フランスの共和主義とイスラームの軋轢から「市民性教育」について考える

高校生たちの反応

 

現代史に時間を割かない日本から見ると、社会に亀裂を生んでいる争点を授業で扱うことは問題にならないのか、またムスリムの生徒もいる中で、「多様性の限界」や「許容できるかどうか」について討論させながら判断させることによって、生徒たちを分断することにはならないのかと、心配になるほどである。

 

ライシテが強調された市民性教育を学んだ高校生たちの反応はどうなのか。教育省が描くような、人権意識をもち、責任をもって自ら行動できる民主的市民性をもった、非宗教的な市民が育成されているのだろうか。

 

スカーフ禁止法制定時に高校生だった人に話を聞くと、「こうしたテーマは授業で取り上げられなかった。学校や教師によって違う」ということだった。また、公民科の授業に関する仏教育省の調査によると、教師が「教えた」という内容と、生徒が「学習した」と答える内容がだいぶ違っていた[*23]。このように、学習指導要領で示されていても、学校や教師によって取り扱い方は異なり、さらに教師が授業で取り扱ったとしても生徒たちが正しく受け止めるとは限らない。

 

だが「スカーフ論争」に登場する高校生たちの反応をみると、ライシテは現実問題として彼らに突きつけられた。ところが当事者たる生徒たちの意見を無視して論争を繰り広げる大人たちを見て、「報道される話と現実のスカーフ少女たちは全然違っていて、唖然としちゃう」と呆れている。スカーフを理由に放校された少女たちは「発言権を与えられない」、「先生たちは攻撃的で、目の敵にされて辛かった」、放校されて「復学しても学校をたらい回しにされて、まともに授業を受けられなかった」と述べている。それでも彼女たちは「フランスで生まれ育ち、他の国を知らない」ため、この国で生きていくしかない。

 

このように、世の大人たちから直接スカーフ論争を教室に持ち込まれた高校では、生徒たちはスカーフをかぶる者もそうでない者も困惑しながら、机上の議論ではない、「生の」ライシテの問題に向き合っていた。

 

ある高校生は「同級生が放校される事態になって、大変な問題なのだと立ち上がり、彼女たちを守るためのデモに参加した」と語る。彼の反応はまさに、市民性教育が目指す「人権意識をもち、責任をもって自ら行動できる民主的市民性」の実践といえる。しかも、教師や大人たちによってスカーフ少女たちを排除しようと学校に押し寄せられる宗教的差別から、同級生を守ろうとした。彼のような態度こそがライシテを守ることに他ならない。

 

 

終わりに――「市民」としての行動は何か

 

本当の「市民」としての行動は何か。市民性教育はあっても、必ずしもすべての教師によって実践されているわけではなく、また実践されたとしても生徒たちが学んでいないということが事実ならば、先の高校生たちが示した市民性はどこで育まれているのか。

 

スカーフ事件を「生で」体験した生徒の声を聞く限り、市民性教育の理想とする行動をとったのは高校生たちであった。小学校から公民科で「他人の意見を聞く」とか、「異なる人と共に生きる」という教育を受けてきた生徒にとって、スカーフをかぶった同級生が発言権を与えられず、排除されようとしている事態に、権利が守られていないと疑問に思うのは当然であった。放校される同級生の権利を守ろうと立ち上がったのは、まさに市民性教育の実践である。権利や人権に関する知識を現実社会に照らして判断し、責任を持って行動する民主的な市民としての態度がフランスの高校生たちに育まれている。それはやはり義務教育期間に市民性が自然と育まれた結果であるといえるだろう。

 

それに対して「市民」であるはずの大人たちは、メディアの喧騒に振り回され、政治家による「共和国のライシテを守れ」、「イスラームを排除せよ」という掛け声に踊らされた結果、市民として育てるべき生徒を、「スカーフをとらない」という理由で退学させてしまった。

 

そもそもライシテは、教育を施す側に非宗教性を保障させてきたのに、教育を受ける側にも押し付け、それがいつの間にか「ライシテの原則」として正当化されていった。かつて、民衆教育を担っていたカトリックを排除するために適用したライシテであったが、今度は国民教育を担っている共和主義者がイスラームを排除する事態となって、ライシテの適用が教育を受ける側(=生徒)に向かうことになった。

 

そのためにはライシテの再定義が必要となり、一度、再定義されるやいなや、学校を超えた公共の場にも適用範囲が拡大されていった。このライシテの再定義や一連の法規制は、共和主義者がイスラームを排除するために行ったことなのである。

 

しかし、いまやムスリム移民の子たちもフランス人であることから、共和主義によるイスラーム排除が国民を分断するのは必至である。排除する側もされる側も不満を抱え、イスラームを敵視したサルコジに社会分断の責任を負わせ、大統領の座から引きずりおろした。ところが政権交代しても状況が好転しないので、不満を声高に代弁してナショナリズムを煽るだけの極右政党を支持するという状況が起こっている。

 

いまヘイトスピーチが話題となっている日本でも、一部のマジョリティの間で外国人嫌悪が強まる一方で、政権与党が愛国心を育むための道徳を教科に格上げしようとし、「昔の日本は良かった」という懐古主義的風潮を煽っている。しかし問題の核心は、貧困や格差拡大、震災復興や原発問題に対する国民の不満にあり、それに目をそむけて、過去を美化しながら「日本人」アイデンティティを掻き立てて排外主義を煽れば、社会を分断し既存政党もやがて国民の支持を得られなくなることはフランスの今を見れば明らかである。そうならないためにも、市民性教育を通じて、平和や人権や民主的な価値を共有し、正しく判断できる市民を育成することが必要なのである。

 

[*23]鈴木規子「フランス共和制と市民の教育」、近藤孝弘編『統合ヨーロッパの市民性教育』名古屋大学出版会、2013年、pp.115-117.

 

【お詫びと訂正】1月27日の本稿掲載時において、ハラールミートについての記述に事実誤認がございました。訂正をしてお詫び申し上げます。(シノドス編集部)

 

サムネイル「IRAN FRANCE PROTEST」Ivonne Diaz

http://www.flickr.com/photos/ivonnehapuc/3862637174/

 

 

 

 

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