2019.05.24

なぜ、いま炭鉱なのか――「負の遺産」を超えて

嶋﨑尚子×熊谷博子 映画『作兵衛さんと日本を掘る』公開記念対談

文化 #作兵衛さんと日本を掘る

2011年5月、炭坑画家・山本作兵衛の遺した絵や日記など697点が、日本国内では初めてユネスコ世界記憶遺産に認定されたことは記憶に新しい。自身炭坑夫だった彼が生涯に描いた絵は実に2000枚にのぼるといわれている。

山本作兵衛の仕事は、いったい今に何を訴えかけようとしているのか。5月25日より上映が始まるドキュメンタリー映画『作兵衛さんと日本を掘る』の公開を記念して、『炭鉱と「日本の奇跡」』(青弓社)の共編著者である社会学者の嶋﨑尚子氏を迎え、本作監督の熊谷博子氏と存分に語り合ってもらった。(取材・文 / 萩野亮)

山本作兵衛氏

炭鉱にハマる

熊谷 『炭鉱と「日本の奇跡」』を拝読しました。一般的には終わったと思われている炭鉱ですが、奥深い、今につながる新しい視点を感じました。日本がよくわかる。去年出たばかりなんですね。そもそもなぜ炭鉱学を始められたのですか?

嶋﨑 炭鉱について研究を始めたのは1996年からで、フィールドは常磐炭砿でした。

常磐炭砿は1950年代半ばの最盛期に、幹部候補の若い従業員を早稲田大学政経学部に国内留学させていたんですね。当時、政経学部では武田良三先生が社会学概論を教えていて、彼らはその授業を聴講して、「自分たちの労働問題は経済学や政治学では解決しない、社会学が必要だ」と考えた。

いわきに戻ると、早稲田の社会学研究室に、リージョン研究(地域研究)をやってもらって「炭鉱はこれからどう生き延びたらいいか」を考えてはどうかと、砿業所長に掛け合ったんです。それで1958年くらいから毎年調査研究をやるようになったんです。それこそ原発ができる前からずっとやっていたんです。

常磐炭砿が1971年に閉山したとき、会社は大部分の資料を福島大学経済学部に、一部労働関係資料を早稲田大学社会学研究室に、寄贈しました。私の先生の正岡寛司先生は武田先生の弟子で、ちょうど1995年に常磐のじん肺訴訟が国内初の和解となって、調査を再開できるだろうと考えたのです。あの閉山で解雇された4700人の労働者がその後どうなったのかについて追跡調査を始めようと言ったんです。当時私は放送大学の専任講師だったのですが、結局それから10年かけて4700人全員のその後を追跡した、ということなんです。

当時、私は炭鉱自体にというよりも、職業を強制的に中断された労働者たちがどうなっていったかということに関心がありましたが、常磐調査がひと段落した2007年に、『炭鉱と「日本の奇跡」』の共編著者である中澤秀雄と出会いました。そこで、もう一度きちんと石炭産業を勉強しようということで「産炭地研究会」を組織し、現在は国内外の炭鉱をフィールドに、若い研究者も含めて研究を進めています。

熊谷 もともと炭鉱とは何も関係がなかったのですか?

嶋﨑 何も関係ありません。東京のど真ん中の出身です。

――熊谷監督も大牟田市から依頼があって初めて三池炭鉱に行かれ、それがきっかけで『三池 終わらない炭鉱(やま)の物語』(2006年)を撮られたんですよね。

熊谷 そうです。私も東京生まれ東京育ちです。その前に『ふれあうまち 向島・オッテンゼン物語』(1995年)という映画を作ったんです。東京とドイツ・ハンブルグの下町どうしで、市民がユニークな交流を続けていました。町に残っている古いものをいかに壊さずに、どう活かして町を育てていくのか、がテーマでした。それを見た大牟田市の職員が、そうした発想を取り入れたいと。

三池炭鉱が閉山して1年後だったのですが、それこそ“大”三井だったので、いまや世界遺産にもなっている万田坑跡や港などが残っていたわけです。ただ市民はあのころは、まさか世界遺産になるとは誰も思っていない。閉山で皆が自信を失っているなかで、「これだけのものが残っているのだから、歴史を活かしてまた新しい町づくりができないか」ということでシンポジウムが開かれました。それに呼ばれ初めて三池炭鉱に行きました。

