男女同数の最終候補作から見えてくるもの――第64回岸田國士戯曲賞予想対談

去る1月、第64回岸田國士戯曲賞(白水社主催)の候補作8作品が発表されました。岸田戯曲賞は、若手劇作家の奨励と育成を目的として設置され、新人劇作家の登竜門とされることから「演劇界の芥川賞」とも呼ばれます。選考会および受賞作の発表は2月13日です。(企画・構成 / 長瀬千雅)

 

 

読みを相対化する

 

山﨑 僕にとっては5回目の予想対談になりますが、今回は予想の前に、なぜこれをやっているかをもう一度確認しておきたいと思います。

 

田中 はい。

 

山﨑 受賞作の予想対談という形をとっていますが、ここでやっていることは基本的にふたりが戯曲をどのように読んだか、また、その中で何を評価するのかを言語化する作業だと思うんです。

 

岸田賞は受賞作の出版に合わせて選考委員による選評は公開されますが、紙幅が十分にないこともあって、なぜその作品が受賞したのかあるいはしなかったのかが納得のいく形で示されていないと感じることも多い。だからこの場では、この作品はこう読むことができる、ここを評価するべきだということを具体的に示すよう心がけています。複数の第三者による読みがきちんと出ていれば選考委員の評を相対化することができるし、賞を与える側の権威が不適当に肥大化することをある程度は抑えることができるのではないか。国内に演劇の賞はいくつかありますが、戯曲に与えられる賞としてやっぱり岸田は特別だし、日本の演劇界の健全な発展に寄与する賞であってほしい。

 

田中 そうですね。賞というものを考えるとき、世代間のギャップも無視できないと思います。一般論ですが、偉くなるほど取り巻きに囲まれて視野が狭くなる危険はありますよね。ジェンダーにしろ権力にまつわる問題にしろ、これだけ社会規範が変化しているのに、選ぶ側が自分の根っこにあるものに無自覚でいいのかどうか。

 

私は海外の劇作家や演出家に取材する機会があるのですが、彼らは「時代」と「世界」に敏感です。実際問題は別として、「この作品を持って世界ツアーに行けるか」ということは常に考えている。いま日本の演劇界でそこまで考えている人はごく一部ではないでしょうか。

 

山﨑 それは審査する側、あるいは戯曲を読む側にも問われる問題だと思います。

 

田中 一方で、この国のひずみっていうのかな、もう一度この国を考え直そうよという試みもあって、私はそういうことを考えさせてくれる作品が大好きなので面白く読みました。

 

 

ノミネート作品と選考委員、二人の予想

 

■最終候補作品

市原佐都子『バッコスの信女―ホルスタインの雌』(上演台本)

岩崎う大『GOOD PETS FOR THE GOD』(上演台本)

キタモトマサヤ『空のトリカゴ』(上演台本)

ごまのはえ『チェーホフも鳥の名前』(上演台本)

谷賢一『福島三部作 1961年:夜に昇る太陽 1986年:メビウスの輪 2011年:語られたがる言葉たち』(上演台本)

西尾佳織『終わりにする、一人と一人が丘』(上演台本)

根本宗子『クラッシャー女中』(上演台本)

山田由梨『ミクスチュア』(上演台本)

 

*最終候補作品は2月14日までの期間限定で公開されています。

https://www.yondemill.jp/labels/167

 

■選考委員

岩松了、岡田利規、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、野田秀樹、平田オリザ、柳美里(50音順)

 

 

山﨑 まず予想からいきましょうか。

 

田中 本命は、谷賢一さんの『福島三部作』かな。

 

山﨑 僕の予想は「受賞作なし」です。一番よかったのは市原佐都子さんの『バッコスの信女(しんにょ)』なんですけど、あとで言いますが、いくつか気になる点があったので市原さんは対抗におこうと思います。

 

田中 「受賞作なし」は私も考えました。でもやっぱり私は、原発誘致の問題をしっかり取材して、上演時間6時間にもおよぶ三部作を書き上げたことへの労(ねぎら)いも含めて、谷さんに授賞してほしい。

 

山﨑 大穴は根本宗子さんの『クラッシャー女中』。一見したところはこれまでに最終候補になってきた作品と変わらないんですけど、今回は現代社会批判の作品とも読める。

 

田中 私は、対抗でごまのはえさんの『チェーホフも鳥の名前』。サハリン(樺太)を舞台にした100年スパンの話ですが、社会や歴史といった大きな物語を描くことも演劇においては大事だというメッセージも込みで推したいと思います。大穴は、岩崎う大さんの『GOOD PETS FOT THE GOD』にします。岩崎さんも、突拍子もない設定だけど、「この国の今」を書いているなという気がしたので。

 

山﨑 実は、僕は一つだけ「これは推せないな」と思ったのが岩崎さんの作品だったんですよ。たぶん、力点を置くところが僕と田中さんでは違うんだと思います。

 

 

 

岩崎う大『GOOD PETS FOR THE GOD』

 

■あらすじ

神により地球は消滅すると予言されたその日に至るまでの7日間の話。200年前にそのお告げを受けた未来の人類はさまざまな制度改革を実行、それにより男女間の恋愛はご法度となり、高齢者には自害するための飲み物が配給されている。そのルールに疑問を抱きながらも「神」の試練を無条件で受けとめる村人たち。そこへ200年以上前に冷凍凍結され目覚めたシンペーが現れ、彼らの生き方に一石を投じる。(田中)

 

■上演記録

作・演出:岩崎う大

出演:かもめんたる(岩崎う大・槙尾ユウスケ)、長田奈麻、小椋大輔、もりももこ、土屋翔、船越真美子(以上、劇団かもめんたる)、古屋隆太(青年団)、長尾卓也(劇団プレステージ)、香月ハル

