2013.12.18

イスラエル・パレスチナ問題Q&A

臼杵陽 現代中東政治

情報 #Q&A#イスラエル・パレスチナ問題#オスロ合意

Q1.イスラエル・パレスチナ問題とは、どんな問題ですか?

基本的には東地中海地域に位置するパレスチナと呼ばれる同じ土地の領有をめぐるユダヤ人とアラブ人の争いです。

1948年5月にイスラエルというユダヤ人国家が建設され、その結果、それまでパレスチナに住んでいたアラブ人(のちにパレスチナ人と呼ばれるようになります)の多くが難民となってしまいました。難民となったパレスチナ人たちが、自分たちの国家をユダヤ人に奪われたパレスチナの地に建設するためにパレスチナ解放運動を開始し、その解放運動がPLO(パレスチナ解放機構)という政治組織(将来のパレスチナ国家に相当します)を中心に展開されました。したがって、イスラエル国家とPLOとの争いがイスラエル・パレスチナ問題となっていったのです。

この問題はしばしば「二千年来のユダヤ人とアラブ人の対立」だとか、あるいは「ユダヤ教とイスラームの宗教的対立」だから解決が難しいといったようにマスメディアなどで説明されることがあります。しかし、そのような説明の仕方は問題の一面に光を当てただけで、正確な理解とはいえません。二千年前には現在のような民族意識をもったユダヤ人もアラブ人も存在していないからです。

ナショナリズム(民族主義)は、近代ヨーロッパの産物であり、ナショナリズムの特長として、民族の起源とその形成を遠い過去にまでさかのぼって説明し、現在の民族国家の存在の正当性を強化する役割を果たしていることがあげられます。そのためナショナリズムは、過去の事実を選択的に取り上げて再構成し、あるいは場合によっては過去を新たに作り出すイデオロギーであることも思い起こす必要があります。だからこそ、「有史以来連綿として続く」民族のために生命を投げ打って捧げるなどという人も登場することになるのです。

もちろん、かつてパレスチナという地に古代ユダヤ国家があったことは歴史的事実です。また旧約聖書創世記でも神が「約束の地」をアブラハムとその子孫に与えると書かれており、それを信じているユダヤ人も数多くいます。しかし、そのような信仰レベルの問題が、パレスチナという土地は誰のものかという領土の領有をめぐる争いに変わるのは近代に入ってからです。つまり、フランス革命以降に広がった、一民族に一国家を創設する、というナショナリズム(民族主義、国民主義)に基づく国民国家=民族国家(nation-state)という民族レベルでの排他的な考え方や運動が強い影響を与えたのです。ヨーロッパのユダヤ人も19世紀末になって、次の述べるような「シオニズム」というユダヤ人のためのナショナリズム運動を開始して自分たちのユダヤ人国家を作ろうと試みるようになったのです。

ところが、パレスチナは第一次世界大戦まで数世紀にわたってオスマン帝国というイスラーム国家の統治下にあり、この地域に住んでいた圧倒的多数派の人びとはアラビア語をしゃべるイスラーム教徒(ムスリム)だったのです。ヨーロッパに住んでいて迫害されていたユダヤ人がパレスチナにユダヤ人国家を作ろうとすれば、必然的にそこに住んでいたアラブ人を追い出さざるを得ませんでした。そして前述のとおり、1948年5月にイスラエル国家が設立されると、パレスチナに住んでいたアラブ人は難民となってしまいました。

Q2.「シオニズム」とはなんですか。

シオニズムはパレスチナにユダヤ人国家を建設しようとするヨーロッパのユダヤ人の間の思想・運動を意味しています。

シオニズムという言葉自体は「シオン」に由来しています。シオンというのはエルサレム旧市街の南西に位置する「シオンの丘」の地名ですが、ユダヤ人はこの「シオンの丘」をエルサレムあるいはエレツ・イスラエル(イスラエルの地)を象徴する表現として使ってきました。つまり、シオニズムはユダヤ人にとって、シオンの丘=エルサレムに戻って、そこにユダヤ人国家を再建しようということを意味するようになったのです。ここで強調しておきたいことは、シオニズムも近代ヨーロッパで誕生したということです。

