2020.06.29

道徳を「教える」とはどのようなことか――「押しつけ」と「育つにまかせる」の狭間を往く教育学

神代健彦 教育学・教育史

教育 #「新しいリベラル」を構想するために

1.はじめに

「危険だけど必要、必要だけど危険、そんな憂鬱なことどもはこの世にいくらでもあって、おそらく教育というやつはその種の事柄に属していて、そしてさらに道徳教育ってやつはその最たるもの、言ってみれば、教育オブ教育なのだと思うのですが、さてどうですかね」(神代・藤谷2019)

2015年3月、学校教育法施行規則および学習指導要領の一部改正により、「特別の教科 道徳」がスタートした。法令上の正式名称は「特別の教科である道徳」、通称は「道徳科」。

戦後教育改革の際、戦前・戦中期の筆頭教科であった「修身」が廃止された後も、官民学を問わずくすぶり続けた道徳教育要求は、1958年に、教科ではない領域としての「道徳の時間」特設にいったんは結実していた。動きが起こったのはそれから半世紀後、第1次安倍政権下に設けられた首相直属の教育再生会議からである。2007年の第2次報告で明記された「徳育の教科化」が、さきの2015年の道徳科につながっている。

その道徳科は、2017年告示の新学習指導要領でも踏襲され、小学校では2018年度、中学校では今年2019年度に完全実施となった。率直に言って、あきらかに「政治主導」であるこの道徳教育改革が、学校現場にもたらした動揺・混乱や疲弊は計り知れない。しかしともあれ走り出してしまったこの「特別の教科」を、わたしたちはいったいどのように考えればいいのだろうか。

より正確に言えば、ここに態度決定を求められている「わたしたち」とは、学校における道徳教育なるものに批判的、あるいは少なくとも違和を感じる一群のことである。戦前・戦中期の「修身復活」を警戒する筋金入りの戦後リベラル・左派から、近代学校の抑圧性を批判するポストモダン派、もっと素朴に「道徳」の語に言葉にならない復古的・権威主義的なうさん臭さを感じる保護者・市民あたりが念頭にある。

そして、道徳科がすでに正式な制度手続きを経て完全実施に至っている現状で求められるのは、むしろ、よりマシな道徳教育論を提示することに他ならない――これが、少なくともわたしの立場であって、そんな立場をここでは「道徳教育左派」と呼んでおきたい。

そもそも道徳教育に限らず教育とは、すべての人に保障されるべき権利でありながら、つねにすでに、先行世代による後続世代の「統治」の技術という面を、拭い難く含んでいる。そして道徳教育とは、子どもの内面性をダイレクトに対象化するという意味で、憲法19条(思想及び良心の自由)を侵害しかねない、ひときわ危険な教育である。

しかしにもかかわらず、道徳性の発達(人格の完成)のための教育の保障は、26条(教育を受ける権利)の範疇に属する。だから、危険さに居直ることなく、必要に目をつぶることなく、道徳性発達の機会を保障する筋道を追求するというのは、道徳教育に携わる者の責務というべきだろう。

教育とは、危険であるが必要、必要であるが危険なのであって、道徳教育はその最たるものである――そんな立場から、つまりは道徳教育左派として、道徳科との向き合い方を提案してみよう。

2.道徳科の矛盾という可能性

道徳科にかかわって厄介な問題の1つは、学習指導要領で示された「内容項目」である。道徳科で取り扱うべき教育の内容のことで、学習指導要領の解説では、小学校6年間ないし中学校の3年間において、児童生徒が「人間として他者とよりよく生きていく上で学ぶことが必要と考えられる道徳的価値を含む内容を、短い文章で平易に表現したもの」(道徳科指導要領解説)である。

小学校低学年で19項目、中学年で20項目、高学年で22項目、そして中学校では22項目定められており、中身は「A 主として自分自身に関すること」「B 主として人との関わりに関すること」「C 主として集団や社会との関わりに関すること」「D 主として生命や自然、崇高なものとの関わりに関すること」の4つに分類されている。

この内容項目は、検定教科書の教材の選択や解釈の基本となるものであり、道徳科授業への影響力は極めて大きい。この内容項目を含む学習指導要領とその解説は、文部科学省ウェブサイトで公開されているので、気になる読者はぜひ確認してみてほしい。

