実質賃金についてどのように考えるか?――「統計不正」と「実感なき景気回復」のあいだ

4.2018年の実質賃金の伸び率はプラスかマイナスか? 

 

2018年の賃金の動きについては、6月の毎月勤労統計の速報値(18年8月6日公表)において名目賃金が21年5か月ぶりの高い伸びとなったことなどのため、今回の問題が明らかになる前から注目が集まっていた。従来の公表値は6月以外も総じて高い伸びとなっており、データに不自然な動きが生じているのではないかとの指摘もなされていたが、このことはサンプル替えなどの影響によるものとされていた。

 

このような経緯もあって、18年の実質賃金の伸び率がプラス・マイナスいずれになるかが注目されていたが、2月8日に公表された毎月勤労統計(12月分と2018通年(速報))では年間の実質賃金(再集計値ベース)の伸び率が0.2%のプラスとなった。もっとも、この数値については注意してみる必要がある。というのは18年1月に、従業員数30人以上の事業所について調査対象(事業所)の一部入れ替えが行われるとともに、労働者数のウエイトの変更が実施されたことから、17年までのデータと18年のデータの間に段差が生じ、それに伴うデータの歪みが生じている可能性があるからだ。

 

この点からすると、17年と18年の両年とも調査対象となっている事業所(共通事業所)のデータを利用して実質賃金の推移を確認することが、代替的な方法のひとつと考えられる。参考値として公表されている共通事業所の名目賃金(対前年同月比)の月次データを利用して各月の実質賃金の伸び率を計算し、それをもとに18年中の実質賃金(共通事業所系列)の推移をみると(前掲図表1)、実質賃金の伸び率は6月と12月を除くといずれもマイナスとなっており(11月については前年と同水準)、再集計値でみた場合の賃金の伸び率を総じて下回って推移している。

 

再集計値をもとにした18年の実質賃金の伸び率が0.2%増であったことを踏まえると、それよりも弱い動きがみられる共通事業所ベースの実質賃金の伸び率はマイナスであったことが示唆されるが、残念ながらこのことを確認することはできない。というのは厚生労働省から参考値(共通事業所系列)の18年通年のデータが公表されていないからだ、

 

 

5.宙に浮いた(消えた?)実質賃金

 

参考値(共通事業所系列)の賃金の18年通年の伸び率(対前年比)を公表していない理由は「統計技術的な問題」などがあるためとされている。だが、残念ながらこれはまったく意味不明な説明だ。

 

さきほどみたように、18年の各月(1月~12月)の名目賃金については参考値ベースの月次データ(前年同月比)がすでに公表されている。ということは17年と18年の各月の名目賃金のデータはすでにあるということになるから、それぞれ集計すれば17年と18年の年間の賃金は簡単に求められるという筋合いになる。名目賃金を実質賃金にひき直す(実質化する)ためには消費者物価指数(持家の帰属家賃を除く総合)のデータが必要になるが、これは総務省からすでに公表されている。したがって、共通事業所ベースの実質賃金を計算するうえで「統計技術的な問題」は何もないということになる。

 

このようにして共通事業所ベースのデータが毎月勤労統計の公表資料から欠落してしまっているため、18年の実質賃金の伸び率がプラス・マイナスいずれであるかという話は宙に浮いてしまっている。参考値(共通事業所系列)に「生き残りバイアス」など別の問題点があることには留意が必要だが、それら点を注記したうえでデータを速やかに開示するほうが、やや長い目でみた場合には厚生労働行政に対する信頼を回復するうえで望ましい対応ということになるだろう。

 

 

6.円安と消費増税と実質賃金

 

もっとも、2018年の実質賃金の伸び率がプラスかマイナスかという問題は、やや強調されすぎというきらいがある。というのは、実質賃金が大きく低下したのは2013年の年央から14年の春にかけてのことであり、最近時点についてみると、実質賃金は振れを伴いつつもほぼ横ばいで推移しているからだ。この点を確認するために12年から18年までの名目賃金と実質賃金の推移をみると(図表2)、13年の年央以降については名目賃金が緩やかな増加基調で推移する中、14年の春にかけて実質賃金の大幅な下落が生じたことがわかる。