ただ、ユダヤ人のナショナリズムであるシオニズムがヨーロッパで誕生する背景を理解するには、ヨーロッパ・キリスト教社会に蔓延していたユダヤ人への差別・迫害の長い歴史を知っておく必要があります。というのも、ユダヤ人はずっと「イエス・キリストを殺した」といういわれなき理由で宗教的に嫌われ、ひどい差別・迫害を受けてきたからです。

しかし、そのような理不尽なユダヤ人差別は近代に入って制度的に撤廃されることになります。というのも、フランス革命時の1792年にフランスでユダヤ人解放令が出されて、ユダヤ人は市民として法の下に平等になったからです。これはちょうど日本で明治維新後に士農工商の身分制度が廃止され、四民平等のスローガンの下に市民として平等がもたらされたのと同じことです。

ところが、ヨーロッパ・キリスト教社会で歴史的に蓄積されてきた偏見と差別はそう簡単にはなくなりませんでした。むしろユダヤ人がキリスト教徒と市民として平等になった時点から、ユダヤ人への新たな差別・迫害の口実がでっち上げられることになるのです。その時に使われたのが「人種」という考え方です。われわれ日本人は「黄色人種」と「白色人種」から分類され、「黄色いサル」と侮蔑されたことがあります。実はこの、人種に基づくユダヤ人差別と黄色人種としての日本人への差別というのは、19世紀末の「強い者が生き残る」という自然淘汰的な考え方の俗流の社会進化論と人種論が結びつき、優等な白人による劣等な有色人種への支配が正当化されるという、帝国主義時代の産物であり、並列現象であるとも言えるのです。

ヨーロッパにおけるユダヤ人差別のことを「反セム主義」といいます。「セム」というのは聖書に出てくる人名ですが、通常は「セム語族」といって、比較言語学で使用される用語でした。セム語は聖書ヘブライ語とか、アラビア語とか、フェニキア語とか、楔形文字で知られる古代メソポタミアの諸言語、つまりアッカド語とか、シュメール語になりますが、ヨーロッパに住んでいたユダヤ人は日常生活でヘブライ語をしゃべっていたわけではありません。ユダヤ人はヘブライ語で書かれた「旧約聖書」を信じている人々だから「セム語族」に属するということになり、ユダヤ人嫌いのことを反セム主義と呼んだのです。

このような説明を聞くだけでも反セム主義自体が非常にあいまいな概念であることがわかります。しかし、このようなあいまいな概念による排他主義がまかり通るようになり、ひいてはナチス・ドイツの大虐殺までつながっていったのです。

話を19世紀に戻しますが、ユダヤ人の中にはより良き市民になろうと、ユダヤ教の信仰を捨ててキリスト教徒に改宗する人もたくさんいました。ところが、このような改宗者を見て、キリスト教徒たちはたとえユダヤ人が改宗しても、ユダヤ人はユダヤ人であり続けるということを言い出しました。その時に持ち出されたのが先ほど紹介した「人種」という考え方だったのです。

人種というのは、人間の生物学的な特徴による区分単位です。ユダヤ人の場合、生物学的な特徴を共通してもつ「人種」であるとは決していえません。ユダヤ人は鉤鼻だというイメージをお持ちの方もいると思いますが、これはあくまでかつて東欧、とりわけポーランドに住んでいたユダヤ人の特徴を投影したものです。イスラエルに行ってみれば、同じユダヤ人といっても肌の色も、髪の毛も、目の色も、まったくばらばらであることに気が付くと思います。

シオニズムという考え方が登場するのも、このようなユダヤ人差別・迫害に対して、その解決方法はヨーロッパ・キリスト教社会への同化によってではなく、自らの国家をつくることだということから生まれたものなのです。【次ページにつづく】

