「日本は英語化している」は本当か?――日本人の1割も英語を必要としていない

教育政策に密輸入される「日本は英語化している」言説

 

以上、テレビ朝日「侃々諤々」における水野氏と安河内氏の論争を枕に、日本社会の英語使用を、データにもとづいて明らかにしてきた。その結果、水野氏・安河内氏どちらの認識よりも、日本の英語化状況はずっと限定的であるということがわかって頂けたと思う。

 

こうした誤解がテレビ番組の中だけのものであるなら、たいした問題ではない。しかしながら、現実はもっと深刻である。なぜなら、政府は、「日本は英語化している」と明言してしまっているからである。

 

具体的に見ていこう。まず、2003年に文部科学省が示した「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画」という政策である。同行動計画はその冒頭で、「グローバル化の進展」への対応のために「日本人全体として……世界平均水準の英語力を目指すことが重要である」(p. 1、強調引用者)と宣言した。もちろん、国際化を根拠に英語教育の充実を訴える主張は、近年どころか戦前から存在しており、けっして真新しいものではない。しかしながら、この政策案が斬新な点は、「国際化の時代だから、日本人全体に一定の水準以上の英語力が必要だ」と明言した点である。このような、いわば「国家総動員」的な英語教育政策は、過去に例を見ない。なお、同行動計画の発表からすでに10年以上がたつものの、この政策が描いていた「英語使用ニーズの遍在状況」は、まったく現実のものとはなっていない。

 

同様のことが、2011年に文部科学省から示された「国際共通語としての英語力向上のための5つの提言と具体的施策」についても言える。この提言も、日本社会が英語化しているという現状認識を、英語教育改革の根拠として利用している。同提言は、経済や人・物のグローバル化の進展によって、英語力の重要性は飛躍的に上昇し、「これまでのように大手企業や一部の業種だけではなく、様々な分野で英語力が求められる時代になって(p. 5)」いると述べている。しかしながら、こうした認識も実態と矛盾している。というのも、英語使用ニーズは、2000年代後半、「大手企業や一部の業種」で増えたどころか、ほとんどすべての産業で減少したからである[*5]。

 

[*5] 拙論文では、企業規模別の分析も行っているので参照のこと。その結果によれば、やはりどの規模の企業であっても、英語使用率は減っている。

 

このように、近年の英語教育政策は、日本社会の実態を的確に把握しないまま、「日本社会の実態なるもの」を教育改革の根拠として動員してきたのである。政府の空想的な現状認識をきちんと正すのは、学術界のひとつの責任だと思うが、残念ながら、英語教育研究者は誰もより正しい「日本社会」像を提示してこなかった。もちろんその最大の原因は、信頼に足るデータがなかったためである。しかし、裏返せば、英語教育研究者が自前でデータを用意しようとしなかったからだとも言える。

 

 

歴史的に見れば「英語のニーズは多い」はごく最近の言説

 

このように見てくると、社会の英語使用ニーズを過大に見積もっているのが、近年の教育政策であると言える。そればかりか、英語教育関係者や一般の人々の認識にもこの傾向はあるだろう ――じじつ、英語教員や大学生を対象にした意識調査結果には、「仕事で英語が必要である」という意識が広く浸透している様子が見てとれる[*6]。

 

[*6] Matsuura, H., Fujieda, M., & Mahoney, S. (2004). The officialization of English and ELT in Japan: 2000. World Englishes, 23(3), 471-487.

 

こうした傾向は、昔からそうだったわけではない。以前はむしろ、英語使用のニーズの低さをきちんと踏まえたうえで、英語教育のあり方が構想されていた。

 

戦後のこうした議論を明らかにしたのが、拙著『「なんで英語やるの?」の戦後史 ――《国民教育》としての英語、その伝統の成立過程』(研究社、2014)である[*7]。

 

[*7] 戦前期にも英語の必要性をめぐる議論は多数あるが、もっとも代表的な著作として、岡倉由三郎『英語教育』(博文館、1911)をあげておきたい(国会図書館近代デジタルライブラリーで閲覧可能)。岡倉は同書の中で、英語使用のニーズはごく限定的であることを認めたうえで、それでもなお、いや、それだからこそ、学校英語教育には、単に使用ニーズに応えるためだけではなく、教育的・教養的意義があると論じた。

 

意外だと感じる方も多いと思うが、中学校の外国語(英語)は、制度上は、2002年まで常に選択教科だった。つまり、1947年の新制中学発足から21世紀初頭までの実に50年以上、中学校の英語は、履修してもしなくてもどちらでもよい教科だったのである。