筆者が問題だと思うのは、ここで示された内容項目が、学問的吟味なり、なんらかの正当化の手続きを経ているとは思われない、恣意的な「徳目」の列挙となっている点である。さらに中身に踏み込んで言うなら、道徳科学習指導要領解説(2017年)では、グローバル化の進展にともなう価値の多元化や、科学技術の発展、社会・経済の変化などが道徳教育の課題として強調されているのに対して、内容項目には、権利よりもルールの尊重や義務の履行を優先する傾向、家族愛の称揚、国や郷土に対する愛、「日本人としての自覚」の強調などといった、国家や社会の秩序を念頭においた「徳目」が目に付く。

これは、グローバル化や科学技術の発展がもたらす国家や家族などの伝統的共同体の相対化・流動化に対して、それらに対する愛着や忠誠を鼓舞することで対応するという、典型的な新保守主義の発想である。

記述式とはいえ、道徳科では評価が必須となった。仮に、これらの徳性を身に着けたかどうかが進学・就職に影響力を持つとなれば、先を争って愛国的振る舞いを競う「日本人」の子どもたちと、そこから排除されるマイノリティ、というディストピアが教室に繰り広げられかねない(ちなみに、成績評価を念頭に置いた子どものこのような愛国的な「身振り手振り」は、保守的な徳目の内面化として道徳教育を考えるタイプの論者―ここでは仮に「道徳教育右派」と呼ぼう―から見ても、明らかに教育の失敗となるはずだが、そのような主張の例は管見の限り見受けられない)。ともあれ、道徳科を敢えて引き受ける道徳教育左派の課題は、そのような内容項目の押しつけや過剰適応をいかにして避けるか、という点にあると言える。

そして何を隠そう、内容項目の相対化の契機は、道徳科の建てつけそれ自体のなかにある。

まず、今次の新しい道徳教育のスローガンは「考え、議論する」道徳である。そのコンセプトを素直に受け取るなら、単に教師が教訓を垂れ、子どもがそれを心に刻むというような授業はありえない。もっと言えば、そのコンセプトから、子どもが主体的に事柄の是非を吟味する学習活動の重要性を引き出すことも十分可能である。

例えば、小学校第3学年及び第4学年の内容項目C-11「約束や社会のきまりの意義を理解し、それらを守ること」を主題とした「考え、議論する」道徳科授業では、「ルールはなんのためにあるんだろう」「すべてのルールが守るべきものだろうか」「ルールはつねに正しいのだろうか」「ルールがあることによって不幸になっている人はいなのだろうか」といったことを「考え、議論する」活動を重視する、というのは、比較的自然な発想ではないだろうか。

つまり、「考え、議論する」というコンセプトを重視するならば、内容項目とは、それを内面化することが課せられた徳目ではなく、子どもたちが「考え、議論」するところの主題であるという解釈も可能になる。それは裏を返せば、「考え、議論する」活動の結果、最終的にどのような価値を採用するかは子ども個人の自由である、ということに他ならない。ここではこれを、自由主義的(リベラル)に解釈された道徳教育と呼んでおこう(注)。

(注)もっとも、政治学の一般的な用語法で言えば、新保守主義と自由主義は必ずしも対となる概念ではない。自由主義(また後段に述べる「新自由主義」)は、共同体への忠誠を、自由を可能にする最低限の道徳として許容する場合も考えられるからである。ここではあくまで便宜的に、子どもの内面に共同体への愛着や忠誠心を涵養することを積極的に一つのゴールとする道徳教育を新保守主義的、必ずしもそれらを直接のゴールとして追求しない、のみならず、子どもの内面への介入に抑制的な道徳教育を自由主義的、と形容しているに過ぎないことを断っておきたい。

まとめよう。重要なのは、道徳科の基本コンセプトが、解釈次第で押しつけ道徳の「解毒剤」となりえるということである。換言すれば、道徳科はその内部に、国家や共同体の危機を道徳の強制によって取り繕うという新保守主義的側面と、それを掘り崩す自由主義的側面を抱え込んだ、矛盾した教科だと言える。そして、その矛盾をどのようにポジティブな可能性として引き受けるかということが、道徳教育左派の課題となる――と、とりあえずはそう言える。