Q3.イスラエルにはどのような人種・宗教(宗派)・民族・勢力があるのでしょうか

イスラエルに住んでいる人びとを人種という観点から議論するのはヨーロッパでのユダヤ人に対する人種主義のために迫害を受けたという歴史的経験があるためにちょっと難しいところがあります。というのも、ナチスのドイツにおけるユダヤ人は、生物学的な区分単位としての「人種」ではなく、ニュルンベルク法よって「ユダヤ人」として規定されたからです。

とはいうものの、ユダヤ人国家としてイスラエルが成立した以上、イスラエルも自らを「ユダヤ人国家」と自己規定しています。イスラエルには憲法はありませんが、憲法に相当するものとしてイスラエル独立宣言とその独立宣言に記された理念に基づいて基本法が制定されています。その独立宣言にユダヤ人国家の規定があるのですが、両立の難しい理念が併記されています。

一つは、先ほど述べたように、イスラエルはユダヤ人移民と離散民に開かれているというユダヤ人国家としての規定ですが、もう一つは、イスラエルは宗教、人種、あるいは性による区別なく、すべての市民の社会的政治的諸権利の完全な平等を保証するであろう、宗教、良心、言語、教育、文化の違いにかかわわらず、すべての国民が平等な民主国家であるという規定です。もちろん、これは国家としての理念ですので、実際の現実の実態とは異なります。

ただ、イスラエルは建前としてはこの二つの理念を両立させようとして努力してきたことは間違いありません。しかし、両立は大変むずかしいことです。というのも、ユダヤ人国家という規定はユダヤ人にだけのための排他的な「閉じられた国家」になりますが、民主国家は民族には関係なくすべての国民の政治参加が前提とされた、すべての市民に「開かれた国家」ということになるからです。この二つの理念は、同時には達成できないという矛盾を孕んでいるのです。

実際、イスラエルにはイスラエル市民権をもった人口の約2割を占める非ユダヤ人、つまりアラブ人がいることが、イスラエルをユダヤ人国家と無条件にいえない現実を作り出しています。理念の上では民主国家である以上、イスラエル国民として選挙権をもっているこのアラブ系市民が人口的に多数派を占めるようになれば、国会への投票を通じてイスラエルのユダヤ人国家としての理念を否定する可能性も開かれているわけです。イスラエルの人口比率から現状ではそのような事態になることは考えられませんが、イスラエルが民主国家であるという以上、このような可能性も否定できません。

つまり、徹底的な民主国家であろうとすると、もう一つの理念である「ユダヤ人国家」であることも否定してしまうということでもあります。これがイスラエル国家の抱える根本的な矛盾です。だからこそ、イスラエルは人口統計に非常に敏感なのです。ユダヤ人が多数である国家を何としてでも守らねばならぬということになります。

イスラエル国籍を持つアラブ人はアラビア語を母語としており、1948年のイスラエル建国の際に難民にならずにそのままイスラエルの領域内に残った人びとです。宗教でいえば、アラブ人にはイスラーム教徒とキリスト教徒がいます。イスラーム教徒の中にはスンナ(スンニ)派とドルーズ派と呼ばれる宗派に属する人がいます。キリスト教徒にはギリシア正教徒、カトリック教徒など、さまざまな教会に属する人がいます。

一方、イスラエルのユダヤ系市民もユダヤ教徒ではありますが、いくつかの宗派に分かれます。イスラエルでは超正統派(ウルトラオーソドックス、ヘブライ語ではハレディームと呼ばれています。以下、カッコ内のカタカナ表記は同様にヘブライ語です)と呼ばれる厳密に律法を解釈するグループが宗教行政を握っています。したがって、たとえば、アメリカで多数派を占めている改革派ユダヤ教徒や保守派ユダヤ教徒はイスラエルの宗教行政では認められていません。ですから改革派や保守派のユダヤ教徒が十全な信仰生活を送るためには正統派に改宗しなければならないのです。もちろん、最近では状況が変わりつつあります。

超正統派ユダヤ教徒たちは自ら宗教政党を結成し、国会に議員を送り、なおかつ入閣を果たすことで、イスラエル政治に大きな影響を与えています。さらには政府から補助金を獲得して、宗教共同体内で独自の教育制度をもち、また慈善団体などを通じて社会保障の充実を図って、その独自の信仰生活を送っています。そのため、イスラエル社会の世俗的なユダヤ人(ヒロニーム)と宗教的なユダヤ人(ダティーム)との社会的対立がユダヤ国家像の相違もあいまって激しくなっています。

