道徳教育は民主的な国家と社会を実現することができるのか?

1.はじめに

 

いま、日本では道徳教育が注目を集めている。これまで「道徳の時間」として行われてきた道徳教育が、「特別の教科」となったからである。これに伴い、道徳の教科書の導入と評価が行われるようになることが議論を呼んでいる。

 

道徳教育の目的を理解するためには、そもそも教育の目的が何であるのかを把握しておく必要がある。改正教育基本法・第一条に基づけば、教育の目的は「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」である。

 

そして、一部改正指導要領(平成27年3月告示)の総則に基づけば、道徳教育の目的は、「人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を家庭、学校、その他社会における具体的な生活の中に生かし、豊かな心をもち、伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛し、個性豊かな文化の創造を図るとともに、平和で民主的な国家及び社会の形成者として、公共の精神を尊び、社会及び国家の発展に努め、他国を尊重し、国際社会の平和と発展や環境の保全に貢献し未来を拓く主体性のある日本人の育成に資すること」である。

 

「平和で民主的な国家及び社会の形成者」という部分で両者は重複しており、道徳教育の最重要点がここにあることを読み取れる。確かに道徳教育の目的が議論を呼んでいるが、1970年代までの米国の基礎教育がそうであったように、教育に民主的な国家と社会の実現を期待する点に関してだけ言えば、それほど異論はないのではなかろうか。

 

しかし、そもそも教育によって「平和で民主的な国家及び社会」は形成されるのであろうか? そして、それが形成され得るとして、日本の現状は、道徳教育を推進することで、教育にこの役割を担わせることができる状態にあるのであろうか?  本稿では、道徳教育について論点をこの2つに絞り、議論を進めていきたい。

 

 

2. 教育は民主的な国家と社会を実現するのか?

 

教育の拡充は民主的な国家と社会の実現に貢献しうるのだろうか? この問題を考察するために、この分野の研究を紹介したい。研究はマクロ的なものとミクロ的なものの2種類に分類される。前者は国民の教育水準が高まると、より民主的な国家になるのかの因果関係を分析し、後者はある個人の教育水準の高まりが、その個人をより望ましい民主的な国家と社会の形成者へと導くのかを分析している。

 

マクロ的な分析の代表例として、Acemogle et al (2005)が挙げられる。これは、ある国における25歳以上の人口の平均教育年数が、フリーダム・ハウスが 公表している民主主義スコアの向上に貢献するのかどうか分析している。これまでにもGlaeser et al (2004)に代表されるように同様の分析は行われ、それらはある国における教育水準の高まりは民主主義の充実に貢献すると結論づけていた。

 

しかし、Acemogleらの研究はそれまでの研究とは異なり、時代的なトレンド(詳しくは後述する)を考慮した分析を行ったが、この時代的なトレンドを考慮すると、教育が民主主義に与えていたポジティブな効果は消滅した。つまり、教育が民主主義に貢献するというのは、時代的なトレンドによってそう見えただけで、実際にはそのような効果は認められないということになる。しかし、Bobba and Coviello (2007)は、教育が持つ外部性などを考慮したモデルを用いてAcemogleらの研究とまったく同じデータセットを分析したところ、教育は市民性を養うという結果を出している。

 

ミクロレベルの研究の代表例としてはDee (2004)を挙げることができる。確かに、高等教育を受けている人々は、そうでな人々よりも投票率が高く、ボランティア活動にも参加している。しかし、これらの人々は高等教育を受ける以前から、その後に高等教育を受けない人々と比べて、これらの活動により従事しており、教育が民主的な社会の担い手となる市民を養うことに貢献したのかどうかが分からない。

 

しかし、この研究は、人々が高等教育を受けるか否かの判断に、最寄りの高等教育機関までの距離が大きく影響するが、家から高等教育機関までの距離と市民性との間にはとくに因果関係が存在するわけではないことを利用した。そして、最寄りのコミュニティカレッジ(日本の短大に相当するが、担っている役割が大きく異なる。また、Dee教授はこれが大学ではダメなことに言及している点は重要である)までの距離を教育水準の操作変数として、教育と市民性との関係を分析した。この分析では、高等教育がボランティア活動を促進するわけではないが、投票率の改善には大きな正の影響を与えることが明らかとなった。

 

ほかにもいくつか、教育が民主的な社会の担い手となる市民を養うという因果関係を見出したものもあるが(Milligan et al.2004など)、異なる結果を導き出したものもある。例えば、Berlinsky and Lenz (2011)は、ベトナム戦争の徴兵逃れのために大学進学率が増加したことを利用した研究を行ったが(つまり、ベトナム戦争が無ければ大学に行っていなかった人たちが大学に行くわけで、市民性が高いから大学に行く、というリンクが外れる)、高等教育が民主的な社会の担い手となる市民を養う効果は認められないと結論付けている。同様の結論を導いたものとして、Tenn (2007)Kam and Palmer (2008)などが挙げられる。

 

以上の議論から分かるように、教育が民主的な国家と社会づくりに貢献するか否かの実証研究の結果は、貢献するというものと貢献しないというものが混在している。これには以下の二つの理由が考えられる。

 

一つは因果推論の難しさである。ミクロ的な研究のところで言及したように、教育が市民性を養うというのはありそうな話であるが、市民性が高い家庭の子供ほどより高い教育段階まで到達するというのもありそうな話である。このため、単純に教育水準と市民性の度合いの関係を見ると、どちらの因果関係が優勢なのか分からず、教育が本当に市民性を養っているのかどうかも分からない。

 

さらに、マクロ的な研究のAcemogleのところで言及したように、ごく少数の例外的なケースを除けば、教育水準と市民性の度合いは高まり続けている。このため、市民性の度合いの向上が本当に教育水準の向上によるものなのか、それとも時代的なトレンドによって両者が向上しているだけで、実際に教育が市民性の充実に貢献しているわけではないのか、この両者を識別することも難しい。このように教育が民主的な国家と社会に貢献できるのかの因果推論には技術的な難しさが存在している。

 

もう一つの理由は、教育水準の定量化の難しさにある。具体例を挙げると、マクロ的分析を行うときに、国際学力調査でつねにトップクラスにある日本での教育の一年と、中位に沈む米国での教育の一年は同じものとして扱えるだろうか? ミクロ的分析で言えば、40年以上前のベトナム戦争の時期の教育の一年と21世紀の教育の一年は等価だろうか? さらに言えば、公立学校での一年と私立学校での一年や、人文系と理系の一年を同じに扱ってよいのだろうか?

 

このように、教育水準の増加が指すものが、文脈によってまったく異なってくるために、教育が民主的な国家や社会の実現に貢献するのか、一般化できるような結論を導き出すことが難しい。実際に、教育が民主的な国家と社会の実現に貢献できるのかは、その教育システムとカリキュラムに大きく左右される。ここで冒頭の問いに立ち返り、どのようにすれば教育に民主的な国家と社会の実現という役割を担わせることができるのかを考えていく。日本の教育システムとカリキュラムは、教育にこのような役割を担わせることができるのであろうか?【次ページにつづく】

 

 

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