2016.04.07

学生の自習と公共図書館

新出 公共図書館職員

教育 #公共図書館#学生

「図書館で自習はダメ? 論争再燃 『居眠りは許されるのに』『一般の利用者の妨げ』」(産経新聞 2016.2.20)では、大阪市立図書館の24館がすべて自習を禁止していることを受け、一般の利用者から席がないと苦情が入る一方、静かに勉強できる環境を求める受験生らの声が取り上げられた。

これを受けたYahoo!ニュース意識調査「図書館の自習利用、どう思う?」では容認すべきとの声が7割を越えている。

公共図書館と学生の自習の問題は、すでに長い論争の歴史があるが、ここではおおまかな見取り図を提供することにしたい。

公共図書館での学生による持ち込み勉強のための「席借り」

まず、問題となっている「自習」について、確認しておこう。

学校図書館や大学図書館では、テスト勉強のための自習は当然認められている。これらの図書館は、学校教育、大学での教育に資するために設置されているものだからである。また、図書館の資料を用いての学習については、どこの図書館でも禁止されることはない。それが学校の宿題であっても、図書館の本を使ってレポート課題を作成するといったことは、拒否されない。近年では、「図書館を使った調べる学習コンクール」なども各地の図書館で開催されている。

今回、問題とされたのは、公共図書館だ。中でも、図書館の資料を使わずにもっぱら閲覧席と閲覧机を使用することを目的とした「持ち込み勉強=自習」である。これは「席借り(席貸し)」とも呼ばれ、長年図書館業界でも議論の対象となってきた。

社会人であっても、資格の勉強をするため、または自分の作業をするために、図書館の閲覧席を利用することはある。これも学生の自習と同様の「席借り」と言える。ただし、学生の場合、学校のテストの時期または受験の時期に、大挙して図書館に押し寄せ、閲覧席をほとんど占領してしまう。社会人が各自バラバラにやってくるのとは異なり、学生の自習は特定利用者層の特定の目的による閲覧席の占有と問題視されやすい。

公共図書館を自習(席借り)に使ってよい根拠はあるか?

「(公共)図書館は勉強する場所ではないのか」と思われた方も多いかもしれない。

公共図書館について定めた図書館法の第2条では、「「図書館」とは、図書、記録その他必要な資料を収集し、整理し、保存して、一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーシヨン等に資することを目的とする施設」と定めている。

第3条では、図書館が行なうサービスについて例示されており、読書会や映写会の実施や時事情報の提供などもうたわれているが、学習する場所の提供は含まれていない。(http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S25/S25HO118.html)

図書館という施設の固有性は、多様な資料・メディアを収集し、提供するということであり、各種のサービスはそこと関連づけられながら展開する。このため、公共図書館の自習利用は法的にも基礎づけられていない。

電子掲示板「2ちゃんねる」において「マンガが備え付けてあって、マンガはOKで、勉強は不可とか、謎仕様すぎるな」という書き込みがあった。しかし、資料を利用させることによりレクリエーション等に資するという意味で、図書館資料であるマンガの提供が自習よりも優先されることは、その図書館の運営方針によっては不思議なことではない。

また、公共図書館は社会教育施設であり、生涯学習施設でもあるので、学生もサービス対象だが、学校教育や受験のための席貸しは、学校教育・高等教育の補助なのではないかという批判があり、学校に所属していない市民の利用を優先すべきという議論がある。

実際に公共図書館での自習は禁止されているのか?

冒頭の産経新聞の記事では、「近年は多くで自習のための利用は禁じられている」と報じられていたが、実状はどうなのか。

公共図書館自習の可否についての近年の調査は見当らなかったが、「図書館なび」というサイトでは1851館のうち577館が自習が可能としている。しかし、このサイトは公式な調査回答ではなく、利用者の投稿によって実態を調査しているようである(黙認という図書館も多い)。

図書館によっては閲覧室内の閲覧席とは別に「学習室」を設置しているところもある。このような図書館では閲覧室内での自習は禁じられている。学習室を別に設けることで、閲覧室内への席借り利用者の流入を防ぎ、資料の利用者のための閲覧席を確保しようという方針である。自習を容認している図書館では、学習室の設置以外にも、社会人席を設けたり、自習禁止のエリアを設けるなど、様々なゾーニングで対応をしているケースが多い。