以上のような宗教・宗派の分類とは別に、イスラエルでの「民族(レオーム)」は、イスラエル政府の分類からすると、ユダヤ人であるか、非ユダヤ人であるという基準が重要になります。非ユダヤ人は「マイノリティ」(ミユート)として位置づけられ、その非ユダヤ人の「マイノリティ」には、アラビア語を母語とするムスリムとキリスト教徒の「アラブ」、アラビア語を母語としていますがイスラームの一宗派である「ドルーズ」、また同じくアラビア語を母語とする遊牧民である「ベドウィン」、そして19世紀末にコーカサス(カフカース)地方から移民してきたムスリムである「チェルケス」といった人々がいます。マイノリティの中では「アラブ」を除いて他のマイノリティはイスラエル国防軍への兵役の義務を負っています。

Q4.イスラエルとパレスチナ人はなぜ争いはじめたのでしょうか。

争いの種を蒔いたのは直接的にはイギリスでした。というのも、イギリスが第一次世界大戦中の1917年に、イギリス国内の事情から、イギリスのユダヤ人指導者であるロスチャイルド卿に「ナショナル・ホーム(「民族的郷土」と訳すことが一般的です)」をパレスチナに建設するという書簡を送るのです。これがよく知られたバルフォア宣言です。当時のイギリスの外務大臣がアーサー・バルフォアであったことからバルフォア宣言と呼ばれています。

第一次世界大戦はイギリスにとってとても大変な戦争でした。イギリスはヨーロッパでの戦線が膠着状態に陥ったために、戦局の打開を中東地域の戦線に求めたのです。ここで登場するのが「アラビアのロレンス」ことT・E・ロレンスです。ロレンスは本国政府のスパイとして、アラブ指導者から、オスマン帝国に対して反旗を翻すにふさわしい人物を探す密偵の役割を任されました。そのときにロレンスは、預言者ムハンマドの末裔であり、かつイスラームの聖地メッカの守護者に与えられる称号シャリーフをもっていたハーシム家と接触しました。

そしてイギリスはハーシム家の当主、シャリーフ・フサインに対して、イギリス側に立ってオスマン帝国と戦えば、その見返りとしてアラブ独立国家を樹立すると約束したのです。これが1915年のフサイン・マクマホン協定と呼ばれているものです。アラビアのロレンスはシャリーフ・フサインの三男であるファイサルと一緒にオスマン軍と闘い、ダマスカスを首都とするシリア王国を樹立します。これが史上「アラブの反乱」と呼ばれる事件です。

ところが、イギリスは第一次世界大戦中、フランスともオスマン帝国領分割に関する密約を交わしており、戦争が終わったら、旧オスマン領を英仏露の三カ国で分割してしまいました(サイクス・ピコ条約)。

その後、ロシアで革命が起き、革命の指導者であるレーニンが秘密外交の撤廃という原則の下にこの密約を暴露してしまいます。バルフォア宣言とサイクス・ピコ条約という、イギリスが第一次世界大戦中におこなった行き当たりばったりの「三枚舌外交」に対して、アラブ人は憤ります。さらにヨーロッパでのユダヤ人問題をパレスチナで解決しようというシオニズムの考え方を持ったユダヤ人に対しても怒りをぶつけることになり、現在のパレスチナでの争いの発端となってしまったのです。【次ページにつづく】

Q5.イスラエルと周辺国の関係について教えてください

第一次世界大戦中のイギリスの場当たり的なやり方からもわかりますように、パレスチナ問題はその発端は、パレスチナを含むアラブ地域全体を巻き込むようなイギリスのアラブ戦略にあります。つまり、1948年の第一次中東戦争に参加したアラブ諸国のうち、エジプトを除いてシリア、レバノン、ヨルダン(当時はトランスヨルダンでした)、イラクという国は第一次世界大戦後に独立しました。したがって、イギリスとフランスが第一次世界大戦後に作り上げた「国割システム」という「土俵」にアラブ諸国は乗っからざるを得ない政治状況があったわけです。