宮原坑跡に足を入れた途端、下から働いている人たちの声が聞こえてくるような気がしました。よくよく聞いたらそこでは囚人労働が行なわれていたんです。

とにかくこれは残したい、撮りたい、と瞬間的に思いました。シンポジウムで「これを残すべきだ」と言ったら、町のとある方から「負の遺産があまりにも多すぎる。すべて忘れて次へ行ったらどうか」という提案があった。そこで初めて「負の遺産」という言葉を聞いて「えっ!?」と思いました。

確かに囚人労働に始まり、与論島から集団移住させての差別労働。朝鮮人や中国人の強制連行・強制労働、連合軍捕虜の強制労働。戦後は三池争議、炭じん爆発事故があった。すごい歴史なのですけれど、それはまさに日本が歩いてきた道そのものなので、それを「負の遺産」とすると全部……。

嶋﨑 自分たちを根底から否定してしまうことになる。

熊谷 そうなんです。そこで生きて、働いて、闘ってきた人たちはどうなるの? という思いがあって、「負の遺産ではない」と主張してその場は終わったんです。後に映画を作ることになったんですが、「作りましょう」と即座に反応をしてくれた大牟田市の職員がいなければどうしようもありませんでした。そこから炭鉱にズボッとハマってしまった。会う人たちの顔がすごく良かったんですよね、男も女も。こんな良い顔の日本人がたくさんいるのか、と。

嶋﨑 かっこいいんですよね。

熊谷 本当に「日本」がつまっているという感じがあった。

熊谷博子氏

山本作兵衛とその画業の魅力

熊谷 作兵衛さんの絵は、和紙と違って、いわゆる普通の画用紙に書いているんですよね。酸性紙なので、いずれはボロボロになる運命にある。原画は展示する時間が決められているので、田川市の石炭・歴史博物館に行ってもそんなには見られません。本物はごくわずかしかなくて、あとは全部レプリカの展示です。私たちは、すべて本物の原画を撮っています。だから絵が訴えてくるものが全く違う。

嶋﨑 今回の映画では、作兵衛さんの絵にズームインして、そこに「ゴットン節」が流れる。音と共感しやすい絵ですよね。何枚も何枚も同じものを書いているのだけれども、ブレがなく、描かれていることは本当に事実だったんだ、と。そこにとてもインパクトがあると思います。

熊谷 撮りながらドキドキするんですよね、作兵衛さんの絵って。たとえば女坑夫のほつれ毛。普通はだいたいどんな絵も寄るとアラが見えるものなのですけれど、作兵衛画は寄れば寄るほどすごい。とくに目や手。それにあれだけの枚数を描いた動機が「子や孫へ伝えたい」ということが強いですよね。単に伝えたいというのではなくて、一番身近な人に伝えたいというのが。

嶋﨑 もともと文章として原稿用紙1400枚書いていたものを、奥さんが反対して焼いてしまった。そのショックもものすごくあったのではないでしょうか。だからこそたくさん描いて、それをいろいろな人に渡して、手元になくなってもどこかに残るように、と。そういうチラシ的な意識もあったのではないかと思います。

――史料的価値として高いのは、明治・大正・昭和初期、その三代のヤマの姿を描いていることですよね。

熊谷 あの時代、誰も記録していませんでしたし、庶民には記録する手段もまったくなかったわけで、そのなかでこれだけのものを残したということですよね。

嶋﨑 台湾では1960年まで女性も坑内に入っていました。最後まで残った一番大きな「瑞三炭鉱」は1990年に閉山したのですが、いまそこの元炭鉱マンたちの生活史を記録しているのです。彼らは、田川の石炭・歴史博物館と連携して、とても面白いプロジェクトを進めています。

台湾の炭鉱は、最後まで機械化されなかったので、作兵衛さんの絵と同じ構図の写真がたくさんあるんですよ。彼らは、作兵衛さんの絵と写真を120組も組み合わせて展示を始めています。近いうちに日本にも紹介されると思います。

炭鉱労働者の彼らにとって、炭鉱の普遍性を表してくれるものとして、作兵衛さんの絵は本当にすごい。たとえば(作兵衛さんが描いた)ボタ山の極端な三角形もそのままあるし、労働過程も全く同じ。台湾も薄層なので、横たわって掘るというのが90年の最後まで続きました。

熊谷 1960年まで女性が働いていたのですか!?

