斜めからみる「日本のポストモダン教育学」

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3.教育のポストモダンとは?

 

佐々木のスタンスを「ポストモダン」的と見なすべき理由はすでに明らかであろうが、念のために説明しよう。

 

森の教育批判が、あたかも超歴史的かつ普遍的であるかのごとき「教育」更には「人間」というカテゴリーが、実は近代社会システムが生み出した特殊歴史的な仮構であり、近代の学校教育とはそうした仮構的規範へと人々を規律訓練していく権力機構に他ならないことを告発するものだとしよう。しかし森はもちろん、そこからの脱出路は示さない。更には、こうした近代への批判・告発、それを支える社会学的知それ自体が、他ならぬ近代社会システムの所産であり、それゆえ「教育」「人間」と同様に近代によって先回りされ、囲い込まれてしまっていることに気付いているかどうかも定かではない(おそらくは気付いてしまったがゆえに晩年の沈黙がある)。

 

もう少しだけ詳しく言い直そう。いまやよく知られているように、『監獄の誕生』においてフーコーは、「人間の内面は、あらかじめそこにあって、それが監獄や学校といった装置によって抑圧されたり成形されたりするのではなく、まさにそれらの装置のはたらきを通じて創出されるのだ」と語り、『性の歴史1 知への意志』において、「いわゆる「性の抑圧」は自然にそこにあるセクシュアリティを押さえつけていたのではなく、まさに押さえつける身振りを通じて人々の間にそれへの視線、それへの関心、それへの欲望を煽り立て駆り立てていた、つまりセクシュアリティそれ自体を構築していたのだ」と論じた。このような意味において「権力はポジティブで生産的」なのである。そしてこの意味での「人間」を対象とする人文諸科学、人間科学(もちろんそこには教育学も含まれる)は権力の構成要素に他ならない。

 

しかしながらこのように権力が「人間」、近代的な意味での人間性を生産しているというのであれば、近代的な意味での「社会」もまた権力による生産物であるとはいえないだろうか? 素朴に考えれば、「教育」そして「人間」が近代社会システムとその権力作用の所産だとすれば、それらを捨てて別の社会システムに移行することによって「教育」「人間」と縁を切ることが可能である、ということになるかもしれない。しかしながらそこで前提とされている「社会」についての思考が、構造的に「人間」と全く同型で、いわば二の轍を踏んでしまっている可能性はないだろうか?

 

「人間」が「経験的=先験的二重体」であるとは、現実存在としての人間が特定の性質、個性をそなえた生身の具体的=経験的存在であると同時に、理念としての人間が「理性」とか「自由」といった観念を体現する超越論的(先験的)地平、あれこれの具体的な実在を超えた可能性の織り成す空間でもある、ということだ。たとえば「宇宙人」という概念のことを考えてみればよい。他の天体から来た、明らかに人間ではない生物でありながら、人間にとって理解可能な知性を備えた存在を「宇宙人」、つまりは何らかの意味での「人間」であると定義するならば、そのとき「人間」という言葉の意味はどうなっているのか? ここで「人間」という言葉は、個体であれ類であれ、何らかの具体的な存在を指すものとしてははたらいてはいない。

 

さてここで言いたいのは、近代、ことに社会学の成立以降の「社会」という概念もまた、同様に「経験的=先験的二重体」になっている、ということだ。先に「「教育」そして「人間」が近代社会システムとその権力作用の所産だとすれば、それらを捨てて別の社会システムに移行することによって「教育」「人間」と縁を切ることが可能である」という素朴な思考を例示してみた。ここでは「社会」を巡る思考は、あれこれの具体的な社会システム、そこでの人々の生活とそれを律する規範や慣行の具体性のレベルと、そうした具体的な社会システムが多種多様にありえるという可能性のレベルの両方を往還している。社会学的思考とはまさにこの往還のことであり、それが市民社会レベルに浸透した局面をアンソニー・ギデンズにならって「再帰的近代」と呼んでもかまわないだろう。

 

