新観念創造者としての自由と責任――突然変異と交配、そして淘汰

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「培地」の上に「ウィルス」が乗っている人間モデル

 

以上の大塚史学の話を伏線として覚えておいていただいた上で、本題に戻りたいと思います。以下で、前回までに出てきた様々な解決のキーワード、「生身の個人にとっての自由」「具体的現場に則するアプローチ」「統整的理念としての普遍的理想」「獲得による普遍化」を一本に貫き、「リスク・決定・責任」の一致命題につなげる論理を示したいと思います。

 

このとき、さしあたってみなさん疑問に思われるのは、「リスク・決定・責任」の一致というためには、「自己決定の裏の責任」がとれる主体が前提されているわけですが、自由であることの主人公を、本能的な「生身の個人」にしてしまったら、はたしてそんな主体に責任などとれるのかということだと思います。

 

ここで私は、一人の人間には二種類の主体があるという見方を提唱したいと思います。一方は本能や肉体などの「生身の個人」です。「感じる私」と言っていい。他方は理性や習慣的思考や思い込みなどとしての主体。「考える私」と言ってもいいでしょう。

 

このことをわかりやすく考えるため、人間を単純なモデルで「たとえ話」させて下さい。「培地」のうえに「ウィルス」が乗っているというモデルです。「培地」が、「生身の個人」にあたります。「ウィルス」が人間の考え方にあたります。これは、各自が十分に合理的計算できると考えれば、もっぱら「他者の行動の予想」を指すものと考えていただいていいのですが、慣習的な行動なども視野に入れるならば、各自の行動を決める「行動原理」や他者の行動への「評価原理」と考えていただいてもいいです。あるいは、「イデオロギー」「信念」のようなものとお考えになっても結構です(注)。

 

(注)以下のモデルを、富山大学の大坂洋さんが、マルチエージェントシミュレーション用に数式で定式化して下さっています。言いたいことをほぼ正確に定式化していただいていると思いますが、多少改良の余地は感じます。なお、大坂さんはここで、この「ウィルス」のことを「役割」とおっしゃっています。

「松尾匡氏の「方法論的個人主義」について : 社会的役割とマルチエージェントの観点から」『富大経済論集』第60巻第3号(2015)、pp. 603-632。

http://utomir.lib.u-toyama.ac.jp/dspace/handle/10110/13661

 

この「ウィルス」は、「培地」たる各自の頭のなかに、例えば「6割がAウィルス、4割がBウィルス」というように分布しています。そして、この確率に何らかの意味で基づいて、各自の行動を決めます。それに従って各自が行動すると、他者との相互作用が起こって、「培地」の厚生に影響がでます。つまり、「失業して腹ぺこ」だとか「殴られて痛い」だとか「異性にモテてうれしい」だとかということです。

 

すると「培地」は、自分の厚生を高めた「ウィルス」の分布を増やし、自分の厚生を低めた「ウィルス」の分布を減らしていきます。

 

また「ウィルス」は、周囲の人に「感染」します。その「ウィルス」が周囲の多くの人の厚生を首尾よく高めていたり、信頼のおける人の「ウィルス」だったりしたら、自分の「培地」に「感染」しやすいわけです。

 

 

「培地」の目的と「ウィルス」の目的

 

さてそうすると、この「培地」である「私」と「ウィルス」である「私」とは、必ずしも目的が同じではないことになります。「培地」が自分の厚生を増やす方向に「ウィルス」を増減させた結果は、とどのつまり、ミクロ経済学で出てくる経済人同様、効用極大化行動をとることと同じになります。(ただし、各自に合理的計算の余地が少なく、「ウィルス」自体がかなり具体的な行動原理である場合には、「ウィルス」増減の行き着いたところは、効用の部分的なピークではあっても、あらゆる取り得る行動を全部検討した場合の効用最大状態よりは低いかもしれません。)

 

他方、「ウィルスA」とか「ウィルスB」とかの各「ウィルス」にとっての目的は、これも結果として見れば、なるべくたくさん自分の分身を増やすことです。

 