2019年11月〜12月 東京・下北沢駅前劇場

劇団かもめんたる

 

 

田中 今回の候補作は、男性作家と女性作家が同数ですよね。女性作家の4作品からは、日本社会での女の人たちの生きにくさ、苦しさが全面的に出ているなと思ったんですよ。それがすごく今という時代を映していると、まず思いました。

 

山﨑 ジェンダー平等の配慮はあったと思いますが、僕は、女性陣の勢いと比べると男性陣のほうがやや大人しいと思いました。人数をそろえるためにむしろ男性陣のほうが下駄をはかされていないか? と思うぐらい。

 

田中 演劇的な挑戦の度合いとか、「倒れてでもやるぞ」という切迫感は女性陣のほうがあるかもしれませんね。男性陣の作品には「この国を考え直そうよ」というものが多かったと思うんです。岩崎う大さんの作品も、「人類が滅びることが決まっている未来」を書いていながら、やっぱり「この国の今」を書いていると感じました。そういう意味で、今この戯曲を書く意味があるというか、的ははずしていない感じがしたんです。

 

山﨑 僕は、田中さんとは全然違う視点で戯曲を読んでいて。この作品は「同性愛が普通の世界」という始まり方をしますよね。幕が開くと舞台上に二人の男性がいて、膝枕でいちゃついているように見える。現在とは違うモラルで成り立っている世界を描いているという意味では「サンプル」(松井周が主宰する演劇ユニット)っぽいなと思ったんです。今ある倫理観を問い直すことは芸術の一つの重要な役割です。でも読んでいくと、「200年後に地球が消滅する」と神に予言されたことによって子どもをつくることが禁忌になり、異性愛が禁じられた結果として同性愛が一般化したようだということがわかってくる。これでは、今と違う世界を描いているように見せて、もともとの倫理規範を強化しているだけということになります。

 

そう思って読み返すと、最初のト書きにすでに「二人とも男性でそのスキンシップには違和感があるが、それはこのコミュニティにおいては普通のことのようだ」と書かれているんです。「〜あるが」という逆接に、差別意識とまでは言わないですけど、同性愛に対する作家のスタンスが表れていますよね。

 

田中 なるほど。確かに、現在の支配的な規範を無自覚に強化するような点は無視してはいけないと思いますが、私は「人類の行く末」という大きな構えで作品をつくっていることのほうに目が向いたんですよね。

 

山﨑 僕はそういう作品としては評価できませんでした。

 

田中 私にとって印象的だったのは、「始まりがあれば終わりがあるんだよ」とか「人間は増えすぎたんだって」「死ぬのは怖くない」といったせりふです。おちゃらけているわりには人類の未来を真面目に考えてるじゃん、と。

 

山﨑 うーん、考えてるとは思うんですけど、「死ぬのは怖くない」も結局は「怖い」を隠蔽するための方策なわけですよね。別の倫理を示すことにはなっていなくて、結局人間の本質は変わらないという話として読みました。

 

田中 そうだと私も思います。簡単に言ってしまえば「愛こそすべて」。太古から変わらない人間の本質だけど、会話のうまさでここまで描けているのは評価できるかなと思います。

 

山﨑 会話がうまいというのはわかります。でも笑いの取り方ということを考えても、無自覚のマチズモ(男性優位主義)や異性愛規範が滲んでいると思うんです。冒頭から繰り返される「くるぶしを舐める」というせりふの「くるぶし」が、実は男性器のことだったというオチで笑いをとるところとか。男性同性愛者の営みに関する部分だということを考えるとやはりそれをよしとはできないです。

 

 

根本宗子『クラッシャー女中』

 

■あらすじ

世界的に有名な画家の豪邸。一人息子義則と母和沙、義則の友人華鹿男(かかお)や女中ら全部で7人が暮らしている。ファッションデザイナーの義則は自分の好みにぴったりの顔と体を持つ女性静香と出会い、彼女のためにドレスをデザインして求愛する。静香が豪邸に住むようになるが、「専属の女中」としてついてきたゆみ子は実は義則に懸想していた。ゆみ子にひっかき回されてそれぞれの過去や秘密がばらされていく。(編集部)

 

■上演記録

作・演出:根本宗子

出演:麻生久美子、中村倫也、趣里、佐藤真弓、根本宗子、田村健太郎、西田尚美

2019年3月〜4月 東京・ザ・スズナリ、4月 名古屋・日本特殊陶業市民会館ビレッジホール、大阪・梅田芸術劇場シアター・ドラマシティ、島根県民会館、広島・JMSアステールプラザ

M&Oplays

 

 

田中 この作品は上演を見ました。去年も言ったように客席は盛り上がっていたし、俳優陣も豪華。面白いとは思うし商業演劇としてはありだけど戯曲としてはどうなの? という意見は、戯曲を読んでも変わりませんでしたね。

 

むしろ去年は山﨑さんのほうが「女性の決断を肯定する話を装って、男を気持ちよくさせる作品になってないか」と辛い評価をしていたわけですが、大穴に選んだ理由は?