基本的に公共図書館では、資料を閲覧するための閲覧席の利用を席借りの利用よりも優先する姿勢を取っている。席借りがなぜ禁止されるのかといえば、それは資料利用など他の図書館利用者が閲覧するための席がなくなってしまうからである。つまり需要に対して潤沢に閲覧席があれば、席借りや自習を制限する理由もなくなる。

自習利用を求める側からは「席が空いている」ということが理由としてあげられるが、自習を禁止している図書館では禁止しているから空いているのであって、自習を認めれば満席になり、資料の利用者が座れなくなる事態が発生することは容易に予想される。

図書館の閲覧席数は図書館・地域によって大きく異なっている

席借りについて容認するかどうかは、図書館のサービスする地域の人口と閲覧席数の関係によって決まる、というのが筆者の考えである。

産経新聞の報道で対象となっていた大阪市立天王寺図書館の閲覧席数は48席である。これは閲覧机のないスツールやソファを含んだ数(以下の他の図書館の閲覧席数も同様)で、閲覧机のある一般席は16席(児童用6席)しかない。天王寺区の人口は2015年9月現在で75,377人。区内に中学・高校が10校以上存在する。人口1万人当たりの閲覧席数は6.4席に過ぎない。

一方、愛知県の田原市図書館のtwitterは「田原市図書館開館してまーす(∩´∀`)∩現在、中央図書館の机のある席は、3~4割程度埋まっています。まだまだ空きがありますので、テスト勉強頑張りましょう!テスト勉強以外の方も、まだ比較的空いていますので、ぜひご来館ください(´∀`)」(https://twitter.com/tahara_lib/status/670415964668751872)

と呟いている。田原市の人口は2015年9月現在で66,390人。閲覧席数は中央図書館が約350席、地域館の渥美図書館にも約100席ある。田原市図書館のtwitterが自習利用を積極的に受け入れているのは、自習する学生がやってきても満席にはならないという状況があると思われる。他にも、福島県の南相馬市立中央図書館は600席の閲覧席があり、テスト期間中も満席にならないとのことだった(南相馬市の震災前の人口は7万人程度)。

逆に、愛知県半田市(人口約12万人)の図書館では、90年代中盤に席貸しの問題に苦慮している様子が図書館員によって記録されている。「席貸しの問題」(1996年) http://www.asahi-net.or.jp/~wh9t-td/lib4.htm

筆者の勤務する図書館は、おおむね5万人程度のサービス人口に対して250席の閲覧席を有している。1万人当たりは50席以上である。持ち込み勉強の自習は許可しており、学習室は設置していない。テスト期間以外は閲覧席が完全に満席になることはそれほど多くはない。しかし、テスト期間中は、開館前から学生が行列し、開館と同時に閲覧席に殺到する。

一部の社会人席や児童コーナー以外は完全に学生に占拠され、座れなかった学生が館内をうろうろする。昼には荷物を放置して席を確保したまま食事に行ってしまう光景がよく見られる。

人口に対して閲覧席が多いのは、比較的近年建設された地方の図書館に多い。一方、大都市部の図書館はいずれも人口に対する閲覧席数は貧弱である。これは閲覧席を整備するコストが高いということが原因だろう。

もちろん、席借りの学生がどの程度やってくるかは、図書館施設の新しさや快適さ、学校からの近さなどの他の要因もある。しかし、天王寺図書館をはじめ大都市圏の図書館が自習を禁止しなければならない理由は、単純に席借りの需要に対して閲覧席数が少ないからだろう。

このように、図書館の閲覧席の需給ギャップは、地域によって数十倍もの格差が存在する。このため、公共図書館で学生の自習を容認すべきかどうかを一律に議論することはあまり意味がない。そして、閲覧席に余裕がある図書館では、すでに自習は容認されているのである。

図書館に自習空間を確保することは合理的か

閲覧席が少ないならば増設すべきだ、学生の勉強を助けることは未来への投資だ、家庭の事情で家で勉強できない学生もいる、だから図書館は学生の自習を受け入れるべきだ、こうした論も散見される。