「培地」の厚生を高めるほど、「ウィルス」は頭中で増加させてもらえ、他にも「感染」しやすくなるのですから、両者の目的はたいていの場合は一致します。しかしズレる場合も起こり得ます。ある特定の人だけの「培地」の厚生はすばらしく高めることができても、別の人の「培地」の厚生をずいぶん低めてしまうような「ウィルス」は広まっていけないでしょう。例えば「ジャイアンだけは他人の漫画を取り上げていい」というような行動原理です。

 

逆の極端を言えば、「失敗が目に見えている反乱にあえて乗り出して、暴政の打倒を世に訴える」というような「ウィルス」は、「培地」の厚生は完全に犠牲にする(死んじゃう)のですが、そのことを通じて世の多くの人の頭に「感染」することで「ウィルス」としての目的は達成できるかもしれないわけです。こんな極端な行動原理を推奨する気は全くありませんけど、現実問題としては、このような「ウィルス」も存在してきたわけです。

 

 

「培地/ウィルス」モデルで解説する唯物史観

 

さて、「培地」たちとそれを取り巻く状況は、マルクスの唯物史観で言う「土台」にあたります。社会全体での「ウィルス」の分布状態は、同じく唯物史観で言う「上部構造」にあたります。そうすると、マルクスの唯物史観が示すような社会変遷が、生物進化を記述するときの手法で表せることになります。

 

これはよく見られがちな、社会のことへの生物進化論の生存競争論的応用(いわゆる「社会ダーウィニズム」)と違いますからご注意下さい。社会ダーウィニズム的な見方では、生身の人間やその集団が、競争で淘汰を受けちゃう側です。しかしこの見方では生身の人間やその集団は、淘汰をほどこす側、生物進化で言うと「環境」の側です。淘汰を受けるのは「考え方」であって、それが淘汰で消えても、生身の人間が消えるわけではありません。

 

進化論では、環境(生物たちの営みを含む)への適合の度合いにあわせて、いろいろな遺伝子が増減する結果、つりあいのとれた遺伝子の分布に落ち着くと見ます。これを「進化的に安定な戦略(ESS)」均衡と言います。与えられた外的環境のもとで、ESSは唯一の場合もあれば、複数あり得る場合もあります。複数あり得る場合は、たまたま歴史的に近い状態にあった方のESSに落ち着きます。(これは、本連載第5回での、ゲーム理論の均衡に複数あるとき、たまたま歴史的にとられていた均衡が実現し続けるという話と同じです。それと言うのも、ESSというのは、あたかも生物が知性を持って、自己の適応度を最大化するよう合理的に最適決定した場合のゲーム理論のナッシュ均衡にほぼあたるのです。)

 

しろうとの生半可な知識で間違っているかもしれませんが、あくまで例としてお許しいただきますと、中生代の、二酸化炭素濃度が高くて高温の気候では、恐竜がメジャーに分布して、ほ乳類や鳥類の分布がマイナーなのが唯一のESSだったかもしれませんが、中生代も終わりになって、二酸化炭素濃度や気温が低下していくと、「恐竜がメジャーな均衡」と、「ほ乳類や鳥類がメジャーな均衡」の二種類のESSがあり得たのだと思います。

 

その場合、後者の均衡の方が前者の均衡よりも、全体としての環境への適合度が上回っていたかもしれませんが、最初に「恐竜がメジャーな均衡」の上にあった以上、簡単には「ほ乳類や鳥類がメジャーな均衡」に移ることはできないわけです。ところが、二酸化炭素濃度や気温の低下がさらに引き続くと、どこかで、隕石の衝突による一時的な個体数激減のようなハプニングがありさえすれば、ほ乳類や鳥類がメジャーなESSへのジャンプが起こります。

 

「制度」とか、マルクスの「上部構造」と言われるものは、「他者の行動についての予想」とか「行動原理」「評価原理」「信念」等々の「考え方」の束が、繰り返し再生産されている状態です。さきの比喩で言うと、さまざまな「ウィルス」の分布が、個々の「培地」の厚生を多少でも上げる「ウィルス」ほど広がり、そうでない「ウィルス」ほど淘汰される運動の結果、落ち着いて均衡している状態にあたります。そうするとそれはESSととらえることができます。だから、同じ「培地」の状況に対して複数のESSがあり得る場合もあるし、「培地」の状況が変化していくと、ESSがどこかの時点でジャンプする場合もあるわけです。例えば、唯物史観が最もクリアにあてはまる西欧封建制から近代ブルジョワ体制への転換は次のように説明できます。

