新観念創造者としての自由と責任――突然変異と交配、そして淘汰

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新観念創造の自由

 

突然変異は、必然性に縛られて起こるものではありません。ランダムに起こるのです。つまりこれこそが個人の自由だということです。

 

これは、典型的には経済学者のヨゼフ・シュンペーター(1883-1950)の言う「イノベーション」を思い浮かべていただければいいです。技術革新や新製品の開発などのことですね。しかしこんなことを言うと、新しい「ウィルス」を創出するのは、もっぱらディズニーとか孫正義とかのカリスマ企業家の役割という誤解を生むかもしれません。

 

そうではなくて、誰もが多かれ少なかれ、自分の頭中で「ウィルス」を変容させているのです。それは、現場のささやかな工夫や心がけの改善かもしれません。社会ルールへの個人的な解釈のズレかもしれません。誰でも、自己の「培地」の欲望に合わせて何かの行動を取るとき、その「培地」の状態に合わせた何らかの解釈が「ウィルス」に多少加えられ、そのごくわずかでも新しい「ウィルス」に従って行動がなされるのです。これこそが「自己決定」という意味です。以下の話は、イノベーションをイメージすればわかりやすいですが、もっとささやかな日常的なことにも当てはまるのだと思って読んで下さい。

 

人々の「培地」の厚生をみんなできるだけ高めるESSが実現するためには、いろいろな「ウィルス」の変種ができて、その中からいいものがないか試される必要があります。だから、「突然変異」や「交配」が、妨げなくいろいろ起こる方が、世の中にとって望ましいと言えます。

 

すなわち、いろいろなレベルで新しいアイデアをタブーなく思いつくこと、多様な価値観をわけへだてなく取入れて、その組み合わせから新しいものを生み出すことが、保証、奨励される必要があります。これこそが、真に実現されるべき「ウィルス」にとっての自由です。

 

 

淘汰の結果を受け入れるのが「責任」

 

しかし、生物進化の話には続きがあります。突然変異や交配でできた新しい遺伝子は、自然淘汰を受ける必要があるのです。すなわち、「個体」という「表現型」に発現し、環境への適合性をテストされなければなりません。

 

新しいアイデアの「ウィルス」にとっての「表現型」は、各自の行動です。その結果、「培地」の厚生が変化して、その「ウィルス」は人々の頭中で増減させられます。だからまずもって新しい「ウィルス」は、創出者本人の行動の結果、本人の「培地」の厚生を損なって本人の頭中から淘汰されるかもしれません。それをくぐり抜けても、その行動の結果他人の厚生を損なって、他人の頭中に「感染」できないで終わるかもしれません。他人の頭中に「感染」できても、それに基づく人々の行動の結果、「培地」たちの厚生を損なって、人々の頭中から結局淘汰されていくかもしれません。

 

「自己決定の裏の責任」というときの「責任」の本質は、この「淘汰」の結果を受け入れるということだと思います。

 

さきほど、「培地」にとっての自由には責任が伴わないと言いました。「培地」は、身体の奥のホンネの快・不快、メリット・デメリットに素直に従って、「ウィルス」の頭中での増減・淘汰を行えばいいのです。みんながそうすればするほど、「ウィルス」の淘汰プロセスがうまく働いて、結果として人々の厚生を高めるESSが実現できます。だから、何の心配も気兼ねもなく、この選択を自由にできるようにすることが社会にとって望ましいわけです。「責任」など問われない方がいいわけです。

 

責任が問われるのは、「培地」の方ではなく、「ウィルス」の方なのです。自由に創造されるということは、裏を返せば、「培地」の厚生向上に合致しているかどうかわからない。かえって「培地」の厚生をそこなうリスクがあるということです。リスクのともなう決定には、責任がついてきてしかるべきです。

 

ある「ウィルス」に基づく行動の結果、「培地」の厚生が大きく損なわれたならば、それによって「培地」の選択肢が、いろんな意味で以前より狭められてしまう場合が多いでしょう。おカネの損の場合は典型的です。心が傷ついた場合も、そのままでは傷つく前の状態を選ぶ選択肢が失われたかもしれない。その場合には、その「ウィルス」が単に淘汰されるばかりでなく、その「ウィルス」のせいで狭められてしまった選択肢を回復しなければならないことになります。「ごめん」で済まず賠償がなされる必要が発生するのは、こういう場合なのだと思います。