3.道徳性はカネで買えるか

では道徳教育左派は、道徳科の授業づくりにおいて、自由主義の方へ向けて目いっぱい舵を切りさえすればいい、ということなのか? おそらくそうではない。子どもの内面への介入に抑制的であることは自由主義的な道徳教育の美徳ではあるが、そのことが、授業における教師の指導的介入の価値を認めず、言わば「子どもが勝手に育つにまかせる」ような道徳教育を帰結するなら、それは「押しつけ」とは対極のもう一つの陥穽、すなわち、道徳的卓越性を掛け金とした能力主義を招来しかねない。そしてこれを理解するには、道徳科を含む現行学習指導要領の中心的コンセプトである「資質・能力」という考え方について確認しておくことが肝要である。

資質・能力とは、今回の学習指導要領が採用した、子ども(人間)の人格と能力の把握の新しい様式である。大きく➀「個別の知識・技能」、②「思考力・判断力・表現力等」、③「学びに向かう力、人間性等」の3つの柱によって構成される資質・能力は、「何を教えるか」を中心とする旧来の知識伝達(暗記中心)型教育から、「どんな能力を育てるか」というコンピテンシー型教育への転換を表現している。

一般に言われる「学力」がいわゆるペーパーテストで測られるものだとして(これは教育学的には大問題なのだが)、そこで測られるのは➀に属するものだろう。他方、有名な国際学力調査PISAは特に②に関わっている。しかし資質・能力はそれだけではなく③、つまり、より人間の人格的側面も包括する概念である。言うなれば資質・能力とは、人間をまるごと教育の射程にとらえる概念だと言える。

また、学習活動の主体として子どもを位置付けるこの教育観は、「所定の知識や技能の習得ではなく、学習者がモノや人を媒介とする活動を通して意味と関係を構成する学び」(佐藤1996)という考え方を中心に教授/学習活動を考える、いわゆる構成主義的学習観を前提している(注)。教科書に書かれた知識を子どもに伝達する―子どもは受動的に知識を獲得する―という伝統的な教育観は否定され、むしろ知識とその意味は、学習者がモノや他者と試行錯誤しつつ関わるなかで、学習者自身によって主体的に生み出される(構成される)というのである。

(注)ちなみに佐藤(1996)は、構成主義の学習論を、➀心理学的な構成主義の系譜、②人工知能をモデルとする認知心理学的な構成主義の系譜、③文化・歴史心理学の構成主義の系譜、④文化人類学的な構成主義の系譜の4つに分けて論じる。学習指導要領は準拠した理論的知見を明示しないので、資質・能力がこれらのどの系譜につながるかを文献的に跡付けることは不可能だが、教える内容ではなく、子ども(学習者)の資質・能力に強調点を置く語り口は、少なくとも明らかに構成主義的である。他方で、学びの社会的文脈(③)やアイデンティティ形成(④)に触れることはないため、消去法的に、子どもの学びを、認知スキーマの活用を軸として個人主義的にとらえる➀ないし②に近いものだと解釈するのが妥当なように思われる。

いきおい、この教育観ならぬ学習観において、教師のしごとは、伝統的な教育の場合よりもぐっと後景に退き、「小さな資質・能力」たちの「力(コンピテンシー)」を引き出し、伸ばす「環境設定」としての性格を強める。そしてそれは、「考え、議論する」道徳科というコンセプトと同様、「徳目」として理解された内容項目を注入・強制するような保守的・権威的な道徳教育論とは、明らかに整合しない。このことは、注入主義的な道徳教育を避けるという意味で手放すことはできない。

しかし他方で、構成主義的学習観にもとづく教育が、ただ単に子どもが活発に「考え、議論する」環境設定だけを企図する「中立」的位置に留まり、「教える」ということの領分をみずから切り縮めていくならばどうか。それはややもすれば、個々の子どもたちがそれぞれの生まれ育ちのなかで獲得した(道徳に関わる)資質・能力がむき出しで教室に現れ卓越を競う空間を、生み出してしまうかもしれない。子どもたちはあたかも、教室という「道徳的」環境に対する「適応」を競う生き物のようにして、その空間をサバイブすることを強いられる。