 

山﨑 根本さんは3回目のノミネートで、3作品とも読んでいます。例によってダメな女の話か……と思って読み始めたんです。ところが、今回もダメな女の話でもあるんですけど、「ポスト・トゥルース」の話としても読める。金持ちの御曹司でファッションデザイナーという「絶対王子」を中心に物事が進んでいくわけですが、登場人物によって見えているものが全部違う。それぞれが別々の真実を見ている。どの程度まで事情を知っているかによっても違うし、最終的に全部ゆみ子の陰謀だったみたいな、「陰謀論」の話にもなっている。恋愛が主題の作品で、くだらないと言えばくだらないんだけど、そのくだらなさと世界のくだらなさに違いはない。今の日本の政治家がやっていることは彼女たちの恋愛事情とほとんど変わらないくらいくだらないわけです。そう考えていくと、ふたりきりの世界に閉じこもっていくみたいな終わり方も怖い。ちょっと急に終わってしまう感じはあるんですけど。

 

ただ、演劇であることをことさらに強調するメタな部分は作品上の必然性や意味があるとは思えませんでした。

 

田中 それこそ上演を盛り上げるためのファンサービスですよね。じゃあ戯曲としてどうなのといえば、事態は最後まで混沌としているんだけど「こんな人いるよね」とも思わせるし、面白いとは思います。ただやっぱり、「世の中とはくだらないもので、みんなそれぞれに勝手なことを妄想しながら、自分の世界を生きているんだよ」というような話は、映画でもテレビドラマでもたくさんあると思うんですよね。戯曲としてこれを読んだあとに何か残るかといえば、特に何も残らない気がして。やっぱり、劇場で楽しんでいただければいいんじゃないかなと思います。

 

 

 

 

山田由梨『ミクスチュア』

 

■あらすじ

ある町に突然野生の動物が出没した。どこから来たのか、何者なのか、わからないまま住民たちはその謎の生物についての噂話をしている。スポーツセンターで清掃員として働くモノとヤエ、そのスポーツセンターへ通う大学院生たち、ヨガ教室の受講者たちも同様である。モノの姉ミチはザージバルと称する菜食主義の教えにハマり、動画配信で布教活動をしている。動物たちの出現は何を意味するのか。住民たちは一丸となることができるのか。(田中)

 

■上演記録

作・演出:山田由梨

出演:大竹このみ、田島ゆみか、青山祥子、小日向星一、中藤奨、細井じゅん、松澤傑、有光藍、浜田亜衣

2019年9月 東京芸術劇場シアターイースト

贅沢貧乏

 

 

田中 私はこの作品を含めて、この作家が主宰する劇団の上演を見たことがないので、完全にまっさらの状態で戯曲を読んだのですが。

 

山﨑 どうでした?

 

田中 なぜ評価されているのか逆に聞きたい。それぞれに屈託を抱えた登場人物が入れ替わり立ち替わり出てきますが、「人は一人一人違う」なんて当たり前すぎてわざわざ書くまでもなくて。

 

山﨑 スタート地点しかない?

 

田中 そう。その苦しい気持ちは察したとしても。「わかりますけど、それで?」と。

 

山﨑 ゲイの大学院生やアセクシャルの若者、肉を食べず石鹸を使わないという主義の女性など、いわゆるマイノリティと見なされる人々が複数登場します。作品としてはマジョリティとマイノリティの二項対立ではなく、誰もが差別する側・差別される側の両方になり得る、なっていることを描いた作品だと思うんですよ。スポーツセンターに迷い込んで殺される野生動物は、移民——日本では外国人労働者と呼ばれていますが——排斥のメタファーと読むこともできる。でも、そういった要素がばらばらなんです。タイトルの『ミクスチュア』は誰もがマジョリティとマイノリティの混合物である、という意味にもとれますが……。

 

田中 まさに、「ミクスチュア」と言うわりに登場人物同士が全然関わらないんですよ。差別はやめましょう、線を引くのをやめましょうというメッセージだけはなんとなく伝わるけど、しゃべるだけで誰も何もしない。衝突して傷ついたり、他者と関わることで自分が崩れたり、そういうことが何一つ起こらない。一見会話が成り立っているように見えるけど、ただモノローグが並んで置かれているだけなんですよね。

 

山﨑 例えばゲイの大学院生には、ストレートの友人に対してなんで自分の思いを知っていながら友達でいるのかと聞く場面はあります。それぞれに抱える問題の一部は提示されるんです。

 

田中 でも読む側としては、どのように自分の問題として関わっていけばいいのか、取っ掛かりがない。どれか一つでもいいから深く書かれていれば、少しは違ったのかもしれないけれど。

 

山﨑 問題が提示されるだけで終わってしまっているし、提示の仕方にも新しさは感じられませんでした。観客は安全な場所に置かれているんですよね。作品の中で問題が問題であるとは言っているので、安全に「あれは問題だ」と確認することはできる。

 

田中 でもその先で傷つくところまではいってない。

 

山﨑 観客としては受け入れやすい作品ではあるかもしれません。まずは問題を問題と認識するところから始めなければならないのはたしかですし。

 

田中 そうですね。新しい発見があった、こんなことを知れてよかったと思う人はいるかもしれない。

 

山﨑 だけど戯曲としては、個々の問題、現代社会への踏み込みが甘いと思う。それぞれの登場人物が、例えばゲイやアセクシャルを作中に登場させるための記号のように見えてしまいました。

 

 

キタモトマサヤ『空のトリカゴ』

 

■あらすじ

平成、バブル崩壊のきざしが見え始めるころ。開港間近の関西国際空港からそれほど遠くない街。役所勤めの父、専業主婦の母、歯科衛生士の姉と暮らす大学生の私は翌春には教員になる予定だが、内心しっくりきていない。飼っていたジュウシマツをヘビが呑み込んでしまうという事件のあった翌日、私の前に疎遠だった伯父が姿を現す。かつて学生運動家だった伯父との再会は淀んだ水のような生活にささやかな波を立て──。(編集部)

 

■上演記録

作・演出:キタモトマサヤ

出演:大熊ねこ、村尾オサム、坂本正巳、松本信一、久保田智美

2019年11月 京都・THEATRE E9 KYOTO

遊劇体

 