嶋﨑 その後最後まで女性は坑外で働いていました。ですからトロッコの運転は全て奥さんや娘さんがやっていました。韓国も5炭鉱ほど残っています。一番大きい「長省炭鉱」では、作兵衛さんの絵と同じ選炭のベルトがあって、そこは女性がやっていました。

私は「現役の選炭婦」を韓国で初めて見ました。東アジアは日本の帝国主義時代の影響から、炭鉱用語で日本語が残っています。たとえば採炭現場を「切羽(きりは)」と言いますが、それも使われています。こうした事実も含めて残していくということがきわめて重要だと思っています。

炭鉱の子どもたち

熊谷 ご自分は炭鉱に触れられてどういうふうに思われましたか。

嶋﨑 もともとものすごく「人間好き」だったのですけれど、本当に「労働の崇高さ」を感じます。これは石炭産業に限りませんが、ストライキのときに「パンと薔薇の闘い」を掲げる。人間はパンだけでは生きていけない。労働者としての誇り=薔薇が必要なんです。その気概。彼らがいかに尊厳を持ちながら暮らしていたかを端的に知られることだと思います。

とくに私は子どもたちのことに関心を持っています。炭鉱夫である親たちは石炭産業に誇りを持ちながらも、炭鉱は自分の代で十分だと思っている。そのアンビバレンツが、戦後の石炭産業を端的に表しているように思います。

たとえば閉山後、自然に帰した尺別炭砿(北海道)の子どもたちが、その後どうなったか。1970年に閉山が決まったとき、尺別炭砿中学校の教頭先生が「これは大変なことが起こる」と思い立ち、その過程を多くの写真に撮っておきました。また生徒たちに作文も書かせたんです。閉山からわずか5ヵ月ぐらいで全員がいなくなり、町はなくなりました。子どもたちは親とともに日本各地に移って行ったのです。子どもたちは、去るときに「着いたら先生に手紙を書くように」と言われていました。

それからおおよそ50年経って、私たちは釧路での炭鉱研究のさいに、その教頭先生からお話を伺ったのです。その後、当時生徒だった方たちとも会って、座談会を開いて、ご自身の作文を見てもらったりしました。そこから、子どもたちが親以上に翻弄されていることがわかりました。

作文をかつての子どもたちに、もうおじさん・おばさんになっていますが、読んでもらうと、ときには涙を流しながら、当時のことを思い出してくれます。高度経済成長期に神奈川に移って、「僕は神奈川の子になります」と書いた人もいます。実際、あっという間に神奈川の子になっていったようです。

だけれども、どこか心の奥に「自分の故郷がなくなってしまった」という落ち着かなさをずっと抱えていた。50年経っていま当時を振り返る機会を得て、その記録を残していくことで、ようやく少し不安が収まったというようなことをおっしゃいます。

また、その親たちに話を聞くと、子どもたちがそんなふうに不安を抱いていたとは思いもしなかった、と言います。お父さんは新しい仕事をみつけて、移住して家族を養う。お母さんは故郷に残された親や親戚のことを気にかける。家族それぞれが違うことに心をくだいていた。子どもも親に心配をかけたくないから言わずにいたんです。そういうお話をたくさんお聞きして、それが当時の現実の「日本」だったんだな、と。

日本は「移住・移動の国」だと思い始めました。北海道について研究をしていると、樺太からの移住者や戦後の引き揚げ者は炭鉱にやって来ます。そして、そこも閉山して移動する。筑豊と北海道が大きく違うのは、そのあたりだと思います。

筑豊では閉山後もずっとそこに留まりますし、被差別部落の問題もある。補償金収入で世代がつながっていくという棄てられ方をされている人もいます。北海道では、関東へ移住して雇用促進事業団宿舎に入って生きつないだ人が大勢います。現在、その雇用促進事業団住宅もいよいよ取り壊される事態になっています。高齢のおばあさんたちが「出ていけ」と言われているわけです。でも行き先はない。

熊谷 炭鉱離職者用の雇用促進住宅はまだ残っているのですか?