――少し比喩的な表現が過ぎたかもしれない。もう少し、現代の教育を取り巻く語彙の地平に、議論を着地させよう。念頭に置いているのは、近年流行する「非認知能力」と、それを左右する階層格差である。

非認知能力とは、ペーパーテストで測定可能な認知能力に対して、そのような仕方では測ることのできない、言わばより「人格」あるいは「性格」の特性に近いような人間の諸力を指す用語である。すでに幼児教育分野で人口に膾炙したこの語は、具体的には、「粘り強さ」「やり抜く力」「協調性」「共感する力」「社交性」「自尊心」「自制心」などといったより日常的な語彙でも表現されている。ちなみにOECD(経済協力開発機構)は、これらを「社会情動的スキル」として理解している(OECD編著2018)。スキルとして理解するとはつまり、これらの能力が、適切な教育環境のなかで意図的に育みうる能力であることを示している。

経済学者のJ・J・ヘックマンが、追跡調査によって、幼児期のこの種の能力と諸個人の人生の成功や社会経済的利益との相関関係を明らかにしたことで、幼児教育への公共投資を正当化する社会民主主義的な主張の根拠となるようにも思われたが(ヘックマン2015)、日本の状況をみるに、むしろ敏感に反応しているのは市場の方である。幼児教育を中心に、非認知能力を育てる教育方法を提案する商品が市場に多く流通しているという現状がある。

そして重要なのは、ここで上げた諸々の非認知能力は、一般に「道徳性」と言われるような人間の特性(徳性)を明らかに含んでいるということ、これである。

幼児期に適切な教育を与えることで、粘り強く協調性があり、共感性や自尊心の高い、自分の欲求をうまくコントロールできる子どもに育つ、すなわち、より「道徳的」になる――もちろん、このこと自体に特段問題はないのだろう。しかし、それが「スキル」として名指され、その育成が市場を形成しつつある現代社会の状況がある。より子育てに時間と労力、そして資金を投入できる高階層の家族ほど、子どもの非認知能力=道徳性を育てる適切な幼児教育や関連商品を豊富に取りそろえることができる。そうした状況を考えるなら、教室の子どもたちの道徳性は、じつのところ、子どもたち自身の出身階層の特性、その格差を如実に反映している可能性が高い。

4.「教える」ことの再発見/学校を危険にさらせ!!

もちろんこのことには、よりリベラルな解釈―一見して「不道徳」なあの子たちの振る舞いは、彼らの背景にある社会経済的問題の反映であり、そこに社会の介入が必要である―の余地がある。しかし、現代日本社会の現状に鑑みるに、有力な解釈枠組みはむしろこうだろう―彼らが階層的に劣位に置かれているのは、彼ら自身が飽き性で、自己中心的、攻撃的かつ自尊心が低く、欲求をコントロールするのが苦手であるという彼ら自身の人となりのゆえである――すなわち、「自己責任」論である。

そして、そんな「道徳的」強者と弱者が住まう教室のストーリーは両義的だ。教室には、なにごとにおいても粘り強く協調性があり、共感性や自尊心の高い、自分の欲求をうまくコントロールできる子どもがいる。他方で、飽き性で、自己中心的、攻撃的かつ自尊心が低く、欲求をコントロールするのが苦手な子どもがいる。前者は、豊かな生活経験を土台にして、教師が提示する道徳科教科書の教材を完全に読み解き、みんなにとっての「納得解」をいち早く提案するだろう。そんな「納得解」は、もしかすると、後者の子どもたちをリベラルな教室空間のなかに包摂するかもしれない(「つい嘘をついてしまう子は、じつは彼自身が困っている子なんじゃない?」)。

しかし、その逆の可能性が頭をよぎる(「あの子はもっと他の子と仲良くする努力をすべきだと思う。それをしないのはあの子の責任だと思います」)。教材の読み解きは、教室の人間関係と二重写しになる。いつも飽き性で、自己中心的で、攻撃的で、自尊心が低く、欲求をコントロールするのが苦手な子どもは、居場所がない。道徳科の授業、それは、いつも同じ子どもが「正論」を掲げ、他の子どもたちを圧倒する時間――しかしそれでは結局、場を支配するのが教師か、それとも特定のクラスメイトか、という違いでしかないではないか。