「学校」のうっとおしさから逃れようとしても、それが「学校が教育を歪めている」という思考の枠内でのことであれば、問題の核心は取り逃がされている。そこで「教育」それ自体から逃れよう、と問題設定を変えたとしても、それが「教育が人間性を歪めている」という思考の枠内にとどまっているのならば、やはり「人間」という理念の権力装置の下にあることになる。そこでいっそ「人間」から解放されよう、と別の社会システムの構想に賭けてみたところで、この思考もまた、「社会」という強迫観念の下に拘束されてはいまいか――と意地悪く言えば言える。

 

このような森のポストモダン的堂々巡りに対して、佐々木はそもそも「教育」からの脱出路など示さないのはもちろんだが、そのようなことを求めてもいない。もちろん佐々木も教育に対して無批判ではない。佐々木は日本近代の教育システムの基軸が、先端的な学術研究教育機関としての大学を頂点とする序列構造であることを認めてしまっている。それはあからさまなヒエラルキーであり、そのもとで差別され排除される人々を生み出す。佐々木が考える職業教育とは、そうしたヒエラルキーに押しつぶされ、あるいはそこからこぼれ落ちた人々を救済する取り組みである。

 

しかしそれは決して近代学校教育に対するオルタナティブなどではない。それはあえて言えば、近代学校教育の下位システムであり、補完物である。職業教育もまた、近代学校教育が抱える「教育」「人間」というカテゴリーを受容し、その規範に合わせて人々を調教していくシステムの一環ではある。ただしそれは「教育」「人間」の普遍的かつ抽象的な規範だけでは、生身の人間を規律訓練しきれない、という現実から逃げないし逃げられない領域で活動している。

 

メインストリームとしての学校は、現実には選別と排除の機構を備えており、そこに適応できない人間をある程度は排除しても許されるし、また排除することなしには十全に機能できない。しかしその一方で、規範的にはそうした排除は望ましくないことである。学校を駆動するのは「教育」による「人間」の完成可能性、という理念であるからだ。このギャップを素直に批判するのが、最も素朴なタイプの批判的教育学であり、それはもちろん「教育」による「人間」の完成可能性を素直に信じる(振りをする)点においてメインストリームの教育学の一翼を担う他はない。これに対して森がその一例である「批判的教育社会学」は「教育」による「人間」の完成可能性の鼓舞と追求が、マッチポンプであることを指摘し批判する。これは典型的な「フーコー左派」「左翼ポストモダニズム」の作法である。しかしながらそうした批判の所作は、意地悪く言うなら「批判」による「社会」の変革可能性という理念を抱えてのマッチポンプなのかもしれない。

 

佐々木はそのような夢から、極力距離をとろうとする。

 

「教育」による「人間」の可能性という理念が抑圧的で暴力的である理由の一つは、それが抽象的で具体性を欠いているからだ。理性的で自由でありさえすれば、その限りで自分の能力を望むままに発揮しさえすれば、人がどのような存在となり何をしようとも肯定する、という形式的には極限的に寛容なその建前が、そうした寛容さからもこぼれる人間がいるという事実、あるいはその建前を掲げる現実の人間や制度が、実際にはどうしてもその建前を貫徹できないという事実を認めがたくする。あるいはそのような理念の暴力性を批判したとしても、そうした暴力性を廃した社会を建設できる、という理念が、同様の問題をはらみうる。

 

それに対してたとえば古典古代的な立場、とでもいうべきものを考えてみよう。先の「教育」による「人間」の可能性という理念は言い換えれば近代ヒューマニズムであり、現代政治哲学・道徳哲学のボキャブラリーに置き換えれば「リベラリズム」のそれだということになる。この意味でのリベラリズムは人格の尊厳の絶対性にコミットするがゆえに、人格それ自体を――いわば無限大の価値をはらむがゆえに――評価の対象としない/できない。それが評価するのはただ行為のみである。それに対して、リベラリズム批判として20世紀末以降注目を浴びるコミュニタリアニズムは、古典古代的な「徳」の倫理学への回帰であり、行為よりも人格それ自体を重視し、人格それ自体の評価を回避しない。

