2018.10.12
道徳教育は民主的な国家と社会を実現することができるのか?
1.はじめに
いま、日本では道徳教育が注目を集めている。これまで「道徳の時間」として行われてきた道徳教育が、「特別の教科」となったからである。これに伴い、道徳の教科書の導入と評価が行われるようになることが議論を呼んでいる。
道徳教育の目的を理解するためには、そもそも教育の目的が何であるのかを把握しておく必要がある。改正教育基本法・第一条に基づけば、教育の目的は「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」である。
そして、一部改正指導要領(平成27年3月告示)の総則に基づけば、道徳教育の目的は、「人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を家庭、学校、その他社会における具体的な生活の中に生かし、豊かな心をもち、伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛し、個性豊かな文化の創造を図るとともに、平和で民主的な国家及び社会の形成者として、公共の精神を尊び、社会及び国家の発展に努め、他国を尊重し、国際社会の平和と発展や環境の保全に貢献し未来を拓く主体性のある日本人の育成に資すること」である。
「平和で民主的な国家及び社会の形成者」という部分で両者は重複しており、道徳教育の最重要点がここにあることを読み取れる。確かに道徳教育の目的が議論を呼んでいるが、1970年代までの米国の基礎教育がそうであったように、教育に民主的な国家と社会の実現を期待する点に関してだけ言えば、それほど異論はないのではなかろうか。
しかし、そもそも教育によって「平和で民主的な国家及び社会」は形成されるのであろうか? そして、それが形成され得るとして、日本の現状は、道徳教育を推進することで、教育にこの役割を担わせることができる状態にあるのであろうか? 本稿では、道徳教育について論点をこの2つに絞り、議論を進めていきたい。
2. 教育は民主的な国家と社会を実現するのか?
教育の拡充は民主的な国家と社会の実現に貢献しうるのだろうか? この問題を考察するために、この分野の研究を紹介したい。研究はマクロ的なものとミクロ的なものの2種類に分類される。前者は国民の教育水準が高まると、より民主的な国家になるのかの因果関係を分析し、後者はある個人の教育水準の高まりが、その個人をより望ましい民主的な国家と社会の形成者へと導くのかを分析している。
マクロ的な分析の代表例として、Acemogle et al (2005)が挙げられる。これは、ある国における25歳以上の人口の平均教育年数が、フリーダム・ハウスが 公表している民主主義スコアの向上に貢献するのかどうか分析している。これまでにもGlaeser et al (2004)に代表されるように同様の分析は行われ、それらはある国における教育水準の高まりは民主主義の充実に貢献すると結論づけていた。
しかし、Acemogleらの研究はそれまでの研究とは異なり、時代的なトレンド(詳しくは後述する)を考慮した分析を行ったが、この時代的なトレンドを考慮すると、教育が民主主義に与えていたポジティブな効果は消滅した。つまり、教育が民主主義に貢献するというのは、時代的なトレンドによってそう見えただけで、実際にはそのような効果は認められないということになる。しかし、Bobba and Coviello (2007)は、教育が持つ外部性などを考慮したモデルを用いてAcemogleらの研究とまったく同じデータセットを分析したところ、教育は市民性を養うという結果を出している。
ミクロレベルの研究の代表例としてはDee (2004)を挙げることができる。確かに、高等教育を受けている人々は、そうでない人々よりも投票率が高く、ボランティア活動にも参加している。しかし、これらの人々は高等教育を受ける以前から、その後に高等教育を受けない人々と比べて、これらの活動により従事しており、教育が民主的な社会の担い手となる市民を養うことに貢献したのかどうかが分からない。
しかし、この研究は、人々が高等教育を受けるか否かの判断に、最寄りの高等教育機関までの距離が大きく影響するが、家から高等教育機関までの距離と市民性との間にはとくに因果関係が存在するわけではないことを利用した。そして、最寄りのコミュニティカレッジ(日本の短大に相当するが、担っている役割が大きく異なる。また、Dee教授はこれが大学ではダメなことに言及している点は重要である)までの距離を教育水準の操作変数として、教育と市民性との関係を分析した。この分析では、高等教育がボランティア活動を促進するわけではないが、投票率の改善には大きな正の影響を与えることが明らかとなった。
ほかにもいくつか、教育が民主的な社会の担い手となる市民を養うという因果関係を見出したものもあるが(Milligan et al.2004など)、異なる結果を導き出したものもある。例えば、Berlinsky and Lenz (2011)は、ベトナム戦争の徴兵逃れのために大学進学率が増加したことを利用した研究を行ったが(つまり、ベトナム戦争が無ければ大学に行っていなかった人たちが大学に行くわけで、市民性が高いから大学に行く、というリンクが外れる)、高等教育が民主的な社会の担い手となる市民を養う効果は認められないと結論付けている。同様の結論を導いたものとして、Tenn (2007)やKam and Palmer (2008)などが挙げられる。
以上の議論から分かるように、教育が民主的な国家と社会づくりに貢献するか否かの実証研究の結果は、貢献するというものと貢献しないというものが混在している。これには以下の二つの理由が考えられる。
一つは因果推論の難しさである。ミクロ的な研究のところで言及したように、教育が市民性を養うというのはありそうな話であるが、市民性が高い家庭の子供ほどより高い教育段階まで到達するというのもありそうな話である。このため、単純に教育水準と市民性の度合いの関係を見ると、どちらの因果関係が優勢なのか分からず、教育が本当に市民性を養っているのかどうかも分からない。
さらに、マクロ的な研究のAcemogleのところで言及したように、ごく少数の例外的なケースを除けば、教育水準と市民性の度合いは高まり続けている。このため、市民性の度合いの向上が本当に教育水準の向上によるものなのか、それとも時代的なトレンドによって両者が向上しているだけで、実際に教育が市民性の充実に貢献しているわけではないのか、この両者を識別することも難しい。このように教育が民主的な国家と社会に貢献できるのかの因果推論には技術的な難しさが存在している。
もう一つの理由は、教育水準の定量化の難しさにある。具体例を挙げると、マクロ的分析を行うときに、国際学力調査でつねにトップクラスにある日本での教育の一年と、中位に沈む米国での教育の一年は同じものとして扱えるだろうか? ミクロ的分析で言えば、40年以上前のベトナム戦争の時期の教育の一年と21世紀の教育の一年は等価だろうか? さらに言えば、公立学校での一年と私立学校での一年や、人文系と理系の一年を同じに扱ってよいのだろうか?