もちろん、自治体の教育施策として無料の自習空間を十分に整備することに高いプライオリティを与える選択はあり得るだろう。しかし、自習空間を整備する際に、それが図書館内にある必然性は実はないのである。

図書館は、多数の資料を整備し提供するために、大きな開架スペースを取り、専門的な職員を配置している。単に自習席を用意するのであれば、こうしたコストは不要である。図書館内に別途学習室を増設するのも困難な場合がほとんどだろう。

また、自治体のインフラ老朽化対策として、現在すべての自治体で公共施設等総合管理計画の策定が進められており、公共図書館の統廃合を進める地域もでてきている。とりわけ人口に対して延床面積が多い地方の自治体では、図書館を含め施設の統廃合圧力が強まっており、この点からも図書館の閲覧席を増やすことは容易ではない。

このような状態の中、自習空間を確保するコストを考えずに、学生の自習は価値があるから容認せよ、というのは無理難題である。学生の自習に価値があるのであれば、それを貧弱な閲覧席しか持たない図書館に押しつけるのではなく、別途自習空間を確保した方が合理的だろう。

たとえば、民間ビルのフロアを自治体が借りて、多数の無料自習席を設置し、警備スタッフを配置した方がはるかに安あがりだろう。実際にいくつかの自治体では、そうした自習空間を整備しているところもある。

なお付言すれば、経済的に厳しい学生に対する施策として、無料の自習空間の整備が有効かどうかは議論のあるところだろう。同じコストで給付型の奨学金を付与するなどの選択肢もあり得るからである。

これは日本に特有の現象か?

公共図書館が学生の勉強場所として占拠されるのは、日本では戦前から見られた状況だが、これは(私の乏しい経験ではあるが)欧米の図書館ではあまり見られることがない。比較的、東アジアの図書館で学生の自習利用が見られるように思う。学生の学習のあり様は、その国の学校教育や受験の様態に左右されるのだろう。

欧米の図書館では、ティーンエイジャーを図書館に呼び込むことに力を入れており、自習利用も歓迎されるのではないかと思われる。たとえば、デンマークの図書館では「宿題カフェ」と呼ばれる主に移民の子どもを対象とした、宿題サポートの場を図書館内に設けるという試みがなされている。これは、公共図書館が社会的包摂の場となる可能性も示すものだろう。(類似の事例として、イギリスの「宿題お助けクラブ」についてはこちらを参照:http://current.ndl.go.jp/ca1142)

学習空間のデザインでは、公共図書館よりも大学図書館の方が先行している。大学図書館では、従来型の静かな学習スペースとは別に、コミュニケーションをしながらPCやホワイトボードなどを使い自由に学習できるラーニング・コモンズの設置が進んでいる。公共図書館でも、館内でのコミュニケーションを解禁、促進し、コラーニングやコワーキングの場としていく方向性も見られる。

このように、現代の公共図書館は資料提供・資料利用から、「図書館という場所」をより幅広い活動の場としていく方向に向かっている。しかし、定期的にやってくるテスト勉強、受験勉強の学生たちが、多様な図書館サービスとどう結びつくか、というのは難しい問いである。

学生の自習と公共図書館の百年

公共図書館における学生の自習の問題は、百年にわたって議論されてきた。以下では、その議論をたどってみるが、論点としては上記につけ加えることはないので、議論の変遷に興味がない方はここで読むのをやめていただいてかまわない。

図書館でなぜ自習ができないのかという問いは、過去にも同様に繰り返されてきた。2003年7月25日の朝日新聞には練馬区の高校生から「図書館で宿題どうしてダメ」という投稿があり、これに答える形で7月30日には「自習の場所は図書館以外も」という社会人の投稿が掲載されている。

高校生は「母が学生の頃行っていた図書館では、受験生が並んで開館を待って席をとって勉強をしていたそうです。それを見て本が読めないから困ると言う人はいなかったそうです。みんな感心だね、えらいね、と言ったそうです」と述べている。