 

山﨑 先ほどの『ミクスチュア』も含めて、今回の最終候補作8作品のうち3作品にコロスが出てくるんですよ。『ミクスチュア』には「コロス」とは書かれていないんですが、「全ての登場人物は『住民』も演じる」と書かれていて街の様子を表すので、実質的にコロスのような役割を果たしていると言えます。

 

田中 あとは、キタモトマサヤさんの『空のトリカゴ』と、市原佐都子さんの『バッコスの信女』ですね。

 

山﨑 『バッコスの信女』のト書きを見ると、コロスは「劇の状況や登場人物の感情を説明する合唱舞踊集隊」と説明されています。一般大衆の代弁者のような役割も果たしてきたコロスが、SNS全盛で顔のない大衆の声がときに大きな力を持つ現代日本で今、注目されるというのはある種の必然かもしれません。

 

で、コロスの使い方が一番面白かったのが、キタモトさんなんです。ギリシャ悲劇を下敷きにしている『バッコスの信女』以上に、作品全体の構造に関わっていると思ったんですよね。

 

田中 例えばどんなところにそれを感じたんですか?

 

山﨑 ト書きにコロスは「私(シュンヤ)以外の全員で演じる」と書かれていますが、それがシュンヤを囲むトリカゴみたいだなと思って。シュンヤの行動を制限したり、方向づけたりする檻みたいなイメージでコロスをとらえたんです。

 

タイトルは『空(から)のトリカゴ』だと思うんですが、副題に「Birdcage In The Sky」とあるように、『空(そら)のトリカゴ』とも読める。その、内と外が無限に反転するような構造が作品全体に反映されている。トリカゴの中にいたジュウシマツがヘビに飲み込まれますが、そのヘビはジュウシマツを飲み込んだことによってトリカゴから出られなくなる。ヘビがゆっくりと消化していくジュウシマツも、栄養であると同時に、これから社会に出ていくシュンヤにとって飲み込み難いもの、社会のルールや大人の事情のメタファーでもある。トリカゴのような田舎の町と、その外側に広がる日本。空港から飛行機は飛び立つけれど、それはもっと大きな世界の中の出来事でしかない。そんな何重にも取り囲まれているイメージがあると思うんですよ。

 

田中 なるほど。コロスがシュンヤを取り囲む無形のトリカゴを表現している。

 

山﨑 でも一方で、シュンヤ=「私」の一人語り、例えば心の内で吐露する疑問をコロスが語る部分もある。周囲の環境が「私」の意思を作るというのはわかるんですが、心に浮かぶ疑問までコロスに言わせる必要があるのか、みたいなところでちょっと引っかかりました。

 

あとは、冒頭の山登りのイメージですよね。「私」が大人になっていくことと重ね合わされているんだと思うんですが、そこでコロスが「さあ、どこへ向かう。さあ、どこへ」と言うのはけっこう強烈なイメージじゃないですか。ラストで一応回収されてはいると思うんですが、果たして問いかけの力強さに戯曲の展開が応えられているか。「成長」はエピローグ的な場面の語りで説明されているだけになっているように感じました。

 

田中 かつての「青年」のイメージですよね。60年代70年代はこういう悩める青年像は珍しくなかった。山﨑さんは分析的に読んでいるけれど、演劇が複雑化する前の、もっと素直な書き方で書かれているんじゃないかなと思います。

 

山﨑 読みものとしては面白く読みましたが、プロローグとエピローグから感じる壮大さ力強さと比べると、戯曲の中心を占める部分が「しょうもない」。カゴの中でくすぶっていることを描いているんで当たり前ですしそこはそこで面白いんですけど。

 

田中 私は対抗にキタモトさんを入れてもいいなと思ったぐらい、やっぱり読みものとして文章が美しいんですよ。言葉の選び方はさすが、伊達に長くやってないと感じました。「学生運動」とか「レジスタンス」とか、若い人にとってはわからない言葉だらけなんじゃないかなと思いますが、この作品が持っている社会性は今も通用すると思ったんですよね。利権で動く世の中とか、お上がやることへの異議申し立てみたいなもの。

 

谷さんが『福島三部作』で「原発利権に翻弄された町があることを忘れないで」と言うのと同じように、キタモトさんは関西新空港建設をモチーフにして「この国は利権でできていて、みんな裏では汚いことをしてるんだ」と言っているわけですよね。そんな世の中で私たちはどう生きていくのか。そういうことを簡単な言葉で言ってくれるというのがいいなと思ったんです。

 

山﨑 タイトルが示す構造はよくできてると思うんですけどね。

 

田中 うんうん。メタファーとかも機能していますしね。家族の描き方にしても、今この言葉を書けるのは面白いと思いました。

 

 

市原佐都子『バッコスの信女―ホルスタインの雌』

 

■あらすじ

「イケアのショールームをそのまま再現したような」リビングダイニングで暮らす主婦。以前は家畜人工授精師として働いていたこと、ハプニングバーで経験した女同士のセックス、精子バンクで精子を買ったことなどが語られる。そこへ人間と牛のハーフである獣人が訪れる。山で女性だけで集団生活をしているという。獣人は究極の快楽だというバターマッサージに主婦を誘い、主婦は好奇心からついていくのだが……。(編集部)

 

■上演記録

作・演出:市原佐都子

出演:川村美紀子、中川絢音(水中めがね∞)、永山由里恵(青年団)、兵藤公美(青年団)ほか

2019年10月 愛知県芸術劇場 小ホール

 

 

山﨑 私は市原さんの作品を今回のノミネート8作品ではトップ、予想としては対抗としました。それは主に戯曲の構造としてよく書けているという点を評価してのことです。第61回の岸田賞にノミネートされた『毛美子不毛話』(2016年)はご覧になりましたか?