 

徳倫理学のスタンスからするならば、リベラリズムとの場合とは異なって「理想的市民」「立派な人」の具体的なイメージが明確に結ばれると同時に、それが具体的であるがゆえに、人間の無限の完成可能性という理念はむしろ放棄される。理想的な人間像から外れざるを得ない人間、人格において低劣であったり弱かったり人間が存在することは避けようのない事実として認められ、そうした人間の救済や規律訓練は、できればないことにしておきたい汚い裏仕事ではなく、不可避の課題として引き受けられる。規律訓練とケアとは表裏一体で不可分であり、それを担う力が「徳」と呼ばれてきたのである。

 

「ポストモダン」状況が上で述べたような意味での「近代」的な理念の無理、それを押し通そうとすることの弊害が強く意識され、そうした理念が人々にとって欺瞞的に思われてしまう状況のことであるとしよう。そう考えるならばコミュニタリアニズムとは、「ポストモダン」的な思想であることは疑いない。ただそこに伝統回帰へのモメントが看取されることが多いため、「ポストモダニズム」の一種とは認められないことが多いだけである。

 

ただしもちろん、近代以前の伝統の再評価がしばしばなされるとはいえ、現代の徳倫理学は単なる伝統回帰の立場ではない。まず理想的な人間像は具体的であるため、歴史的に特殊で複数ありうることが正面から認められる。だとすればそのような多様な人間像がそれぞれに相対主義的に居直り的絶対化されることを避けるためにも、リベラリズム的に薄っぺらく抽象的な「無限の可能性」としての「人間」理念もまた捨てることはできない。

 

更にまた、徳倫理学が提示する理想的な人間像の内実であるところの「徳」、人間のさまざまな能力・性質は、必ずしも実体化されない。というよりされえない。

 

たとえて言うなら、リベラリズムが道徳の本態を、行為を統制し導く普遍的なルールとして捉えがちであるのに対して、徳倫理学はそれをむしろ、様々なルールを具体的な現場で自在に運用する実践的技能、として捉える。あるいは乱暴に言えば、前者がマニュアルであるとすれば、後者はマニュアルを使いこなすスキルであって、それ自体はマニュアル化できない。だから徳倫理学は、「ルールとしての道徳」観の不十分さを指摘するものではあっても、それに対する完全なオルタナティブではありえない。

 

ここまでくれば、佐々木による職業教育、なかんずく公共職業訓練の、メインストリームの学校教育に対する位置づけは、コミュニタリアニズム、現代的徳倫理学の、リベラリズムに対する位置取りとのアナロジーにおいて考えることができるのは明らかだろう。それは近代を批判しつつ、そのうちに踏みとどまり、その外側に脱出しようという夢を見ない。

 

佐々木の著作を今読む者は、20年以上、せいぜい臨教審の時代まで、「生涯学習」が叫ばれ始めて頃までの仕事であるにもかかわらず、それが現在の職業教育、更には教育全般についてもなお通じうる問題提起をしていることに驚くだろう。しかしそれは同時にまた「ポストモダン」の問題でもあることに気付く者は、どれくらいいるだろうか?

 

生前の佐々木は、職業教育研究の狭いサークルの外ではほぼ無名に終わり、その死はあまりにも早かった。一方森は1980年代後半から90年代にかけて、これも狭いサークルといえばそれまでだが、東京大学の教育社会学研究室、更には教育社会学会の理論部会においてリーディングな論客として注目を浴びていた。しかし彼は「学力低下論争」に端を発する、実証的政策科学としての教育社会学の2000年代におけるブーム――苅谷剛彦、広田照幸、本田由紀がその「主役」である――においてはほぼまったく何の役割も果たさないまま世を去る。

 

しかしながらこの今日の教育社会学「ブーム」の射程は、実のところ森と佐々木の切り開いた地平をさほど出てはいない。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.269 

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