これに対し、社会人の投稿では「勉強をしたいのに場所がない、といういらだたしさはよく分かります。しかしそれは図書館側に問題があるものとは思えません。僕はなぜ学校や地域が自習する場を設けないのか、といった点に疑問を感じます」としている。

しかし、学生の自習利用を見て「本が読めないから困ると言う人はいなかった」というのは、いささか疑わしい。たとえば1961年12月18日の読売新聞には近くの区立図書館が「完全に受験学生たちの予備校化してしまい、納税者である一般区民はほとんど利用できない現状」に苦言を述べる投稿が掲載されている。さらに戦前にも同様の投書が新聞に掲載されているのである。

●戦前の公共図書館と学生の自習

1925(大正14)年12月22日の東京朝日新聞の投稿欄には「図書館満員」という投稿が掲載される。

「近頃東京の図書館は満員が常態らしい。上野(帝国図書館)でも、日比谷(東京市立日比谷図書館)でも、入館しようと思えば、門前に一時間以上番号札を握って立つことを覚悟せねばならぬ。若し日曜や祭日に行こうものなら三時間以上はどうしても待つ。筆者は最近の日曜に上野図書館で午前十一時から午後三時半まで待って遂に入館出来ずに帰宅した。外国の何処にも見られぬ珍現象である。」

「入館者を見るに大部分は中学生級の少年で必ずしも図書館でなければ読み得ぬ程度の書物を読む者とも思えぬ。」

「しかし上野の如き、此処でなければ見られない書物を当てにして行く者には、この多数の中学生(読者の八割位)や不良少年の為に、門前で数時間を空費させられなければならぬのは、何といっても不都合に感ぜられる。」

これに対して、12月25日には(旧制)中学生より「中学生の為に」との反論が掲載される。

「図書館はここで無ければ読めぬ書物をあてにしてくる人だけが入館すべき所なんでしょうか。」

「もちろん図書館は中学生の為ばかりにあるのではないのです、がその入館者に中学生が多いからといってお叱りになるのは酷でしょう。」

「ですから研究でもなさろうと思われる方は、開館を待って入る位の熱心が無ければ、十一時頃からお出になって一寸読んで来ようとなされても不可能です。」

学生の自習で席が占拠され、資料を閲覧する利用者が入れない。入館したければ(座りたければ)学生と同じく早くから並べばよい、という議論はこの後も延々と繰り返されることになる。

1921(大正10)年3月13日の東京朝日新聞にも「学生界」という欄に「教室の開放」という投稿が掲載される。

「此頃は高等学校の入学試験、大学の試験等で上野の図書館(帝国図書館)は朝六時頃迄に行かなければ到底入館できない」

「そこで金が有れば勿論図書館を増設するに限る。しかし文部省にも東京市にも金はありそうもない。多少あって図書館増設をやっても読み手は増える一方だから到底需給を円満にする亊は出来ない。しかも図書館は年中混む一方ではなく日曜日とか試験前に混雑するとすれば他に良法を考えねばならない。この限られた時の需要を満す為に日曜日に学校を開放する案を提案する」。

これなどは、現在でも通用しそうな議論である。

この他にも、1930(昭和5)年2月21日の読売新聞にも「入学試験を目前に殺到する閲覧者」として(私立)大橋図書館の事例が報じられている。

「市内の図書館は何処でもそうですが、四季を通じて閲覧者の大部分は受験生です。勿論図書館本来の意義からすれば受験生という狭い範囲でなくもっと一般の市民から利用されなければならないのですが、二三の専門図書館を除く大部分の現状はやはり受験生です」

「閲覧者の大部分がこの様に受験生なので一人当たりの在館時間も長く、つまり居心地のいい書斎として勉強に励んでいるからでしょう」

ここでは、「図書館本来の意義」は「一般市民の利用」にあると、学生の利用に懸念が示されている。

この問題の調査・論考としては、1937(昭和12)年の「公共圖書館と中等學校生徒の問題」(『東京市立図書館と其事業』70号)がある。閲覧者に占める学生の割合は62.3%でこのうち蔵書を利用しない自習者は34.2%など、比較的詳しい調査がなされている。