このように、教育水準の増加が指すものが、文脈によってまったく異なってくるために、教育が民主的な国家や社会の実現に貢献するのか、一般化できるような結論を導き出すことが難しい。実際に、教育が民主的な国家と社会の実現に貢献できるのかは、その教育システムとカリキュラムに大きく左右される。ここで冒頭の問いに立ち返り、どのようにすれば教育に民主的な国家と社会の実現という役割を担わせることができるのかを考えていく。日本の教育システムとカリキュラムは、教育にこのような役割を担わせることができるのであろうか?
3. 民主的な国家と社会づくりから遠のく日本の教育システム
教育システムと、民主的な国家と社会の実現については、α-SYNODOS Vol.238の「こうすれば民主主義は良くなる」の中で取り上げた。民主主義の要と言われた米国の義務教育制度から、民主主義への貢献と社会的平等の実現という目標が抜け落ち、教育がおもに富裕層が富を子弟へと引き継ぐための手段へと堕していった。この過程を描写することで、詳細を議論しているので参照頂きたい。その議論を基に考えると、現在の日本の教育システムは、米国の後追いをし、民主的な国家と社会の実現とは逆の方向に向かっている。
前述の記事の中で、米国の義務教育が民主主義の要としての役割を取り戻すことがないであろう3つの要因に言及したが、その一つは、教育の民営化を含む学校選択制の拡大である。非選択制下の学校(以下、郷土の学校)は、郷土の需要に応えるだけでなく、郷土内の多様な背景を持つ保護者たちが学校運営を作り上げていく「民主主義の学校」としての役割を担っていた。
しかし、選択制下の学校は、地縁により有権者が構成される選挙制度と異なり、生徒の集団が地縁に拠らなくなるだけでなく、保護者も地縁ではなく学力を媒介した社会経済的地位によって集まる画一的な集団になるため、「民主主義の学校」としての機能を期待することもできない。
これは一見すると私立学校にのみ当てはまりそうな議論であるが、公立選択制であっても似た現象が起こる。富裕層の保護者はより学習成果の向上に貢献しそうな学校を選ぶ一方で、非富裕層、とりわけ貧困層の保護者は家から学校への近さで学校を選択する傾向が強い。民主的な社会への貢献という学校の役割に絞って言えば、選択される学校は実質的に「私立化」する。日本は平成の時代の間に、私立中学校に通う生徒の割合が倍以上に増加しただけでなく、公立学校の選択制も広まった。
3つの要因のもう一つは、郷土・教員間・行政的など様々なアカウンタビリティがある中で、テストに基づくアカウンタビリティのみが過度に注目されている点である。クリントン政権でその土台が作られ、ブッシュ政権で始まったテストの成績に応じて資金が配分される政策は、教育の目的をテストの成績へと矮小化させた。日本でも、大阪市で教員給与や学校へのリソース配分に学力テストの成績を反映させる動きが出てきているように、教育の目的をテストの成績へと矮小化させる動きが見られる(もともと日本の教育はテストの成績にその主眼が置かれていたが) 。
米国の経験を基に考えれば、日本のこの脱郷土の学校化とテストに基づくアカウンタビリティへの過度なフォーカスの結合は、教育を富裕層の経済的目的の実現手段へと堕させ、民主的な国家と社会の実現という役割を教育から奪う働きを持つと考えられる。
4. 道徳教育の導入を評価する体制ができていない
道徳教育の導入は、カリキュラムの議論になる。カリキュラム的な議論はその分野の専門家に譲るが、日本の道徳教育導入の問題点として、中央教育審議会の道徳教育専門部会でこの点がまったく議論されていないことから分かるように、道徳教育が本当に民主的な国家と社会の実現に貢献するのか、評価・検証する体制ができていない。より具体的に言うと、何らかの施策・取組を評価・検証し改善していくためには、Theory of Changeとインパクト評価の組み合わせが欠かせないが、これらが道徳教育導入に置いて議論された形跡がまったく見られない。
Theory of Changeがどのようなものであるか詳細な説明は字数の関係から、リンク先の記事に譲るが、道徳教育を事例に説明すると以下の3点セットに要点を絞ることができる。
1.道徳教育を実施するためにどのようなインプットが必要か明らかにし、道徳教育がどのような結果(アウトプット)を生み出し、その結果が中期的にどのような成果(中間アウトカム)を生み、それが長期的にどのような成果(最終アウトカム)を生むのか、ロジックを考える。
