東日本大震災から今日までをいかに生き延びてきたか

震災から一年半が経つが、いまだ多くの被災者が避難所や仮設住宅から抜け出せずにいる。被災直後から今日まで送ってきた避難・仮設生活は、どのようなものであったのか。あのときどんな支援が必要で、どんな支援が助かったのか。また避難所や仮設住宅の陣頭指揮を男性とる場合が多いなか、女性だからこそ困ることもあったと予想される。そこで陸前高田市にある仮設団地で暮らす3名の女性たちにお集まりいただき、震災当日から現在までを振り替えていただいた。(構成/金子昂)

 

 

仮設住宅に住む女性たちの自己紹介

 

荻上 本日は、陸前高田市の仮設住宅に住んでおられる、子どもを持つ女性のお三方にお集まりいただきました。みなさんは、震災から今日に至るまでの約一年半、様々な環境の変化を体験されていらっしゃるかと思います。今日は、被災直後から現在までの生活の変化や、支援で助かったこと、困ったことなどを座談会形式でお話いただければと思っております。

 

色々と話は尽きないかと思いますが、今回特に伺いたいのは、被災者女性特有のご苦労についてです。たとえば避難所や仮設住宅では、男性がリーダーに選ばれることが多いため、場所によっては、生理用品であったり、更衣室であったりと、女性への配慮が行き届かなかった場面もあると耳にします。

 

今回の避難・仮設生活から、どんな教訓を残せるだろうか。それを考えるために必要な視点、ヒントを、みなさんからいただけたらと思っております。それでは、最初に簡単な自己紹介をお願いできますでしょうか。

 

石川 竹駒町の滝の里工業団地仮設住宅に娘と2人で住んでいます。石川弘美(43)です。仮設住宅には6月7日に入りました。

 

船砥 船砥千幸(42)です。私と子ども4人、孫1人の6人家族で仮設住宅にいます。私も娘も、いわゆるシングルマザーです。

 

吉田 吉田たみえ(52)といいます。石川さんと同じ滝の里工業団地仮設住宅に住んでいます。家族は6人で、2人の娘は大学で他の場所にいるので、4人で暮らしています。

 

荻上 早速ですが、まずは船砥さんから、震災当日から仮設住宅に入るまでの様子を詳しくお話しいただけないでしょうか。

 

 

避難先で感じる居心地の悪さ

 

船砥 私はこの仮設住宅に入るまで、いろいろなところを転々としていました。震災当日は高田高校第2グラウンドで一夜を過ごし、次の日は、高寿園に移動しました。そこから、大船渡まで歩いて行くつもりだったのです。

 

でも、夕方に兄夫婦が迎えにきてくれたので、兄夫婦の家に向かいました。しかし兄夫婦の家も目の前まで津波が来ていたので、物資などが不足していましたから、その後は大船渡の避難所に行きました。

 

荻上 最初期の3か所の避難所で、どんな違いを感じられましたか。

 

船砥 食事がまったく違いました。高田高校では、最初に乾パンと氷砂糖を2個ずつ、高寿園では、試飲用の小さな紙コップに、少しだけのお味噌汁を貰いました。それが大船渡の避難所だと、おにぎり2つにおかずが3種類くらい盛られたお皿が渡されて。「ここには食べ物があるんだ!」と驚きました。

 

あとから聞いた話では、どうやら津波で家を流されなかった人たちが、食料を持ち寄って炊き出しをしてくれていたようです。孫のミルクも保育園から貰えて助かりました。

 

ただ私たちは高田から避難しているので、大船渡の避難所にいるのが悪い気がして、結局、兄夫婦の家にお世話になることにしました。

 

荻上 お兄さんは何人家族ですか。

 

船砥 2人暮らしです。

 

大船渡では、一般家庭に物資が配られなかったので、貯蓄されている食べ物で生活しなくてはいけませんでした。日に日に食料が底をついてくるのを見て、「私たち6人がいなければ、2人はもっと長く食べていけるんだ」と思い、兄夫婦の家も居心地の悪さを感じるようになりました。

 

2人は「焦らないでここにいればいい」と言ってくれたのですが、子どもたちに相談したところ、「高田の学校で卒業したい」と話していて、結局いつかは高田に戻ることになるのだからと思い、高田の避難所に戻ることにしました。

 

 

4か月間、2000円を死守する

 

荻上 本当に転々としていますね。それから、どのくらい高田の避難所にいらっしゃったのでしょうか。

 

船砥 仮設住宅の抽選が当たるまでの、だいたい1か月くらいです。

 

一度、市役所に「避難所はもう一杯で入れません」と断られています。「車があるのなら、大船渡から学校に通ってください」と言われて。全財産が2000円しかなく、ガソリン代もないことを話したら、「福祉関係でお金が借りられます」と。

 

仕事がなく、このさきどうなるかわからないのにお金を借りられるわけがないじゃないですか。それなのに、「見通しがついたら借りてください」「1年据え置きだから大丈夫です」と言われて、さすがにカチンときて。いったい誰が、1年後の私に仕事があるかどうかわかるんだと。仕事がなかったら代わりに払ってくれるのかと、ほとんど泣き落としで1時間くらい頑張ったら、部屋はバラバラになりましたが、なんとか避難所に入れてくれました。