少し抽象化して言うならば、ここで言いたいのは、「育つにまかせる道徳科の授業」が、自由主義的というよりはむしろ、(あまり明晰な概念とは言えないことを断りつつ)「新自由主義的」な時空間でありうる危険性である。言うまでもないことであるが、子どもは教室でだけ育つのではない。彼らは、共同性や公共性を個人の生の障害とみなし、人生の浮沈を「平等」な個人の努力の結果とみなす「自己責任」論の空気のなかで育ってきている。それが彼らの「自然」なのである。そんな「自然」を解放しさえすれば、つまりは、押しつけ道徳を回避しさえすれば、子どもの道徳性は育つのか?

だから道徳教育左派の問題構制は、いきおい、以下のようになる。押しつけという新保守主義の「人為」に居直るのではなく、しかし自己責任という現代の新自由主義的「自然」に任せるのでもない、その狭間を抜けていくということは、いかにして可能か、と。

では、狭間を往くためにはなにが必要か。ここでは、単なる権威主義的な押しつけとは異なる意味で、「教える」という営みの意味を再発見する、ということを挙げておきたい。このことを強く主張するのが、オランダの教育哲学者G・ビースタである。以下、彼の主張の要点のみ紹介しておこう(ビースタ2018)。

ビースタによれば、いま世界の教育界は、先に述べた構成主義的学習観に基づくコンピテンシーというアイデアに席巻されつつある。そのアイデアは、従来の教育を、教師中心の権威主義的、統制的教育として批判し、子どもがみずから学習しスキルを獲得(構成)していく学習者(子ども)中心の教育を強調する。そこでは、「教える」という「権威主義的」行為をいかにして切り詰めていくかが重要となる。

しかしビースタに言わせれば、そのような教育論のなかで育つ子どもは、「ロボット掃除機」と変わらない。「ロボット掃除機」が、特定の「環境」のなかで行きつ戻りつ試行錯誤しながら最適な掃除の仕方を獲得することと、学習者が与えられた環境のなかで学習活動を繰り返し役に立つスキルを身に着けることは、環境への「適応」という意味で、類比的だという訳である。

もちろん教育/学習という営みが、おしなべてそのようであることは、完全に否定されるべきことではない。あからさまな教師の権威主義を避けることは、まずは道徳科においても大事なことである。また、ある子どもがみずから学習を進め育っていくことの価値それ自体は、否定すべくもない。しかし先の話でいうならば、個々の子どもの道徳性の初期値は、少なからず階層的影響を受けている。道徳的強者と弱者が教室で道徳的「適応」のゲームを競い、ほとんど予定調和的に、道徳的勝者と敗者が生み出されていくということを、そのまま道徳教育という名のもとに正当化してよいわけではあるまい。

少なくとも、人間の道徳に関わる歴史的道行きは、旧来の道徳的秩序が異議申し立ての挑戦を受け、部分的にせよ更新されるということを含んでいる。子どもたちを保守主義の檻に隔離し閉じ込めるというのでない限り、道徳教育左派の目指すところは、教室の「自然」な秩序に敢えて変動の可能性をもたらし、そのことをもって、子どもを人間の道徳的道行きに参加させるということにあるべきではないか。そしてそれは、「教科」という文化への入り口を介して、子どもを人間の文化的共同体の担い手として迎え入れるという、学校教育の営み一般のライトモチーフに他ならない。

では、どうやって、教室の「自然」の秩序にゆさぶりをかけるのか。そのゆさぶりこそが、ビースタが救い出したところの、「教える」という営みである。「教える」とは、教師が子どもを権威的に操作することではない。子どもの前に文化を提示して、そのことをもって、むしろ彼らの「適応」にノイズを仕掛けることである。言い換えれば、教育を、教師と子どもの二者のどちらが主導権を握るか、ではなく、教師、子ども、そして(ノイズとしての)知の三者において考えるということである。