 

先に述べたとおり、人は誰でも、頭中に受け入れた「ウィルス」に対して多少なりともオリジナルな変容を加えて、その結果に基づいて行動するものです。その限り、すべての人は「培地」としての自己のほかに、「ウィルス」としての自己を持ち、そのもたらす行動の結果に責任をもたなければならないことになります。

 

ごくわずかな遺伝子の変異が形質の大きな違いをもたらすことがあるのですから、このとき、自分が外から受け入れた「ウィルス」に加えたオリジナルな変容の大小だけで、結果としての自己の責任の大小が決まるわけではないと思います。他方で、自覚的にオリジナルな「ウィルス」を創出する者は、誰かによって勝手な変容を加えられた悪結果のせいで責任を問われ、人々の頭中から、自分の作った「ウィルス」が淘汰されてしまう可能性を想定して、できるだけそうならないようにあらかじめ備えて作らなければならないと思います。

 

 

観念はあまねく広がることを目指す

 

さてこのように考えると、人々みんなの厚生がなるべく高いESSが実現しやすくなるための、「ウィルス」創出側の「あるべき姿」が明らかになります。

 

何ものにもとらわれない自由な創意(「突然変異」)。さまざまな異質な「考え方」の結節点としての個性の形成(「交配」)。「培地」の側の自発的選択を最大限尊重し、だましたり、力で脅したり、選択肢を狭めて追い込んだりせず、できることもできないことも、メリットもデメリットも正直に示すこと。他人に受け入れられないのは受け入れない側が悪いのではなく、自分の「ウィルス」の側の責任と心得てやり直すこと。結果として他者の厚生を損ねたときには、すみやかに撤回して責任をとること。そして以上を守った上、様々な「培地」に、あくことなく、あまねく広がっていくことを目指すこと。

 

これは、本連載第11回で見た、ジェイコブズの「市場の倫理」=「商人道」そのものではないですか。大塚史学の痛快活劇に出てきたヨーマン・ブルジヨワジーの姿でもあります。

 

ここで、様々な「培地」にできるだけあまねく広がることを目指すということは、たしかに、結果的にそういう「ウィルス」が生き残るという、結果からあとづけた理屈であるには違いありません。しかし、人間というものは、主観的にもそれを目指すものだという気がします。

 

固定的人間関係がメジャーな時代、例えばムラや血縁の共同体の中で人間関係をなるべくすませていた時代には、その共同体のメンバーたちの頭の中に、自分の個性を伴った思い出が、「立派に育った子ども」とか「家屋敷」等々の業績とともに残り、評価され続けることが、自分の「ウィルス」を生き残らせることだったのだと思います。これを称して「成仏する」と言っていたのだと思います。共同体で昔から決まっている道をはずしてしまうと、この「ウィルス」は残せないわけです。それが「地獄に落ちる」ということなのでしょう。

 

ウェーバーの描くプロテスタントの商人や、日本の江戸時代の近江商人などは、固定的人間関係がメジャーだった時代から、流動的人間関係中心の生き様を始めた人たちです。だから彼らにとっての「魂の救済」は、共同体にかぎらない獏たる人々一般の頭の中に「ウィルス」を残すことになったので、一個人の努力でコントロールできない絶対普遍者の御業とされたわけでしょう。

 

今日もまた、固定的人間関係がメジャーなシステムが崩れています。固定的関係の人々にだけ、自分のアイデンティティのある「ウィルス」を残すことは望み得なくなっています。獏たる人々の頭中に、あまねく広がっていくことを目指さざるを得ません。

 

これなしには、特定のできあいの集団(民族、国籍、職業、性別等々)にだけズブズブにあてはまる「ウィルス」を打ち出すことで満足してしまいます。人間のグローバルな依存関係がいやおうなく発展する今日、それにとどまっていては、そうした集団を超える共同は、上からの有無を言わせぬ押しつけとして、「疎外」として、展開されざるを得なくなります。

 

そうならないためには、「突然変異」と幅広い「交配」の中で、よりあまねく自発的に受け入れられる「ウィルス」が生まれていくようにしないといけないし、結局は、そういう「ウィルス」ほど長い目で見て「勝利」するということだと思います。「獲得による普遍化」で展望されるのはそういうプロセスなのだと思います。

 

 

新観念創造者と大塚史学流プロテスタント

 