この論文でも、

「一般に学生の図書館利用の大半は座席のみの利用者にして、従って一般閲覧者の図書館に於ける読書の機会を奪い去ることが多いという点から、学生殊に中等学校生徒の図書館利用を問題としてとりあげんとする向もないではない」

として、席借りが問題視されていることも示されている。しかし、自習を規制すべきという論には進んでいない。

このように、戦前の図書館の利用実態は、学生の自習、勉強場としての利用が中心であり、それは図書館業界では問題視をされていたものの否定はされていなかったと見なすことができるだろう。

●戦後の状況と「中小レポート」

戦後になり、1950年に図書館法が制定された。それまでは公立図書館であっても入館料を徴収していたところが多かったが、図書館法によって無料となった。しかし、図書館の状況は戦前とは大きくは変わっていなかった。

佐藤仁『図書館施設の建築計画に関する研究』には1953年の公共図書館の館内利用の調査が掲載されている。利用者は高校生と受験生を主とする学生が73%、学生の在館時間は平均3~4時間で、勉強場として利用するのが70~90%。「閲覧室の場所のみを利用して、図書館の図書を利用しない不閲者が多く」「これらの利用実態からみても諸外国の公共図書館の使われ方と根本的な相違をみる」としている。

こうした状況で、強い批判と厳しい状況を吐露しているのが、1954年9月に業界誌『図書館雑誌』に掲載された「公共図書館における生徒閲覧者の問題」である。調査結果そのものは、佐藤の調査とそれほど変わない。

「現在の公共図書館閲覧者は, その70~80%が学生・生徒で占められている。このような状態は, 果して図書館奉仕の正常な姿なのであろうか。この疑問が我々調査の出発点であった。毎月研究会を開きながら、いつも出てくるのは、この学生生徒の問題だった。ある者は、5人・10人とグループで入館しては狭隘な閲覧室を占領する毎日を嘆き、或る者は、閲覧者生徒の大部分が、凡ど同じ本を書き写してゆく無意味な現状を訴え、更に或る者は、宿題に関係あると思われる本を、目録より片端に写しては請求し、また次々と突返す状況を怒っていた。そうして結局、このような状況は、館員にとってエネルギーの浪費以外何ものももたらさないばかりか、図書館にとって新しいサービスを不可能にし、一般成人から再び遊離した存在になるといい、結局、学生生徒問題の放任は、公共図書館衰退の-モーメントになっている。等とも主張された。」

「現在のように、国庫補助金の削減を一つの標識として図書館経費の圧迫が益々全般化している時、生徒閲覧者の問題をこのまま放置しておいたら、図書館は完全に学校教育の補助機関化し、館員は彼等へのサービスに忙殺され、再びかつての日陰の道を歩むことになるだろう。」

「我々は学生達を忌避するのではない。ただ現在のような危機の段階では、図書館自体がその生存権を獲得するために、より集中的に大衆へのサービスを主張するのである」

この論考では、「成人利用の積極化」と「生徒閲覧者の利用制限」が打開策として提示されており、自習する学生への対応が図書館の衰退を招いているという認識が示されている。

そして、学生の自習利用をはっきりと否定したのが、1963年に発表された『中小都市における公共図書館の運営』、通称「中小レポート」である。中小レポートは、沈滞した公共図書館の状況の打破を目指して、若い図書館員が各地の図書館を調査・議論のうえでつくられた。庶民には敷居が高く、学生の勉強部屋として認識されていた従来の図書館像を否定し、館外貸出を中心とした新しい図書館のあり方を模索したものであり、戦後の公共図書館の転換点の一つとみなされている。

中小レポートは、学生の自習についてこう述べている。

「また、図書館の学校教育補助機関説もある。これは、戦前、図書館が学校教育の補助、とみなされ、学生を一ぱいのみこんだ名残りで、今でもワンサと蝟集する学生を相手にして、少しも疑問も感じない。彼等のために、一般社会人が圧迫され、締め出されているのに、平然としている。”彼等は勉強の場所がないから仕方がない”とか”昼間は社会人はいない”とか、あるいは”よそで悪いことをされるより勉強させた方がよい”などその理由の大半であるが「図書館は社会教育のための機関」(社会教育法第9条)であることを直視しないで、安易に過去の観念によりかかり本来の仕事をサボっているといってもよい。学生へのサービスも仕事の一つではあるが、それが中心ではなくなっているのである。学生相手の図書館は、普通より2人も3人も人手を必要とする。そのため、館内閲覧中心からぬけ出られず、ジリ貧に落ち込んでいるのが実状であろう。」

