「獲得による普遍化」という解決──センのアプローチをどう読むか

アイデンティティ喪失という解決

 

ではどうすればいいのでしょうか。

 

たしかに、前回もおしまいの方で書きましたように、現代の資本主義経済の発展方向は、ある意味では私たちのここでの問題意識にとって、チャンスの方向と言えるかもしれません。

 

グローバル化とIT化、ロボット化と、それによる大競争で、これまでの複雑労働力は要らないものにされ、国民経済の自立性もビジネス慣行の国民性も解体され、みんなアメリカと同じ消費文化にされようとしています。

 

『共産党宣言』の描く資本主義の威力が、いっそうスケールを大きくして再現したようです。なるほどこの傾向が続くならば、世代がすっかり入れ替わったころには、世界中に生み出された均質なプロレタリアート大衆によって、マルクスの「美しい」展望が復活可能かもしれません。

 

しかしこれらのことは、さしあたりは、かえって旧来のアイデンティティを一旦強化しがちです。

 

コンピュータやロボットに脅かされるからこそ、かえってこれまでの技能にこだわったり、会社共同体が崩れていつでもクビにされかねなくなってこそ、かえって「我が社」のアイデンティティにこだわったり、国の経済の自立性が失われてグローバル化にさらされてこそ、かえって国のアイデンティティにしがみついたりするものなのです。

 

そして、さんざん大きな犠牲を払った末に、ようやくアイデンティティの解消が受け入れられることでしょう。それまでのプロセスでは、たくさんの人が失業で飢えたり、戦争やテロなどで、おびただしい人命が失われたりすることになるかもしれません。

 

そもそも、今までのアイデンティティを奪われることは、疎外そのもので、その当事者にとっては不幸なことです。そんなことがなしですむのなら、それにこしたことはありませんよね。

 

 

「ニーティ」の正義と「ニヤーヤ」の正義

 

ここで検討してみたいのが、アマルティア・センさん(1933-)の考えです。

 

有名な「ケイパビリティ」概念を使ったセンさんの厚生経済学理論自身は、私自身これから勉強していく段階ですので、深く論じる力量はありません。ここでのテーマに関係した議論にかぎりとりあげますことをご容赦下さい。

 

さて、センさんは『正義のアイデア』(注1)において、ロールズに対して最大限の敬意を示しつつ、のっけから彼の理論を徹底批判しています。その論拠は、ある意味で、私が上でレーニンの立場を批判したものと同様のものと思われます。

 

(注1)池本幸生訳、明石書店、2011年。原著2009年。

 

センさんはインド出身だけあって、ここで古代インド法学の概念をひっぱってきます。そこには「正義」を意味する二つの言葉、「ニーティ」と「ニヤーヤ」があると言います。「ニーティ」とは制度や行動の正しさのことで、「ニヤーヤ」とは「実際に何がどのように起こるのか、特に、人々が実際に送ることのできる暮らしと関わっている」(注2)とのことです。センさんはこのうち、「ニヤーヤ」の方に立って、「ニーティ」を批判しています(注3)。

 

(注2)同上書12ページ。

(注3)特に同上書56-62ページ。

 

センさんは、ロールズのみならず、ボッブズ、ロック、ルソー、カントといった社会契約論の流れにある主要な正義論の多くを、「ニーティ」の側において批判しています。センさんはこれらの立場を「先験的制度尊重主義」と呼んでいます。というのは、これらは「完全なる正義」とそれに基づく制度ばかりに関心を集中している立場だと言うのです。

 

「先験的」というのは、天降り的に理性だけで考えて話を導くことです。実際に見たり聞いたりして経験するあれこれの現象や、現実のあれこれの利害を超越して、あくまで公平に「正義」を語るべきだという立場で、これが駄目なんだとセンさんは言うわけです(注4)。

 

(注4)同上書12-13ページ、37-38ページ。

 

それに対してセンさんが支持しているのが、スミス、コンドルセ、ウルストンクラフト、ベンサム、J・S・ミルの流れで、センさんはここにマルクスも含めています。そして、通常主流派経済学の一派にはいる「社会的選択論」もここに入れています。

 

こっちは「ニヤーヤ」の側ということだと思います。こちら側は、完全に公正な制度を描くことではなく、現実の社会や、現実にあり得る社会で、「人々の暮らしがどのようなものになるのかを比較することに共通の関心があった」(注5)とされています(注6)。

 

(注5)同上書13ページ。強調は引用者。

(注6)同上書13ページ、38-39ページ。

 

要するに、人々の実際の暮らしの状態から切り離して外に「正義」を設定するアプローチを否定して、あくまで人々の実際の暮らしに基づいて正義を論じるよう述べているわけで、これは、これまで見てきたフォイエルバッハ=マルクスの「疎外論」の問題意識と同じだと思います。