 

田中 見てないです。

 

山﨑 これは『毛美子〜』と裏表の作品かなとも思ったんですね。『毛美子〜』は二人芝居で、女優と男優が出てきます。男優は次から次へと男女いろんな役をやるんですが、それらはすべて女優が演じる「私」に対して男性優位の規範を押し付けてくる。「私」もそれを内面化してしまっていて、そういう意味で男優が演じる人物たちは全員もう一人の私ですらある。「私」は常に押し付けられた価値観に「踊らされる」んだけど、最後はせめて自分の意思で踊るんだという宣言で作品は終わります。

 

『毛美子〜』が同じ規範を繰り返し内面化していく話だとしたら『バッコスの信女』は、欲望の対象を次から次へとスライドさせていく話です。そこでは「欲望の自己完結の不可能性」が描かれている。だから、食べることと生殖のモチーフがつながってくる。

 

田中 「生」と「性」が色濃くありますよね。

 

山﨑 宣伝ビジュアルに頭が人間で体がホルスタインの生き物(獣人)が描かれていますが、ほぼこのままの造形のものがこれまでの作品でも何回も出てきているんですよ。ただ、これまではなぜホルスタインなのかがよくわからなかったんです。単なる作家のフェティシズムにも見える。

 

田中 この作品ではかなりきちんと説明されていますよね。主婦がかつて牛の人工授精の仕事をしていたとか、主婦が牛肉を焼いて食べるとか。

 

山﨑 物語としてもそうなんですが、今回は構造としても説得力のあるものになっていると思いました。食べるためには生き物を搾取したり、殺したりしなければいけない。つまり、他者と関わらざるを得ない。性の面では、自己完結しようとしては失敗するということが繰り返し描かれます。男抜きで欲望を成就、完結させようとして、女性とのセックスを求めてみたり、精子を買ってみたり、犬を飼ってみたりするわけですが、どれも「失敗」する。獣人が語る「神の精子による人工授精」も、男なしで妊娠するみたいな、自己完結の欲望じゃないですか。でも、子どもが欲しいという欲望自体、自己完結はできないですよね。子どもという他者が生まれてしまうので。欲望というものが他者を巻き込んで、傷つけて、もしくは自分が他者の欲望に巻き込まれて、傷ついて回っていくものだということ、その闘いがぐるぐるぐるぐる語られていく。

 

田中 うんうん。

 

山﨑 母乳と精液というどちらも白い液体が循環する奇妙なイメージ、牛の雌の上半身と人間の雄の下半身を持った獣人のイメージはその戦いの象徴として捉えることができます。

 

田中 よくわかります。戯曲についてはその通りだと思うんですが、その自己完結の欲望の先には何があるんだろう、と思ってしまうんです。

 

山﨑 闘い続けるしかない、みたいなことだと思うんですよね。

 

田中 私も面白く読んだんです。女性にとっての「生」と「性」というテーマを、ヒステリックになるわけでもなく、うまく処理していると思う。女同士の性交を見るために男の人がむらがっているところとか、好きでもないし口の臭い男を「これで手を打つか」みたいに打算で結婚相手に選ぶところとか、自分のことなのに他人事みたい言うんですよね。見られているとわかっててサービスであえぎ声を出しちゃって人気者になるとか、そういうディティールも面白かった。

 

山﨑 でも受賞に推すほどではない?

 

田中 やっぱり「女の戯曲」だと思ってしまうんですよね。日本の女の社会的立場をうまく書いているなという感想にとどまってしまう。

 

山﨑 そういう意味では、主人公の主婦自身が「私の生きづらさ」を主張するわけではないところがポイントだと思いました。自覚があるのかないのか、欲望を成就するためにすべてが淡々と遂行されていく。それが逆に怖いし、今の日本で女性が置かれた状況の苛烈さを可視化していると感じました。

 

上演の話になってしまいますが、主婦を演じた兵藤さんは最初から最後まで、にこやかな主婦みたいな感じなんですよ。にこやかな主婦が、ハリボテみたいなセットにいる。ト書きに「イケアのショールームをそのまま再現したような部屋」と書かれていますが、実際に舞台空間はけっこう広いのにセットはすかすかなんです。イプセンの『人形の家』じゃないですけど、形だけの家の中で、淡々とあるいは自覚すらされないままに闘争は行われている。

 

田中 なるほど、『人形の家』か。普通であればあるほど、これが今の日本の女の人たちの現実なんだよということが伝わる。生殖や排泄を露悪的に扱った問題作というだけではないですね。

 

山﨑 それでも本命に推さなかったのには理由が二つあります。一つは主要な登場人物3人のうちのひとりであるはずの「イヌ」の扱いがあまりにバランスが悪いのではないかということ。もう一つは、ギリシャ悲劇の翻案として形式はきちんと踏まえられているのですが、モチーフは従来の市原作品からほとんどそのまま引き継がれていたということです。せっかくギリシャ悲劇を題材にしたのに描いていることが今までとそう変わらなかったという点は物足りなかったです。

 

 

西尾佳織『終わりにする、一人と一人が丘』

 

■あらすじ

2017年、女はあるフードコートで恋人を見かける。恋人は息子を連れていた。別の女が来て「大丈夫?」と声をかける。次のシーンでそれは37年後の私であることが明かされる。女はマッチングアプリで出会った男と旅に出る。過去と現在と未来を行き来してつむがれるエピソードが、互いに浸食するように交差する。そして、男によって語られる母親に置き去りにされた記憶。子どものころの自分を癒すことができるのか。(編集部)