嶋﨑 残っています。東京だけでなく神奈川・千葉にも多くありますよ。それを自治体は終わらせたいのです。5階建てのエレベータもない集合住宅に、夫に先立たれた独り暮らしのおばあさんたちがたくさんいるわけです。そういう人たちに「出て行け」と言う。

熊谷 その構造って原発避難者と一緒ですよね。

嶋﨑 本当にそうです。棄てられるんですよね。まさに「棄民」だと思います。声をあげられない人たちの末路ですね。

嶋﨑尚子氏

――今回の映画では作兵衛さんの娘さんやお孫さんが出てきますけれども、炭鉱夫の娘と孫の世代を撮られて、熊谷さんはどう感じましたか。

熊谷 これまでの映画のなかで、前作の『三池』ほど見た方から「ありがとう」と言われた作品はないんです。三池炭鉱だけの話ではないのですが、自分の生い立ちや故郷の名前を言えるようになった、という人たちがあまりにも多かった。大炭鉱の三池ですらそうなので、おそらく筑豊だともっと、と思います。

この映画でも、(作兵衛さんの孫の)井上忠俊さんが「自分の出身地を言えなかった」という話が出てきます。その話は、実は撮影を始めてから5年くらい経って初めて聞いたんですよ。おそらく言えなかったんですね。「何か足りない」と思いながら何年もかけて撮影を続けていたなかで、初めて彼が「いや、こうだったんだ」と言ってくださった。その話を(記録作家・上野英信のご子息の)上野朱さんにしたら「実は僕も役場で、……」という話になった。5年撮り続けて、ようやく聞けた話なんです。

嶋﨑 たとえばイギリスではそういう感覚はないんですよね。日本だけが「負の遺産」になる。やはりどこかで棄てられたという思いがあるのでしょう。ドイツやフランスにもそういった感情はありません。そこには「最後まで労働者として闘った」という気概があるのではないでしょうか。日本の炭鉱労働者は最後の最後まで闘うことができませんでしたから。

熊谷 筑豊で育った友人に話を聞くと、まさに先ほど話に出た筑豊と北海道の差で、筑豊の元炭鉱労働者が補助金漬け、生活保護の群れで、それが子ども時代すごく辛かった、と。働く場所がなく、時間つぶしにパチンコ屋に行く姿に、「どうせ補助金で暮らしているだろう」と言われる。それは原発事故後の「仕事がないのにパチンコに行く金をもらっているだろう」とまるで同じ構造ですよね。行き場をなくした筑豊の炭鉱労働者が原発労働者になっていくという構造さえある。炭鉱町の人いれ稼業で、紹介所が日雇いで労働者を斡旋するわけですけれど、それがある日行ってみたら、同じ場所が今度は原発労働者の紹介所になっていた、ということもありました。

炭鉱と文化

――熊谷監督はご著書『むかし原発いま炭鉱 炭都三池から日本を掘る』(中央公論新社)のなかで、「炭鉱は触れるが、原発に触ることはできない」と書かれていますね。炭鉱は触れることができるがゆえに「炭鉱文学」や「炭坑節」などの文化を生んだけれども、原発は文化を生まなかった。

嶋﨑 もうひとつそれにつけ加えると、オーストラリアやカナダの大きな露天掘り(オープンピット)の炭鉱では、まったく「文化」なんか発生しないんですよ。文化が現れるのは労働集約型の地下の坑内掘りだけなんです。そこはもう少し強調したほうがいいと思っています。

露天掘りはただ掘るだけの「工事現場」です。坑内掘りは、地下を掘れば掘るほど危険になる、命がけの仕事で、だからこそ「父ちゃんが今日戻って来れるように」とさまざまな「げん担ぎ」を日本に限らず、どの炭田でもやっています。けれども、オープンピットに一切それはない。やはりそこだと思うんです。労働の質が全く違うのだと。

熊谷 筑豊みたいにご夫婦でやっている場合にはとくにそうですが、とにかく助け合わなければいけないわけですね。その助け合い、支え合いがいろいろな文化を生み出していった。危険のなかでどうやって生き抜くのか、それが文学や絵などの作品になりえたんだと思うんです。

嶋﨑 生き残った人たちみんなが「一歩間違えればあいつのように死んでいた」という気持ちがつねにありますから、いろいろな人たちの気持ちを背負って生きていますね。

熊谷 作兵衛さんは絵を遺してくれましたし、元女坑夫のカヤノおばあちゃんは長生きをして話をしてくれましたが、その背後には赤ん坊から老人に至るまで、坑内で命を落とした無数の人たちがいるんですよね。それを常に思いながら映画を撮っていました。そういう人たちがこの国といまの生活を支えてきたんだ、と。