 

中生代の「二酸化炭素濃度が高くて高温の気候」が、中世の「三圃式農耕中心の暮らしのあり方(「土台」=「培地」の状況)」にあたるとしましょう。するとその条件のもとでの「恐竜がメジャーに分布するESS」は、「身分制度の法慣習や忠誠倫理などの「ウィルス」がメジャーに分布するESS」にあたることになります。つまり、封建的上部構造ということです。

 

そうするとその後、「二酸化炭素濃度や気温の低下」が進行することは、「手工業の進展や市場取引の広がり」にあたることになります。するとそれが進むと、「恐竜がメジャーな均衡」と、「ほ乳類や鳥類がメジャーな均衡」の二種類のESSがあり得るようになり、後者の均衡の方が前者の均衡よりも、全体としての環境への適合度が上回りながら、当初の前者の均衡が持続することと同じように、「身分制や忠誠倫理の観念がメジャーな均衡」と、「個人対等や立憲主義や誠実倫理の観念がメジャーな均衡」の二種類のESSがあり得るようになり、後者の均衡の方が前者の均衡よりも、全体としての「土台」への適合度が上回りながら、当初の前者の均衡が持続するわけです。

 

しかしその変化がさらに続くと、隕石の落下のようなハプニングで、「恐竜がメジャーなESS」から「ほ乳類や鳥類がメジャーなESS」への「均衡のジャンプ」が起こるように、何かのハプニングで、「身分制や忠誠倫理の観念がメジャーなESS」から「個人対等や立憲主義や誠実倫理の観念がメジャーなESS」への「均衡のジャンプ」が起こります。これが市民革命だと言えます。こうして、近代ブルジョワ的上部構造ができたと言えるわけです。

 

このようにして、「土台」の変化が上部構造の変化をもたらすという、唯物史観の示す社会の移り変わりが、生物進化論の手法を使って表せることになります。

 

 

「培地」にとっての自由

 

さてここまでは、「培地/ウィルス」モデルのたとえ話で、現実の社会の動きを説明したわけですが、私たちが今求めているのは、「あるべき」望ましい社会に向けた判断基準だったはずです。つまり、流動的人間関係がメジャーになった時代にふさわしい自由な連帯社会を支える思想は何か、個人の自由を求めながら福祉や景気対策への公的介入を正当化し、しかも自己決定の裏に責任が伴えるような自由概念はどのようなものかということでした。これは、今のたとえ話でどのように答えが出せるのでしょうか。

 

人間の中に「培地」と「ウィルス」という二つの主体があり、それぞれ目的が異なるならば、「自由」概念にも、「培地」にとっての自由と、「ウィルス」にとっての自由の二つがあるはずです。

 

これまでこの連載で私は、「生身の個人」(=「培地」)にとっての自由が第一義的と言ってきました。これは「生身の個人」(=「培地」)の厚生が少しでも高まることが社会の目的であることから当然です。

 

「培地」にとっての自由とは何かを考えてみれば、それは、いろいろな「ウィルス」を頭中で増減させるのを、支障なく自由にできること、できるだけたくさんの「ウィルス」を選択肢にして、それを自由に取入れ、あるいは自由に拒否できることだと言えます。この意味での自由が大きいほど、「培地」の厚生が高まるからです。

 

「強盗にカネを渡さず殺されること」と「強盗にカネを渡して生き延びること」の二者の選択だけができても自由とは言えないわけですし、「幼にしては父兄に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従う」という伝統的な女の行動原理の「ウィルス」で動くことに、主観的満足を感じている女性にも、そうでない生き様の「ウィルス」を取入れる選択肢があってこそ、自由だと言えるでしょう。その際の、別の選択肢の「ウィルス」は、強盗に「強盗しない」という行動をとらせるものだったり、夫に妻を従属させない行動をとらせるものだったりします。つまり、他者がそれを取入れてこそ自分にとってメリットのある「ウィルス」も、選択肢に含めないといけないわけです。

 