 

■上演記録

作・演出:西尾佳織

出演:石川修平(劇団俳優座)、菊沢将憲、鳥島明(はえぎわ)、花井瑠奈、布施安寿香(SPAC)、和田華子(青年団)

2019年11月 東京芸術劇場 シアターイースト

鳥公園

 

 

田中 この作品も、当たり前のことしか言っていないよねという印象を受けてしまいました。ここで確認する必要ある? という感じがして。

 

山﨑 テーマらしきものを登場人物がしゃべっちゃうところが曲者です。「言葉が伝わらないのも、こころが通じないのも、誰といてもそうだった」とか、「当然わかるだろうというわかり合えなさ」とか、結局せりふで「わかり合えないけど一緒にいる」ということをしゃべってしまっている。で、それってかなり最初のほうで言語化されているんですよ。

 

田中 第一部のフードコートの場面で「人と人とが別々の生きものだ」と言ってしまっているんですよね。

 

山﨑 そのことをどう評価すればいいかが難しいところです。この作品自体がわかるようでわからない戯曲としてそこにあるような感じがあります。

 

田中 全体としては、シーンごとにバラバラのエピソードが展開し、その積み重ねで一つの戯曲を構成するというつくりになっていますよね。で、読み進めていくんですが、なんだかよくわからない。中には面白く読めるパートもあるんですが、つまらないところは本当につまらなくて。

 

山﨑 そこは狙いでもあると思うんです。エピソードで言うと、「セミナー」のところがあるじゃないですか。

 

田中 「『そんなことないよ』を期待して自己批判をしてしまう」のところですね。あそこの会話は面白かったですね。

 

山﨑 他人の目を気にして自分の意見が言えない、そんな自分を変えるためのワークショップをみんなでしましょうというときに、私はやりたくない、わかってもらえなくてもいいと「自分の意見」を言ってしまう人が現れる。でもその意見は結局その他大勢の意見によってなかば封殺されてしまいます。そのアイロニカルな構造が巧い。そこだけで完結しているようにも読めるんだけど、全体の中の一部としても機能している。

 

田中 かと思うと、まったく共感できないパートもあって。例えば、商店街を歩いていて、女が男に「ちなみに普段、立ちションされます?」と聞く場面がありますよね。そのあとストリップショーの話になって、女が女性器についていろいろ言う。まったく共感できないし、エピソード自体が面白いとも思わない。

 

山﨑 その共感とわからなさのブレンド具合が絶妙だと思うんです。たぶん、何一つ共感できないという人はいないと思うんですね。親切に主題らしきものを説明してくれさえする。一方で、全部共感できるという人もいないと思うんです。ディテールの「わからなさ」は残る。あと、戯曲を読んでいると、登場人物が誰が誰だかわからなくなってきません?

 

田中 なりますなります。女3は女1の未来と書かれているんですが、その二人が同じ場面で登場したりするので、「これは誰だっけ?」「この人は誰の母親だっけ?」と。

 

山﨑 物語としては、わからないまま一緒にいることによってなんだか混じり合ってくるようなこともある、みたいなことが描かれています。登場人物のレベルでも筋のレベルでも、すべてが混ざって一緒くたになるなんてことはないですが、ところどころ、触れ合っている部分で境界が曖昧になっているように感じられるところがある。それは語りの手法としても実践されています。ある一人が視点人物として語っていると思ったら、別の人物にぬるっとバトンタッチするように語り手が変わってしまったりする。主体のない同調圧力は生きづらさにつながる一方、主体の一部を預ける、他者との間のままならなさを許容することで楽になることもあるはずで。だから、「わからなく、しかし共にある」ということが物語の中でも戯曲と読者との間でも起きるように書かれている。説明してもわかりきらないこと自体も主題に組み込まれているんですが、「こんなに説明しなくてもいいんじゃないの?」とも……。

 

田中 私もそう思います。昨年受賞した『山山』(松原俊太郎)なんて、「わからない」のかたまりでしたけど、それでも読者はついてきたわけですよ。

 

山﨑 メッセージで止まりでは、戯曲としてはダメなんです。それだったら「わかり合えなくても一緒にいることが重要だ」と言えばいい。でもそれは簡単に悪しき相対主義になってしまう可能性がある。だけど、この作品は、その先に手を伸ばすために作品の時間を使っている。それは困難だけど当たり前、当たり前だけど困難なことで、だからこそ個人的にはそこはまずベースでいきたいという気持ちもあって強くは推しませんでした。

 

 

ごまのはえ『チェーホフも鳥の名前』

 

■あらすじ

日本とロシアの間にあり、戦争によりその領土の半分の帰属が未締結であるサハリン(樺太)島。昔からロシア人、アイヌ民族、日本人(倭人)、北方少数民族、さらには朝鮮人らが時勢に応じて移動を続け、時に混ざり合いながら暮らしてきた歴史がある。チェーホフはこの地を訪れた経験を旅行記「サハリン島」に記し、宮沢賢治も彼の詩作の中でその地について詠んでいる。サハリンの人々の歴史に翻弄され続けた生涯を描く。(田中)

 

■上演記録

作・演出:ごまのはえ

出演:門脇俊介、高原綾子、澤村喜一郎、仲谷萌、池川タカキヨ、千田訓子、西村貴治、山岡美穂、黒木夏海、尾鳥英二

2019年8月〜9月 兵庫県・アイホール

ニットキャップシアター

 

 