 

 

コミュニティの一員としてのアイデンティティの強調がもたらす地獄

 

しかしではセンさんは、ロールズみたいな普遍志向を排撃して、民族によってそれぞれ違うできあいの伝統に閉じこもればいいと言っているかというと、もちろんそうではありません。

 

私は、近年の世界の出版物の中で一番重要なことを言っているものが、センさんの『アイデンティティと暴力』(注7)だと思います。とりあげられているテーマは、冷戦後頻発している、民族や宗教のアイデンティティを理由にするテロや戦争や人権侵害をどうなくすかということです。ここでセンさんは、「コミュニティの一員」としてのアイデンティティを、人間にとって決定的なものとみなすことが悪いと言っています。

 

(注7)大門毅監訳、東郷えりか訳、2011年。原著2006年。副題は「運命は幻想である」。

 

「コミュニティの一員」としてのアイデンティティを、人間にとって決定的なものとみなすというのは、以前にも見た通り、コミュニタリアンが提唱してきた立場ですが、これこそが、悲惨な民族紛争やテロ、個人の抑圧をもたらすのだと強調しているのです。

 

センさんは、子どものころに、それまで仲良くしていたヒンズー教徒とイスラム教徒が突然殺し合いを始めた紛争を目の当たりにして衝撃を受けました。だから、「民族ごとのそれぞれの伝統文化を尊重しましょう」的な、リベラル風コミュニタリアンの解決を信じるほどお気楽にはなれないのです。すなわち──

 

欧米に暮らす移民家庭では、若い娘たちが外の影響を受けないように監視され(注8)、多数民族側の青年とデートすることが阻止されることがあるが、こうした親側の禁止行為に対して、「伝統文化は尊重すべきだという理由から、多文化主義者とされる多数の人びとから声高な賛同の意が寄せられる。」(注9)

 

(注8)同上書163ページ。

(注9)同上書218ページ。

 

イギリスで、自国を「コミュニティの連合」とみなす見方からは、公費補助の宗教学校を、イスラム教、ヒンドゥー教、シク教等と拡充する動きがでているが、これは、イギリスにいる移民家庭の子どもたちにあらかじめどれか一つのアイデンティティの枠をはめ、その他のいろいろな潜在能力を開発する機会を奪ってしまう(注10)。

 

(注10)同上書165、222ページ。

 

多文化主義者の側からは、「ヨソの文化のことを善い悪いと判断できない」という言い方がされるが、「女性の不平等な社会的地位を維持したり、姦通罪で訴えられた女性を四肢切断から石打ちまで、さまざまな慣習的刑罰に処したりするなど、特定の習慣や伝統を守るためにも、そのような方法が利用される。」(注11)

 

(注11)同上書58ページ。

 

非西洋世界では、旧植民地支配や超大国への反発のあまり、「西洋とは異なる」という観点から自己のアイデンティティを定義し、自由や権利のような価値を「西洋的なもの」とみなして排する傾向がある。

 

アジアでもアフリカでも、そうした立場から、「文明ごとの価値観の多様性を認めろ」と言うもの言いで、権力者側が非民主的な強権支配を世界に向けて正当化している(注12)。

 

(注12)同上書124-141ページ。

 

そして、コソボやボスニアでもルワンダでもティモール、スーダンでも、アイデンティティの共有意識が扇動されることで、人々がやすやすと別集団に憎悪を向けて、おびただしい殺戮が行われた(注13)──このように言うのです。

 

(注13)同上書7ページ。

 

 

「アイデンティティの複数性」という解決

 

それに対して、センさんが提唱しているのは、「アイデンティティの複数性」です。すなわち──

 

われわれはみな、一つのコミュニティにだけ属しているのではない。「国籍、居住地、出身地、性別、階級、政治信条、職業、雇用状況、食習慣、好きなスポーツ、好きな音楽、社会活動などを通じて、われわれは多様な集団に属している。」(注14)

 

(注14)同上書20ページ。

 

それゆえ各自は、自分をとりまく多様な人間関係の中で形成されている。一つの共同体の中の人々も、めいめいが互いに異なる人間関係を持っていて、均質な文化価値観で塗りつぶされるわけではない。

 

それゆえ、各自はみな、自分をとりまくたくさんの人間関係からさまざまな価値観を吟味して、アイデンティティを選択できる。その自由を制約してはならない(注15)──センさんはこのように言うのです。

 

(注15)同上書、特に45-65ページなど。

 

私も20年ほど前に、19世紀にマルクスの見た、均質なプロレタリアート化という「普遍的個人」の創出との対比で、センさんと同じような展望を打ち出していました。(注16)

 

(注16)「共産社会二段階区分論の再検討──マルクスの消費観との関連で」『経済理論学会年報第30集』(青木書店、1993年)。拙著『近代の復権』(晃洋書房、2001年)第2章に所収。