2.上記のロジックが成立するには、どのような前提条件が必要なのか明らかにする。
3.上記の必要な前提条件に対して、実際の諸条件はどうなっているのか明らかにする。
この3点セットを活用することで、インパクト評価を実施して、道徳教育が民主的な国家と社会の実現に貢献するという因果関係が存在しなかった、ないしは効果量が期待ほどではなかった場合に、「どの段階でどの要素が理論どおりにいかずそうなったのか」、という点を明らかにすることが可能となる。
また、施策を評価し改善していくためには、その政策目標はSMARTな指標に落とし込めるものであることが望ましい。SMART指標とは、Specific, Measurable, Achievable, Relevant, and Timelyの頭文字を取ったもので、具体的・測定可能・到達可能・妥当性・期限が設定できる指標のことである。しかし、学習指導要領の総則にある道徳教育の目的を見ると、「自立した人間として他者と共によりよく生きるための基盤」や「個性豊かな文化の創造を図る」のように、どうしてもSMART指標に落とし込めない部分が多く見受けられる。
一言でまとめると、道徳教育の評価方法ばかりが議論され、「道徳教育を評価すること」の評価方法がまったく議論されておらず、道徳教育カリキュラムを改善していく体制が存在していないという問題が存在している。
5.まとめ
最近の相次ぐ文部科学省関連の不祥事から、道徳心にかける文部科学省が道徳を教えるなんて矛盾していると揶揄する声も散見されるが、道徳教育の矛盾点はもちろんそのようなところではなく、政策として2点の矛盾点を抱えている所にある。
一つ目の矛盾点は、郷土愛を謡いながら学校の脱郷土化を推進している点である。この矛盾は、富裕層は非郷土の学校、貧困層は郷土愛の重要性が強調される郷土の学校で学ぶという、大きな危険性も抱えている。
脱郷土の学校が始まった1980年代以降の米国は、富裕層が自分の富を子弟に確実に引き継ぎつつ、White Flightという言葉に象徴されるように、白人エリート層が有色貧困層の住民と接点を持たなくて済む教育システムを作り上げるという意図をもってこれを進めたことが読み取れる。日本の教育政策の多くは、ゆとり教育に代表されるように、教育政策関係者の勘に基づく場当たり的なものなので、米国のような醜い意図はなさそうだが、カリキュラムと整合性のある教育システムを築き上げていく必要がある。
二つ目の矛盾点は、道徳教育の評価を議論しながら、「道徳教育の評価」を評価する方法が完全に抜け落ちている点である。例えば、ゆとり教育が、まともな総括がなされないまま反動へと向かっていったように、日本の教育政策の多くは始まりがいい加減なら、その評価と終焉もいい加減であるが、道徳教育もこれとまったく同じ道を歩んでいる。これはすべての教育政策に当てはまることではあるが、道徳教育の評価自体が政策評価されて、改善していく道筋が用意される必要がある。
教育は民主的な国家と社会の実現に貢献できる可能性を持つ。しかし、現在の日本の教育制度や、教育政策関係者のキャパシティは、教育にこの重要な役割を担わせるには不十分だと考えられる。教育は国家100年の計だと考えるのであれば、矛盾にまみれた拙速な施行ではなく、遠回りだとしても政策関係者のキャパシティ強化を重視し、教育システムとカリキュラムに整合性があり、かつそれを改善し続けていくための仕組みづくりができる道徳教育の体制をまず整える必要があるだろう。
プロフィール
畠山勝太
NPO法人サルタック理事・国連児童基金(ユニセフ)マラウイ事務所Education Specialist (Education Management Information System)。東京大学教育学部卒業後、神戸大学国際協力研究科へ進学(経済学修士)。イエメン教育省などでインターンをした後、在学中にワシントンDCへ渡り世界銀行本部で教育統計やジェンダー制度政策分析等の業務に従事する。4年間の勤務後ユニセフへ移り、ジンバブエ事務所、本部(NY)を経て現職。また、NPO法人サルタックの共同創設者・理事として、ネパールの姉妹団体の子供たちの学習サポートと貧困層の母親を対象とした識字・職業訓練プログラムの支援を行っている。ミシガン州立大学教育政策・教育経済学コース博士課程へ進学予定(2017.9-)。1985年岐阜県生まれ。