2023.01.31
タイ宮廷料理「カオチェー」から見えるタイ社会――日本人的視座によるタイの民族多様性
タイ料理はタイ族の料理ではない
「島国」「鎖国」などのキーワードに表現されるように、地理的・歴史的な背景から、日本人は他民族との交流が比較的少なかったことはまちがいありません。そのため、多くの日本人が無意識に「日本人」と「日本民族」がほぼ同義語であると思い込んでいて、自分自身の民族性について考えることなど、ほとんどないのではないでしょうか。ある日本の政治家ですら「日本は単一民族的な社会である」と発言して、多方面から批判を受けたこともありました。
筆者自身もタイに20年近く在住していますが、生まれ育った日本的な考え方に、知らず知らずに囚われていると感じることがあります。最近も、「タイ人」や「タイ料理」を、無意識に「タイ族」や「タイ族の料理」と解釈してしまっていることに気づきました。タイ族は東南アジア広域に暮らす民族ですが、私はタイがタイ族の国であると誤解していたのです。
しかしよく調べてみると、「タイ料理」と呼ばれていても、もともとタイ以外の国に起源があったり、様々な民族によってもたらされた料理であることがわかってきました。
本稿では、そんなタイ料理の民族多様性を示す例として、タイ宮廷料理「カオチェー」の歴史と成り立ちをご紹介したいと思います。
タイの宮廷料理「カオチェー」とは?
タイには「カオチェー」と呼ばれる有名な宮廷料理があります。冷たい水をご飯にかけて、数種類のおかずとともに食べる料理です。
タイは常夏の国ですが、実は3つの季節があります。雨量が多い「雨季」(5月〜10月)、雨量が少なく涼しい「乾季」(11月〜2月)、そして猛暑が続く「暑季」(3月〜4月)です。
カオチェーは、タイ語で「水に浸したご飯」という意味ですが、タイの3月から4月ごろの暑季の風物詩です。暑気払いのための料理として、タイの人々に好まれています。猛暑で食欲がなくなった時には、見た目に涼しげで、喉ごしもよいカオチェーがぴったりです。
初めてタイの宮廷でカオチェーが食べられたのは、タイ国王ラーマ4世(在位1851〜1868年)の時代でした。その後、タイの王族や貴族の間で人気のメニューとなりました。昔は氷が珍しかったため、上流階級の人しか食べることができなかったというのも、宮廷料理であった一因なのでしょう。
現在は、タイ料理のレストランで、暑季(3月〜4月頃)の限定メニューとして食べることができます。
ご飯にかける氷水には、ハーブを練り込んだろうそくの独特な香りが焚きしめられ、バラやジャスミンの花びらが浮かべられます。おかずには、カービングした野菜が添えられ、高坏の膳に美しく盛り付けられます。
カオチェーと供に食する「おかず」の数々
カオチェーはタイ語で、カオは「ご飯」、チェーは「浸す」という意味です。文字通り、冷たい水に浸したご飯です。
カオチェーは、通常ちょっと変わったおかずとセットになっています。よくレストランで見かけるカオチェーのおかずには次のような料理があります。
○カピ団子揚げ(ルーク・カピ・トート):「カピ」というエビ味噌を椰子砂糖、焼き魚、ショウガ、レモングラスなどと混ぜ、潰してペースト状にし、小さく丸めて溶き卵をからめながら揚げた料理。
○具入り玉ねぎ(フア・ホーム・トート):小さな赤タマネギの芯をくりぬき、魚やハーブを混ぜた具を詰めて、衣をつけて揚げた料理。
○具入りピーマン(プリックユアック・ソートサイ):大型のとうがらし(プリックユアック)に味付けした豚肉を詰め蒸した後、溶き卵で網目状に飾り付けた料理。
○魚や肉の甘炒り(プラー・チャーム又はヌア・チャーム):干し魚や肉を炒りながら砂糖をからめた料理。
カオチェーと一緒に出されるおかずの種類やレシピは、お店や料理人によって様々なバリエーションがあって、こちらもカオチェーを食べる時の楽しみの一つです。
もともとモン人の料理だった「カオチェー」
実は「カオチェー」は、もともと東南アジアに古くから住んでいたモン人の料理でした。モン人は、暑季真っ盛りの4月のソンクラン祭りのころ、子孫繁栄や子授けを願って、神様に「カオチェー」をお供えする伝統がありました。モン人のオリジナルの「カオチェー」は、盛り付けもシンプルで、付け合わせのおかずも現在タイで見られるものとは少し異なります。
そんなモン人の料理を、タイ国王ラーマ4世に初めて提供したのが、側室であったソンクリンというモン人女性でした。ラーマ4世は、ペッチャブリー県の山の上に通称「カオワン」と呼ばれるプラナコン・キーリー離宮を建て、暑季になると訪れていました。随行したソンクリンが暑気払いにカオチェーをラーマ4世に供したことがきっかけで、宮廷内に広まったのだそうです。
今でもペッチャブリー県では、当時の面影を残す素朴なカオチェーが庶民的な市場で売られていて、ペッチャブリー名物になっています。
その後、歴代のタイ国王にもカオチェーが好まれ、宮廷内に住む王族女性や女官たちが競って趣向をこらし、優雅なタイ宮廷料理「カオチェー」へと発展していくのです。
モン人はどこからやってきたのか?