 

すなわち、19世紀には、個人を埋没させていた共同体(地域、身分、職能等々)が壊れて、それぞれにいろいろ特殊なアイデンティティが奪われてしまうことで、パチンコ玉のように均質普遍的な個人がバラバラと投げ出されたという図式になります。

 

それに対して、これから展望されるべきなのは、一人の人が、職場のコミュニティに属し、労働組合に属し、地域のつながりに属し、スポーツクラブに属し、趣味のサークルに属し、文化や環境のNPOに属し、消費や医療や介護の協同組合に属し、世界的なNGOにも属し等々と、様々なコミュニティに同時に属していくことで、どの特定の集団のアイデンティティにも埋没してしまうことのない自立した個人が育っていくことです。様々な人間関係の「結節点」としての個人の創出です。

 

 

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これは、コミュニティの人間関係に縛られて生きる社会的人格と、コミュニティから自由な孤立人との間に、中途半端なバランスを求める議論ではないのです。

 

例えば私の師匠の置塩信雄を思い出して言えば、主流派経済学とマルクス経済学のどちらかの学界に埋没するのでもなく、どちらの学界にも背を向けるのでもなく、どちらの学界からも共に評価される業績を上げれば上げるほど、それだけますます強烈に個性的な学説を作り上げることになったわけです。

 

すなわち、いろいろ違ったコミュニティを自ら次々と選びとって、そのすべての中で陰ひなたなく他者を気遣い、社会性が広がれば広がるほど、それだけますます自立した個性が増していくことになります。「コミュニティへの自由」と言えるでしょう。

 

私は、19世紀マルクスの展望した、特殊なアイデンティティを剥ぎ取られることによる普遍化を「喪失による普遍化」と名付け、それとの対比で、これから展望されるべき普遍化を「獲得による普遍化」と名付けました。

 

それは、さまざまな特殊なアイデンティティを「我がものにする」ことによる普遍化です。「喪失による普遍化」の場合は、資本主義の力で一挙に成し遂げられ、それが完成してしまったところからマルクス主義運動が始まったと言えます。

 

それに対して「獲得による普遍化」の道は、いかんせん当面見通せる将来までは普遍化途上です。一人一人の身の回りのネットワークがだんだん広がることで、長い時間をかけて展望されるものだと言えます。

 

 

事業的解決がセンのイメージ

 

ところでセンさんは『正義のアイデア』でも、特定のアイデンティティに埋没することを戒め、理性による公共的対話を求めています。なにもロールズのような「完成した正義」を求めるのではなくても、せめて明らかな不正義は無くそうよ、少しでも正義にかなったやり方を探ろうよと、「ニヤーヤ」に立って世の中を変えていくことを提唱しています(注17)。

 

(注17)同書のいたるところに書いてある。

 

ロールズの、「完全な正義」の制度の構想の場合は、各国の国家レベルの福祉制度や憲法制度を正当化づけるためのものだったと言えるでしょう。こうして天上のSFの世界の社会契約を根拠にして、国家が「正義」のためにあれこれと国民に介入することが正当化されたわけです。

 

かつて70年代ぐらいまでは、このSFの社会契約にもある程度リアリティがあったということは、この連載の第12回で見たとおりです。

 

しかし、80年代に「転換X」が始まって以降は、このリアリティが失われてしまったというのも、そこで検討した通りです。特に、人間関係のグローバルな相互依存が進んでいくと、一国レベルの社会契約は狭すぎて役に立たなくなります。

 

では、それに合わせてロールズの議論を徹底させ、地球上すべての人々にあてはまるまで抽象化一般化した「正義の原理」を作ればいいのか。それを実現するために世界中の人々に介入する「世界国家」を考えるのは現実的と言えるのか。それがそもそもいいことなのか…ということになります。

 

ひるがえって一国内を見てみても、人々が多様化してさまざまな異質なニーズを持つようになったこの時代には、遠い天上で一律普遍的に取り決めた社会契約を押し付けられても、「疎外」としか感じられなくなるでしょう。

 

だから、貧困なり、ケアの不足なりといった、生身の当事者の現場の事情に則して、直面する問題を解決する取組みが重要になります。

 

すなわち、この連載でも第8回(拙著『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』第8章)で見たように、国民国家や世界国家による裁量的な介入ではなく、NGOなりNPOなり協同組合なりといったところで活躍する人々が、事業として解決にあたることが重要になるわけです。

 

ロールズのアプローチを否定して、現場の事情に則して少しでも正義にかなった方向を目指すセンさんの姿勢は、彼の本を読んだだけでは具体的イメージがつきにくいかもしれませんが、こうしたNGOなどが活動する時の姿勢を念頭においていると見ればわかりやすくなると思います。【次ページにつづく】

 

 

 

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