイダと競合・緊張関係にあった。
2001年のアメリカによるアフガン侵攻・占領はアフガンを拠点としてきたイスラーム過激派活動家にとって重大な転機となった。ザルカーウィーのグループは、「アメリカの次の標的」ともくされるイラクへ移動し、実際に、2003年にアメリカ軍がイラクを占領すると、アメリカ軍やその他の諸国・国際機関などへの攻撃を実行するようになった。ザルカーウィーのグループは、2004年春に「タウヒードとジハード団」を名乗りインターネット上で戦果や声明を発表するようになった。同派は、バグダードの国連事務所爆破事件、ナジャフのアリー廟爆破事件など、2003年に発生した重大な爆破事件にも関与していたと考えられている。
同派の活動は、極端なシーア派敵視、外国人の誘拐・斬首をはじめとする過激な闘争、インターネットを通じた動画発表のような積極的な広報を特徴とした。彼らに誘拐された外国人は、9割以上が交渉の余地がほとんどないまま短期間のうちに殺害された。日本も彼らの活動とは縁が深く、2004年10月には、同派によって日本人旅行者が誘拐、殺害され、被害者が斬首される模様の動画が発表されている。
同じく2004年10月に、「タウヒードとジハード団」はさらなる転機を迎える。ザルカーウィーが、ビン・ラーディンに忠誠を表明し、それが受け入れられたことを受けて組織名を「二大河の国のアル=カーイダ」(تنظيم القاعدة في بلاد الرافدين)に変更したのである。すなわち、ザルカーウィーと彼の率いる団体は、ここで初めて「アル=カーイダになった」のである。「二大河の国のアル=カーイダ」の誕生は、イラクでの反米武装闘争の激化を象徴するとともに、世界各地のイスラーム過激派武装勢力がアル=カーイダに忠誠を表明し、アル=カーイダの名義や威光を借りて活動を強化するというモデルの先駆けとなった。
「イスラーム国」の“衰退”
ザルカーウィー自身は2006年6月にアメリカ軍によって殺害されたが、その後も組織は活動を続けた。彼らは自派を中核として、地元の武装勢力や部族との連合を形成することを通じた拡大路線を取り、2006年1月に「イラクのムジャーヒドゥーンのシューラー評議会」(مجاس شورى المجاهدين في العراق)、次いで2006年10月に「イラク・イスラーム国」(دولة العراق الاسلامية)を結成した。
しかし、彼らが進めた拡大路線は、同時期イラクで活動していた様々な思想潮流に属する多様な武装勢力諸派にとっては、単なる他党派解体・併合路線に過ぎなかった。その上、「イラク・イスラーム国」は自派に合流しない武装勢力を、裏切りや背教と非難し、軍事的にも攻撃するようになった。こうして、「イラク・イスラーム国」は、同時期イラクで活動していた武装勢力のほとんどと敵対するようになった。
また、彼らの過激な闘争方針や、極端なイスラームの実践は、イラクの社会にとって親しみやすいものではなかった。彼らがイラク社会から支持されているわけではないということは、彼らの人材勧誘に反映されていた。2007年にアメリカ軍が押収した同派の非イラク国籍の戦闘員についての台帳には、2005年~2007年に受け入れた、約600名の情報が記載されていた。また、同派が広報用に製作・発表した殉教者[*2]列伝シリーズとして、2005年~2010年までに刊行された分で約90名の伝記があるが、このおよそ3分の1が明らかに非イラク国籍の者だった。これらの資料は「イラク・イスラーム国」の構成員数や非イラク人の割合を正確に表すものではないが、彼らがイラク以外の地域から戦闘員・構成員を勧誘し、組織的にイラクに潜入させていたことを示している。
[*2] 彼等は主に宗教的な動機に基づいてアメリカ軍やイラク政府と戦ったため、戦死者はイスラームに殉じた殉教者として称えられる。
ここから、積極的な広報活動が彼らの活動の特徴である理由の一つは、彼らがイラク社会で確固たる支持基盤を持たないため外部から資源を調達せねばならず、イラク以外の地域に対し情報を発信する必要に迫られていたからだと考えることができる。
上記の様にしてイラク社会や他の武装勢力の間で孤立した「イラク・イスラーム国」は、次第にその活動が低迷するようになっていった。その原因の一つは、アメリカ軍(後にイラク政府)が「イラク・イスラーム国」と敵対した武装勢力や地元の部族を買収し、覚醒委員会(サフワ)と呼ばれる民兵組織に再編、「イラク・イスラーム国」を筆頭とするアメリカに対する武装闘争を行う諸派の鎮圧や末端の治安維持を代行させたことである。
