「慰安婦問題」の基礎知識 Q&A 

Q4.植民地では慰安婦をどのように集めましたか。

 

慰安婦は当初から、当時は日本の植民地であった台湾や朝鮮半島からも募集されました。問題は、上に述べたような日本本土での募集形式が、常に守られていたかどうか不明である点です。日本政府は「婦人・児童の売買禁止に関する国際条約」を批准するに際して、植民地を適用外としたからです。この点について、アジア女性基金の報告書は次のように述べています。

 

 

最初の段階では、朝鮮からもまず「醜業婦」であった者が動員されたと思われます。ついで、貧しい家の娘たちが、いろいろな方法で連れて行かれたと考えられます。就業詐欺もこの段階から始まっていることは、証言などから得られています。甘言、強圧など、本人の意思の反する方法がとられたケースもあり、朝鮮からは、内地では禁じられていた21歳以下の女性が多く連れて行かれたことが知られています。中には16、7歳の少女も含まれており、ごく普通の娘たちも連れて行かれました。そのような少女たちなら、性病に感染していることもなく、また朝鮮人だから中国人との連絡もありえず、軍の機密が漏れる心配がないと考えられたようです。内地では守られた条件は朝鮮では最初から守られていなかった、守るように統制されていなかったのでしょう。

 

 

Q5. 太平洋戦争が始まり戦線が拡大すると、慰安婦はどのように集められましたか。

 

1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争が始まると、日本軍はシンガポール、フィリピン、ビルマ、インドネシアに攻め込みました。南方に占領地が拡大していくとともに、そこにも慰安所がつくられました。この新しい局面での南方占領地の慰安所への女性の確保については、決定的な転換がおこったようです。1942年(昭和17年)1月14日付けの外務大臣の回答によると、「此の種渡航者に対しては『旅券を発給することは面白からざるに付』軍の証明書に依り『軍用船にて』渡航せしめられ度し」とあります。外務省も、内務省・警察も関わらないところで、南方占領地への「慰安婦」の派遣は軍が直接掌握することになったようです。それは内務省通達によるコントロールが外されることを意味したのです。

 

結果、日本国内での募集の際に警保局がつけた条件が守られないケースや、業者に欺かれ本人の意志に反して集められた事例が出てきます。「慰安婦」を募集していると業者が告げなかったために求人に応じる女性たちが続出することになります。

 

 

この「役務」の性格は明示されなかったが、病院に傷病兵を見舞い、包帯をまいてやり、一般に兵士たちを幸福にしてやることにかかわる仕事だと受け取られた。これらの業者たちがもちいた勧誘の説明は多くの金銭が手に入り、家族の負債を返済する好機だとか、楽な仕事だし、新しい土地シンガポールで新しい生活の見込みがあるなどであった。このような偽りの説明に基づいて、多くの娘たちが海外の仕事に応募し、数百円の前渡し金を受け取った。(『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』第5巻、203頁)

 

 

Q6.強制連行はあったのですか。

 

大きくわけて二つの強制連行のタイプがあったと、私はアジア女性基金の報告書をふまえて言えると思います。第一に場所によっては明らかに強制連行されたケース(抗日ゲリラに参加していた女性への報復レイプや抑留されている女性を慰安婦にするために連れ去ったケースなどを含む)、第二に上述のように騙されて求人に応じたケースです。

 

日本から慰安婦として現地に赴く女性たちがいた一方で、フィリピンやインドネシアなどでも、地元の女性が慰安婦とされました。インドネシアでは、倉沢愛子氏の研究によれば、居住地の区長や隣組の組長を通じて募集がおこなわれたようです。占領軍の意を受けた村の当局からの要請という形の中には、本人の意志に反して集められた事例も少なくなかったでしょう。

 

インドネシアでは、抑留者収容所に入れられていたオランダ人女性を連れ出して慰安所におくりこむことも行なわれました。アジア女性基金の報告書によれば、「一部の日本軍関係者は、収容所内と収容所外に抑留されたオランダ人女性をスマランと他のアジアの地の慰安所に強制的に連れていって、そこで日本の将兵に対する性的奉仕を強いました」とあります。スマランでのケースは戦犯裁判で裁かれ、1人の日本人将校が処刑されているのはよく知られています。

 

フィリピンでは、「軍の占領地域で現地部隊が一般女性を強姦した上に、暴力的に拉致・連行して、駐屯地の建物に監禁し、一定期間連続的に強姦をつづけたことも多かったことが証言」されています。こうした被害者も慰安婦と考えるべきでしょう。父や夫を目の前で殺された人もいたといいます。

 

慰安婦とされた人びとの実数(女性だけでなく、一部に男性も含まれます)、上のような強制連行とそれ以外の人数比率、さらに、現在もっとも日韓関係を悪化させている歴史問題のひとつである朝鮮人慰安婦の比率、慰安婦であったあいだに死亡・殺害された女性たちの数は、いまだにはっきりしていません。さまざまな総数についての見解は提示されているものの、すべてそれぞれの研究者の推算です。

 

アジア女性基金の報告書では、20万人、36~41万人などを容れず、「金原節三業務日誌」にもとづき、秦郁彦氏の1999年の研究である約2万人という数字を「真実に近かったのかもしれません」と示唆しているように読めます。

 

金一勉氏は、慰安婦の「8割~9割」、17~20万人が朝鮮人であると主張しましたが、推算です。朝鮮人慰安婦は多かったとさまざまな資料から伺うことはできるものの、絶対的多数となると、日本人慰安婦と比べて多かったといえるのかどうかは、明示できる根拠資料が現段階では発見されていません。

 

また、強制連行とは呼べずとも、慰安所に強制抑留させられた慰安婦は多かったといえるでしょう。さらに、就業を拒否することは容易なことではなかったのです。とくに前線ないしは前線に近い慰安所は、それだけで過酷な状況にあったとじゅうぶん推察できると私は思います。逃亡もできなかったでしょう。

 

アジア女性基金の報告書によれば、戦況の悪化とともに慰安婦の生活もさらに悪化し、たとえば東南アジアで日本軍の敗走が始まると、「慰安所の女性たちは現地に置き去りにされるか、敗走する軍と運命をともにすることになりました」。帰国できなかった女性たちも多数いたでしょう。

 

慰安婦たちの「戦後」について、アジア女性基金の報告書は次のように述べています。

 

 

1945年(昭和20年)8月15日、戦争が終わりました。だが、平和が来ても、生き残った被害者たちにはやすらぎは訪れませんでした。帰国することをあきらめた人々は、異郷に漂い、そこで生涯を終える道を選びました。帰国した人々も傷ついた身体と残酷な過去の記憶をかかえ、苦しい生活を送りました。身体の障害や性病に冒され、子どもを産めない状態にされた人が多かったのです。そうでなくとも、結婚もできなかった人もいました。家族ができても、自分の過去を隠さねばならず、心の中の苦しみを他人に訴えることができないということが、この人々の身体と精神をもっとも痛めつけたことでした。

 

軍の慰安所で過ごした数年の経験の苦しみにおとらぬ苦しみの中に、この人々は戦後の半世紀を生きてきたのです。

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.272 

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