「学生、生徒の問題は戦後討論され始めてから久しい。この討論の基盤になっていたのは、今になってみれば館内閲覧を中心にしていた考え方である。ここでその討論をくり返す必要はないが、ただ図書館を受験勉強のためにのみ利用した青年が、将来図書館の真の利用者になるというような甘い夢におぼれてはならない。」

この中小レポートの作成をバックアップし、1960年代の公共図書館振興を牽引したのが有山崧(たかし)である。日本図書館協会事務局長から1965年には日野市長に当選し、その後の公共図書館の目標とされた日野市立図書館を整備した(1969年市長在任中に死去)。有山は1965年に「市立図書館 その機能とあり方」というパンフレットを著している。ここでは中小レポートよりも穏当な形で、自習について触れられている。

「近頃図書館の70~80%は学生生徒によって占領されている。新聞などでも、宿題期や受験期の風物写真として図書館をとりまく学生の行列をのせている。これによって市立図書館は学生の勉強場であるという印象が世間に強い。

しかし市立図書館は市民すべてのために存在しているのであり、その一部である学生生徒によってのみ占領されるべきものではない。もちろん学生は有力な社会構成員であるから、市立図書館はそれを除外することはできない。しかし、ただ座席を借りて勉強するのなら何も図書館でなくても、外の施設があればそこを利用してもよい筈である。ところがその外の施設がないから市立図書館に殺到するのが現状である。市としては学生の勉強の問題については、それを解決する責任がある。それは社会問題であり、教育問題である。これを真正面から取り上げて対策を立てる代りに、市立図書館にシワ寄せをしているのが現状である。

市立図書館を論ずる時、学生問題は当然考えられなければならないし、その対策は別途に立てられなければならないものである。さもないと、市立図書館の市民への資料提供という本来の活動は著しく妨げられる。」

これは、現在でも図書館業界で共有されている認識に近いだろう。

有山が述べているように、1950年代、60年代には受験シーズンの「風物詩」として図書館に行列する学生の新聞記事が毎年掲載されていた。そんな中で、1964年2月20日の朝日新聞には「受験目前 殺気だつ満員の図書館 乱闘寸前の騒ぎも 中野 浪人・現役組が反目」として中野区立図書館で学生の通報により、パトカー10台が出動する事件があったことを伝えている。

●貸出の拡大と滞在型図書館、「場所としての図書館」の登場

中小レポートののち、日野市立図書館での実践などを元に個人への貸出をサービスの重点とする『市民の図書館』が1970年に発表され、これをマニフェストとして公共図書館は一般市民への貸出に力を入れていくことになる。貸出の重視は、開架の拡大も推し進めた。このため、図書館の閲覧室に占める閲覧席のスペースは減少し、その代わりに書架が並ぶようになった。

閲覧席の減少は、資料は館内で読むのではなく借りて読めばよいという考え方からも推し進められた。また、都市部の分館では、閲覧室を貸出室と名称を改め、閲覧机をほとんどなくしてしまうところもあった。閲覧机がなければ、学生の席借りの問題も解消することができるということも一つの理由だった。

こうした方針転換の結果、公共図書館の貸出利用は劇的に増加し、「無料貸本屋」と揶揄されることはあったが、「無料勉強部屋」からの脱却をある程度果たすことができた。

1989年に日本図書館協会が発行した『公立図書館の任務と目標』では、自習室について「席借りのみの自習は図書館の本質的機能ではない。自習席の設置は、むしろ図書館サービスの遂行を妨げることになる」「学生に限らず座席を借りるだけの自習は、たとえ住民の要求があったとしても、図書館としては受入れられない。過去に席借りが図書館の発展をいかに阻害してきたかを考えれば、これは当然のことである」と批判している。