 

現在の必修教科のほとんど(たとえば、国語や体育)は、1947年の時点で既に必修教科だった。そのなかで、英語が選択教科扱いを余儀なくされた理由は、まさに必要性の低さだった。つまり、必修教科は「国民」の全員に必要があるものだけに限るべきで、必要性に個人差が大きい英語は、生徒・保護者・地域の希望に任せるべきだということである。ただ、戦後初期こそ名実ともに「選択教科」だった英語だが、1950年代・60年代には履修率が100%に達し、事実上の必修化が完了する。これが、事実上の必修教科「英語」の来歴である。

 

 

なぜ、みんなが英語を学ぶようになったのか?

 

では、これほど短期間に必修教科に移行したのは一体なぜだったのだろうか。素直に考えるなら、戦後初期こそ低調だった英語使用のニーズが、1950年代・60年代になって急増したからではないかとも思えるが、実際には、そのような事実はまったく見いだせない。統計や史料を総合的に勘案しても、人々の間に英語使用のニーズが浸透していたなどとはとても言えないのが、当時の状況であった。

 

むしろ、英語それ自体とは一見無関係な種々の要因が、事実上の必修教科への「アップグレード」を生み出したことがわかった ――同書で私があげた要因は、高校入試制度の変更、高校進学率の上昇、団塊の世代の入学・卒業に伴う生徒数の急変動およびそれに伴う教員採用の変化、(戦後型)教養主義の中学校英語現場への浸透、「科学的に正しい」第2言語教育・学習理論のブーム、戦後民主主義の退潮、農業人口の減少など多岐にわたる。このように、英語教育にとって外在的な要因が、事実上の必修化に大きな役割を果たしたのである。

 

また、この事実上の必修化は、関係者の悲願でも決してなかった。というのも、当時、英語教師たちの多くは必修化を支持していなかったからである。それどころか、1950年代の文部省は、必修化の阻止すら目論んでいた。その意味で、中学校英語のアップグレードは、いわば「棚からぼた餅」とも言えるが、中学校教師たちは、ただのほほんと英語を教えていられたわけではなかった。社会の英語使用ニーズは依然低いままであり、そして何よりも、英語学習に意義を感じない多数の生徒たちが目の前に座っていたからである。したがって、「社会の英語使用ニーズが低い」という厳然たる事実を、そう容易に忘却することは不可能だった。このような逆境に直面し、「ニーズの低さ」と両立可能な学校英語教育の目的論を練り上げたのが、1950年代~70年代の英語教師たちである(たとえば、日教組教研集会の外国語教育分科会)。

 

 

「ニーズの低さ」を黙殺する現代

 

現代に目を戻してみよう。たしかに、戦後初期に比べれば、現代の英語使用ニーズは飛躍的に上昇した。しかしながら、それはあくまで、戦後初期と比べればの話である。これまで見てきたように、現代においても、英語を日常的に使用している人の割合はごくわずかであり、潜在的なニーズを持った人(たとえば、限定的ながら過去1年間に英語を使ったと答えた人)を含めても、過半数にすらはるかに及ばない。このように、英語使用をめぐる社会状況は、戦後初期と現代のあいだに、根本的な差はない。

 

しかしながら、認識レベルでは正反対である。なぜなら、前述したとおり、近年の文科省は「国家総動員」的な英語使用観に偏っているからである。英語使用のニーズの上昇はせいぜい数%から1割程度であるにもかかわらず、「社会全体で見れば英語使用のニーズはまだ限定的である」という現実を、まるで忘却してしまったかのような認識の大転換である。対比的に述べるならば、「低い必要性を真剣に受けとめていた戦後」と、「多少増えたとはいえ、依然必要性が低いにもかかわらず、そうした社会状況を『黙殺』しつつある現代」と整理できるだろう。

 

もちろん、今後ますます英語教育が重要になっていくのは間違いない。学校英語教育やビジネスの英語化も、いままで以上に発展が求められるだろう。しかしながら、現代の英語使用ニーズの低さは、無視してもよいほどには「改善」していないこともまた事実である。「みんなに英語が必要」などという空想的な社会像をいたずらに描くのではなく、日本社会の実態をきちんと見据えて、地に足の着いた教育政策・英語教育論・経営戦略を練っていかなければならない。そのヒントのためにも、たとえば政策立案者や教育研究者、経営者は、社会統計と歴史をきちんと直視しなければならない。

 

 

 

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.276 

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