また、同派の活動に対する報道機関の関心も減退し、戦果や扇動・論説が報道で取り上げられる量・質ともに低下した。「イラク・イスラーム国」が暴力の行使やその扇動・威嚇によって自らの目的を達成したり、影響力を拡大させたりしようとしていたことに鑑みると、従来同派の活動を積極的に報じてきたアル=ジャジーラなどの関心が「アラブの春」と呼ばれるアラブ諸国の政治変動に移っていったことは、「イラク・イスラーム国」にとって致命的ですらあった。
さらに「イラク・イスラーム国」による情報発信の量・質も著しく低下するようになった。彼らは最盛期には様々な活動についての情報を広報部門に集約し、1日当たり100件を超す戦果発表をすることができたが、それが2011年ごろには1カ月につき10件に満たないことが常態化した。これには、2010年に「イラク・イスラーム国」の「首長」や「戦争相」を含む幹部が、相次いで殺害・逮捕されたことにより、政治的・社会的影響力の強い情報発信が困難になったことと関係している。現在の「イラクとシャームのイスラーム国」首長のアブー・バクル・バグダーディーは、こうした衰退局面で指導者に就任したのである。
確かに、2011年、2012年でも、1カ月に1、2回の割合で1度の攻撃で数十名~100名が死傷するような重大な爆破事件は発生し続け、それらの大半について「イラク・イスラーム国」が犯行声明を発表した。しかし、「イラク・イスラーム国」の作戦行動・情報発信が、日常的なものから間欠的なものへと変化したこと、そもそも同派に対する報道機関の関心が極度に低下したことを原因とし、イラク内外での「イラク・イスラーム国」の影響力は低下した。イラクの政治・治安情勢という文脈では、2012年ごろ「イラク・イスラーム国」は滅亡の危機に瀕していた。
しかし、ここで忘れてはならないのは、「イラク・イスラーム国」に代表されるイラクにおけるイスラーム過激派の武装闘争が衰退したにもかかわらず、イラクには平和と安定が訪れたわけではなかったことである。特に、政治・経済的な権益・役職の分配をめぐる諸政治勢力の対立・抗争が激化し、2010年に行われた前回の国会議員選挙以来、イラク政府の国防相、内相などの安全保障・治安担当の閣僚は国会の議決を経た正式な任用をされない「代行」のままだった。
この間国会に議席を持つ諸政治勢力は、組閣や予算編成の様な政治課題ごとに合従連衡を繰り返し、選挙戦を戦った選挙連合とは全く異なる院内会派を自在に組み替え続けた。これは、一般の有権者にとっては彼らの政治的要求や主張を実現したり、紛争を解決したりするための手段として、選挙や議会を通じた政治活動の意義が失われたことを意味する。
同じころ、イラクでも「アラブの春」を模倣し、デモなどの街頭行動によって政府に要求を突き付ける実力行動に訴える政治勢力が増加した。その中には、上で述べたサフワに属する民兵も含まれ、彼らは従来受け持っていた検問・パトロールなどの治安業務を放棄したり、時に直接治安部隊と交戦したりするようになった。こうして、イラクの治安情勢は、政治過程が行き詰まる中で次第に悪化していったのである。すなわち、現在のイラクの政治体制とそれに関係する全ての当事者は、「イラク・イスラーム国」が衰退局面に入ったにもかかわらずそうした有利な環境をイラクの政治・社会の健全な運営に結びつけることができなかったのである。
「イスラーム国」の“再興”
衰退局面にあった「イラク・イスラーム国」を蘇らせたのは、「アラブの春」が“波及”して反体制運動が高揚し、さらに様々な当事者が干渉して国際紛争と化した、シリア紛争だった。
2011年前半、「アラブの春」と呼ばれる政治変動の結果、イスラーム過激派が衰退・消滅するとの楽観的な予測があった。この予測の根拠は、イスラーム過激派が彼らの政治目標を達成するために非合法の武装闘争や扇動を手段としているのに対し、各国で政治的自由を抑圧していた権威主義体制が倒れたことで、人民は議会選挙への参加のような、より安全かつ穏健で合法的な手段により彼らの政治的目標を達成できるようになると見込まれたことである。
しかし、実際には「アラブの春」を経験した諸国の全てで、政局は混乱し人民の生活水準は低下した。そして人民が政治適用要求を民主的・合法的に主張し、実現する経路も確立しなかった。すなわち、「独裁政権」を打倒しても、民主的・合法的な政治行動の有効性は当初期待されたほど高まらず、政治・社会が混乱したことによって、イスラーム過激派が採用するような暴力的・非合法な政治行動は、衰退するどころか一部では以前よりも活発化してしまったのである。