今日、グローバル化やIT化で流動的人間関係がメジャーなシステムになるとともに、日本では急速な少子高齢化が進行しています。これからは、介護や医療などが、経済の中で今までより大きな割合を占めるようになります。そこでは、リスクとそれにかかわる情報が偏在する現場の従業者や利用者に主権のある、協同組合やNPOのような事業体が望ましくなるということは、何度も述べたとおりです。

 

これから述べることは、このような、今後世の中の表舞台で活躍することになる、介護などの協同組合的事業体を担う人々を直接には念頭に置きますが、これからは、普通の物作りでも、飲食業でも、公務員でも、多かれ少なかれ似たような性格を帯びてきますので、基本的には誰にでもあてはまる可能性があるものとして読んで下さい。

 

これらの、従業者や利用者に主権のある事業(形式的に営利会社形態をとるかどうかはここでの議論レベルではどうでもいいことです)は、従業者や利用者の「培地」の事情から、事業運営のための行動原理「ウィルス」がなるべく乖離しないように目指すものです。その意味で、フォイエルバッハ=マルクスの言う「疎外」を克服しようとする、資本主義的な事業様式を超えた試みだと言うことができます。

 

しかし実際には、協同組合にしろNPOにしろ、あるいはその他の「非営利」組織(学校法人!)にしろ、資本主義企業以上に現場の従業者や利用者の事情から乖離したトップダウンで暴走し、しかもその結果に誰も責任をとらないというケースがしばしば見られます。あるいは一部の狭い人たちだけの間で閉鎖的になって、メンバーを束縛して外部を食い物にするということもしばしば起こります。ガバナンスの仕組みの上で、このようなことを防ぐための工夫は最大限しなければならないと思いますが、倫理観(エートス)の問題も決して無視できないと思っています。今回説明した「ウィルス」創造者としての自由と責任を自覚することが、悪い変質を避けるための倫理観につながると思います。

 

その昔の「マルクス=レーニン主義」では、昔の共産党のような、革命を指導する「前衛党」と称する上意下達のピラミッド組織が、「資本主義から社会主義への移行の必然法則を見出した」と称して、末端の労働者党員に進むべき道を指示していました。そして、革命で政治権力を握って、上から社会主義建設することを目指しました。

 

この過程で、前衛党の指示通りに運動に献身した活動家にとっては、たとえそのために命を落としたとしても、自分のアイデンティティをかけた思想(「ウィルス」)が、来るべき未来社会としてこの世に実現し、人々の頭中に永遠に残り続けることが期待できました。

 

これはちょうど、中世ヨーロッパのローマ・カトリック教会が、神の意向を見出して信者に指示を垂れていたことに似ています。信者たちは、カトリック教会の言う通りにすれば、死後魂が天国に行くことが期待できました。

 

それと比較して言えば、今日の協同組合やNPOなどの関係者は、資本主義の疎外社会を克服する変革の方向を、前衛党に指示されることを期待できません。各自個人が現場の経験と格闘する中から、自分で見出していくのです。

 

これはちょうど、カトリック教会を捨てた宗教改革後の、大塚=ウェーバーの描くプロテスタントが、神の意向を教会から指示してもらうのではなく、各自個人が虚心坦懐に聖書を読んで神と対話して自分で見出したことに似ています。

 

「培地」のニーズは、本人にさえ「ウィルス」レベルでは自覚できないことがありますし、ましてや他人が直接把握することはできません。「ウィルス」創造者としての自由と責任を自覚した協同組合やNPOなどの関係者は、利用者や従業者の「培地」のニーズを推測して、それを満たすための新「ウィルス」を創造します──画期的新規事業から、日常のささやかな工夫や心がけまで。そしてそれを事業として実演して、人々の「培地」の厚生を実際に上げることで、人々に自発的に受け入れられて広がっていくことを目指します。これは、大塚=ウェーバーの描くプロテスタントにとって、死後魂が救済されて永遠の命を得ることに相当します。

 

しかし、その新「ウィルス」が本当にうまくいって、人々に受け入れられるかは事前にはわかりません。当面受け入れられても、まだ試されていない新しいタイプの人や新しい状況のもとでは受け入れられなくなるかもしれません。それは、大塚=ウェーバーの描くプロテスタントにとって、死後魂が救済されるかどうか事前にはわからないことと似ています。

 