彼らが「自己責任」を基調とした道徳的自然を生きるのであれば、「公正としての正義(ロールズ)」や「ケア倫理(ノディングス)」に出会わせるべきだ。封建的観念に縛られた自罰的な心性には、功利主義の英知による相対化が効くかもしれない。それらの知はそれ自体、子どもが背負ってくる階層文化の秩序、ある種の道徳ならぬ「習俗」を、吟味・統制する知なのであるから。

もちろん、小学校や中学校で倫理学をそのまま教えこめ、というわけではない。しかし、倫理学が道徳に関わる人間の知的な文化遺産の秀逸なカタログであることは否定できない。もともと教科とは、その背景に、人間の科学や文化の領域を背負っていなければならないものである。それを背景にして―例えば、国語の時間に文学の価値に触れたり、数学の深さに打たれたりするのと同様に―、子どもたちが道徳という知的文化遺産と出会い、道徳的な「ゆさぶり」を経験する、そんなものであってはじめて、道徳科は〈まっとうな〉教科になる。

そしてそんな道徳科の授業は間違いなく、「危険」な授業である。ただしそれは、冒頭で述べたような子どもにとっての「危険」ではなく、むしろ逆に、学校や教師にとっての「危険」である。道徳や倫理の知を享受するとは―少なくとも思考の次元では―、道徳や倫理の矩を超えるということを含んでいる。

「なぜ人を殺してはいけないのか」「なぜ人の物を盗んではいけないのか」「なぜ法やルールを守らなくてはならないのか」…倫理学の知は、そのような問いのなかから立ち上がってくる。その問いは、「ロボット掃除機」の環境への適応という図式を拒否した先に、その環境、つまり、学校や教室の秩序そのものを相対化し、危険にさらすことになる。子どもと倫理学的知を出会わせる道徳科とは、「不道徳になってもいい時空間」を学校のなかに作り出すということに他ならない。

それは難しいことだろうか? 確かにそうだ。教師は、学校や教室の秩序が乱れることを恐れる。まして近年の日本の学校現場では、教員の大量退職や多忙化を背景として、子どもの一挙手一投足をルールで規定する「スタンダード化」現象など、秩序形成を前面に押し出した教育手法が隆盛している。このような動向のなかで、「不道徳になってもいい時空間」としての道徳科の授業を作ることのハードルは高い。

しかしそれはやはり、必要なことである。人間は過去において、既存の秩序に異議を申し立て、その都度再審に付しながら今に至る。現代を生きるわたしたちが、後続の世代にだけ、それを禁止できる言われはない。それはいわば世代間の倫理なのであり、だから「不道徳になってもいい時空間」づくりとしての道徳教育とは、わたしたちが歴史において不誠実のそしりを免れないためにも、必要なものなのである。

参照文献一覧

・ビースタ,G J.J. (2018)『教えることの再発見』上野正道監訳、東京大学出版会

・ヘックマン,J.J.(2015)『幼児教育の経済学』古草秀子ほか訳、東洋経済新報社

・神代健彦・藤谷秀編(2019)『悩めるあなたの道徳教育読本』はるか書房

・OECD編(2018)『社会情動的スキル―学びに向かう力』無藤隆・秋田喜代美監訳、明石書店

・佐藤学(1996)「現代学習論批判―構成主義とその後」堀尾輝久・須藤敏昭ほか編『講座学校5 学校の学び・人間の学び』柏書房

プロフィール

神代健彦教育学・教育史

京都教育大学教育学部准教授。専門は教育学・教育史、道徳教育論。研究テーマは、戦後日本の教育学史。また民間教育研究団体での活動を通じて、授業における教師や子どもの振る舞いから、広く現代の(道徳性)発達にかかわる文化的環境までを読み拓く、〈教育批評〉という批評ジャンルの開拓を試みている。教育科学研究会(通称「教科研」)常任委員。
著書に、現代位相研究所編『悪という希望 ―「生そのもの」のための政治社会学―』(共著、教育評論社、 2016)、神代健彦・藤谷秀編『悩めるあなたの道徳教育読本』(共著、はるか書房、2019)、訳書としてニコラス・ローズ『魂を統治する ―私的な自己の形成―』(共訳、以文社、2016)がある。

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