さらに事態が悪化するのが第二次世界大戦中の出来事です。それはナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺、いわゆるホロコーストです。イスラエルが独立を達成し、アラブ諸国と戦争になってしまう最大の要因はナチス・ドイツによるホロコーストでした。

どのようなかたちでホロコーストがパレスチナ問題とつながったかを説明をするためには、アメリカの登場が必要となります。ホロコーストを生き延びたユダヤ人は、ヨーロッパではDP問題(displaced persons)、要するに「ユダヤ人難民」問題と呼ばれていました。戦後、虐殺をかろうじて生き延びたユダヤ人たちはポーランドなどの東欧に戻ろうと思っても、あまりにもその地域の反ユダヤ主義が強いためにDPキャンプに舞い戻ってきて、そこに住まわざるを得ない状況が生まれていました。このDPキャンプが大変ひどい状況であり、ナチスの収容所と変わらないことを知ったトルーマン米大統領は、ユダヤ人難民に深く同情し、この難民をパレスチナに移民させれば問題は解決すると考えたのです。

そこでトルーマン大統領はパレスチナを統治しているイギリスに難民を50万人受け入れるように要請するわけですが、イギリスは1939年のパレスチナ白書以来、事実上、バルフォア宣言を破棄して、アラブ諸国との関係強化を優先していました。当然、ユダヤ人難民を受け入れれば、パレスチナにおいて再び騒乱が起こるとしてイギリスはトルーマン大統領の要請を拒絶しました。しかし、イギリスはアメリカの援助のおかげで何とか戦争に勝利したのであって、完全な拒絶はできず、妥協案を提出します。アメリカ人とイギリス人から構成される英米調査委員会を設置して、難民を受け入れることができるかどうか、その委員会が聞き取りなどの調査を行い、イギリスはその結果に従うとしたのです。もちろん、委員会の結論は受け入れ可能でした。

この結果に対して、イギリスはバルフォア宣言に続いてさらに後に禍根を残す行動をとります。問題の解決を新たに設置された国際連合(国連)に丸投げしてしまったのです。イギリス側にも口実は用意されていました。「われわれは国連の前身である国際連盟から委託を受けてパレスチナを統治していたのであって(「パレスチナ委任統治」!)、最終権限は国連にあり、パレスチナにかかわる問題の解決をすべて国連に任せる」ということです。設立されたばかりの国連がまず抱え込んだ問題がパレスチナ問題であったわけです。

そもそも、パレスチナという一地域の問題を当事者抜きで国連加盟国のみで議論するということ自体がおかしなことです。というもの、アラブ諸国で当時国連加盟国はエジプト、シリア、イラク、サウジアラビア、イエメン、ヨルダンにすぎず、アラブ諸国あるいはイスラーム諸国がすべて参加していたわけではありません。

1947年11月29日がパレスチナ地域にとって運命の日となります。パレスチナのアラブ人たちの意思とはまったく関係のない国連総会で決議が行われ、パレスチナ分割決議案が採択され、パレスチナの運命が決められてしまったのです。無責任極まりない決議だということになりますが、ユダヤ人にとっては悲願の達成です。アラブ諸国はこの決議を不当として、イギリスがパレスチナから撤退する1948年4月15日をもってパレスチナに進軍します。第一次中東戦争の勃発です。

イスラエルは第一次中東戦争で独立を堅持することに成功しました。しかし周辺のアラブ諸国からはその存在は承認されていないため、イスラエルが新たな火種となって、四度の中東戦争が起こります。

