道徳教育は民主的な国家と社会を実現することができるのか?

3. 民主的な国家と社会づくりから遠のく日本の教育システム

 

教育システムと、民主的な国家と社会の実現については、α-SYNODOS Vol.238の「こうすれば民主主義は良くなる」の中で取り上げた。民主主義の要と言われた米国の義務教育制度から、民主主義への貢献と社会的平等の実現という目標が抜け落ち、教育がおもに富裕層が富を子弟へと引き継ぐための手段へと堕していった。この過程を描写することで、詳細を議論しているので参照頂きたい。その議論を基に考えると、現在の日本の教育システムは、米国の後追いをし、民主的な国家と社会の実現とは逆の方向に向かっている。

 

前述の記事の中で、米国の義務教育が民主主義の要としての役割を取り戻すことがないであろう3つの要因に言及したが、その一つは、教育の民営化を含む学校選択制の拡大である。非選択制下の学校(以下、郷土の学校)は、郷土の需要に応えるだけでなく、郷土内の多様な背景を持つ保護者たちが学校運営を作り上げていく「民主主義の学校」としての役割を担っていた。

 

しかし、選択制下の学校は、地縁により有権者が構成される選挙制度と異なり、生徒の集団が地縁に拠らなくなるだけでなく、保護者も地縁ではなく学力を媒介した社会経済的地位によって集まる画一的な集団になるため、「民主主義の学校」としての機能を期待することもできない。

 

これは一見すると私立学校にのみ当てはまりそうな議論であるが、公立選択制であっても似た現象が起こる。富裕層の保護者はより学習成果の向上に貢献しそうな学校を選ぶ一方で、非富裕層、とりわけ貧困層の保護者は家から学校への近さで学校を選択する傾向が強い。民主的な社会への貢献という学校の役割に絞って言えば、選択される学校は実質的に「私立化」する。日本は平成の時代の間に、私立中学校に通う生徒の割合が倍以上に増加しただけでなく、公立学校の選択制も広まった。

 

3つの要因のもう一つは、郷土・教員間・行政的など様々なアカウンタビリティがある中で、テストに基づくアカウンタビリティのみが過度に注目されている点である。クリントン政権でその土台が作られ、ブッシュ政権で始まったテストの成績に応じて資金が配分される政策は、教育の目的をテストの成績へと矮小化させた。日本でも、大阪市で教員給与や学校へのリソース配分に学力テストの成績を反映させる動きが出てきているように、教育の目的をテストの成績へと矮小化させる動きが見られる(もともと日本の教育はテストの成績にその主眼が置かれていたが) 。

 

米国の経験を基に考えれば、日本のこの脱郷土の学校化とテストに基づくアカウンタビリティへの過度なフォーカスの結合は、教育を富裕層の経済的目的の実現手段へと堕させ、民主的な国家と社会の実現という役割を教育から奪う働きを持つと考えられる。

 

 

4. 道徳教育の導入を評価する体制ができていない

 

道徳教育の導入は、カリキュラムの議論になる。カリキュラム的な議論はその分野の専門家に譲るが、日本の道徳教育導入の問題点として、中央教育審議会の道徳教育専門部会でこの点がまったく議論されていないことから分かるように、道徳教育が本当に民主的な国家と社会の実現に貢献するのか、評価・検証する体制ができていない。より具体的に言うと、何らかの施策・取組を評価・検証し改善していくためには、Theory of Changeとインパクト評価の組み合わせが欠かせないが、これらが道徳教育導入に置いて議論された形跡がまったく見られない。

 

Theory of Changeがどのようなものであるか詳細な説明は字数の関係から、リンク先の記事に譲るが、道徳教育を事例に説明すると以下の3点セットに要点を絞ることができる。

 

1.道徳教育を実施するためにどのようなインプットが必要か明らかにし、道徳教育がどのような結果(アウトプット)を生み出し、その結果が中期的にどのような成果(中間アウトカム)を生み、それが長期的にどのような成果(最終アウトカム)を生むのか、ロジックを考える。

 

2.上記のロジックが成立するには、どのような前提条件が必要なのか明らかにする。

 

3.上記の必要な前提条件に対して、実際の諸条件はどうなっているのか明らかにする。

 

この3点セットを活用することで、インパクト評価を実施して、道徳教育が民主的な国家と社会の実現に貢献するという因果関係が存在しなかった、ないしは効果量が期待ほどではなかった場合に、「どの段階でどの要素が理論どおりにいかずそうなったのか」、という点を明らかにすることが可能となる。

 

また、施策を評価し改善していくためには、その政策目標はSMARTな指標に落とし込めるものであることが望ましい。SMART指標とは、Specific, Measurable, Achievable, Relevant, and Timelyの頭文字を取ったもので、具体的・測定可能・到達可能・妥当性・期限が設定できる指標のことである。しかし、学習指導要領の総則にある道徳教育の目的を見ると、「自立した人間として他者と共によりよく生きるための基盤」や「個性豊かな文化の創造を図る」のように、どうしてもSMART指標に落とし込めない部分が多く見受けられる。

 

一言でまとめると、道徳教育の評価方法ばかりが議論され、「道徳教育を評価すること」の評価方法がまったく議論されておらず、道徳教育カリキュラムを改善していく体制が存在していないという問題が存在している。

 

 

5.まとめ

 

最近の相次ぐ文部科学省関連の不祥事から、道徳心にかける文部科学省が道徳を教えるなんて矛盾していると揶揄する声も散見されるが、道徳教育の矛盾点はもちろんそのようなところではなく、政策として2点の矛盾点を抱えている所にある。

 

一つ目の矛盾点は、郷土愛を謡いながら学校の脱郷土化を推進している点である。この矛盾は、富裕層は非郷土の学校、貧困層は郷土愛の重要性が強調される郷土の学校で学ぶという、大きな危険性も抱えている。

 

脱郷土の学校が始まった1980年代以降の米国は、富裕層が自分の富を子弟に確実に引き継ぎつつ、White Flightという言葉に象徴されるように、白人エリート層が有色貧困層の住民と接点を持たなくて済む教育システムを作り上げるという意図をもってこれを進めたことが読み取れる。日本の教育政策の多くは、ゆとり教育に代表されるように、教育政策関係者の勘に基づく場当たり的なものなので、米国のような醜い意図はなさそうだが、カリキュラムと整合性のある教育システムを築き上げていく必要がある。

 

二つ目の矛盾点は、道徳教育の評価を議論しながら、「道徳教育の評価」を評価する方法が完全に抜け落ちている点である。例えば、ゆとり教育が、まともな総括がなされないまま反動へと向かっていったように、日本の教育政策の多くは始まりがいい加減なら、その評価と終焉もいい加減であるが、道徳教育もこれとまったく同じ道を歩んでいる。これはすべての教育政策に当てはまることではあるが、道徳教育の評価自体が政策評価されて、改善していく道筋が用意される必要がある。

 

教育は民主的な国家と社会の実現に貢献できる可能性を持つ。しかし、現在の日本の教育制度や、教育政策関係者のキャパシティは、教育にこの重要な役割を担わせるには不十分だと考えられる。教育は国家100年の計だと考えるのであれば、矛盾にまみれた拙速な施行ではなく、遠回りだとしても政策関係者のキャパシティ強化を重視し、教育システムとカリキュラムに整合性があり、かつそれを改善し続けていくための仕組みづくりができる道徳教育の体制をまず整える必要があるだろう。

 

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vol.256 

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