 

荻上 いま話題にもなっている生活保護はやはり申請しづらいものでしたか。

 

船砥 もともと貧しかったので、震災前にも生活保護の話は出ていたのですが、そのときは車を持っていたために申請が通りませんでした。でも、子どもがたくさんいると病気になったときに病院に連れていけませんし、生活するうえで車は必要なんですよね。

 

荻上 車が必要な地域で、車を持つことを禁じられたら、外に出るなと言っているようなものになってしまいますね。

 

船砥さんは、仮設住宅にはいつ頃入られたのですか。

 

船砥 5月8日です。

 

仮設は物資がもらえるから、ある程度の生活ができると聞いていたのですが、1週間たっても届きませんでした。だからよそで物資がもらえるという話を聞いたら長女と一緒にもらいに行っていました。十数日後に、ようやく布団とテレビが届きました。

 

石川 物資が届いてないと、部屋はがらんどうだよね。

 

船砥 そう。電気はついたし、エアコンもついたけど、冷蔵庫も洗濯機も、机もなくて。ご飯は段ボールの上で食べていました。

 

荻上 物資が届くまでは、手持ちの2000円を切り崩して生活していたんですか。

 

船砥 いえ。2000円にはいっさい手を付けずに、貰ったものだけで生き繋いでいました。7月末に、浜のミサンガ(http://www.sanriku-shigoto-project.com/)のお給料が入るまで、お金は使いませんでした。

 

荻上 ミサンガの話はどこで知ったのですか。

 

船砥 友達に聞いてまわって、仕事を探していたんです。

 

本当は落ち着いた頃に東京に出稼ぎに行くつもりでした。昼は工場で働き、夜はコンビニでバイトして、家族にお金を送るつもりでした。でも小学生の娘が津波のストレスでダウン気味だったので、置いていくわけにもいかず。そのときにミサンガの仕事を知って。本当にラッキーでした。

 

今だから言える話ですが、給料がもらえるまで、3回ほど子どもたちに手をかけてしまおうかと思ったことがあります。最初は「私が死ねばこの子達はもっと食べられる」と思ったのですが、「この子たちをおいて死んでも、やっぱり苦労するんだろう」と思って。寝静まったころに、どれから手をかければいいかなどを、まじめに考えていたんですよ。騒ぐかもしれないと思って、仮設に火をかけることも考えて。そこまで追い込まれていたんです。

 

私は、単純な性格なので、寝て起きたら、津波だって生き延びることができたんだ、国が国民を見殺すわけがない、世の中の誰かがきっと助けてくれるって、生きる気力がわくんです。でも夜になればまた死にたくなる。その繰り返しです。

 

でも、いろいろな人に助けられました。避難所で一緒だった人が、「パンやるぞ、お菓子あるぞ」って声をかけてくれて。だから私もお返しに、うちで洗濯していきなって言って。

 

荻上 ミサンガの、初めてのお給料はどのくらいでした?

 

船砥 2万円です。本当に嬉しかったです。

 

給料が入った日に、2万2000円を持ってみんなでローソンに行きました。「好きなものを買ってやる!」と言ったら、子どもたちはからあげくんを1個ずつ食べて、「うめえ!」と言いながら食べていました。1人1パック、ではありません。1パックだけ買って、それをみんなで1つずつ分けて食べたんです。

 

それを見て、「かわいそうな思いをさせているんだ」と、悲しくなりました。私はそのとき、せっかくだからビールを買おうと思っていて、「いいのかなあ」と思っていて。申し訳ないから棚に戻そうかと思っていると、子どもたちは私が呑むのを知っているので「もっと買っていいよ」「せっかくだから呑んでよ」って。

 

結局、その日は2000円しか使わなかったので、残った2万円で、お米と日持ちしそうなレトルト食品を2万円分買いました。これで次の給料まで食いつなぐつもりでした。あとで避難所のみんなに、「カレーももらってなかったの?」と言われたのですが、私たちは1ヵ月しか避難所生活をしていないので、物資をほとんどもらっていないんですよね。

 

吉田 3ヶ月いたら結構もらえたよ。

 

船砥 そう。だからみんながお米を持って仮設住宅にきたときは、「え!米!?」ってびっくりした。

 

荻上 時期や時間で違いが出てきてしまうんですね。仮設住宅に早く入ることや、親戚が迎えにきてくれることは、一見するとハッピーなことに思えるけれど、避難所に物資が集中して届く場合など、一概にそうとは言えない状況があるわけですね。

 

船砥 そうなんです。いまはいろいろな物資がくるようになって、ある程度の生活はできるようになりましたし、ミサンガで収入も得ています。ですから、みんなに助けられてきた分、今度は、たとえば家があって、義捐金や物資がもらえない人たちのために事務所を構えて、物資の配布などの活動をしています。

 

 

船砥千幸さん

船砥千幸さん

 

 

 

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