イスラエルとアラブ諸国の間の中東戦争は第一次から第四次まで四回にわたって繰り返されますが、もっともアラブ諸国の大国で軍事的にも政治的にも重要な国家がエジプトです。1956年の第二次中東戦争はエジプトによるスエズ運河の国有化が発端となって、英仏とイスラエルがエジプトを攻撃したものです。冷戦期にもかかわらず、米ソが共同歩調をとって介入し、英仏・イスラエルの三国はスエズ運河地帯から撤退を余儀なくされました。この戦争を機に中東地域におけるイギリスの覇権の衰退が決定的になり、アメリカが中東を反共の防波堤と位置づけ、中東地域に冷戦構造が確立されることになります。1958年のアイゼンハワー・ドクトリンがその象徴です。

1967年の第三次中東戦争は中東の政治地図を大きく塗り替えた戦争です。イスラエルがアラブ諸国に対してたった六日間で大勝利を収めたからです。イスラエルはエジプトからシナイ半島とガザ地帯、シリアからゴラン高原、そしてヨルダンからヨルダン川西岸を奪いました。戦後、国連安全保障理事会で決議242号が採択され、イスラエルがこの戦争での占領地をアラブ諸国に返還すれば、アラブ諸国はイスラエルを国家として承認する(つまり、外交関係を樹立する)という「領土と和平の交換」の原則が確立されました。以後、中東和平と呼ばれる和平交渉はすべてこの原則に基づいています。

1973年の第四次中東戦争はエジプトがイスラエルに奇襲攻撃を加えることで勃発しました。イスラエルはお家芸である奇襲攻撃をエジプトにしてやられてしまい、緒戦で大敗北を喫することになるのです。エジプトはこの緒戦の勝利をイスラエルとの交渉に利用しました。その後、エジプト・イスラエル平和条約につながっていきます。

アラブ・イスラエル紛争という国家間の問題とともに、イスラエル建国前後に生じたパレスチナ人の難民とその帰還権の問題があります。パレスチナに住んでいたアラブ人は周辺アラブ諸国に離散して、難民として暮らすことを余儀なくされました。難民問題の解決がパレスチナ問題の中心的な問題の一つです。

Q6.いままでに大きな転換をもたらした戦争について教えてください

パレスチナ問題をめぐる紛争構造は二重になっています。

まず、イスラエルという国家とアラブ諸国との対立であるアラブ・イスラエル紛争です。このレベルの対立では、先ほど説明しましたように、1948年の第一次中東戦争、1956年の第二次中東戦争、1967年の第三次中東戦争、そして1973年の第四次中東戦争があります。この中で転換をもたらした戦争は何といっても第三次中東戦争です。というのも、この戦争でイスラエルは、エジプトからシナイ半島とガザを、ヨルダンからヨルダン川西岸を、そしてシリアからゴラン高原を奪い取ったからです。現在の中東和平の基本的な考え方もこの戦争前の状態に戻すということにあります。つまり、イスラエルがそれぞれの交戦国だったアラブの国々にその占領地を返還すれば、アラブ側はその見返りとしてイスラエルの存在を承認するというものです。これを「領土と和平の交換」の原則と呼んでいます。1979年のエジプト・イスラエル平和条約がその先例というべきものです。イスラエルは1982年までにエジプトにシナイ半島全域を返還しました。

イスラエルとパレスチナ(つまり、パレスチナ解放機構=PLOということですが)の間の関係でいえば、1982年のイスラエルによるレバノン侵攻があります。レバノン戦争とも呼ばれています。この戦争でイスラエル軍は、それまでPLOがイスラエルにゲリラ攻撃を行うために拠点としていたレバノンから追い出しました。これによってPLOは軍事的に敗北してしまい、チュニスに拠点を移さざるをえず、それ以降、軍事行動ではなく、外交手段を通じて平和的に解決を目指すことにしたのです。1993年のオスロ合意もある意味ではこのレバノン戦争の帰結という側面もあります。

もう一つの戦争が1991年1月の湾岸戦争です。米ソ冷戦が終わった後、イラクがクウェートに侵攻したため、アメリカを中心とする多国籍軍がクウェート解放のためイラクを攻撃したのですが、イラクのサッダーム・フセイン政権は北部・中部・南部と国家を分断されたかたちになったものの、独裁者としての地位は温存されたままでした。これが2001年の9・11事件後、息子ブッシュ政権下で対テロ戦争が行われ、アフガニスタンとイラクがその対象になります。ただ、パレスチナ問題の文脈では、湾岸戦争後、アメリカ主導による中東和平が始まり、マドリード中東和平会議開催につながります。しかし、PLOが交渉主体としてアメリカとイスラエルに認められていなかったため、マドリード方式での和平交渉は行き詰まってしまいます。それで1993年のオスロ合意がイスラエルとPLOとの間の直接交渉の突破口になります。【次ページにつづく】