「過去に席借りが図書館の発展をいかに阻害してきたか」という表現は、1960年代までの学生の勉強部屋としての公共図書館が克服された(されるべき)過去として認識されていることを示している。

一方で、1980年代になるとAVをはじめ図書館が提供する資料の多様化がすすみ、その視聴環境も図書館内には求められるようになった。1990年代になると「滞在型」図書館が提唱され、2000年代には電子図書館に対置される概念として「場所としての図書館」が議論されるようになった。

滞在型図書館では、単に資料を借りて帰るだけの場所ではなく、ゆっくりと読書や調査をする場所、イベントを楽しみ、時には他の利用者とコミュニケーションをすることも想定されている。図書館施設自体の大規模化とともに、閲覧席も快適なものとして整備される方向が強まっている。

また、館内Wi‐Fiの整備や、閲覧席への電源の設置なども最近の動向である。近年整備された千代田区立千代田図書館は、「あなたのセカンドオフィスに。もうひとつの書斎に」をキャッチフレーズとしている。これはビジネスマンなどへの「持ち込み仕事」を呼びかけるもので、席借りを推奨するものとも読める。

このように、図書館内空間の利用については、より自由な方向に広がっていくだろうし、学生の自習利用も、ある程度の閲覧席を整備した図書館ではゾーニングなどの形で対応していくことになるだろう。

●国立国会図書館の年齢制限

ここまで公共図書館と自習について述べてきたが、国立国会図書館もかつては学生の自習利用に苦しんでいた。戦前の帝国図書館の時代はもちろん、戦後になっても自習利用のため資料の利用者が利用できないという新聞記事がよく出ている。たとえば1955年7月5日の読売新聞は「待たせる国会図書館 内部はまるで受験勉強室」という記事を掲載している。ここでは、国会図書館の閲覧者の80%が学生だとされている。日本唯一の納本図書館であり、国内資料のラストリゾートである国会図書館も自習室として利用されていたのである。

これへの対抗措置として、国会図書館が取ったのは入館制限年齢の引き上げだった。1961年の永田町の現図書館への移転にともない、従来15歳以上だった年齢制限を20歳以上へと引き上げたのである。しかし、大学生の自習利用は続いたようで1973年2月2日には教科書や参考書の持ち込みを禁止したとする記事(朝日新聞)が出ている。ちなみに2002年には年齢を引き下げて、現在の利用資格年齢は18歳以上となっている。

●古くて新しい問題

図書館と自習に関する長い文章の最後に、比較的最近筆者が経験した事例をあげて締めくくろうと思う。

「(学生に)血を吸われているようでした」

これは、新しい政令市の図書館を見学した知人の言葉である。閲覧席の自習利用の対応にスタッフが追われており、疲弊していることをそう表現していた。

また、TSUTAYA図書館として耳目を集めている海老名市立中央図書館を見学した際に、満室の学習室の放置された荷物の上に、CCC社員の館長が厳しい顔で注意の紙を配っている姿も記憶に残っている。

「子どもたちが勉強するだろうから、新しい図書館に税金を使うのも納得していたのに」

これは、筆者が学生の親御さんから受けた苦情である。筆者の勤務館では、20席程度を社会人席に設定している。こうすることでテスト期間に学生で満席になった際にも、一般利用者が座れる席を確保している。

この苦情では、社会人席を撤廃し、図書館資料の利用者も学生と同じく朝から図書館に並ぶべきだ、とのことだった。この図書館が自習利用よりも資料利用者を優先しているという運営方針を説明さしあげたが、ご納得いただけなかったようだった。

新しい図書館ができると、「ここで勉強(自習)するようになれば、この地域の学生の学力も上がるね」「東大入学者も増えるといいね」といった感想をいただくこともある。これもまた、勉強部屋図書館の時代の観念が未だ強いことの証しでもあるだろう。

参考文献

植松貞夫『図書館施設論』樹村房, 2014

西川馨『図書館建築発展史』丸善プラネット, 2010

佐藤仁『図書館施設の建築計画に関する研究』1967

有山崧『有山崧』日本図書館協会, 1990

プロフィール

新出公共図書館職員

公共図書館職員。静岡県立中央図書館、白河市立図書館などに勤務する。

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