シリアにおいても、当初反体制運動は「アラブの春」で用いられた手法を模倣した平和的運動として進められた。しかし、この手法は短期間のうちに政権側を圧倒するような支持を得ることができず、反体制運動は次第に暴力化した。これに様々な政治的目標を持つ諸外国が干渉したことにより、シリアでの反体制運動は国際紛争化した。その過程で、「悪の独裁政権」であるアサド政権に立ち向かう反体制武装闘争は、その担い手の出自を問わず「正義」とみなされ、世界各地で反体制武装闘争のための人員や資金のような資源の調達が黙認・奨励された。
「イラク・イスラーム国」はこうした環境に便乗し、シリアの反体制運動に参入するフロント団体「ヌスラ戦線」を設立した。「ヌスラ戦線」は、士気・規律・戦闘力の面で世俗的で「穏健な」反体制派諸派を上回り、相応の支持を得るとともに、外部からシリアに提供される資源の主要な受け皿となり、資源供給経路を確立した。
「イラク・イスラーム国」はこの成功に自信を深め、2013年4月に「ヌスラ戦線」が自派のフロントに過ぎなかったことを公表、以後はこれを統合し「イラクとシャームのイスラーム国」として活動すると宣言した。この事実は、同じ「イラク・イスラーム国」が行う破壊と殺戮でも、その場所がイラクならばそれは「悪しきテロ」とみなされて非難・攻撃されたが、場所がシリアならば「正義の反体制武装闘争」として国際的に認められて黙認・奨励されていたことを示している。
9.11事件以後国際社会が進めてきたはずの「テロとの戦い」は、現場で「テロリスト」を殲滅する以上に「テロリスト」による資源獲得を阻むことをその柱としていた。しかし、こうした取り組みが、シリア紛争で欧米諸国が反体制派を支持したことにより、「テロリスト」の筆頭格だった「イスラーム国」が潤沢に資源を調達できるようになったという、重大な綻びを見せたのである。こうして、シリア紛争を口実にして十分な資源を獲得する経路を確保した「イスラーム国」は、そうした資源を投入して政局の混乱により政治体制が求心力を失っていたイラクでも大規模な攻勢をかけたのである。
「イスラーム国」とイスラーム過激派の将来
ここで、「(イラクとシャームの)イスラーム国」の名称について検討したい。
彼らが組織名に用いている地名は、「イラク」と「シャーム」である。「イラク」については、前身となった「イラク・イスラーム国」からそのまま用いたものであろうが、注目すべき点は、もともとこの組織の起源となっているザルカーウィーのグループが、ビン・ラーディンに忠誠を表明した際に「二大河の国のアル=カーイダ」と名乗り、「イラク」という現在存在する国家の名称や、国際社会で通用している地名を用いなかったことである。
この点に、ザルカーウィーのグループが「イスラーム世界は十字軍・ユダヤに侵略されており、現在イスラーム世界にある国家や為政者はみな侵略者の押し付け・傀儡である」と考えるイスラーム過激派の思想に忠実でいようとしていたことが示されている。彼らが組織の拡大路線の中で「イラク・イスラーム国」と名乗るようになったことは、イラクの地元の勢力や部族の糾合を試みた際の妥協や配慮の産物だったのだろう。
一方、「シャーム」については、この地名は文脈によって示す範囲が異なるものである。現在のトルコの一部、シリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナを包括する地域を指す場合もあれば、単にダマスカスを意味する場合もある。また、「イスラーム国」が用いる「シャーム」が、一般に用いられている「シャーム」と一致しなくてはならないわけではない。しかし、彼らが敢えてこの地名を用いたことには、彼らの活動は現在存在する国家や国境には拘束されず、むしろそれらを破壊・解体することを目標とする意思表示のように思われる。
以上のような考え方は、彼らが「イラク・イスラーム国」と名乗っていた時期の広報動画に好んで挿入した場面に色濃く反映されている。写真1は、現在の国境と国名によって地域が区切られている。そこに、「イラク・イスラーム国」の旗(彼らは現在も同じ旗を使用している)が打ち立てられることによって衝撃波が生じ、それにより既存の国境・国名は吹き飛ばされ、その後に彼らが考える地名におきかえられる(写真2)。