それゆえ、大塚=ウェーバーの描くプロテスタントが、死後魂が救済されないことを恐れて、事業の拡大に邁進し、それが成功している間は「自分は救済されない方ではなかった」と安心できたように、「ウィルス」創造者としての自由と責任を自覚した協同組合やNPOなどの関係者は、自分の創造した「ウィルス」が人々の「培地」に淘汰されてしまうことを恐れ、ますます多様な人々の間で事業を試みて、自分の「ウィルス」の普遍妥当性をテストし続けなければならないことになります。

 

大塚=ウェーバーの描くプロテスタントのブルジョワジーは、こうして封建制度の支配下で、草の根から初期資本主義経済を発展させていき、幾世代にもわたる発展の後に、封建勢力の支配を打ち倒して天下を取ったのでした。

 

同様に、「ウィルス」創造者としての自由と責任を自覚した協同組合やNPOなどの関係者が、「培地」の自由と「ウィルス」が対立しないよう、なるべく疎外のない事業経済を、資本主義の支配下で、草の根から少しずつ発展させていったあかつきには、幾世代もの時を経たあとで、それが世の中のメジャーな社会システムになった未来を展望できるかもしれません。それこそ、マルクスの展望した開放的でなおかつ疎外のない社会、「アソシエーション」の社会ですが、「土台」の変革が先にあってもたらされるという意味では、政治革命を先行させる昔の「マルクス=レーニン主義」のプログラムよりも、マルクスの唯物史観に合致していると言えるでしょう。

 

何百年もの未来にこのような理想社会を設定することは、カントの言う「統整的理念」として役立ちます。十年や二十年で実現することをイメージする青写真を掲げるから、「構成的理念」となって、人々を抑圧するのです。何百年も先のことならば、青写真ではなくて、現実の泥にまみれた苦闘を反省し、ただすための「北極星」のような基準として役立ちます。

 

そうすると何が言えるか。大塚=ウェーバーの描くプロテスタントのブルジョワジーは、自分の生涯をかけた事業が成功裏に拡大し続けたならば、たとえ確証が得られずとも、自分は天国にいけるのだと確信して死んでいくことができました。それと同じように、「ウィルス」創造者としての自由と責任を自覚した今日の協同組合やNPOなどの関係者は、自分の「ウィルス」に基づく事業が、人々の「培地」の厚生を傷つけずに首尾よく高めて受け入れられたなら、そしてそれがいろいろな属性の人々にわけへだてなく受け入れられて広まっていったならば、その自分のアイデンティティをかけた「ウィルス」が、遠い将来に、天下をとったメジャーな社会システムの一環として人々の頭中に生き続けることを確信して死んでいくことができることになるわけです。

 

長らくご愛読いただきまして、ありがとうございました。本連載の後半、第9回以降は、前半に引き続き、PHP研究所さんから今秋出版の予定です。

 

※ 今回の内容は、拙著『近代の復権』(晃洋書房)の最終章に詳しく書いています。ご関心がありましたらご検討下さい。また、この議論を今回のような「培地/ウィルス」モデルの形にするにあたっては、6月20日に専修大学で行われたセミナーでの議論が役立っています。報告して下さった大坂洋さんと石塚良次さん、暖かいホスピタリティで会場運営して下さった吉田雅明さんはじめ、参加者のみなさんに深く感謝します。

 

※本連載の前半に基づいて出版された『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』に重大なミスがありました。240ページ、第8章図8-1の「社会保障支出対GDP比」は、うっかり対障がい者の支出だけを含むデータで作成しましたので撤回します。したがって、グラフの前ページ239ページの後ろから8行目から、

「次ページの図(図8-1)は、社会保障支出の対GDP比のグラフですが、社民党が政権にあった1994年から2006年の間、減っているわけではなくて、他の国よりも高い割合を維持しています。」

も、合わせて撤回します。社会保障支出全体のGDP比で見ると、この時期、スウェーデンが福祉にかける財政規模は他の欧州所得と比べて特に大きいということはなく、傾向的に特に増やしたりもしていないということでした。ただし、スウェーデンが依然「大きな政府」であるとの記述には違いはないです。

これとともに、該当箇所の元記事であった、連載第8回「新スウェーデンモデルに見る協同組合と政府──「転換X」にのっとる政策その3」の1ページ目、図表1およびその上の文「図表1は…維持しています。」を撤回し、修正しておきました。

 

 

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vol.265 

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