Q7.過去にどのような和平交渉が行われたのでしょうか。

米ソ冷戦終焉前は、中東和平交渉のやり方としてソ連が主張していた国際会議方式がありました。すなわち、すべての紛争関係国が一堂に会して話し合うというものです。しかし、アメリカは米ソ冷戦という枠内で反共的立場からソ連の介入を嫌って、紛争各国が直接交渉する単独和平を推進しました。当然、米ソ冷戦終焉は和平交渉のあり方を根底から変えることになりました。先ほどお話ししたように、1991年に勃発した湾岸戦争後に開催されたマドリード中東和平会議がその代表です。この会議を共同主催したのがブッシュ(父)米大統領とゴルバチョフソ連大統領でした。その後、ソ連は消滅しますので、最初で最後の国際会議方式の和平交渉といえるかと思います。

この会議では二国間交渉と多国間交渉という二つのトラックで交渉が重ねられましたが、アメリカもイスラエルもPLOをパレスチナ人の唯一正当な代表として認めていなかったために、PLOはこの交渉から排除されていました。「アラブ・イスラエル紛争の中核はパレスチナ問題である」という言葉に象徴されているように、アラブ諸国とイスラエル間の和平達成はパレスチナ問題の解決が前提となるという考え方が支配的であったため、結果的に二国間交渉もうまく機能しなくなってしまいました。

もちろん、米ソ冷戦終焉以前も和平の動きはありました。その代表例が1978年にエジプトとイスラエルの間で締結されたキャンプ・デービッド合意です。この合意は中東和平の達成とエジプト・イスラエル間の和平達成という両輪で和平交渉を進めていくはずでした。しかし、この合意はアラブの大義の裏切りという非難の声がアラブ世界で上がり、エジプトはアラブ連盟の構成国として資格停止という厳しい政治的制裁に直面してしまうのです。そのため、パレスチナ問題を含む中東和平の推進は事実上、不可能になり、エジプトとイスラエルの間の単独和平のみが達成されました。

エジプトとの和平を達成したイスラエルは1982年にレバノンに侵攻することになります。その目的はレバノンから攻撃を仕掛けてくるパレスチナ解放勢力を排除するというものでした。イスラエル軍は当初、南レバノンの安全地域のみを確保する予定でしたが、ブルドーザーと呼ばれていたアリエル・シャロン国防相のイニシアティブで、イスラエル軍はベイルートまで進軍することになり、PLO(パレスチナ解放機構)は政治的・軍事的にレバノンから退去せざるをえなくなって、その拠点をチュニスに移します。

PLOはそれ以降、武力によるパレスチナ解放を放棄し、外交攻勢による和平を目指すことになり、同時に将来のパレスチナ国家の領域をヨルダン川西岸・ガザに限定したミニ・パレスチナ国家の設立を目指すようになりました。オスロ合意へのPLO側の準備が整ったということになります。この時期、レーガン和平提案が出されますが、この提案ではPLOを代表とは認めておらず、しかもヨルダン・パレスチナ合同国家案といった提案で、パレスチナ独立国家設立からは遠く隔たった提案でした。

Q8.なぜ、緊張関係が現在も続いているのでしょうか。

1993年9月にオスロ合意が締結されて、ガザとエリコにパレスチナ暫定自治が始まり、アラファトPLO議長を代表とするパレスチナ自治政府が成立しました。しかし、合意締結後20年たった2013年現在でも解決の見通しが立っていません。結論的に言えば、オスロ合意に根本的な欠陥があったということです。もちろん、オスロ合意はイスラエルとPLOが相互に承認して交渉の相手として認めたという点では重要です。