だからそこには、余裕のある者が福祉のために負担をしたり、不況にならないよう支出したりといった「ウィルス」も含まれます。他者がこの「ウィルス」を取入れないために、自分がこの「ウィルス」に基づいて動くと厚生が低下する場合は、実質的にそれは自己の選択肢に含まれないことになります。その分「自由が制限されている」事態と評価されるべきです(注)。なんらかの「ウィルス」のせいで、「培地」の「ウィルス」選択肢が狭められて、「培地」の厚生がそうでない場合よりも損なわれる事態を、フォイエルバッハ=マルクスは「疎外」と言っていたのだと解釈できます。

 

(注)自由にとって重要なのは、「達成」や効用そのものではなく、また、それらを達成するための手段でもなく、選択肢の実質的な豊富さであることは、センが何度も強調していることである。例えば、セン『不平等の再検討──潜在能力と自由』岩波書店(1999)、第3章。センがこれを根拠づけているのは、いささかアプリオリに感じられるが、私は、感性的個人を主体におくことで、本質的に選択を試行錯誤としたことで根拠づけている。この方が、「よりよい」方法を目指すセンのアプローチにとって親和的であろう。

 

 

選択するかしないかを再び選べること

 

話が純粋にこのレベルでとどまるかぎり──あとで、このレベルでとどまらない話をしますが、そのときには話が変ってきます──、この自由は、裏に責任がともなう種類のものではありません。ここでの「ウィルス」を取入れたり頭中で増減させたりする主体は「培地」であって、これは理性的主体はおろか、どんな「考える主体」でもないからです。

 

リバタリアンならば、あくまで個人の自由な選択を尊重する立場に立つべきなのですが、何度も言うように、第一義的にこの選択の主体は、「理性」や「意識」ではなく、本能や身体や情動等々だということが私の主張です。たしかに実際にはその選択は、その人の理性を通じた表明や行動から判断せざるを得ず、他人はまずはそれを尊重するべきだというのは大原則です。その原則を安易にふみはずした外からの介入は、おせっかいな干渉で自由の敵だということは、十分心得ておかなければなりません。

 

しかし、これも何度も言うように、本人がいいといっているからいいと言うのでは、イジメもDVも北朝鮮体制も、最悪の自由の蹂躙が見逃されてしまい、リバタリアンの存在根拠がなくなります。原則としては、脳をもって個人を代表する「政府」として外からは扱わざるを得ないのですが、それはひょっとしたら「暴君の専制政府」かもしれないし、「外国の傀儡」かもしれません。

 

私は、脳の言っていることをもって、その人全体の意思表明、つまり「培地」の選択だと近似的にみなしていいのは、その選択を何度も繰り返して吟味することが原理的に可能な場合だと考えています。最も根源的レベルでは、「培地」は「ウィルス」を取入れたり増やしたり減らしたりして、本能や肉体や情動で実感する効用に照らして試行錯誤して選択するものだからです。どんな理性的計算も、結局生身に厚生として実感されるまでは、あくまで仮説にすぎません。選んだが最後、原理的に試行錯誤ができなくなってしまう選択は、事後的に選択肢を狭めるがゆえに当人にとって自由の制限になってしまうのです。

 

このように考えれば、古くからリバタリアンにとって議論の的になってきた多くの難問を解く指針が見出せます。「自殺」「薬物」「児童売春・児童ポルノ」等々の自由が認められるべきかという問題です。

 

例えば多くのリバタリアンは、「自殺は自由だ」と言うと思いますが、リバタリアンにとっては一旦「自由」と認定したものは、それを妨げる行為は自由の侵害で「悪」ということになるはずです。そうだとすると、自殺を実力で止める行為は「悪」ということになってしまいます。しかし、普通は自殺を実力で止める行為は、見殺しにするよりは、善行として奨励されることに異存ないと思います。どんなリバタリアンの理想社会でも、自殺を止められた人が止めた人に賠償を求めて訴えても、認めないのが適当でしょう。だとすると自殺はやはり「自由」と認められるべきではないのです(決して治ることのないひどい苦痛にのたうち続ける人が自殺しようとしたケースについてもそう言い切ることは、躊躇するところがありますが)。

 