 

 

図表2 名目賃金と実質賃金の推移

(資料出所)厚生労働省「毎月勤労統計」より作成。

 

 

このことから示唆されるのは、この間に生じた物価上昇が、実質賃金の低下をもたらした主因であるということだ。この物価上昇の4割ほどは14年4月の消費税率引き上げの影響によるものであり、残りは円安による輸入物価の上昇などを背景とした物価上昇によるものとみられる。物価の上昇によって実質賃金が下押しされる傾向は17年夏以降の局面についてもみられる。17年夏以降の期間については、天候不順の影響などによって生鮮食品の価格が大幅に上昇したことと、原油価格上昇の影響でエネルギー関連品目(電気・ガス料金、ガソリン代など)の価格上昇が顕著であったことによるところが大きい。

 

まとめると、名目賃金は緩やかに上昇したものの、それ以上に物価が上昇したために実質賃金の低下が生じたこと、実質賃金の低下の過半は円安や消費増税などの影響で物価上昇が顕著であった13年の年央から14年の春にかけて生じたものであるというのが、最近時点における実質賃金の動きを理解するうえで大事なポイントということになるだろう。

 

 

7.景気回復はなぜ実感できないのか?

 

2012年12月を起点とする今回の景気拡張局面は、今年の1月で74か月となり、「戦後最長」になったとされる。だが、こうした中にあっても「景気回復が実感できない」という声がしばしば聞かれる。景気動向と景況感にこのようなギャップが生じる理由は、それぞれの状況に応じてさまざまにあると思われるが、経済全体の状況という点からは次の2つの理由が考えられる。

 

ひとつは、景気の勢いそのものが弱いものであったということだ。現時点でデータの利用できる12年12月~18年12月の期間(73か月)を対象に景気動向指数(内閣府)による景気の基調判断をみると、「改善」となったのは73か月のうち37か月のみであり、消費税率が8%に引き上げられた14年4月からの2年半については、14年12月から15年4月までの期間を除くと基調判断は「足踏み」あるいは「下方への局面変化」で推移した。増税直後の14年4-6月期と7-9月期のGDP速報値は2期続けてのマイナス成長となった(平成23年基準で作成されている現在の統計では14年7-9月期のGDPはプラス成長となっているが、回復の状況は弱いままとなっている)。

 

このように、「戦後最長景気」について理解するうえでは、「戦後最長」の中に景気の停滞感が強い期間が長く含まれるということに留意する必要がある。

 

景気回復が実感できないもうひとつの理由は、6年が経過した現在でも、家計消費の水準がアベノミクスのスタートした頃とほぼ同じ水準にとどまっていることにある。しかも、消費税率が8%に引き上げられた14年春を起点に消費が大きく落ち込んで、その後も十分な回復がみられず、消費の停滞がさまざまなところで話題となったため、この点からも景気回復の勢いの弱さが印象付けられる結果となっている。

 

このような消費の弱さの背景には、さきほど述べたように円安を起点とする輸入物価の上昇や消費税率の引き上げによって物価が上昇し、実質賃金・実質所得の低下が生じたという事情がある(前掲図表2)。賃金が伸び悩む中で物価が上がり、生活費を切り詰めることが必要と認識されるような状況のもとでは、たとえ輸出や設備投資が増えたとしても、景気回復の実感がないというのは自然な話であろう。

 

昨年の年初あたりから、景気の動向を表すさまざまな指標に足踏みがみられ、先行きに慎重な見方が広がっている。海外経済についても中国や欧州で減速傾向が強まっており、米中貿易摩擦と英国のEU離脱問題も大きな懸念材料となっている。この秋には消費税率の10%への引き上げが予定されており、2020年の東京オリンピック・パラリンピック関連の需要も今年の後半にピークアウトする可能性がある。こうした中、賃上げに対する企業の姿勢も慎重化している。

 

「統計不正」の問題は、図らずも「実質賃金」を経由してアベノミクスと消費増税に対する評価の問題を改めて意識させるような展開となっているが、今後も引き続きその動向を注視していくこととしたい。

 

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シノドス国際社会動向研究所

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