文化というと、ツルハシひとつ取っても掘るために工夫しなきゃいけないわけですよね。それがひとつの技術を生み出していった。寝ながら掘るにはどうすればよいかとか、道具の先端をどうするかとか、カンテラをどうするかとか。いろいろなことの工夫と進歩があった。

嶋﨑 「ここが鳴ると……」「この臭いは……」といった「異常」を察する知識、それはすごいものです。それと同時に「共同性」があるからこそ文化が生まれます。

なぜいま炭鉱なのか

熊谷 7年間かかってこの映画を作りましたが、その間あきらめなかったのは、作兵衛さんの絵とそこに描かれている労働が、決して他人事ではなかったということがあります。私はフリーランスですが、映像業界でも形こそ違え、制作会社のADさんなど道具のように扱われたり、大変な労働をさせられている人たちがいます。私もこの状況は他人事ではない。

もうひとつ大きかったのは、2011年の原発事故の後に、まるで同じような状況が広がっているということです。作兵衛さんも「変わったのは表面だけ」と言っていますけれども、いったいどこが変わったのか、という気持ちがあります。この国の、特にエネルギー産業の構造がまったく変わっていないことをきちっと見つめていかないといけませんし、それを分からないとこの国のことも分からないのではないか、と。作兵衛さんが描いたものは、実は「いま」なんだと思っています。

嶋﨑 私も根幹には同じ関心があります。どんな状況でもひたむきに生きながら、過酷な状況のなかでもちょっとした喜びを見つけて、それを支えにまた明日へ、という。そこに救いがあると感じます。

私は社会学を勉強していますので、そうした名もない人たちの営みを何とか記録をして伝えていくことがせめてやれることだ、と。とくに大学でいえば、いま唯一の「炭鉱ゼミ」をやっているのですけれど、人文系の学生たちにそれを伝え残していくこと。IT化が推し進められているなかで、IT道具をどう使うかというエシックス(倫理)を考える材料になればと思っています。

『作兵衛さんと日本を掘る』

公式サイト: https://www.sakubeisan.com/

ドキュメンタリー/111分/DCP/2018年/日本

出演:井上冨美、井上忠俊、緒方惠美、菊畑茂久馬、森崎和江、上野朱、橋上カヤノ、渡辺為雄
監督:熊谷博/朗読:青木裕子(軽井沢朗読館)/ナレーション:山川建夫/音楽:黒田京子(作曲・ピアノ)、喜多直毅(ヴァイオリン)/協力:作兵衛(作たん)事務所/撮影協力:田川市石炭歴史博物館、福岡県立大学、嘉麻市教育委員会/企画協力: RKB毎日放送/助成:文化庁文化芸術振興費補助金/製作・配給:オフィス熊谷/配給協力:ポレポレ東中野

5月25日(土)より東京・ポレポレ東中野ほか全国順次公開

予告編:https://www.youtube.com/watch?v=xkFeJwdoMJ0

プロフィール

嶋﨑尚子ライフコース社会学、家族社会学

早稲田大学文学学術院教授。専攻はライフコース社会学、家族社会学。共編著に『炭鉱と「日本の奇跡」』(2018、青弓社)、『太平洋炭砿 -なぜ日本最後の坑内掘炭鉱になりえたのか』(2018、 釧路叢書)、『現代家族の構造と変容』(2004、東京大学出版会)、常磐研究報告書 『炭砿労働者の閉山離職とキャリアの再形成 : 旧常磐炭砿K.K.砿員の縦断調査研究』PartⅠ~ X(1997~2006、早稲田大学社会学研究室)。

この執筆者の記事

熊谷博子映像ジャーナリスト

映像ジャーナリスト。1975年より、番組制作会社のディレクターとして、TVドキュメンタリーの制作を開始。戦争、原爆、麻薬などの社会問題を追う。85年にフリーの映像ジャーナリストに。主な監督作に映画『よみがえれ カレーズ』(1989:土本典昭氏と共同監督)、映画『ふれあうまち』(1995年)、映画『三池~終わらない炭鉱(やま)の物語』(2005年:JCJ特別賞、日本映画復興奨励賞)。

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