ところで、なぜ当時ラーマ4世にモン人女性の側室がいたのでしょうか。
当時のタイ国王は一夫多妻が普通で、政略結婚の意味もあって、様々な地方の王族や貴族の女性が宮廷で暮らしていました。
ラーマ4世の側室であったソンクリンは、トンブリ王朝のタクシン王(在位1767〜1782年)の時代にタイ(当時の国名はシャム、以下タイで統一)に移住してきたモン人王族の子孫です。
モン人とは、かつて古代王国ドヴァーラヴァティ(現在のタイ中部)やハリプンチャイ(現在のタイ北部)を興し、東南アジアでいち早く上座仏教を受容した民族です。
13世紀以降は、現在のミャンマー南方にあるペグーを中心に建国していましたが、たびたびビルマ人との戦いに敗れて国を追われ、16世紀から19世紀にかけて断続的に、多くのモン人がタイに難民として逃れてきました。
モン人難民には、王族・仏僧・兵士・一般市民など、様々な階層の人々がいましたが、それぞれの身分に応じて、タイでの居住地や役割が与えられました。民族は違えど、同じ上座仏教を信仰するタイ人とは文化的な相性もよく、モン人はタイの社会に溶けこんで、モン系タイ人となっていきます。タイ軍とともにビルマとの戦争にも赴き、功績のあったモン人は政府の高官として出世し、タイ貴族となる家系も現れました。
タイで活躍したモン人王族プラヤー・チェン
ソンクリンの曾祖父であるプラヤー・チェンは、復興ペグー王朝(1740年〜1757年)のモン人最後の国王であったビンヤ・ダラの甥にあたります。ビルマ人の攻撃によりモン人は自分たちの国を失い、プラヤー・チェンはビルマ軍に従軍させられていましたが、1774年にビルマに対する反乱を起こして失敗。3000人のモン人を引き連れ、トンブリ王朝タクシン王の庇護を求めてタイに移住してきたのです。
タクシン王に続いて、バンコク王朝ラーマ1世の時代に、プラヤー・チェンはモン軍を率いてタイ軍に加勢し、ビルマと何度も戦いました。その功績を認められ「チャオプラヤー・マハーヨーター」という官位に昇格。
プラヤー・チェンの子孫は、カチャセーニー家というタイ風の名字のモン系タイ人貴族となり、その一族の出身であったソンクリンはラーマ4世の側室として宮廷で暮らし、タイ宮廷料理「カオチェー」が誕生するのです。
ちなみに、プラヤー・チェンとともにバンコクに移住してきたモン人は、バンコクに隣接するノンタブリ県のパーククレットやサムットプラカーン県のプラプラデーンに居住し、現在でもこの地域には多くのモン系タイ人が住んでいます。
他民族を受け入れながら発展したタイ
東南アジアは太古から多くの少数民族が住む地域です。民族間の戦争で、新しい国が興っては滅亡していきました。戦争とともに強制移住、戦争捕虜、難民などによる民族移動が絶えず起こっていました。
さらに、地理的に中国とインドという2つの大国のちょうど中間にあり、通商活動などを通じて、東西から様々な民族の商人や船員が絶え間なく訪れ、新天地を求めてそのまま移住してしまうケースも多くあったようです。
タイという国も、古くはアユタヤという港市国家として発展した国であり、世界から訪れた様々な民族を受け入れてきました。アユタヤの町には、日本人を含め、30以上の民族が住んでいて、実力さえあれば外国人であっても政府の高官として登用され、タイの貴族となっていったそうです。
現在の首都バンコクでも、アユタヤ時代の流れを引き継ぎ、多くの民族がまさに「人種のるつぼ」のように暮らしています。バンコクでもっとも多いのが中華系タイ人ですが、モン人、ラオ人、クメール人、マレー人にはじまり、ポルトガル人、インド人、ペルシャ人など、ありとあらゆる民族的ルーツを持つタイ人がいます。
さらに、婚姻を通じた混血も進んでいて、おそらく純粋なタイ族系のタイ人などいないのではないかと言われているほどです。
タイでは、1939年にピブーンソンクラーム首相が「ラッタニヨム」と呼ばれる布告を出し、タイ国がタイ族の国であることを強調する文化革命的な政策が行われました。タイ語教育の強制など、タイ国の領域に住む多くの民族に「タイ人」になることを呼びかけたのです。
現在タイの国民は、どのような民族的背景であっても、皆タイ語を話し、タイ国籍を持ち、自らを「タイ人」であると自覚しています。そのため、もともとは他民族の文化や料理だったとしても「タイ文化」や「タイ料理」と呼ばれていて、その民族多様性に気づきにくいのでしょう。
日本で生まれ育った筆者は、タイに暮らしながら、タイ社会における文化変容のダイナミズムと寛容さに驚くとともに、どちらかといえば閉鎖的な民族多様性の少ない日本社会との大きな違いをまざまざと感じてしまうのです。
プロフィール
堀本美都子
2003年よりタイ・バンコク在住。タイ国立開発行政大学院(NIDA)言語コミュニケーション研究科修士課程修了後、神戸大学大学院国際文化学研究科博士後期課程修了(学術博士)。専門分野は、異文化コミュニケーション、タイ文化。現在はバンコク日本人商工会議所勤務の傍ら、個人ブログ「タイランド画報 (thailandgaho.com)」でタイ旅行情報を発信中。主著「タイ人の怒り対処方略と価値観」(年報タイ研究第15号)。