さらに、「イスラーム国」の旗を中心に生じた衝撃波は拡大し、彼ら自身の活動地域からは離れた場所の国名や国境をも粉砕し、イスラーム過激派の間で用いられている地名に置き換えられている(写真3)。従って、「シャーム」という地名は、「イスラーム国」にとっては「シリア・アラブ共和国」を指すものではないし、欧米で地中海東岸地域を指して用いられる「レバント」と一致するとも限らない。「イラクとシャームのイスラーム国」という名称には、「侵略者による押し付けを排除し、イスラーム世界の統合を回復する」、とのイスラーム過激派の思想に忠実であろうとする決意が込められている。
「イスラーム国」が「イラク」と「シャーム」を一体の領域とみなし、そこで単一の組織として活動したことは、「イスラーム国」と「ヌスラ戦線」、アル=カーイダが決裂した原因の一つと思われる。
「ヌスラ戦線」の一部は、前述の2013年4月の統合宣言を拒否して独自の活動を続けるとともに、次第に支配領域や物資などを巡って「イスラーム国」と交戦するようになった。これを受け、イスラーム過激派の支持者の間では、アル=カーイダ指導者のアイマン・ザワーヒリーが両派の活動方針に裁定を与え、対立関係を調停することが期待された。実際、ザワーヒリーは「イスラーム国」について幾度か書簡や演説を発表したが、その内容は、「シリア紛争については、アル=カーイダの存在感を極力隠す。シリアはヌスラ戦線に任せ、イスラーム国は名称を元に(イラク・イスラーム国に)戻してイラクでの活動に専念すること」というものだった。
これに対し、「イスラーム国」は(イスラーム過激派にとっては本来打倒する対象に過ぎないはずの)既存の国家を単位にした「イスラーム国」と「ヌスラ戦線」との活動調整方針などに反発、サイクス・ピコ体制に屈服し、アル=カーイダを変質させたと激しく非難した。サイクス・ピコ体制とは、イギリスとフランスが第一次世界大戦の際に敵国だったオスマン帝国の領域を両国で分割する旨取り決めた密約であり、現在の東アラブ地域の国家はこれに基づいてイギリス・フランスが画定した境界線に沿う形でできている。
さらに、「イスラーム国」は世界各地のアル=カーイダ関連団体に対し、活動範囲についての立場で、自分たちとアル=カーイダのいずれを支持するか表明するよう要求、イスラーム過激派の象徴としてのアル=カーイダの威信に挑戦し、その指導者であるザワーヒリーの鼎の軽重を問うた。
「イスラーム国」の活動範囲や地理認識が既存のイラクという国家に収まらないものである以上、今般の「イスラーム国」の攻勢とイラクの治安情勢を、イラク国内の「宗派対立」や「宗派・民族間での政治・経済的権益の分配比率」の問題として対応しても、抜本的な対策とはならないだろう。イラクの政界での権益の分配状況に不満を持つ勢力が「イスラーム国」を支持したり、同派と連携したりしていたとしても、そのような行為は「既存の国家の枠内での権益を巡る紛争」に、「権益分配の基となる体制そのものを破壊しようとする主体」である「イスラーム国」を招き入れるという矛盾した行為である。
「イスラーム国」自身はそのような政治・経済紛争の帰趨を意に介することなく、彼らの闘争を続けるだろう。その上、「イスラーム国」は今般の攻勢でイラク軍から大量に奪取した装備や兵器をシリアへ持ち込み、同地での戦闘に投入しつつある。シリア紛争を口実に資源を獲得したおかげでイラクの治安情勢の主役に復活した「イスラーム国」は、今度はイラクで奪取した資源を他の地域での勢力拡大のために用いようとしているのである。
以上の通り、現在の「イスラーム国」の活動は、彼らが「サイクス・ピコ体制」と呼ぶ既存の国際秩序に対するイスラーム過激派の挑戦を具現化したものである。イスラーム過激派の脅威・危険性としては、彼らの苛烈な武装闘争や極端な宗教実践が注目されがちである。しかし、イスラーム過激派の思想・実践の真の脅威(あるいは歴史的意味)は、この度「イスラーム国」が可視化したような、既存の国家や国境に対する挑戦にある。
現在の国際関係や経済の秩序、そして我々の生活そのものが既存の国家を単位としている以上、「イスラーム国」の問題はイラク国内の権益争いでも、シリア紛争の中での些細な支配地域争いでもない。また、「イスラーム国」の挑戦は、アル=カーイダへの挑戦に示されるようなイスラーム過激派の中での威信や主導権を巡る挑戦にもとどまらない。現在の国際秩序全体への挑戦として、「イスラーム国」の壮大な挑戦は端緒についたばかりなのである。
プロフィール
髙岡豊
中東調査会上席研究員。上智大学大学院外国語研究科にて博士号取得。在シリア日本国大使館専門調査員、財団法人中東調査会客員研究員、上智大学研究補助員を経て現職。専攻分野は現代シリアの政治、イスラーム過激派モニター。著書に『現代シリアの部族と政治・社会』。