田中 ごまのはえさんの作品は対抗に挙げました。歴史に取材した大作ですよね。物語の射程の長さを感じます。4幕は読んでいて少し混乱しましたが、それは物語の必然からくるもので。戦争が終わって島の帰属が変わり、朝鮮人は日本人ではなくなった。名前も変わるし、人も動く。故郷に帰れない人もいる。そういった混乱を含めて、この時代に生きるとはこういうことだったんだろうなと感じることができた。政治劇の枠にとどまらない、普遍的な物語になっていると思います。

 

山﨑 そこがこの作品のいちばんいいところですよね。僕がうまいなと思ったのは、登場人物がチェーホフを評価するところ。3幕の舞台は戦後のサハリンですが、ソ連の青年アンドレイは『三人姉妹』のせりふは「とても不愉快だった」と言うんですよね。なるほど、ソ連という労働者の時代に読むとそういう評価になるのかと。チェーホフをめぐるやりとりで、今とは違う価値観があるということがはっきりとわかります。作家自身にもその時代の生活があったということも想像できるようになっていて、「チェーホフ」という作家を物語に登場させる意味がちゃんとある。

 

田中 チェーホフの引用にしても、きちんと考えられていますよね。

 

山﨑 ただ、いくつか気になるところもあって。まさにチェーホフのように会話が連なって進むところもある一方で、断片的な独白の連続で構成されているところもある。幕間②と4幕の「断章」ですね。意図的に書いているのは明らかですが、この書き方に効果があるとはあまり思えませんでした。「朗読」とあるのも同じで。登場人物に語らせるならまだわかるんですが、「朗読」ってなんだろうと思って。「朗読」ということは何かを読み上げているということだけど、誰が読み上げるのかもわからない。会話以外の部分が十分に練れてそうなっているのか、上演上の都合でそうなっているのかが判然としない。

 

田中 MC的な人が出てきて歴史的事実を語ることは珍しくはないですよね。歴史的な背景を説明しますから、各自頭の中でチェックしておいてください、みたいな。

 

山﨑 「朗読」の部分はそれで納得するとしても、幕間と「断章」についてはなぜ、誰にこの人たちは語っているんだろうというところが気になってしまいました。それからもう一つ。これは僕が関西のノリと合わないということもあるかもしれませんが、せっかく樺太を通じて複雑なものを描いているのに、「プーチン丸」と「シンゾー丸」はないだろうと(笑)。

 

田中 出てきますね(笑)。でもそれをやりたかったんじゃないですか。互いに自分の犬を自慢し、相手の犬をけなし合うという(笑)。

 

山﨑 絶対やりたかったと思うんですよ。でも、そういう固有名が出てしまうと、一気に単純な話として受け取られてしまう可能性もなくはない。作家ならそこは我慢しようよ、と思ったんですよね。あそこは、僕はだいぶ評価を下げました。

 

田中 そうですか。私は喜んじゃいました。権力への風刺も効いているし、そういうのは大好き(笑)。ただ、最初に話したジェンダーのことに戻ると、男性作家が「プーチン丸」とか「シンゾー丸」とか言っていられるのは、女性作家がこれだけ自らの女性性と格闘しているのに対して、やっぱり男性性というか、自分の問題と向き合う必要のない立場にいるということなんだなとは思いましたね。

 

さまざまな民族、国籍の人が集まって一つの町をつくるという題材はタイムリーだし、歴史に翻弄された人たちの物語はいろんな面で今の社会を考えさせられる。視野の広い、面白い戯曲だと思います。

 

山﨑 現在の関係の背後には必ず歴史があるということが、人々の生き様を長いスパンで描くことで具体的な手触りとして感じられるようになっている。よい作品だと思います。

 

 

谷賢一『福島三部作 1961年:夜に昇る太陽 1986年:メビウスの輪 2011年:語られたがる言葉たち』

 

■あらすじ

福島で原発誘致が始まった1961年、原発稼働から15年が経ち、チェルノブイリで原発事故が起きた1986年、そして福島第一原子力発電所で未曾有の原発事故が起きた2011年、の3つの時代をある家族の三世代に及ぶ出来事を通して描いた三部作。原発がもたらした副産物の数々、政治とそれに関わる利権争い。それぞれの立場で揺れ動く住民たちの言葉から「もし」はあり得ない歴史に演劇の想像力で向き合う。(田中)

 

■上演記録

作・演出:谷賢一

出演:【1961年:夜に昇る太陽】東谷英人、井上裕朗、内田倭史(劇団スポーツ)、大内彩加、大原研二、塚越健一、宮地洸成(マチルダアパルトマン)、百花亜希(以上DULL-COLORED POP)、阿岐之将一、倉橋愛実 【1986年:メビウスの輪】宮地洸成(マチルダアパルトマン)、百花亜希(以上DULL-COLORED POP)、岸田研二、木下祐子、椎名一浩、藤川修二(青☆組)、古河耕史 【2011年:語られたがる言葉たち】東谷英人、井上裕朗、大原研二、佐藤千夏、ホリユウキ(以上DULL-COLORED POP)、有田あん(劇団鹿殺し)、柴田美波(文学座)、都築香弥子、春名風花、平吹敦史、森準人、山本亘、渡邊りょう

2019年8月 東京芸術劇場 シアターイースト 8月〜9月 大阪・in→dependent theatre 2nd 7月・9月 福島・いわき芸術文化交流館アリオス 小劇場

DULL-COLORED POP

 

 

田中 私は、谷さんの作品を本命に推しました。原発誘致に関する問題を調べ上げて、体系的に三部作として描き切ったことに対して、賞をあげてもいいんじゃないかなと思ったので。

 

山﨑 大作であることは間違いないと思います。ただ、昨年の候補作に上がった詩森ろばさんの作品が、やはり原発を題材にしていましたよね。

 