しかし、欠陥として指摘できる点はオスロ合意の正式名称を見ればわかります。すなわち、「パレスチナ暫定自治に関する原則宣言」です。素直に読めば、このままパレスチナ独立国家がこの合意によってできるとは言っていないのです。この合意は「これからいろいろな難しい問題が残っているが、エルサレムとか、ユダヤ人入植地とか、難民の帰還権とかの難問は先送りにして、まずは交渉をしていくためのタイムテーブルを作って少しずつ解決できることから解決していこう」という取決めだったわけです。つまり、オスロ合意にパレスチナ独立国家樹立の希望を託したパレスチナ人は裏切られたわけです。イスラエル側は鼻からパレスチナ国家など認める気はなかったということは現在では関係当事者の発言から明らかになっています。

パレスチナ人は2000年7月のキャンプ・デービッド会談の失敗でオスロ合意に見切りをつけます。第二次インティファーダの勃発です。クリントン米大統領が起死回生の和平交渉の再生を狙った会談の失敗が結局はオスロ合意に基づく交渉プロセスに最終的に終止符を打ったということになります。

Q9.国際社会は「パレスチナ問題」についてどのような反応を示していますか。

欧米諸国と中東イスラーム諸国ではパレスチナ問題に対する態度にはかなりの温度差があります。パレスチナ問題はヨーロッパのユダヤ人問題を背景としているので、当然、プロテスタントのキリスト教徒が多数派を占めている国ではイスラエルに同情的な傾向があります。逆に、かつての社会主義国や、「第三世界」と呼ばれたアジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの国々のうちイスラーム教徒が多数派を占める国々、とりわけアラブ諸国はパレスチナ人を支援する傾向が強いといえます。しかし、あくまで一般的傾向であって、個々の国々の対応を詳細に見ていく必要があります。

Q10.解決の可能性はどのように模索されているのでしょうか。

欧米諸国は一般的にパレスチナ問題の解決のために熱心に取り組んでいます。そもそも、ヨーロッパにおけるユダヤ人問題からパレスチナ問題が生まれたのですから、当然といえば当然です。

例えば、2003年のイラク戦争後にロードマップ和平案というものが提唱されましたが、この時に「カルテット」と呼ばれたアメリカ、ロシア、EU、国連が共同で解決に向けてイニシアティブをとったのです。米ロの大国は当然としても、EUといった国家連合や国連といった国際機関までが関与しているのです。つまり、パレスチナ問題の解決はイスラエルとパレスチナ人といった関係当事者だけでは解決できない入れ子状の複雑な構図が長い紛争の歴史を通じて出来上がってしまっているのです。

ただ、最後に指摘しておかなければならない点は、イスラエルを全面的に支持している国がアメリカ合衆国であるという事実は忘れてはいけないと思います。というのも、アメリカのイスラエル・ロビー、とりわけAIPAC(アメリカ・イスラエル公共問題委員会)などが大統領や議会に圧力をかけて、アメリカがイスラエルに有利になるように政策を立案してきたという過去があります。このアメリカとイスラエルの「特別な関係」が断ち切られないかぎり、唯一の超大国であるアメリカが「公正な仲介者」としてパレスチナ問題の解決で果たすことのできる役割は極めて限られてしまうということができると思います。

プロフィール

臼杵陽 現代中東政治

1956年6月、大分県中津市生まれ。大分県立大分上野丘高校を経て、1980年3月に東京外国語大学アラビア語学科卒業。同年4月に東京大学大学院社会学研究科国際関係論専攻修士課程に進学、1988年3月に東京大学大学院総合文化研究科国際関係論博士課程単位取得退学。京都大学博士(地域研究)。在ヨルダン日本国大使館専門調査員を経て、1988年4月に佐賀大学教養部専任講師、助教授(社会学アジア社会論担当)。1990年11月から約2年間エルサレム・ヘブライ大学トルーマン平和研究所客員研究員。1995年4月より国立民族学博物館地域研究企画交流センター助教授、教授。2005年10月に日本女子大学文学部教授に就任。

この執筆者の記事