それは、死んでしまったら、自殺するかしないかという選択肢を、原理的に二度と検討できないからだ──このように説明できます。

 

麻薬や覚醒剤のような薬物についても、種類のいかんで程度問題と思いますが、一回経験してしまったら、それを摂取しない選択をもうできなくなってしまう。だから自由を認めないという理屈が成り立つと思います。

 

児童売春や児童ポルノについては、たとえ当人の合意があっても、多くのリバタリアンも認めないと思いますが、そのときよく聞かれる理屈は、「子どもは理性的に判断できないから」ということです。しかしそれを言い出すと、子どもの自己決定が原理的に否定されてしまいます。私は、子どもの心に回復不可能な傷をつけて、それがない状態を選べなくなるからという理屈で、禁止されるべきだと思います。

 

そうだとすると、高校生の純愛ベッドシーンよりは、あからさまな性的目的を知らせずに子どもを水着撮影する方が、後年本人の心を傷つける可能性が高い点ではよほど悪質だと思いますし、スポーツにしろ勉強にしろアイドル活動にしろ、長時間のシゴキ的訓練で、子どもの心身の発達に必要な経験を犠牲にして、心身に回復不可能な傷なり枠なりをつけたならば、それがなかった場合の人生の選択肢を狭めてしまう点では同じです。だからこれらもまた、合意の有無にかかわらず、公的制限があるべきだと思います。

 

大人だって合意があればいいのかと言えば、「相手が骨折するなど重傷を負うまで続けるデスマッチ」のプロレス試合が、当人の合意があるなら認められるのかと言えば、さすがにリバタリアンの多くも認めないのではないでしょうか。以前、出演者の事前同意のない暴行AVを撮影して何人ものモデルに傷害を負わせた作成者が有罪判決を受けましたが、一応出演者の合意があることになっている実録の暴行傷害AVは今でも大手を振って作成され続けています。その一方で宮沢りえ17歳のヌード写真集は持っているだけで逮捕という噂ですけど。なんかおかしいという感覚は異常とは言えないと思います。

 

やはり、これらの例は、その選択肢を選ばなかった状態を選べなくなる(あるいは選べなくなる可能性が極めて高い)かぎり、自由を無条件に認めるべきではないのだと思います。

 

逆に言えば、「理性的判断でないなら自由を認めなくてよい」ということにはならないわけです。子どもであろうが、認知症の高齢者であろうが、知的障がい者の人であろうが、それどころか意識のない状態で生きている人であろうが、すべて個人として尊厳が守られ、当人の快・苦痛に基づく選択は尊重しなければならないことになります。

 

 

「ウィルス」がコピーを広げる自由は「培地」の自由と対立

 

さて、以上が「培地」の自由だとして、今度は「ウィルス」にとっての自由を考えてみます。結果として見ると、「ウィルス」の目的は、なるべく広く自分のコピーを行き渡らせることでした。では単にそれが実現できることが「ウィルス」にとっての自由だとしていいでしょうか。

 

それだけでしたら、言われていることは、バーリンが批判してやまない悪しき「積極的自由」そのものです。個々の種類の「ウィルス」は多くの人々の頭中に共有されているものです。「毛沢東主義の信念」の「ウィルス」とか、「天皇至尊の信念」の「ウィルス」等々です。個々の「培地」の身になってみれば、そんな、今世の中に行き渡ってESSを形作っている「ウィルス」は、周りがみんな取入れているがゆえに、それを取り入れた方が取入れないよりもマシになるから取入れているだけで、本当はできれば別のものに取り替えたいシロモノかもしれません。

 

このような場合には、社会に共有される「ウィルス」にとっての「積極的自由」と、なるべくそこから逃れて私的な満足を目指したい「培地」にとっての「消極的自由」とは、対立することになります。はなはだしくは、「ウィルス」に基づく行動が、「培地」を破壊するものになるかもしれません。フォイエルバッハ=マルクスの「疎外」の状況ですね。

 

この対立を解決し、社会に共有される「ウィルス」にとっての自由が、「培地」にとっての自由でもあることを可能にするのは何か?──個人が新しい「ウィルス」を創出することです。生物学にたとえれば、「突然変異」と「交配」です。【次ページにつづく】

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.264 

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