田中 『アトムが来た日』ですね。茨城県東海村の核燃料加工施設を題材にしていました。

 

山﨑 原発事故を題材にした作品はいくつもありますが、その中で特に『福島三部作』を評価するとしたらそれはなぜなのか。大作ではありますが……。

 

田中 あの原発事故以来、何人もの劇作家が向き合ってきたテーマなわけですよね。それに一つを区切りをつける作品だったかなという感じがあります。選考には上演台本が提出されていますが(注:『福島三部作』は戯曲本が出版されている)、実在した人物や地名などを説明する脚注がついていて、それ込みで面白かったですね。

 

山﨑 注も含めた読みものとしてはいいものになっていると思う一方で、特に優れているかと問われると躊躇するところもあります。いくつか気になったところがあって、ひとつは死者の声の扱い方です。第2部で、死んじゃった犬のモモの視点で語られる部分があります。動物や死者という言葉を持たないものたちもそれぞれに固有の声を持っているのだという想像力は重要です。でも、第3部の冒頭では死者がひとかたまりで出てきて、「私たちは死にたくなかった」と声を合わせて言うじゃないですか。そこはすごく引っ掛かりました。死者をひとかたまりのものとして扱うことは一歩間違えば死者の声を奪うことにもなります。しかも、第3部の冒頭で地震を起こしますよね。戯曲上でも明らかに発災の状況を再現しようとしているし、上演ではかなり強い音でゴゴゴゴゴーッ!と地震を表現していた。それをやる必要が果たしてあるのか。単にスペクタクルとして消費しているだけではないのか。上演の印象もあるかもしれませんが、地震と死者の語りの使われ方は、僕にはちょっと耐えがたいものでした。

 

田中 私はこの戯曲は、3.11という災害を描くこともあるんだけど、それよりも、この国の戦後の機構への異議申し立てですよね。利権だらけの政治とか、未来を考えないこととか、もういい加減に言わせてもらいますよという話だと受け止めました。1961年から2011年の50年間を描くことで、そのスケール感は出ていると思う。

 

山﨑 時代が変わっても同じ問題が繰り返し出てくることを描く必然性もある。原発誘致の話が来たときはまだ引き返せたけど、一度走り始めたらもう引き返せない。そして事故が起きる。もう取り戻せない。ということを1部2部3部と描いていく。だから三部作であることにも十分に意味がある。ただ、もう知っている話というか、これを見る前と見たあとで僕は何も変わらないなという気がして。

 

田中 私たちが生きている現在にも続いている話だと思ったんです。それこそ、キタモトさんが描いた関西新空港をめぐる利権とか、ごまのはえさんが描いた樺太の歴史に翻弄される人たちとか、いろんな問題がここに凝縮されているぞと。例えば、戦後いろんなかたちで太平洋戦争について語られてきたわけですが、最近は戦争を語る作品や上演が少なくなっていると言われます。忘却の危機は常にある。そんな中で、どうしてこの国はこうなってしまったのかということを検証するためにも、一度読んでもいいんじゃない? という戯曲ではないかと思うんです。

 

山﨑 谷さんの作品で僕が見た中ではいちばんいいと思うけど、やっぱり、ドキュメンタリーでできる範囲の仕事しかしてなくない? と思ってしまうんですよね。

 

田中 公演期間中、日に日に当日券に並ぶ人が増えていったじゃないですか。あの現象を見ても、上演する意義はあるのではないかと思います。戯曲の完成度とは別の話になってしまいますが。

 

山﨑 戯曲本のあとがきで谷さんは「今の私にとって演劇とは何なのか、と尋ねられれば、演劇とは儀式であると答える」と書いているんです。同じ場で過ごす時間を共有することが大事なんだと。でもそれは上演の話で、じゃあ戯曲とは何なのか、ということも考えました。

 

田中 私はやっぱり、一挙上演というやり方もよかったと思うし、そういうふうに続けてみることのできる三部作を書いてくれたというのは、よかったと思いますね。

 

*最終候補作品は2月14日までの期間限定で公開されています。

https://www.yondemill.jp/labels/167

 

 

「戯曲」の賞であることの意味

 

田中 面白く読んだ作品はありましたが、やっぱり突出した作品はなかったですね。来年はどうなってしまうのだろう。

 

山﨑 今回は8作品すべてが上演台本だったことも気になりました。読んでいて上演台本であることが気になるということは、上演台本だろうが戯曲だろうが関係ない! と思える圧倒的な面白さにはなっていないということかもしれません。

 

田中 また海外の話になってしまいますが、大きな劇場だとほとんどの場合、上演のときにはすでに戯曲が本になったものが売られているんです。戯曲って独立した読みものなんですよね。上演台本は、それとは違う。

 

山﨑 上演台本から見える上演を評価するのか、上演から十分に独立したものとして戯曲を評価するのかは、厳密には違うことです。上演台本から立ち上がる上演を評価するということならば、そのために十分な記述がなされているかどうかもひとつの基準となるのではないでしょうか。

 

田中 戯曲もちゃんと読ませてくれないのに戯曲賞ってなんなのよ、と(笑)。本来、その本をもとに若手の劇団や学生演劇の人たちがエチュードをやったりするわけですからね。

 

山﨑 戯曲が十分に独立したテキストであることは、冒頭の権威の話にもつながってきます。書いた本人が正解を握ってしまうようなテキストはいいテキストとは言えないのではないでしょうか。そういう意味でも、演出家と劇作家が分離する流れが若手から出てきているのは、興味深いですね。

 

白水社・岸田戯曲賞 サイト

http://www.hakusuisha.co.jp/news/n12020.html

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.273 

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